<第一次世界大戦の終結とベルサイユ体制>
[社会主義革命の成立]
A 大戦の状況
・連合国24、同盟国4が参加。イタリア、アメリカは当初は中立。交戦国は短期戦を予想していたが、実際は長期化。
・ドイツはフランスを攻略してからロシアを攻める計画。左翼を薄くして後退させ、フランス軍を呼び込み、右翼を厚くして回転するように攻め込
んでパリをと
る作戦=シュリーフェン作戦で戦う。
・8月4日にベルギーに侵入してパリに迫る。しかし、ロシアが予想より早くドイツ領に東から侵入したため、西部の軍を充て、8月23日から9
日間におよぶ
タンネルベルクの戦いで破る。これは戦史上でも珍しい完全包囲殲滅戦で、ロシアは10万人が死傷し、10万人が捕虜となる。しかし、ドイツは
西部が手薄に
なり、フランスは9月6日に総反撃に転じ、マルヌ河畔の戦いでドイツを後退させる。以後、西部戦線は膠着。
・東部ではトルコが同盟国側に立って参戦し、ロシアと英仏の連絡路を断つ。英仏軍はダーダネルス海峡を突破しようとガリポリに上陸戦をおこな
うが大敗。イ
ギリスはドイツを海上封鎖し、ドイツは食料、軍需物資を海外から入手することが困難となる。
・1916年、ドイツは5カ月に渡りベルダン要塞を攻撃。ドイツ28万、フランス31万の損失を出し、ドイツの攻撃は失敗。英仏軍はソンム河
畔に総反撃す
るが、英仏60万、ドイツ44万の損失を出してこれも突破できず。
イタリア、アメリカ(無制限潜水艦作戦への反発)の
対独参戦で
ドイツ劣勢
・1915
年、イタリアは同盟国を裏切る。オーストリアとの間にチロルの国境争いを抱えていたため。
・ドイツは1917年2月、無制限潜水艦戦を宣言。
イギリス
の海上封鎖突破のため、無差別に艦船を撃沈する。毎月80〜100万トン。ロシア革命後の4月、アメリカはこれに対抗してドイツに宣戦布告をした。
長期化と新兵器(戦車、飛行機、潜水艦、毒ガス)で被害拡大
・長期化の背景は2つある。一つは全てが交戦国となり、停戦を仲介する有力国
がなく
なってしまったこと。もう一つは総攻撃をすると大出血するため、持久戦法をとらざる得なかったこと。
・勝つためには大量の武器が必要となり、軍需物資の生産力に
よって勝敗が左
右される総力戦となった。フランス参謀本部は、75ミリ砲の一日の必要量として、開戦前に1万4000発を想定していた。
しかし、1カ月後
には5万発に修正し、1915年1月には8万発、夏には15万発を要求するようになった。わずか1年で想定量の10倍が必要となっている。
・このため、フランスの軍需工場への動員数は想定の5万人に対し、1917年には160万人となっていた。
・毒ガス、戦車、飛行機などの新兵器の登場も死傷者の増大を招
いた。
飛行機は初めは偵察用で、後には空襲や空中戦をしている。しかし、爆弾は手で投下し、ピストルで撃ち合ったり、煉瓦を投げている。
・敵の突入を食い止める手だてとして有刺鉄線が作られた。これに対抗するために戦車が出てくる。イギリスが開発したが、ドイツのスパイの目を
ごまかすため
にタンク(水槽)といったもの。
・毒ガスは1907年、ハーグの万国平和会議で使用を禁止されていたがドイツが使う。窒息性、びらん性など。しかし、風向きによっては使用し
た方に流れて
くることもあった。
=戦死1900万人
・動員人数は連合国4218万人、同盟国2285万人。戦死は連合国515万人、同盟国338万人。このほか、非戦闘員の戦死
が1000万人に
及ぶ。
=弱小帝国主義国ロシアの民衆圧迫
・ロシアは初期の10カ月で380万人の死傷者を出す。このため、ロシア正規
軍は消
滅。その後、対ドイツ戦争に1500万の農民を動員したため、農村では労働力不足で食糧不足となる。
・物価上昇が激しく、食料品は3倍、衣服は19倍。ロシア民衆
の間には厭戦
気分が充満した。
B ロシア革命 1917
