<産業革命と日本資本主義>
[日本の産業革命]
Q1 産業革命とはどういうものか?。成立するための条件は何か?
A1 機械で大量生産をするものである。機械や工場の生産手段、それを使って工場を経営する資本家、そこで働く労働者が必要である。
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Q2 日本の場合、その3つの条件はどうやって整ったのか?
A2 生産手段は殖産興業政策、あとの二つは松方財政である。
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政府主導・・・殖産興業(生産手段)
・1870年代に成立する。
松方財政・・・払下げによる財閥形成(資本家)
農民の没落(労働者)
・1880年代に成立。これを受けて86〜89年に企業勃興がみられた。松方デフレは金利の低下をもたらし、一方では民間の預金額を増大させた。このため、金融市場は活発となり、企業勃興のための資本形成が容易になったのである。
A 第
一次産業革命(1890年代)
Q3 最初に機械が導入されるとすれば、どのような工業の分野だろうか?
A3 軽工業、繊維産業である。
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製糸・紡績中心に機械化(安価な女工労働力使う)
・輸出入のグラフを読み取ると、輸出は生糸が常にトップで、次に綿糸が伸びてくる。輸入は綿糸がトップだったものが、
国内の生産体制が整うと落ち、綿糸原料の綿花が伸びてくる。
・松方デフレの後から、世界的には銀の価格が低落したため、銀本位制に基づく日本円は安くなり、輸出が有利になった。この時期、日本の輸出額は1.6倍なり、アメリカ向け生糸が好調だった。製糸業が拡大し、さらには紡績業も伸びることになる。
・いずれも安価な女工労働力に依存していた。
Q4 とくに製糸業は女性に頼っていた。なぜか?。
A4 細い糸を摘むには女性の細い指がむいている。
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・伝統的な製糸の方法は座繰である。蚕は1キロぐらいの長さの糸を吐いて繭を作る。繭
を煮てミゴボウキでなぜると糸口が出てくる。猫の毛のようなものであり、これを5粒分くらい集めて撚り、手でまわして糸枠にとる。一つの繭の糸がすべてと
られる前に次の糸口を出して継ぎ足さないと、糸が太くなったり細くなったりする。煮すぎると糸が切れるので難しい。
1 製糸
養蚕農家の拡大、座繰製糸
・幕末貿易で儲かったため、養蚕農家は拡大し
た。日本の蚕都として知られるのは岡谷、彦根、伊那、藤岡など山間地が多い。その中で豊橋も明治以降は製糸業が勃興した。これは渥美半島で養蚕が始まった
からである。それまでは水がないところなので畑ではイモしか作っていなかった。生糸が輸出で儲かるため、イモ畑は桑畑に変わった。
・座繰製糸も普及してゆく。
Q5 製糸は繊細な作業である。機械化できるとすればどの部分か?
