<中央集権体制の樹立>
・日本を近代国家にして外国に対抗しなくてはならない。さもなければ植民地とされる恐
れもある。
Q1 そのためにはどのような政策が必要となるのか。そのための障害は何か?
A1 富国強兵政策をする必要がある。近代産業を移植し、徴兵を布いて強力な常備軍を作る。そのためには全国を一律に中央政府が統治し、財源も確保する必
要がある。
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・江戸時代には、各地に置かれた藩が幕府とは別個に政治をおこない、日本中での政治的
統一がなかった。藩は300くらいあり、藩はそれぞれで年貢をとり、藩兵を持っているので半独立国である。
・一方、政府は旧幕府領だけの年貢収入で政治をし、常備軍もないため、薩摩、長州などの兵を借りている状態だった。
藩=独自の地方政治機構→近代国家の妨げ
cf)府・県(旧幕府領)・藩(大名領)の三治体制
・当初の地方政治制度は、江戸時代のものを引き継ぎ、旧幕府領を新政府が没収して9府
22県を置いた。9府は江戸、京都、大坂、長崎、新潟などの都市部。県は農村部の天領。藩は300以上あった。これを府藩県三治体制と呼ぶ。
・大名がいれば政治に参加させないわけにはいかない。しかし、多くは無能であり、殿様を中央政治のメンバーとしておくのは無駄だった。
・旧領主をクビにすることは難しい。領地を取り上げられるのだから、幕府のように内乱を起こす可能性がある。しかし、日本ではそのようなことは起きなかっ
た。伊藤博文は欧米派遣使節としてアメリカに渡り、サンフランシスコで演説をした。「ヨーロッパでは、封建制をつぶすために多くの封建領主の抵抗があって
血が流された。日本は一発の弾も一滴の血も流さなかった」。それはなぜなのか。
[藩制の廃止]
A 版籍奉還
1869
木戸孝允、大久保利通の画策→薩・長・土・肥の建白
版(土地)籍(人民)支配権の天皇への返還
・木戸や大久保は、全藩主に領地・領民の支配権を朝廷に返させようとした。一度奉還し
てもまた土地と人民がもらえるから、ということで、最初に薩長土肥の藩主に
建白させることとし、土佐の板垣、肥前の大隈の同意を得て4人で4藩主を説得した。
・肥前はここで初めて登場している。アームストロング砲をいち早く製造した軍事大藩であり、戊辰戦争でも活躍した。これが明治政府に入り込むことになった
理由であり、藩閥の薩長土肥が勢揃いした。
・1869年1月2日、版籍奉還がおこなわれる。他の大名に
とっては、版籍奉還は天皇に忠誠を誓う踏み絵になった。大名はあらかじめ土地支配を保証されることを期待して版籍奉還をしていった。
→旧藩主=知藩事(天皇任命の地方官、家禄支給)として旧領の政治をおこなう
・実際には、土地支配をそのまま無条件で認めることはなかった。旧藩主は知藩事という呼称になり、引き続き旧領の政治をおこなったが、これは天皇任命の官吏であり、知藩事と藩士の主従関係は否定し、世襲ではなく
した。地名をつけるときは○○藩知事という。
・知藩事は藩収入の10分の1を支給された。尾張藩の場合、62万5千石の石高であり、年貢収入はこの半分の30万石くらい。10分の1の家禄であれば3
万石。米1石の値段は、1石を2.5俵とすれば150kgで、10kgは3000円〜4000円なので5〜6万円となる。仮に5万円としても15億円の年
収となる。また、家臣には藩収入から家禄を支給された。
∴地方政治機構に変化なし(形式的中央集権)
・知藩事は表向きは天皇任命の役人だが、実際にはそれまでの統治システムを使って政治
をしている。地方政治は江戸時代と変わりがない。しかし、これでは新政府の言うことを地方に徹底させることは難しい。
B 廃
藩置県 1871
藩の廃止→府・県設置
全ての知藩事を免職→中央から府知事、県令を派遣
・廃藩
置県では全ての藩を廃止して、知藩事をクビにした。藩の替わ
りには県を置き、今までの府には府知事、県には県令を派遣することにした。単純に藩を県にしたため、3府302県となった。
・尾張は名古屋県と犬山県の2つで、三河は豊橋、岡崎、刈谷、西尾、田原、挙母の他、重原、半原、西大平、西端の県があった。後に合併して愛知県となって
ゆく。愛知の県名は愛知郡からとられている。熱田・鳴海間の海、年魚市潟が郡名の由来であり、「あゆち」は幸福を吹き寄せる南風のことである。いろいろな
ものが吹き寄せられた場所なのだろう。
→旧藩主=華族として東京移住、藩債肩代わり
・旧藩主は地方に住むことが許されず、東京の江戸屋敷への移住が義務づけられた。この
時、旧大名には華族の称号が与えられている。
Q2 どうして東京に集めたのか?