労働者の蜂起による皇帝の退位(三月革命)
・ペトログラードでは軍需工場に動員するため労働者が2倍に増えていたが、小麦の入荷は半分になっていた。このため、3月8日、女子繊維労働
者がストを起
こして「パンをよこせ」と叫ぶ。3月10日からゼネストに入る。この鎮圧に向けられた軍隊は民衆側に寝返り、その数は12日には6万、13日
に12万、
14日に17万人となる。15日、軍隊は皇帝ニコライを退位に
追い込んだ。
三月革命という。
・兵士・民衆は会議であるソビエトを組織したが、資本家たちは5月に臨時政府を樹立した。しかし、戦争は継続する方針を出したため、ソビエ
ト、民衆と対立
した。
→レーニンによる社会主義体制(ソビエト政権)樹立(十一月革命)
・社会民主労働党のポルシェビキ(多数派→革命を起こすべき)を率いていた
レーニン
は、大戦中はスイスに亡命していた。ここで戦争反対を主張して
民衆のボル
シェビキ支持を得ていた。レーニンは急いで帰国して十一月革命を率いる。
・11月7日、ケレンスキー政権が倒れてソビエト政権が樹立さ
れる。無併合、無賠償の即時講和を呼びかけ。地主の土地の没収、労働者による工場管理、銀行の国有化を打ち出し、初の社会主義政権となる。秘密外交を廃止し、日露協約も
失効。今までの
秘密事項が暴露された。
独墺と単独講和条約締結=列強の動揺
・ソ連
はドイツと単独講和を図り、ブレスト・リトフスク条約を締結する。ドイツは賠償を要求し、戦争を終わらせたいレーニンは受
諾している。
Q1 初の社会主義政権
の誕生は、列強を動揺させることになった。どうしてか?
A1 どこも戦争が長期化して国民には厭戦ムードが漂っていた。革命が起こされる心配があった。
|
・この頃、革命勢力の支配地は、一時は全ロシアの16分の1に減っていた。各
地には革
命に反対する地方政権がたくさん作られ、ロシアは内戦状態だった。
・英仏は革命を失敗させようとした。ウクライナの穀倉地帯、コーカサスの油田地帯がドイツの手に落ちるのを
防ぐため、南ロシア
の反ボルシェビキ政権を支援する方針を立てた。
・日本では、社会主義革命の波及を防ぎ、弱体化したロシアを攻めて東シベリア
に緩衝国
を作ろうという動きが出てくる。
cf)シベリア出兵(英米仏日) 1918
革命妨害とシベリア占領のために出兵(チェコ兵救出名
目)
・シベリア出兵の名目に使われたのはチェコの軍隊。チェコはオーストリアに支
配されて
いたため、オーストリア軍として戦っていた。しかし、オーストリアか
ら独立したかったため、オーストリア軍からロシア軍に投降して同盟国側と戦っていた。ソビエトがドイツと講和を結んだため、シベリア経由で西
部戦線に移動
しようとし、1万人がウラジオに集結した。これに対し、ソビエトが武装解除をしようとしたため、シベリアにあった反ボルシェビキのコルチャッ
ク政権と提携
して挙兵し、西部シベリアを占領して抵抗した。
・英仏はチェコ軍を救出するのを口実として北ロ
シアに上陸。
日米にもシベリア出兵を要請してきた。アメリカは7000人に限定して共同出兵を認める。
・日本の割当は7000人だが、交渉して1万2000人を派
遣。最終的には
7万2000人を出してハバロフスク、チタなどを占拠。2カ月でバイカル湖以東を占領した。増兵については統帥権の独立を
盾にとって政府と
相談せずに勝手におこなった。陸軍の暴走の初めである。
but失敗(日本は残留し惨敗
・1919年末、東部シベリア反革命軍のコルチャック政権が倒れる。アメリカはチェコ軍救出ができたとして1920年初めから撤兵をした
が、日本は駐兵を
続けた。この頃には領土的野望が見え見えであり、パルチザンの抵抗を受ける。1919年には、ハバロフスクで日本に抵抗す
る過激派は1〜2
割だったが、1920年には、ロシア人は全て過激分子となっていた。