A5 糸の巻き取りだけである。
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→器械製糸
・糸枠を器械でまわすと、1人でいくつかの鍋をもつことができる点で生産性が上がる。
繭を煮るのもボイラーの蒸気を使う。しかし、糸をつけるたいへんさは同じだった。器械製糸は日清戦争を境に座繰よりも多くなる。
ex)片倉組、郡是製糸
・片倉組は諏訪の豪農・片倉兼太郎が設立したもので、10人繰製糸が元。朝鮮にも進出
して農場、鉄道経営などもおこない財閥化した。農民から財閥へ発展した珍しい事例である。
Q6 日本の生糸はほとんどがアメリカに輸出されている。何に加工されたのか?。
A6 婦人用靴下と下着になった。 |
・日本は靴下と下着の原料を輸出したのであり、製品ではない。原料輸出なので産業革命
とは言えないかも知れない。そもそも器械製糸は機械ではなく、器械の字を当てる。まだ道具の段階であり、製糸業で産業革命を説明するのは難しいかもしれな
い。
2 紡績
手紡→ガラ紡(臥雲辰致発明)
・紡績
は生糸とは異なり機械化がおこなわれた。こちらは産業革命と言える。
・古い時代の紡績は手紡であり、綿を筒状にしたものを糸車のツムにつける。糸車をまわし、一回転する前にはずれるとヨリがかかって糸になってゆく。手でま
わすので手間はかかるが、一日150グラムの糸を作ることができた。
・ガラ紡は臥雲辰致が発明して内国勧業博覧会で最高賞をとっ
たものである。筒状の綿を筒に入れて回転させる。基本的には一回転する前にはずれてヨリがかかるものだが、筒をたくさん並べることで、一度に大量の紡績が
できる。筒を回転させるためには水力を使った。これだと一日1キロの糸を作ることができた。三河では矢作川に船を並べて船紡績をしたり、谷川に水車を作っ
て紡績をしていた。
→機械紡績
ex)大阪紡績、鐘淵紡績
・機械紡績も理屈は同じで、水力を蒸気力にかえたものである。殖産興業政策の中で、政
府は2000錘規模の工場を奨励して建設した。しかし、業績は伸びなかった。
・渋沢栄一は、2000錘では規模不足であり、1万錘でないと太刀打ちできないとした。1883年に大阪紡績を設立し、1万錘規模のもので成功した。ここでは
最新鋭のリング精紡機を導入し、これはイギリスのランカシャーに匹敵する機械だった。賃金の安い都市下層民を昼夜二交代で働かせ、原料には安い中国綿花を
使用した。
・大阪紡績の成功を受け、1887年には隅田川沿いに3万錘の鐘淵紡績が設
立された。鐘淵は夕方になると鐘の音が川底から聞こえるという妖怪の出る場所だった。カネボウの前身である。
→日
清戦争による海外市場拡大
cf)1900年代には綿糸の大量輸出国へ
・1890年代に綿糸生産が本格化し、これ以後、生産額が輸入を上回っている。日清戦
争後の1896年から輸入が激増し、朝鮮、中国向けに輸出された。
・しかし、技術は借り物であり、イギリス製品よりよいものは作れなかった。太糸しか紡げない。したがって、同じ太糸しか作れなかった中国、インドとの競争
となる。市場はアジアに限られたのである。
3 綿織物
問屋制家内工業(出機)、マニュファクチュアが回復(輸入綿糸、バッタン機
使用)
・綿織
物業は幕末貿易で衰退したが、輸入綿糸を使うことで復活した。しかし、出機とマニュが主体であり、零細産業である。
・機織りは、基本的には縦糸を並べ、ここに横糸を交互にくぐらせてゆく。足踏みで縦糸を互い違いに上下させ、間を横糸をつけた杼をくぐらせ、次に縦糸を上
下させて、また横糸を通すという作業を繰り返してゆく。杼は手で通すので面倒くさい。飛び杼は紐を引くと杼が打ち出される工夫で、これを移入してバッタン機を作って生産した。
cf)国産力織機(豊田佐吉)発明で農家が内機経営へ
・豊田
佐吉は大工の子として生まれたが、母親がバッタンで機を織っているのをみて、自動化できないかと思った。1897年に豊田式木製動力織機を発明し、1904年には自動織機を発明する。輸入
機が500円したのに対し、豊田式は95円と安かったので普及していった。農家の副業として機屋経営をするものが出るが、大規模ではないので動力源はエン
ジン、電気である。ここから、豊田は自動車生産に向くのである。
・機織りでは、よく横糸が切れる。知らずに織ってゆくと横糸のない布ができてしまう。横糸が切れると停まる自動織機の完成は1926年になってからだっ
た。
B 第二次産業革命(1900年代)
・第二
次産業革命は重工業の産業革命である。
Q7 重工業で重要なのは何か?
