<国際協調の時代>
[日米対立の緩和]
A 日米対立
太平洋、中国をめぐる対立の激化
・満州での日本の利権獲得以来、アメリカでの日本人移民排斥が問題化してい
た。
・1913年にカリフォルニア州で日本人移民の土地所有禁止法案可決。1924年には排日移民法成立。
・日本はアメリカを仮想敵国として軍備拡張。第一次大戦期の日本の軍事力は陸軍21個師団、海軍72万3千トン(戦艦19隻)で、対米70%
の割合だっ
た。英米に次いで世界3位の規模である。
but日本は貿易でアメリカ依存(40%)
・アメ
リカとは対立しながらも、輸出、輸入ともにアメリカが40%を占める。アメリカとの関係悪化は避けたいという「分裂症的傾向」にあった。
・対立を続けるなら莫大な軍事費を支出し続けなければならない。年2億円で総支出の48%、軍事公債は14億円を発行し、利払いにも困る。こ
こから軍備縮小論が台頭してくる。
cf)憲政会(←同志会)=中国への干渉→不干渉、普選実施
政友会=普選反対、積極政策、軍拡無理→協調外交
・アメリカとの関係をどうしてゆくか。対中国政策と絡む。
・中国利権を守るために列強と対峙するか、列強と妥協して利権
を諦めるかの
二者択一。
・政友会と憲政会(大戦中に同志会が改名。大隈は政治生命を絶たれたため、加藤高明が党首)で意見が異なり、この問題は普通選挙実現ともリン
クしていた。
・憲政会は加藤外相が獲得した山東権益を守りた
いため、初め
は武力介入も辞さないとしていた。しかし、大隈外交で失敗したため、後に路
線を協調外交に転換してゆく。節操がないと言われたので、普
通選挙法実現で点数を獲得する路線をとった。支
持者は資本家
であり、労働運動の機先をそらすため、普通選挙実現は重要だった。
・政友会の支持者は地主であり、小作が力を持つと厳しいので普通選挙には消極的だっ
た。これだと国民の人気がなくなるため、支持を得るために積極
政策を
展開した。大戦景気の終焉で、積極政策を維持するためには財源
の確保が欠か
せず、中国介入のために軍拡をすることは考えられなかった。
・いずれにしても協調外交路線をとるしかないの
である。
=妥協、軍縮、新し
い国際関
係構築必要(原内閣)
B ワ
シントン会議 1921〜22
ハーディング(米)の提唱(日本代表=加藤友三郎)
・ウィルソンを破った共和党のハーディングが提唱した。
・原内閣はこの会議に参加することを表明。海軍大臣の加藤友三郎を送る。幣原喜重郎が全権委員に加わる。
緊張緩和を名目に日本統御目指す
・後藤新平は、大戦中に火事場泥棒をした「日本を被告とする列国による裁判」
だと述
べ、その通りになった。
・緊張緩和を名目に日本統御。ベルサイユ条約で積み残しの太平
洋・極東問題
の解決、例えば山東省権益問題、シベリアからの日本の撤兵などを協議することになる。
1 四
カ国条約(日米英仏) 1921
太平洋での勢力現状維持
・太平洋の勢力圏として、日本=マーシャル、マリアナ、カロリン。アメリカ=
ハワイ、
グァム、アリューシャン。イギリス=ソロモン、フィジー。フランス=タヒチ、ニューカレドニアを設定した。
Q1 この4か国のう
ち、日本が結んでいた同盟で、意味がなくなったものがある。何
か?
A1 日英同盟である。ロシアが消滅したため、イギリスは南下を意識する必要がなくなったのである。
|
cf)日英同盟廃棄
・日本は孤立することになって困るので、日英米の三国協約を結ぶように迫る
が、無視と
なる。太平洋の島嶼の現状維持を代償として廃棄が決まった。
2 ワ
シントン海軍軍縮条約(五大国) 1922
主力艦、空母の総トン数制限(10年
間)
米:英:日:仏:伊=5:5:3:1.67:1.67
・ヒューズ国務長官の外交爆弾が投げられる。会議冒頭で、一方的に建造中巨艦
15隻の
廃棄を宣言し、英日もならうように演説した。これでペースに巻き込まれ、軍縮を宣言することになる。
・ヒューズは米英日の海軍比率は10:10:6がよいとする。日本は現有勢力が10:7.8なので、10:6では不利すぎるとし、比率は
10:7を主張し
た。アメリカは現状が10:5.5であり、10:6でも日本有利と主張した。これは算定方法の違いであり、問題にされなかった。加藤は比率に
こだわらず、
太平洋における軍事施設の現状維持を認めさせて10:6で妥結し
た。
・戦艦=35000トン以下、空母=27000トン以下とし、日本は戦艦「安芸」など14隻を廃棄。10年間は建造しないことを約束した。
・この結果、海軍の軍縮が実行されることにな
り、将兵
7500人、職工14000人が整理された。
・海軍は軍事力低下を補うためには命中率を上げるしかないという東郷平八郎の方針を受け、訓練至上主義になる。
cf)陸軍=山梨・宇垣軍縮の実施
・海軍が軍縮なら陸軍も実施しなくてはならず、1922年、山梨半造陸相のも
とでの山梨軍縮、1925年、宇垣一成陸相のも
とでの宇垣軍縮がされ、21個師団のうち4個師
団が削減された。
・1920年代は、日本近代史の中で例外的に政府支出における軍事費支出の低い時期となる(10%台前半。他は20%〜30%)。
・陸軍は、余った職業軍人を学校に派遣して軍事教練をさせるようになる。
3 九
カ国条約(五大国+中、ポ、蘭、ベルギー) 1922
中国三原則の確認
∴山東省権益を中国に返還
・中国
三原則の条文化。しかし、中国の関税自主権は認めず、食い物にする姿勢は貫いている。
・山東省権益問題は日中間の交渉とされた。日本は膠州湾租借権を中国に返還し、代わりに膠済鉄道と鉱山の利権を獲得しようとしたが、鉄道は中
国が買い取
り、鉱山は日中合弁経営で決着する。山東省権益は中国に返還さ
れた。
Q2 九カ国条約と矛盾
する協定が廃棄されている。何か?
