9 現代の日本 <雪どけと国際社会への復帰>

 冷戦が続く中、米ソの核開発競争は激しくなり、互いに原水爆を保有するようになった。しかし、こうした競争は経済負担を拡大させ、ソ連では指導 者スターリンが死ぬと、その後継者となった(1)は平和攻勢に転じ、1955年には冷戦後初の首脳会談として(2)が開かれた。この状況変化を 「(3)」と呼んでいる。一方、独立したアジア・アフリカ諸国は東西二大陣営の対立に反対する動きを見せた。1954年、中国の(4)とインドの (5)は[6]を出し、翌年にはインドネシアの(7)で新興国家を集めた[8]が開催されている。しかし、米ソは経済援助を通じてこれら第三世界 に対しても関わりを深めてゆき、新興国家も東西対立に巻き込まれることになる。軍拡競争は核運搬手段の開発競争となり、米ソともに相手国を標的と する(9)を保有し、その迎撃のための(10)も開発された。こうした中、1959年にはキューバで社会主義革命が起き、1962年になるとソ連 がここにミサイルを配備しようとしたため、アメリカが海上封鎖に踏み切る事件が起きた。これが(11)と呼ばれるものである。衝突はからくも回避 されたが核戦争勃発の危機であり、この反省に基づいて、翌年には[12]が締結されて新たな核兵器の開発に歯止めがかけられ、1968年には [13]が結ばれて新たな核保有国の出現を防ぐ手だてが講じられたのである。もっとも、これはその時点での核保有国が核兵器を独占することを意味 していた。
 西側陣営との片側講和で独立した日本は、東側陣営の盟主ソ連と国交を回復しなければ国際社会に復帰できない。アメリカ追従路線をとっていた吉田 茂内閣は、(14)がもとで退陣に追い込まれ、代わって登場したのが自主外交路線をとった[15]内閣であった。この内閣は(16)を与党とし、 改憲再軍備を目指したが、これに対して社会党が左右統一によって阻止を図ったため、(17)との合併によって新政党[18]を作って対抗した。こ の出来事を[19]と呼ぶ。これ以後、改憲・対米依存の保守勢力と、護憲・非武装中立の革新勢力が対立する構図が作られ、この政治体制は[20] と呼ばれた。しかし、対立と言っても革新勢力は保守勢力は半分の議席であり、(18)による長期政権が持続することになった。「(3)」の風潮を 受け、(15)はソ連との間に国交を回復し、1956年に[21]を出した。これにより、日本は同年、(22)に加入し、国際社会に復帰すること ができたのである。
 その後、(23)が内閣を組織したが短命に終わり、次いで重武装、親米反共路線の[24]が組閣した。この内閣は、基地提供にも関わらず、米軍 が日本の防衛義務を持たなかった日米安全保障条約を改訂し、自衛隊と米軍に相互防衛の義務を課そうとした。しかし、この安保改訂は双–ア的となる 反面、アメリカの紛争に自衛隊が巻き込まれる恐れもあり、国内では締結反対の声が高まった。これに対し、政府は強行採決による条約成立を目指した ことから、国民は大規模な[25]を展開し、内閣を総辞職に追い込んだのである。これは、戦後最大の大衆運動であった。このため、次いで首相と なった[26]は「寛容と忍耐」と「[27]」をスローガンに、政治的対立を回避しつつ、安保体制下での経済発展を優先する[28]政策をとるこ とになる。

<解答>
(1)フルシチョフ (2)ジュネーブ四巨頭会談 (3)雪どけ (4)周恩来 (5)ネルー (6)平和五原則 (7)バンドン (8)AA会 議 (9)ICBM (10)ABM (11)キューバ危機 (12)部分的核実験停止条約 (13)核拡散防止条約 (14)造船疑獄  (15)鳩山一郎 (16)日本民主党 (17)自由党 (18)自由民主党 (19)保守合同 (20)55年体制 (21)日ソ共同宣言  (22)国際連合 (23)石橋湛山 (24)岸信介 (25)安保闘争 (26)池田勇人 (27)所得倍増 (28)高度経済成長