A2 お殿様は地方では最大の実力者である。これが地方政治に口出しすることを嫌ったものである。
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Q3 クビなのだから大名の抵抗は大きいはず。抵抗を封じ込めるにはどうすればよい
か。
A3 経済的・身分的な保証が必要である。家禄はそのままで藩債も肩代わり
することにした。
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Q4 幕末の大名は経済危機に陥っていた。どうしてか?
A4 戊辰戦争の戦費負担が大きかったのである。多くの大名が、火器を外債で購入している。肥後藩は年収の半分を武器購入に使っている。全借金が収入の4
倍弱もあり、借金で首が回らず、商人に台所預されている大名もいた。
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・小藩では自ら廃藩を願い出たところもあった。願い出た上州吉井藩は、旧藩主に元高の
10分の1を与えて東京在住を命じている。
・この他、世直し一揆が藩域を超えて勃発していたことも理由で
ある。1870年の松代藩一揆では、村方、町方が一斉蜂起し、年貢の金納、専売反対、不換紙幣廃止などを要求し、7万人が城に押し寄せて藩主と直接交渉し
て認めさせている。中央政府が介入して600人を逮捕したが、民衆蜂起を押さえる自信を失っていたのである。
cf)薩
長土の御親兵1万で抵抗に備える
・それでも、廃藩には大きな抵抗が予想された。事前に廃藩を知らせずに薩長土から御親兵を出させ、これを東京に集めている。
・薩長土は廃藩に反対するが、抵抗しなかった。島津久光が鹿児島県令を望んだのみである。
※中央集権体制の完成(大名勢力の
没落)
・中央集権が実現し、徴兵令、地租改正が可能になる。
[太政官制の改革]
政体書=非現実的
A 1869の改革
Q5 中央集権の政治をするためにはシンボルが必要である。実際には薩長土肥の実力者
が政治をするにしても、成り上がりの下級武士たちであれば権威がない。シンボルは誰か?
A5 天皇である。天皇の宗教的権威を利用して国を治めるこ
とが考えられた。
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・江戸時代には伊勢神宮の信仰が拡大していた。御蔭年などには爆発的に参拝者が訪れ、
「死に伊勢参り」の言葉もある。これは伊勢の御師が布教活動をしたためである。皇祖神は内宮であるが、江戸時代の信仰は農業神である外宮が中心だった。し
かし、同じ伊勢ということで一つになり、親しんできた伊勢=天皇という図式が
成り立っていった。
・民間では、天皇は豊作をもたらす生き神とされた。
神祇官重視 2官6省制
・二官六省制とし、政治をおこなう太政官と並んで神祇官を置いた。太政官の下には大蔵省、兵部省、外務
省、民部省、刑部省、宮内省がある。
・天皇を祭った神社を官幣社とし、国営の神社とした。伊勢神宮、熱田神宮などがこれに当たる。神祇官は官幣社に対して幣帛を供える官職である。地方官が祀
るものとして、一方では国幣社を設置した。
天皇
の神格化による民衆支配→神社の序列化、国家神道の推進
・天皇と民衆とを神社を使って結びつけようとした。これが国家神道である。
・国家神道の仕組みは、皇祖神の伊勢神宮を頂点としてピラミッド状に神社を
設定するものである。官幣社、国幣社の下に府社・県社・郷社・村社を置く。神宮は天皇を祭神としたもの。宮は皇族を祭神としたもの。神社は
その他の祭神を祭ったものである。後には明治天皇も明治神宮に祀られて神となる。
・新しい神社として、橿原神宮、湊川神社などが置かれた。湊川神社は南朝の功臣・楠木正成を祭っている。楠木は、後醍醐天皇が出陣を命じ、勝てないとわ
かっていながら湊川で奮戦して討ち死に。天皇のために忠誠を誓った者は死ね
ば神になるという天皇制強化の神社。
Q6 天皇のために忠誠を誓って死んだ者を祭る神社は他にはないか? 祭神は何か?
A6 靖国神社である。戦死者のうち、軍人・軍属が祭られている。
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ex)東京招魂社(1869)
・1869年に九段下に作られた東京招魂社は、戊辰戦争で天皇のために戦って死んだも
のを祀った。3500人。幕府軍の戦死者4700人は除外されている。あくまでも天皇のために戦った者が対象である。
→靖
国神社(1879)=天皇制国家の戦争で戦死した兵士を神として祀る
・1879年、靖国神社となり、270万柱を祀っている。日中戦争以後の戦死者が
230万人で圧倒的。一般市民の戦死者は祀られない。
・新祭神合祀の時は天皇が参拝して頭を下げていた。天皇が臣下を拝む唯一の
例であり、祀られることは最高の栄誉とされた。天皇制国家のために忠義を尽くして死ねば、靖国に祀られるということで戦死が美化されてい
た。捕虜になれば蔑まれるので戦死を選ぶことになる。
Q7 戦後になっても昭和天皇は参拝していたし、首相もよく行っていた。初めは中国も韓国も何も
言わなかった。しかし、1985年に中曽根康弘首相が8月15日に公式参拝をして外交問題となり、現在は小泉首相が参拝を続けていて外交問題化している。どうして韓国や中国は
反発するのか? 首相が参拝することについてはどう思うか? その理由は?