・1919年1月30日、シベリア鉄道沿線を占領していた大隊がパルチザンの夜襲で全滅している。氷点下40度の世界のため、襲撃がないとし
て油断し、多
くの兵が酒に酔って寝ているところを襲われた。裸足で逃げた者は凍傷で足を切断したという。
cf)尼港事件)
・1920年2月、700名の日本守備兵と居留民が4000人のパルチザンに
よって包
囲されて休戦する。しかし、3月に休戦を破って日本が攻撃し、122人が捕虜となった。5月に救援に向かったところ、全員が殺される。
・この尼港事件では日本はパルチザンの非道を宣
伝。北樺太を
保障占領。しかし、国民の支持もなく、現地の日本軍もどうして戦っているのかがわからない有様。
・1922年、北樺太以外からは撤兵。10億円を使い、
3500人の犠牲を
出し、何も得られなかった。日本陸軍の初めての対外戦争での敗戦。
∴各国内革命勢力抑圧のため早期停戦必要
[第
一次
大戦の終結]
独墺の降伏(1918)
・1918年3月、西部戦線で総攻撃をするが失敗。トルコ、ブルガリア、オー
ストリア
が降伏した。
・11月、キール軍港で水兵が反乱を起こし、これが各地に波及してドイツ皇帝は退位した。社会民主党が政権を取り、連合国と休戦。
→パリ講和会議(1919)
(日本全権=西園寺公望)
・日本
側全権は西園寺公望。明治初年以来パリに留学したことがあり、進歩的思想の持ち主とされる。
A ベルサイユ条約
Q2 パリ講和会議を
リードしたのはアメリカだった。どうしてか?
A2 アメリカは戦勝国であるが戦争の直接被害を受けていない。大戦中に経済力を増し、荒廃したヨーロッパの国を援助することで
政治的なイニシァチブを獲
得した。
|
平和原則14カ条(ウィルソン米大統領)による戦後処理
ex)民
族自決主義
・ウィ
ルソンは理想主義者であり、「戦争を終わらせるための戦争」、「民主主義確立のための戦争」をスローガンにして参戦した。
・1918年1月に議会で発表したのが平和原則14か条で
あ
る。秘密外交の排斥、海洋の自由、貿易自由化、軍備縮小、植民
地住民の利益
を考えた植民地問題の解決、諸国家独立と保全を保障する国際機構設立などが内容である。
・民主党のウィルソンは初めて外国に渡った大統領であり、救世主として扱われる。彼はこの年のノーベル平和賞を受賞した。
Q3 戦勝国で戦争の被
害を受けていないという、アメリカと同じ立場の国はどこか?
A3 日本である。しかし、初の国際会議へのデビューだったが見劣りした。
|
・会議には27国が参加し、中国、インド、チェコなども含まれていた。しか
し、議事は
米英仏伊の4カ国が中心となって進められ、これに日本が入った5カ国でまとめられる。
・日本はヨーロッパ諸国から乞われて入っている。アジアの代表者としての立場だった。パナマ運河開通でアメリカの目はアジアへゆき、中国市場
が注目の的
だった。アジア民族の独立の動きもあった。日本はアジアを代表
して何か言う
だろうと考えられた。
・しかし、国際外交の初舞台である日本は、自国の利益に関わるものについてだけ発言し、大半は無口で過ごした。
・講和会議では領土問題、賠償問題のほか、国際連盟、民族自決、国際労働立法、国際通商が議題となる。新しい国際秩序を
作ろうという会議だった。日本は国際労働立法や国際通商の秩序作りについてはほとんど発言できず、「またノーコメントか」
と問われている。
・実際の会議では、国家主義的な報復感情と、平和を願う理想主
義的な動きが
混ざって、ウィルソンの理想主義をつぶした。
・アメ
リカは世界一の資本主義国となったため、自由貿易の推進や海洋自由は有利に働く。これを秩序として確立しようとした。
・フランスは戦場となったため、ドイツに報復したかった。
・イギリスはドイツ植民地を併合したかった。
・ソ連は社会主義政権として脅威だったため招かれなかった。
