<大戦景気と大正デモクラシー>
[大戦景気]
・初めは不況になる。輸出は30%減。生糸・綿糸の相場は3割安。ドイツから
輸入して
いた染料なども入ってこなくなった。30以上の銀行で取り付け騒ぎ。
・1915年春頃から英露向けの軍需品の輸出が増加。
A 輸
出の急増(1914=6億円→1918=20億円)
戦地にならず欧州の持つアジア市場から注文殺到
・ヨー
ロッパからの供給が絶えたため、中国、インド、東南アジアなどへの輸出が伸びる。アメリカも大戦景気を迎えたので、アメリ
カ向け生糸も輸出
が伸びる。
・対中国輸出は1914年に1億6000万円→1919年に4億4000万円。対米輸出は1億9000万円→8億3000万円。総額は5億
9000万円が
21億円である。
海運の日本依存
・大戦
で船舶が撃沈され、物資輸送のために日本の海運に依存する。これで大儲け。造船ブームも起きる。海上運賃は10倍となっ
た。
・しかし、造船のためには鉄が必要。製鋼量はアメリカ3715万トンに対し、日本は26万トン。船を造って儲けたくても、鉄がない状況。アメ
リカの成長に
比べれば見劣りがした。船鉄交換でアメリカと鉄と船を交換して製造。
Q1 急に金持ちになる
者が続出した。何というのか?。語源は何か。
A1 成金。将棋の歩が相手陣地に入ると急に金になることから出た。
|
∴成金、船成金を生む空前の好況となる
・船成
金が続出し
た。大戦前は賃貸料トンあたり3円、船価50円だった。大戦勃発で賃貸料は欧州向け45円、船価700円になる。内田信也は4500トンの船
をチャーター
して船会社を始め、運賃が上がれば又貸しして儲ける。最後は16隻を持ち、配当は60割。2万円の資本で出発し、絶頂期には6000万円。
600畳敷きの
須磨御殿を造る。1919年の列車転覆事故に遭遇し、「俺は神戸の内田だ。金はいくらでも出す。助けてくれ」と言ったという。
・鉱山成金には日立銅山を経営した久原鉱業がある。1912年、資本金1000万円で発足。1917年には資本金7500万円になる。電気機
械修理工場を
日立製作所として独立させる。
・鈴木商店は大戦期に急成長して財閥になる。台
湾の樟脳と砂
糖を扱う商社だったが、買い占め策に出る。アメリカの鉄を買い占めて造船会社に売り、米、小麦、銅なども買い占めて大儲け。取引高15億円の
世界的商社と
なる。多くの事業に進出し、神戸製鋼、帝国人絹、播磨造船、日本製粉など60社を傘下に収め、資本額5億6千万円という三井、三菱に次ぐ企業
となった。
・料亭から帰る時に停電となって靴が見当たらない。仲居さんが困っていると、成金は100円札をつけて「どうだ、明るくなったろう」と言っ
た。米1升が
15銭の時代。今の20万円くらいという。
cf)債務国→債権国
・11億円の債務国だったのが、大戦期に27億円の債権国となった。
B 産
業構造の転換
農業国→工業国、軽工業→重工業、
・工業生産額は13億円から65億円へ。農業生産額を上回る(1914年=農
45.4%:工44.4%→1919年=農35.1%:工56.8%)。
・製造業における重化学工業の伸びは1913年:24.1%→1918年:36.8%。
化学工業の成長、
・ドイツからの輸出が絶えた産業が成長する。化学工業が成立し、化学肥料(過燐酸石灰、硫安)が生産
される。
・ドイツで栄えていた精密機器も肩代わりをする。服部時計店は置き時計を英仏に80万個を送る。
Q2 動力源も変わっ
た。何から何に変わるのか?
A2 石炭を燃やして作る蒸気力から電力への変化である。
|
蒸気力→電力
・1917年には全工業原動力で、電力の比重が蒸気力を上まわった。
Q3 電気を作るために
はどのような方法があり、明治の当初はどちらが主体だと考えら
れるか?。それはなぜか?。
A3 火力である。水力はダムを造って発電するので山奥から送電しなくてはならない。遠距離送電だと、電線の抵抗で発熱し、途中
で電気がなくなってしま
う。
|
Q4 遠距離送電を成功
させるにはどうするのか?