A2 石井ランシング協定である。
|
cf)石井ランシング協定廃棄
※日本帝国主義を孤立させるアメリカ外交の勝利
∴日本の大陸進出=列強の非難
・二国間協議ではなく、多くの国を参加させたことがうまい点である。ワシントン体制のもとでは、日本が大陸に出てゆくと、列強から避難され
る立場になって
しまう。
・一見、中国三原則などはもっともらしい正義に見える。しかし、アメリカの主張する正義は自国にとっての正義であり、中国が要求する関税自主
権回復は無視
している。対等の地位を与えていない点に着目したい。
・アメリカは世界一の海軍国となることを認めさせ、極東での日
本との対立に
ついても、アメリカに有利な取り決めをおこなった。
cf)反米英感情の高まり→ファシズムの伏線
・当時の知識人たちは、米英の唱える平和主義は、自国に都合のよいものという
批判して
いる。
・国際連盟発足の時、日本は日本人移民排斥を念頭に置いて、人種差別条項を盛り込むことを提案した。ブラジルやルーマニアなどは賛成するがイ
ギリス、アメ
リカが反対。平和原則14カ条で掲げるアメリカの正義は白人の正義だった。ウィルソンにしても、彼が掲げた海洋の自由や貿易の自由は、世界一
の経済大国の
アメリカに有利に作用する。
・「改造」に発表された三・一独立運動に対する論文で、日本は朝鮮の支配のやり方を変えるべき、と主張するものがあった。武断政治から文化政
治へというも
のだが、一方では、「朝鮮人は、自由や正義を振りかざすだけでは独立できない。自由や正義には武力が必要である。イギリスやアメリカの言うこ
とが正義とし
て通るのは、武力を持っているから」とも述べている。
・武力を持って支配すれば、それが正義になるのである。ここから近衛文麿のように、日本人の生存権を主張し、アングロサクソンに対抗する考え方が出てくる。
Q3 この考えの行き着
く先は何か?
A3 この考えは太平洋戦争に行き着き、あの戦争は「自存自衛」の戦争だったという主張がされる。
|
・しかし、日本の自存自衛のためにアジア諸国に侵略するのがよかったはずがない。英米を非難しつ
つ、英米の真似をしているのである。
Q4 他の道はなかった
のか?。石橋湛山はワシントン会議前に新聞社説で日本が欧米諸
国に負けない方法を述べている。どんなことだと思うか?
A4 石橋湛山は自由主義的な政治家で、戦後に首相も務める。この時は「東洋経済新報」記者。「全てを捨てる気になれば、日本に
有利となる。満州、山東を
捨て、朝鮮、台湾の独立を認めれば、いつまでも植民地支配にしがみついている米英は窮地に立た
される。世界の弱小国は日本を信頼し、独立を米英に対して求めるはず。米英と日本の立場は逆転する」。これを小日本主義といっ
た。
|
・石橋の分析によれば、植民地を持つことは損である。台湾と本土の移出入額は2億9000万円、朝鮮・関東州との移出入額は3億
1000万円。イギリスとの貿易額は3億3000万円である。植民地は経営のために金もかかるのだから、それを放棄して貿易に専念した方がよ
い。
・植民地を捨てると日本の本土が危ないという者がいるが、本土などは支配する価値がない。戦争になるとすれば、日本の海外領土をめぐって起き
るので、それを持たない方がむしろ安全。
・この路線は戦後、経済成長を果たした日本の路線。これを行けばよかった。日本は太平洋戦争の時にはアジア植民地を解放するといっていたの
で、一見すると正義の国のように見ヲるが、実際には朝鮮すら手放そうとはしていなかった。
[協
調外
交の展開]
1 幣原外交=対米英協調(憲政会)
・政友会は原が死んでから分裂し、軍部に乗っ取られる。このため、強硬外交に
転換し
た。協調外交を維持するのは憲政会(民政党)。
・幣原喜重郎はワシントン会議にも参加した外交
官。強硬外交
から協調外交への転換を図る憲政会に見込まれて、その看板として外務大臣に迎えられた。
・中国問題では、英米に対して「出る釘は打たれる」として、足
並みを揃えて
満州利権を守るのが協調外交である。中国に対して理解があったわけではない。
2 パ
リ不戦条約(1928)=内田康哉派遣(政友会)
・仏外相ブリアンと米国務長官ケロッグが提唱。国際紛争の解決には戦争でなく、平和的手段を用いるとした。15カ国が
締結し、後には
63カ国に拡大している。制裁事項がなく実効なし。
・条約文中に「人民ノ名ニ於テ」とあり、これだと国民主権になるため「日本
の国体に合わない」として民政党が田中内閣を攻撃した。国体は天皇制のことであり、国体問題が政争に使われた最初。この言
葉は日本に適用し
ない条件で批准した。
3 ロ
ンドン海軍軍縮条約(1930)(民政党)
・天皇直属の海軍の意向を無視して批准したとして、逆に民政党が統帥権干犯で政友会に攻撃される。
※外交が政争の材料→ファシズム台頭の遠因
・外交
が政争の具に利用され、その時に国体、統帥権が持ち出された。政党勢力が仲違いをしたのもファシズム台頭の原因の一つである。
目次に戻る トッ
プページに戻る
Copyright(C)2006 Makoto
Hattori
All Rights Reserved