・日本は山東権益継承とドイツ領南洋諸島獲得が承認されればよ
かった。大
戦中に英仏露伊が認めたため、日本は地中海へ駆逐艦を派遣していた。頑張ったのは人種差別撤廃についてだが、これは日本人移民の排斥が絡んで
いた。
・植民地とされている民族にとっては、民族自決のスローガンが
嬉しかった。ア
ルメニア人はトルコからの独立、ユダヤ人はパレスチナの解放、中国人は山東返還、朝鮮人は独立回復を期待した。
1 天文学的賠償金
・ドイ
ツは天文学的賠償金(1320億マルク→後に358億に減額)を吹っかけられる。また、ラインラントの非武装化が決まっ
た。これで連合国に
対する敵愾心を生み、ナチス台頭の要因を作った。
2 独領植民地没収
・ドイツは全海外植民地を剥奪される(ほとんどは英仏がとる)。ヨーロッパ内
領土は
13%削減された。アルザス・ロレーヌはフランスに割譲されている。
∴日本=南洋諸島委任統治(山東省権益の継承も要求)
・日本
はドイツ領南洋諸島を獲得した。アメリカは日本の力が太平洋地域に拡大するため反対したが、ヨーロッパ諸国はドイツ領の分
割の秘密協定を結
んでいたため、日本の主張を拒否することができなかった。
・日本が力を入れたのは山東省権益の継承だっ
た。パリ会議に
は北京政府と国民政府の2つの代表が出席している。民族自決主義がヤングチャイナを勇気づけ、顧維キン全権は中国は最後通牒で脅されて認めた
ので絶対無効
といった。アメリカも反対した。
・日本は山東省権益が得られなければ国際連盟に加入しないといってウィルソンを脅して承認させる。このため、ウィルソンは非難され、大統領選
では後継者のコックスが共和党のハーディングに敗れた。
3 独領民族独立(チェコ、ハンガリー)
・ドイツへの徹底的報復がされ、ドイツは意見も言えず、連合国の決定に従うだ
けだっ
た。
・ドイツ、オーストリアに抑えられていた東欧諸国の独立(ハン
ガリー、チェ
コ、ポーランド、フィンランド、バルト3国)が認められる。民族自決に基づく東欧諸国の独立は、社会主義か西欧に及ばないようにするため
の緩衝国を作るの
が目的だった。民族自決はヨーロッパにのみ適用された。他の地域はドイツ植民地の列強による再分割がおこなわれ、民族独立
の願いは踏みにじ
られる。
cf)アジア諸国の民族自決要求も高まる
・イン
ドでは1918年に民族自決を求めてイギリスと対立している。イギリスは弾圧法を出し、ガンジーが非暴力、不服従の抵抗運
動を開始する。
朝鮮=三・一独立運動
・朝鮮では李太王が死ぬ。日本による毒殺説も流れた。国葬の二日前に「独立万
歳」を叫
ぶ民衆デモが計画された。独立宣言署名の指導者33人は、「独立万歳」を叫ぶだけだからと、電話で総督府に穏健な計らいを要望して自首した。
独立の意思を
表明することで、ベルサイユ会議に結集した列強が何とかしてくれることを期待した。こうして三・一独立運動が始まる。
・平和的なデモが中心で200万人が参加した。おじいさんもおばあさんも独立万歳を叫ぶデモに加わった。これが大規模な民族運動であったこと
で対応を迫ら
れることになった。講和会議開催中のため、早く抑える必要で、軍隊によって鎮圧した。キリスト教教会堂に25名を閉じこめて射殺、放火した事
件(提岩里事
件)も起こり、朝鮮人死者は8000人という。
・デモの先頭に立って指揮していた柳寛順(ユ・ガンスン)は逮捕され、翌年に16歳で獄死した。朝鮮のジャンヌダルクと言われる。
・日本史教科書では、長い間、「万歳事件」と記述し、「暴動」が起きたために軍隊で鎮圧したとされてきた。これだと「暴動」を起こした方が悪
いということ
になる。1982年の教科書問題では、「侵略」「進出」の語句問題と並び、争点になった。
・ソウルの西大門刑務所は日本が政治犯を収容したところで今も残る。立てた棺桶に閉じ込める拷問(身動きできず、血が下がって3日もすれば死