<高度経済成長と経済大国化>

 朝鮮戦争の特需景気の後、日本は1950年代から70年代半ばにかけて高度経済成長を成し遂げた。1955年の好景気は(1)と呼ばれ、「もは や戦後ではない」の言葉が生まれた。59年からの(2)、64年の(3)、その後の(4)など好景気が続く中、国民の所得水準は飛躍的に向上し た。60年代には三種の神器と呼ばれた耐久消費財の普及が目覚ましく、70年代には3Cの普及が進んだ。日本の経済成長は年率10%を超える奇跡 的な状況で、1968年にはGNP世界第二位の地位に昇った。
 このような成長は、いくつかの条件の積み重ねによって初めて可能となった。まず、企業の積極的な設備投資で技術革新が進み、重化学工業化が図ら れたことが大きい。その資金は国民の貯蓄率の高さを受けて銀行から供給された。また、政府が積極的な公共投資をおこなってインフラ整備を果たし、 臨海工業地帯が形成されている。国内の購買力が向上したことも重要であった。同一業種の労働組合が横のつながりを作って賃上げ闘争をする(5)は 効果的で、生産者米価の引き上げで農業所得も拡大した。経済成長に欠かせない労働力は農村から供給された。1961年に(6)が出されて農業構造 改善が図られたこともあり、農業の機械化が進んだが、機械の導入は経営規模の小さい日本の農家に兼業化や高齢化、女性化をもたらし、主要な働き手 は工場労働者となっていった。彼らは低廉かつ優秀であり、(7〜9)という日本型労務管理の中で企業への忠誠心を募らせ、労働生産性も高まった。 自由貿易体制のもとで輸出が拡大したことも重要である。輸出に必要な外貨を割り当てて制限内で貿易をする(10)から、割当てをしない(11)へ の転換が進む一方、資本の自由化に踏み切ったものの、1$=(12)円という有利な為替相場もあって輸出を伸ばすことができた。第二次大戦後の貿 易の自由化を支えた組織には、貿易赤字国に短期融資をする[13]があるが、日本は1964年、赤字防止のための資金移動制限が認められない (14)になり、貿易・金融で協力し、途上国を支える[15]にも加盟した。日本は先進国の仲間入りを果たしたのである。さらには、(16)が中 東の原油の採掘・販売権を独占し、原油価格が安く抑えられた中で石炭から石油への(17)が進んだことも功を奏した。ただ、斜陽となった石炭業界 では、解雇に反対する(18)が起きている。
 高度経済成長は日本人の生活を一変させる大変革であった。モノの面では格段に豊かとなり、農業をベースにした世代家族に代わって、核家族・専業 主婦を特徴とする都市中産階級が登場した。反面、独占禁止法が緩和されたこともあり、財閥系企業が結集して(19)を形成し、銀行を核に株を持ち 合い、法人資本主義と呼ばれる新たな企業集中が進行した。また、経済の農工間格差は拡大し、大企業と中小企業、都市と農村との差も広がった。この 現象を(20)と呼んでいる。さらには、経済成長最優先の姿勢が公害問題を引き起こし、[21〜24]の四大公害病が発生している。このため、政 府は1967年には[25]を定め、1971年には関係官庁として[26]を発足させている。この間、国民の政治に対する関心は薄れ、農民を味方 に引き込んだこともあって(27)による長期政権が継続することになった。

<解答>
(1)神武景気 (2)岩戸景気 (3)オリンピック景気 (4)いざなぎ景気 (5)春闘 (6)農業基本法 (7〜9)終身雇用、年功序列賃 金、企業内労働組合 (10)FA制 (11)AA制 (12)360円 (13)IMF(国際通貨基金) (14)8条国  (15)OECD(経済開発協力機構) (16)メジャー(国際石油資本) (17)エネルギー革命 (18)三井三池争議 (19)六大企業集 団 (20)経済の二重構造 (21〜24)水俣病、第二水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそく (25)公害対策基本法 (26)環境庁  (27)自民党