A7 戦争に勝つためには最先端の技術で兵器を作る必要がある。重工業は軍需中心とならざるを得ない。とりわけ鉄が大切である。
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・弾丸は鉄でできる。1894年の国内産鉄は1万9千トンに過ぎず、輸入が13万4千
トンだった。日清戦争は輸入した鉄で戦ったものである。
製鉄・造船・機械工業の成立(国家・財閥による軍需部門中心)
・兵器用の鉄と鉄道用レールの製造を国産でまかなうことを目指して製鉄所を建設するこ
とにした。
ex)官営八幡製鉄所(1901)
Q8 どうして九州北部に作ったのか?
A8 筑豊炭田を利用するためである。
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・八幡はさびしい漁村だった。鉄鉱石は国内のものを使う予定だったが量が少なく、中国
大冶のものを輸入することとなる。
(大冶鉄山+筑豊炭田)
・官営
八幡製鉄所で
はドイツ製の高炉を導入し、ドイツ人技師に1万9千円の年棒を払った。日本人労働者は250円である。総工費は2000万円。労働者5000人。1901
年に操業を開始して銑鉄の53%、鋼鉄83%を生産した。しかし、その後、溶鉱炉は詰まるし爆発するしで中止し、日露戦争の始まった1904年に操業再開
している。
・造船業を見てもまだ軌道には乗っていない。日露戦争の軍艦はイギリス製だった。戦後、1905年に1万3千トンから1万9千トンクラスの軍艦が呉や横須
賀工廠で建造されている。
池貝鉄工所、新潟鉄工所(工作機械、エンジン)
・産業革命を支える機械はほとんど輸入だった。機械を作るための工作機器が作れなかっ
たからであり、日本資本主義のアキレス腱とされていた。
・池貝鉄工所は1889年に池貝庄太郎が東京に設立し、
1896年に石油エンジンを作った。1905年に池貝式標準旋盤の量産化に成功し、鉄の工作ができるようになった。現在も工作機器メーカーとして知られ
る。
・新潟鉄工所は、1895年、日本石油の子会社として石油採
掘の機械の修理メーカーとして設立され、1910年に独立してディーゼルエンジンを作った。2002年に倒産している。
→日露戦争の軍需拡大で発展
戦後不況=企業の集中合同で財閥成長
・戦争
による軍需景気で発展したため、終わればすぐに不況になる。ここで中小資本は淘汰され、大きなところに合併されていった。資本金100万円
以上の大会社が総資本額の50〜60%を占めるようになり、財閥が成長す
る。
[貿易の拡大]
金本位制移行で進展
1 輸出・・・生糸、綿糸
2 輸入・・・綿花、鉄鉱石、機械
cf)三井物産、
・三井
物産は1876年に設立。原綿・大豆の輸入、綿布・生糸の輸出を手がける。日清戦争後、機械部、船舶部を持つ総合商社になってゆく。
横浜正金銀行、
・横浜
正金銀行は1879年に設立。外国貿易金融をおこなう。後の東京銀行であり、外国為替を扱った。
日本郵船
・大隈重信が明治十四年の政変で失脚した後、海運の三菱独占(三菱汽船)を破るため、政府は1882年に半官半民で共同運輸会社を作る。しかし、両者が競争して共倒れになる可能性があ
り、1885年に合併して日本郵船になった。1893年に最
初の遠洋定期航路を開いた。
Q9 最初の遠洋定期航路はどこに行くものか?。その理由は何か?。
A9 ボンベイ航路であった。インド綿を輸入したのであり、それだけ紡績業が重要だったといえる。日清戦争の頃は、外綿の6割はインド産だった。
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→慢
性的な輸入超過、国際収支赤字
・生糸
は原料、綿糸はアジア向け。いずれも付加価値は低い。資本主義育成のためには欧米から機械類を輸入する必要。これが高いので輸入超過になる。発展途
上国の経済スタイルなのである。
[日本資本主義の特徴]
急速な近代化が必要
1 国
家の主導
ex)特殊銀行(日本勧業銀行、日本興業銀行)の融資