A4 高圧送電である。 |
・1914年、猪苗代・東京間11万ボルト、228キロの高圧送電に成功。世
界3位の
超高圧長距離送電となる。
Q5 大正の頃に電灯が
灯るところが多かった。愛知県でそのことを題材に童話を書いた
者がいるが誰か?。作品名は?。
A5 新美南吉の「おじいさんのランプ」である。 |
・昭和17年に執筆したもの。行燈の時代、岩滑新田に住む巳之助が大野に行っ
てランプ
の明るさに驚き、ランプ屋になる。ランプはよく売れたが、やがて電灯が普及して売れなくなる。初めは電灯を憎み、火をつけてやろうとした。
マッチがなくて
火打石を使ったところ、なかなか火がつかない。「時代遅れのものは役に立たない」と言ったところ、ランプが時代遅れになったことに気がつく。
世の中の発展
には電灯は必要だと悟り、ランプの葬式をすべく、ため池の廻りの木の枝にランプを掛けて火を灯し、石を投げて割ってゆく。「お前たちの時代は
終わったん
じゃ」。
・半田の場合、1910年に知多瓦斯電灯株式会社が設立。1914年、半田中心部に電灯がつく。新美の出た岩滑では1918年、1919年あ
たりに電灯が
ついている。まさに大戦期である。
but労働者、小作人の生活難は続く(低賃金=内需拡大望めず)
・大戦期に景気は良くなった。しかし、それは一部の者にしか恩恵を与えず、大多数の労働者や小作人の生活は改善されなかった。儲け
を分配しなかっ
たのである。1914年=100として、1918年の賃金は153、物価は202となり、物価の伸びに賃金が追いついていない。
・こうして貧富の差は拡大した。河上肇の「貧乏物語」が数10万の読者を得る。貧乏は個人の境遇や運によるものではない。社会の欠陥によるも
のと訴えて共
感を得た。これが社会主義の考え方の普及につながるのである。
・ここで内需拡大につながらなかったことが、後に禍根を残す。
C 反
動恐慌
戦後恐慌(1920)=加熱した景気の急
激な冷却で倒
産続出
・成金の成長は投機によるもの。企業が儲かるので株の配当が上がる。資金を得
た者が株
を買いに走る。金利が安いので投機先がなかったし、外国の技術の輸入ができないから重工業の設備投資が難しかった。株式ブームとなり、有力会
社の株主の数
は大戦前後で2.6倍になる。
・ブームが去れば、ただの紙切れになってしまう。大戦が終わって輸出の業績が悪くなると株が一斉に売りに出された。バブル崩壊で株価は2分の
1から3分の
1になる。
・企業倒産に対して、資金を貸していた銀行が連鎖倒産。日銀特別融資、大蔵省預金部資金(郵貯)によって救済することになった。
[大
正デ
モクラシー]
A 国民の政治意識の高まり
資本家、地主=好況で政治的発言力増大
Q6 貧しい人たちも政
治に目を向けるようになった。今までは無力感を持っていた人た
ち。どうして目を向けたのか?
A6 ロシア革命である。
|
勤労無産大衆=社会的自覚 cf)ロシア革命
B 民主主義思想の普及
1 天皇機関説(美濃部達吉)
主権は国家にあり、天皇は統治機関(議会によって制約)
・明治末に立憲君主制を基礎づけるため、美濃部達吉が説く。天皇=神、という
考えではなく、天皇制を科学的に解釈しようとしたもの。
・大日本帝国憲法第3条では「天皇は神聖にして侵すべからず」となっていて、天皇はオールマイティとされる。しかし、第4条には「天皇は統
治権を総攬し、この憲法の条規により、これをおこなう」となっていて、天皇の権限は憲法で制約されるとしている。
・美濃部は第4条に注目し、天皇は憲法が定める定員一名の最高の国家機関である
とし、内閣や国会と同じく、憲法に従わなければならない存在だとした。
・よって、議会は独立した権限を持ち、天皇の統治権は議会によって制限される。「立
憲制の名の下で、一部の連中が専制政治をすることがあってはならない」。
・尾崎行雄が第一次護憲運動で、大正天皇の詔勅に逆らって内閣弾劾決議案を引っ込めなかったのは、これが根拠。
2 民
本主義(吉野作造)
国民本位の政治が必要(議会を通じて政策決定)
・民本主義は東大教授の吉野作造による造語。イギリス上院の権限縮小問題など
を見聞し
て帰国。「中央公論」1916年5月号に「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」という大論文を掲載した。
Q7 民本主義はデモク
ラシーを日本的に訳したものである。普通はどう訳すのか?。そ
れではどうしてダメなのか?