<ベトナム戦争と戦後の終了>

 日本軍が撤退したあとのベトナムでは、宗主国のフランスに対して民族独立運動が巻き起こった。その先頭に立ったのが[1]で、社会主義のベトナ ム民主共和国を建国すると中ソの承認を受けた。しかし、フランスはこれを認めず、ベトナム南部にベトナム国を建国して対抗し、ベトナムは内戦状態 に陥った。この戦いを[2]と呼んでいる。戦いはフランスの支持を受けた南部の政権が敗れ、[3]が締結されて停戦となった。ここでは、暫定的に (4)を国境とした後、統一のための総選挙をおこなうことが決定されたが、南部の政権は選挙の実施を拒否し、北の政権は(5)を組織して統一運動 を展開するようになった。アメリカは、北の政権による統一はアジアの共産化を一挙に推し進めると考え、(6)事件をきっかけに北爆を開始し、 [7]が勃発することになった。この戦争は、米ソ両大国を頂点とする東西二大陣営の激突という側面の他、ベトナムの民族解放戦争という性格を持 ち、アメリカは北ベトナム人民軍の他、南部に組織された[8]のゲリラとも戦うことになり、ジャングルを舞台とした戦闘で苦戦を強いられることに なった。この間、日本は後方基地として全面的にアメリカに協力し、ベトナム景気を享受したが、国民の中には(9)などが組織され、広範な反戦運動 が展開することになった。
 戦争の長期化はアメリカ経済を破綻に追い込み、ソ連との核兵器開発競争にも限界が見られるようになった。アメリカは、路線争いから生じていた中 ソ対立に着目し、米中国交回復をおこなうことで社会主義陣営に楔を打ち、ベトナムから撤退する道を探り、[10]が電撃的に北京を訪問し、 [11]を発して国交を結び、台湾との断交をおこなった。中国は北ベトナムに対しての援助をやめ、米軍もベトナムから撤退したことで、ベトナムは 北の政権によって統一される。
 池田勇人の後を受けて組閣した[12]は、沖縄返還を最大の政治課題とした。ベトナム戦争で対韓援助の削減を迫られたアメリカは日韓国交正常化 を強く求め、(13)年、[14]が締結された。ここでは、日本の植民地統治について責任を曖昧とする代わりに、経済協力がおこなわれることに なった。基地被害に悩む沖縄では、その排除のために(15)運動が展開していたが、(12)は施政権の返還を急ぐ代り、基地に対しては(16)を 原則としてその温存を認めた。沖縄は(17)年に返還されたが、基地廃絶を求める沖縄の人々の期待は大きく裏切られることになったのである。
 長期政権を担った(12)の後、[18][19]が後継を争い、都市への人口・経済の集中を是正する[20]を主張して自民党総裁・首相となっ た。彼は米中接近を受けて(21)年に訪中し、[22]を発して国交を回復した。ここでは、日本は台湾と断交して中華人民共和国を唯一の合法政府 と認め、中国が賠償請求権を放棄する代わりに日本はODAを支出することとなった。この後、(19)の時には[23]が締結され、日中関係は強化 されている。こうして、戦後の日本が抱えていた課題は、一通り解決することになったのである。一方、(20)政策は乱開発と地価上昇を招き、利権 に絡んだ金脈政治が問題となった。

<解答>
(1)ホーチミン (2)インドシナ戦争 (3)ジュネーブ協定 (4)北緯17度線 (5)民族解放戦線 (6)トンキン湾 (7)ベトナム戦 争 (8)南ベトナム解放戦線 (9)べ平連 (10)ニクソン (11)米中共同宣言 (12)佐藤栄作 (13)1965 (14)日韓基本 条約 (15)祖国復帰 (16)核抜き、本土並み (17)1972 (18)田中角栄 (19)福田赳夫 (20)列島改造  (21)1972 (22)日中共同声明 (23)日中平和友好条約