・日本
勧業銀行は1896年設立。農工業に長期融資をおこなうが、1902年に日本興業銀行ができて工業融資をするようになってからは、農業に一
本化された。→1971年に第一銀行と合併して第一勧業銀行となる。
・日本興業銀行は工業に対する長期融資をおこなった。
交通網の統制(日本鉄道会社などの民間経営→鉄道国有法で買収)
・鉄道はインフラの中では一番大切である。
・新橋・横浜間開通は1872年だったが、17年後の1889年に東海道線が全通し、1000マイル(1610キロ)達成記念式典を名古屋でおこなった。
年間100キロ弱の路線を敷いたことになる。しかし、次の17年後、1906年には5000マイルを達成し、また名古屋で式典がやられている。敷設のス
ピードが4倍になったのである。
・このうち私鉄が67%で、東北本線を全通させたのは日本鉄道だった。岩倉具視の主導で華族たちから資金を集めて設立。また、神戸以西は山陽鉄道が敷設し、日清戦争直前に広島まで、日露戦争前に下関まで開通させ、兵士移送の最前線と東京を結んでいる。
・鉄道は物資輸送、兵員輸送の点で不可欠であり、日露戦争で
63万4千人を鉄道輸送してそのことが証明された。政府は1906年に鉄道
国有法で鉄道を国有化することとし、国鉄ができた。
・朝鮮では1905年に釜山−ソウル−新義州が開通。1911年、満州鉄道と連結し、シベリア鉄道を使ってヨーロッパに到る路線となる。
2 少
数財閥による資本支配
政府の保護、不況による企業合同
→銀行を軸とするコンツェルン形成
Q10 コンツェルンとは何か?
A10 コンツェルンは持株関係で結合した企業集団。カルテルやトラストは同業種の企業結合であるのに対し、異業種になる。本社が直系会社の株主になり、
直系会社は傍系会社の株主になって支配をしてゆく。
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・財閥
の場合、その家族が巨大な金融資本を持ち、これと主従関係を持つ会社が系列化している。経営は前近代的な家族的なものであって民主化されて
いない。
・三井の場合、三井家が三井合名の株主となる。三井合名は、三井船舶、三井物産、三井化学、三井鉱山、東京芝浦電気などの株主になる。東芝は、芝浦製作
所、芝浦工機、東芝車両などの株主になる。こうして、関連企業全体は三井家が支配できるのである。
ex)三井、
・越後屋呉服店に始まり、江戸時代は両替商。維新の際に明治政府に金を貸して政商化。
日露戦争後に三井合名という持株会社を作り、三井11家で経営を固める。
井上馨、政友会と結ぶ。昭和初期に97社(三池炭坑、鐘紡、北海道炭坑、王子製紙、芝浦製作所)を支配する最大の財閥になる。特徴は軽工業と商社で、三井
物産が中心。→三井住友銀行
三菱、
・岩崎弥太郎の海運会社が母体。大隈、改進党と結合し、持株会社の三菱合資を結成。昭和初期に97社(東京海上火災、日本郵
船、日本鉄道、長崎造船所)を支配。重工業に強い。→三菱東京UFJ銀行
住友、
・幕府御用銅山師で、別子銅山を開く。産銅、金融部門に進出し、持株会社の住友合資を
作る。銅山経営と銀行経営。→三井住友銀行
・このほか、鉱業で名をなした古河、銀行系の川崎などがある。
安田
・幕末の両替商が始まりで安田銀行を作る。金融部門で伸び、1880年に安田系11銀
行が合同したため、日本最大の銀行になる。資本力は4大財閥の中で最大だが、産業界への進出は倉庫、鉄道などの部門で、さほどではない。戦後、富士銀行に
なる。→みずほ銀行
3 産業のアンバランス
軍需肥大の工業
・軍需
優先であり、その他の工業は見るべきものがない。タワシは大正の三大発明とされる。大きな軍艦を作る国で、こんなものを作ることが後回しに
されていた。生活必需品は生産されないのである。
農業の後進性→農会、協同組合設立による農業改善
・工業に対し、農業の近代化は遅れ、江戸時代の農具が昭和初期まで使われている。農会
による技術指導、協同組合による改善運動。塩水撰の普及などがおこなわれるものの、どちらかと言えば農業は遅れている。