A7 民主主義である。これは国民主権なので、天皇主権の日本では当てはまらない。
|
・吉野はデモクラシーには2つの意味があるとする。(1)国家主権は人民にあ
るという
人民主権説=民主主義。天皇制君主国の日本では合わない。(2)国家主権の活動目標は人民にある=民本主義。政治目標は民衆のためでなくてはならない。そのためには、政策の決定は
議会を通じて民
衆がおこなうべきとした。
・主権者の問題を棚上げにした。一部特権階級が天皇の名で政治
をすることを
排除し、普通選挙を導入し、議会が政治を監督できる政党内閣を実現することが大切とする。
・天皇機関説も民本主義も、議会の権限を主張したもの。国民の声を議会に集約することの大切を訴えた点で、大正デモクラシーの
理論的背景に
ふさわしい。
→黎明会、東大新人会の組織
・黎明
会は民本主義を基礎として1918年に結成。新渡戸稲造、三宅雪嶺など「中央公論」の執筆陣が加わる。講演会を主として活
動。
・新人会は東大法科の学生による社会運動団体。
赤松克麿らに
より、普選運動や労働運動をおこない、後の無産政党の指導者になる。
※全国民への参政権、選挙権
解放を要
求(普通選挙運動)
[大戦期の政治]
大隈内閣の退陣
・山県は、大隈の外交政策の失敗に愛想をつかし、退陣を求める。大隈は後継に
加藤高明
同志会総裁を推すが、政党人の内閣をよく思わない山県が反対。寺内正毅元朝鮮総督を推す。大隈は加藤後継を条件に辞表を出すが、元老である山
県は寺内を天
皇に推薦。寺内正毅は政党に基盤を持たない官僚内閣を作る。
・ビリケン人形に似ていたことから、「ビリケン(非立憲)内閣」と呼ばれる。
A 寺
内正毅内閣(長州陸軍閥)
・加藤
高明の同志会は他の2つの政党を合併して憲政会になり、衆議院で絶対多数をとって寺内内閣に対抗する。
・山県は政党人の加藤を抑えたい。寺内は今まで藩閥と組んでいた第二党の政
友会に応援を求める。政友会なら、同じ政党でも気心が知れている。
・しかし、原敬は是々非々でゆくという。藩閥の窮状を見てじらしたものであり、寺内は政友会のご機嫌取りをせざるを得なくなった。原の駆け引
きのうまさが
光った。
・憲政会が絶対多数なのは、大戦前の大隈人気の選挙で勝っていたからであり、大隈なき後は人気が低迷していた。
・寺内は政友会の協力を得るため、解散に打って出て議席を増やしてやろうとする。結果は政友会が圧勝し、政友会165、憲政会121となる
(定数381)。原のペースに
巻き込まれている。
シベリア出兵を強行、増税
・寺内はシ
ベリア出兵を強行し、八・六艦隊実現のため増税をした。
but大戦景気の頂点で物価急騰
・この頃、米価が著しく高騰する。大阪堂島米相場は、1917年には1石16.5
円。1918年1月に23.8円、5月に27円、7月41円、8月には50円突破して3倍の値上がり。
・米価高騰の背景は、急速な工業化で農村から労働力が流出したことがある。1917年の新規工場労働者の40%は、農村からきた者だった。都市人口の拡大と農村労働者の減少は、米不足を生んだ。
・そこにシベリア出兵が起こされ、兵隊に食わせる米が必要なた
め、米屋が買
い占めを実施してさらに上がる。
Q8 国内の米不足で米
価が高くなったのなら、どうすると米価は下がるのか?。その政
策を寺内がとれないのはなぜか?