に至る)、爪
の間に針を刺す拷問などの様子が展示されている。
(弾圧→朝鮮総督の文官への拡大、憲兵警察廃
止)
・独立運動を抑えるため、朝鮮統治の2期に入る=1919〜1930年(満州
事変勃発
前)。斎藤実は着任式の際、爆弾を投げられたが、文化政治への
転換を図った。
文官総督も任命できるようにし、警察も普通警察になる。朝鮮人官吏を登用したり、親日派を育てて内地国化を進めた。この間、朝鮮は日本への米
移出基地であ
り、朝鮮人の内地移住が進む。
・柳宗悦は、この時期、「読売新聞」に『朝鮮人を想う」を連載している。「ある国の者が他の国を理解する時に必要なのは芸術や宗教をわかるこ
と」だとし、日本のよき外国人理解者はラフカディオ・ハーンだとした。反面、日本は朝鮮に対し、軍隊や政治家は送ったが、愛は送らず、芸術家
も育っていないとしている。日本語を強制し、日本風の教育や価値観を押し付けた結果、朝鮮の子が作った半西洋風の芸術作品が評価され、本当に
美しい朝鮮伝統の美術が姿を消したと嘆く。
・柳のような日本人がいたことは救われることである。しかし、実際には多くの日本人は朝鮮の文化を一つ下のものとしてしか見ず、結果として、
朝鮮人を劣ったものとしてしか扱わなかったのである。「文化政治」に転換しても、朝鮮の持つ優れた文物や人々に敬意を払うことはなかったと言
える。
・このような中、上海には大韓民国臨時政府が樹立され(李承晩)、独立運動は続くことになる。
中国=五・四運動(二十一カ条要求反対デモ)
・5月9日の国恥記念日に抗議デモを予定。しかし、弾圧を恐れて繰り上げ、5
月4日に
実行。3000人の学生が参加し、22省、200都市で2ヶ月間、ストやデモ、日本商品不買運動が起きる。長期継続的におこなわれ点で従来の
反日運動とは
異なる。五・四運動と呼ぶ。
・このため、中国は講和条約への調印を拒否し、山東省権益問題
の結論は先送
りされた。
B 国
際連盟の設置 1920
集団安全保障による平和維持(ウィルソン
提唱)
(本部=ジュネーブ、日本=常任理事国)
・従来のヨーロッパの平和維持システムは勢力均衡だった。対立する国があれ
ば、相手に
やられないように他国と同盟を組む。力のバランスが取れていれば戦争にはいたらない。この場合、バランスを取るために弱い側につく国が必要で
あり、イギリ
スが「名誉ある孤立」としてこの立場にあった。しかし、第一次世界大戦では、イギリスは対立に巻き込まれてしまう。
・勢力均衡に替わって登場したのが集団安全保障で
ある。すべ
ての国を一つの組織に入れて戦争をしないと約束させる。約束を破ればすべての国への約束違反として袋だたきにする。
・原加
盟国42、後に17カ国加盟。アメリカは上院の反対で批准できなかったため、参加せず。
・理事国は理事会を開き、重要事項を討議する。総会と同じ力を持つ。事務局次長は新渡戸稲造が務める。
but不徹底
平和侵犯への武力制裁なし(経済的制裁のみ)
Q4 武力制裁がないと
すれば、他の手段は何か?
A4 経済制裁だけ。経済制裁は、輸入を停止するのだが、そうすると腕づくで資源を取りにゆく戦争をしでかすことになる。
|
・全会一致でなければ制裁はできないのもネックだった。すべての国が制裁に賛
成すると
いうことはあり得ない。小国のスタンドプレーに振り回されることになった。
当初、米独ソ未加入
・大国をすべて網羅しないと戦争の歯止めにはならない。当初、米独ソが未加入
だったの
も問題だった。ドイツは1926年に加入、ソ連は1934年の加入である。アメリカは最後まで入らなかった。
※ベルサイユ体制の確立
アメリカ帝国主義の地位向上
ソビエト社会主義政権の成立
ドイツ帝国の崩壊
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