Q11 農業の近代化のためには圃場整備が欠かせない。小さな田がたくさんあるのでは
用水管理も大変で機械も入らない。しかし、圃場整備はなかなか実施されなかった。どうしてか?。
A11 金を出すのは土地を持っている地主である。彼らは黙っていても小作料が入るので、わざわざ金をかけて圃場整備をする気が起きなかった。小作にはも
ちろんそんなことができるお金がない。
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but寄生地主制(小作地45%、1907)の前に限界
5割の現物小作料
→米価高騰で地主収入は拡大
・米価の高騰=1884年の米1石の価格は4円60銭。1911年には17円30銭で
4倍。消費者物価は2倍にまでなっていない。反面、地租は定額であるため、負担は相対的に軽くなる。
・1町の土地を借りる小作人が10石の米を収穫したとする。5石は小作料。1石6万円として、販売価格は30万円。海部郡には100町規模の地主がいた。
地主が100町の土地を貸していたら年収3000万円。新潟の1000町地主であれば、3億円の年収。
・地主の生活は優雅である。1000町地主はもちろん、普通でも、お出入りと使用人に囲まれる生活で、何もしなくても、年末に米が年貢として運ばれてく
る。農業の発達のためには機械化が欠かせない。そのためには耕地を大規模にする耕地整理が必要である。それをおこなうには10年ほど農業を休み、土木工事
が必要。地主にとっては、そんなことをして小作人を楽させるより、今の年貢が入ることの方が大切。地主に農業を改善しようという気がない。
4 労働者の抑圧
・小作
の生活は5割の現物小作料+肥料代を支出する。
・零細な小作人は日中は他人の田畑の賃稼ぎ。地主から借りた田は早朝か夕方から耕す。朝星、夜星である。できがよくないと地主からは貸さないといわれる。
・秋田県醍醐村の小学生の減少率をみると、1902年入学者は男73、女64。これが卒業時は男72、女60でほとんど減っていない。しかし、1908年
入学者は男69、女70だったものが卒業時は男56、女35となる。男子で2割、女子で半分はいなくなっている。男子は北海道出稼ぎ、女子は工女出稼ぎで
消えたのである。
・農村で食べられず、都市には工場ができるので賃労働者は増加の一方である。1894年、49万7千人だったものが、1903年には70万人で、10年間
で140%と急激に増える。
Q12 働きたい人が増えれば、賃金はどうなるのか?。その状況でモノを売ろうとする
とどうしたらよいか?
A12 いっそう抑えられる。外国に売るしかない。
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小作農、低賃金労働者=低い購買力→軍需景気と海外市場が必要
・小作人が物が買えるか。1町の土地を借りる小作人の年収は、米10石をとったとして
今の貨幣価値で60万円。半分は小作料でとられ、残り30万円分の米は食べたら終わり。実際には野菜や麦を作るので米以外のものを食べられる。仮に半分は
麦を食べたとして、残りの米を売れば15万円。この中から肥料代などを出す。自給自足経済であるため食ってゆけるが、小作人が物を買うことは不可能に近
い。産業革命で大量に作られる品は、日本国内だけではさばききれないの
である。
・海外に売るとしても、日本の製品は生糸と綿糸だけである。生糸は別として、綿糸はアジアにしか売れなかった。
Q13 貿易黒字にするには綿糸を大量に売る必要がある。そのためにはどうするの
か?。
A13 競合するアジアの国を抑えてそこを市場にすることが必要になる。 |
・このため、後に中国が機械紡績に成功して綿糸生産を本格化させると、日本は中国市場の確保のために腕づくで中国を支配下に置こうと武力を使ったの
である。
劣悪労働条件による生産合理化→労働運動の発生
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