A8 外米の輸入を拡大すればよい。しかし、寺内内閣が頼みとする政友会のバックには地主がついていて、地主にとって不都合とな
る外米輸入、米価下落とい
う政策がとれなかった。
|
→米騒動の発生 1918
米屋の打ちこわし(富山→全国70万人参加へ)
・富山
県魚津の漁民は、夏は夫たちが北洋漁業に出稼ぎにゆき、女房だけが残される。女房たちが米の積み出し作業をおこなっていた
1917年7月
22日、井戸端会議で、「米が上がるのは積み出しをして足りないから」として、積み出し停止を頼みに行った。これが周辺に伝わる。
・8月3日には180人ほどの女房が米屋に押し掛けて移出をやめるよう迫る。6日には町民1000人が出て米の安売りをさせることに成功し、
「越中女一
揆」として新聞報道される。
・これが全国に飛び火した。新聞報道もあり、10日になると京都、名古屋に飛び火して米屋が打ちこわされた。
Q9 名古屋市民がこう
いう運動をする場合、集まるところはどこか?
A9 鶴舞公園である。関西府県連合共進会の会場として整備された。奏楽堂が中心となる。
|
・鶴舞公園で米価問題市民大会。労働者たちが代わる代わる演説をして、米屋町
に押し寄
せて廉売を求め、聞かなければ打ちこわしをおこなう。名古屋の米騒動では、初めて寺内内閣の責任を追及する声があがった点が重要。
・強訴による安売りの実現が成功すると、各所で真似るようになる。政府は米騒動の記事を掲載不許可とする(白紙新聞)。内閣打倒運動に発展する。
寺内内閣退陣要求
軍隊により鎮圧
・最終的には70万人〜100万人以上が参加。片山潜は1000万人が参加し
たと言っ
ている。鎮圧に出た軍隊は5万7千人。2万5千人を検挙している。
・寺内は自信を失い辞意。
Q10 民心を収拾する
ためにはどういう内閣がよいのか?
A10 藩閥はだめなのだから、国民の立場に立つ政党内閣である。
|
→民心掌握のため本格的政党内閣結成
・後任は民心掌握のため原敬が有力。しかし、山県は政党内閣を作りたくないた
め、西園
寺を推す。
・西園寺は、「原が組閣して失敗すれば超然内閣に戻すことができる。しかし、原内閣を作らなければ、政党が力を合わせて超然内閣を阻止し、や
がては加藤内
閣ができてしまう」と山県を説得して原内閣が実現した。
B 原
敬内閣(政友会) 1918
Q11 原内閣はどうし
て本格的政党内閣なのか?
A11 国民から選ばれた衆議院議員として首相になったからである。
|
「平
民宰相」の衆院議員、衆議院第1党党首の組閣
・原敬
は南部藩士の子。号は「一山」で、「白河以北の人間は一山いくらだ」と言われたのに反発した。
・「郵便報知」記者。外務省に入って陸奥宗光に可愛がられる。陸奥の死後、大阪毎日新聞社長。政友会創立に参加して幹事長。伊藤博文に手腕を
認められる。
・衆議院第一党党首で爵位を持たない衆議院議員の組閣は初め
て。今
までの大隈、伊藤などは藩閥出身だった。陸軍大臣は田中義一、海軍大臣は加藤友三郎、外相は内田康哉。あとは全て政友会から入閣。
・差別された東北人の政治家であり、数の力を頼む手法。政友会
の力を伸ばす
ため、官僚と妥協し、押したり引いたりの駆け引きを演じていった。「俺に期待すると失望するぜ」が口癖だった。
=国民の期待大
・1918年、大戦の休戦で不況。しかし、1919年には、好況に転じる=復
興物資の
注文による。
Q12 注文が去ればま
た不況になる。好景気を維持するにはどうするのか?
A12 公共事業の拡大である。
|
積
極政策(地方鉄道建設、
・この好
景気を持続するための積極政策実施を考える。四
大政策として
教育改善、交通通信機関の整備、国防充実、産業奨励を挙げた。
・地方に140路線の鉄道を建設する計画。地方の発展には鉄道が不可欠という理屈。地元岩手の山田線は、人が住んでいないようなところに敷
く。「総理は山
猿を乗せるつもりで敷くのか」と聞かれ、「日本の法律では猿は乗せないことになっています」ととぼけて答弁している。
・大正初年から昭和初期までの国鉄では、高山線、越美南線、太多線、明智線、名松線などの地方線が建設されている。
Q13 原は地方鉄道線
を重視して建設している。どうしてか?
A13 地方に利益誘導することで票稼ぎができるのである。地方を地盤とする政友会が選挙で勝つ方法と言える。
|
大学令で高等教育拡充)
・大学は、それまでは帝国大学のみが正式なもので、東京、京都、東北、九州、
北海道の
みだった。大学を受けた人の合格率は18%。しかし、大戦景気
の中、高等教
育を受けたホワイトカラーが必要となる。
・大学令により、公私立の大学設立が認められる。東
京専門学
校が早稲田大学になる。1902年に大学を名乗っていたが、正式に認められたのはこの時。慶応、日大、明治、中央、國學院、同志社などもこの
時に認められ
る。
選
挙制限緩和(直接国税(15円→10円)→3円以上)、小選挙区制導入
・1919年は大正デモクラシーの高揚期。選挙権拡大の要求に応えて選挙制限を緩和した。直接国税納付額を3円以
上に引き下げ
る。しかし、これとあわせて小選挙区制への改革
も実施した。
Q14 小選挙区制導入
はどういうことを狙ったのか?
A14 小選挙区は大政党、政権政党に有利。1選挙区から2人選出であれば政友会、憲政会と選ばれるが、1人ならばら撒き政策を
実施した政友会が強い。選
挙で勝てる体制を作ったのである。
|
but大衆運動激化を警戒
・しかし、国民は普通選挙を実現してほしかった。三一運動や五四運動と同時期であ
り、普選法は時期尚早として見送り、ストに対しては治安警察法
を適用して弾
圧。
・戦いとった政党内閣ではなく、官僚からまわってきた政権。したがって、官僚との妥協が必要。完全な国民の味方ではなかった。元老がいやがる大衆運動については抑圧する方針を取っ
た。
→普
通選挙法に反対(国会解散)、汚職頻発
・1920年は普選運動の最高潮期。2月に東京で7万5千人のデモ。憲政会・
国民党が
普選法案提出した。衆議院では20票差で否決できるが、国会を解散して民意を問う道を選んだ。
Q15 この選択の理由
は何か?
A15 多数決で否決すれば政友会批判の声が高まり、デモは大きくなるはず。解散して選挙で勝てば、国民が普通選挙を求めなかっ
たとして批判はかわせる。
|
・小選挙区制は地主を基盤とする政友会が有利。地域への利益誘導で実績も積ん
でいる。
117議席増の279名当選で過半数を50名近く上回る(大都市では憲政会)。政友会が圧勝して普通選挙は遠のいた。
・しかし、1920年は恐慌発生の年。公債の発行による景気維持策が限界となった。経営悪化の資本家救済のため財政出動したのに対し、「賃金
引き上げは弾
圧するくせに、放漫経営は救うのか」という不満が出される。「平
民宰相」で
はなく「金持内閣」という声も。
・政友会の次には貴族院の内閣を作り、次は政友会という工作をする。憲政会に渡ると普選実行になるので山県は賛成した。
・バラマキによる選挙での勝利、数の力による国会運営、深慮遠謀によって政友会の力を伸ばしてきた点で、いかにも政治家らしい政治家。しか
し、党利優先、汚職が頻発して世論を敵に回す。
∴暗殺される
・1921年11月4日、東京駅で原敬は刺殺される。犯人は19歳の中岡艮一。新聞には「誅される」との
記事もあったほどに原の人気は落ちていた。
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