A7
・参拝推進者の主張=国のために死んだ人を讃えるのは当然、肉親が靖国に祀られることで心の平安を得られる遺族が多い。内政干渉だ。A級戦犯は一方的に東
京裁判で裁かれた者であり、被害者。死んだ者にムチを打つな。
・参拝反対者の主張=政教分離に抵触しないか、アジア諸国との摩擦が生じる、軍国主義賛美になるのではないか。
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「靖国問題」私の考え
・外交問題となる最大の理由はA級戦犯合祀である。
・靖国神社は、1978年(昭和53)にこっそりとA級戦犯を合祀した。A級戦犯は太平洋戦争を計画し、指導した者として処刑された東条英機(開戦時首相)、広田弘毅
(近衛内閣外相)、土肥原賢二(満州事変時の奉天特務機関長)、板垣征四郎(満州事変時の関東軍参謀)、木村兵太郎(東条内閣陸軍次官)、松井石根(日中
戦争時の中支方面最高指揮官)、武藤章(日米開戦時の陸軍省軍務局長)である。いずれも東京裁判で絞首刑となった。アジアの多くの人たちが死ぬことになる
戦争を計画して指導した者を祀り、それに対して首相が礼拝するのは、過去の戦争を正当化しているものと受け取られる。
・太平洋戦争での最大の被害国は中国である。国交が回復する際、日本に対して賠償金の請求が考えられていた。国家賠償がおこなわれれば、全世帯にテレビが
普及するという期待があった。
・しかし、1972年の日中共同声明では、「日本が戦争で中国国民に重大な損害を与えたことについて責任を痛感し、深く反省」する代わりに「中国は戦争賠
償の請求権を放棄」することとした。
・当時、中国はソ連と対立し、経済協力が欲しかった。日本国内では中国との国交回復に反対する勢力があり、賠償金を求めると国交回復が遅れると中国は心配
した。周恩来は、賠償請求放棄に当たり、「中国人は度量を見せるべきだ。悪いのは日本帝国主義であり、日本の人民もその犠牲者。帝国主義者はA級戦犯で処
分された」と説得した。各所の説明会では悔しくて涙があふれたという。
・首相が靖国に参拝することはA級戦犯を礼拝することであり、これを認めると話が違うとして中国と政府は国民から突き上げられる。中国にとって、靖国問題
は中国の内政問題でもある。
・戦争責任について、日本と外国とでは考え方に違いがある。ドイツから来た留学生が、「卍」のTシャツを着ていた子がいることで驚いていた。ドイツでは、
ナチス礼賛をすれば罪になる。ナチスは悪であったと認識。
・日本はA級戦犯を絶対悪とする風潮はない。確かに東京裁判はおかしいところがあった。広田弘毅などはスケープゴートである。本当は昭和天皇が戦争責任を
問われるところだったが、アメリカが占領政治をするために天皇を利用する必要があり、天皇をかばうために東条や広田を責任者に仕立てた部分がある。日本は
戦争の責任の所在を曖昧にせざるを得なかったのであり、靖国問題もその延長線上にある。
・どうして中国への戦争、太平洋戦争をしていったのか、誰がやろうといって計画したのか、避けられない戦争だったのか、一部の人が主張するように正義のた
めの戦争だったのか、やはり侵略戦争だったのか、いろいろなことを知識として知った上でないと靖国問題は判断できない。3月にもう一度聞いてみたい。
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皇室中心の祝祭日設定
・祝祭日は天皇を礼賛するために制定される。戦前は正月、紀元節、天長節、明治節が四
大節。
Q8 紀元節とはどういう日か? 現在はどういう祝日で残されているか? どうしてそ
の日なのか?
A8 紀元節は日本建国の日。2月11日である。紀元前660年正月に神武天皇が即位したという神話に因む。中国には辛酉革命説があり、60年に一度の辛
酉年
には変革があり、21回目の辛酉年には大変革があるとする。601年、推古天皇の時が辛酉であり、その1260年前を建国の時とした。これは旧暦なので太
陽暦に換算し、初めは1月29日としたが、間もなく2月11日に改定された。
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・この日本紀元に歴史的根拠はない。紀元節は1948年に廃止されたが、国家的な統合
のためにこの日は有用だとし、1960年代になると復活の動きが出てきた。自民党は、当初はこの日単独で祝日としようとしたが野党が反対して何度もつぶさ
れた。1966年、敬老の日、体育の日と抱き合わせで成立した。
Q9 現在の祝日は何か? そのうち、天皇制絡みはどれだけあると思うか?
A9 現在に残る天皇制絡みの祝日=1月1日(正月)、2月11日(建国記念の日)、3月21日(春分の日←春季皇霊祭)、4月29日(昭和の日←昭和
天皇
誕生日)、7月20日(海の日←明治天皇が東北巡行の帰りに船を利用して帰ってきた日)、9月23日(秋分の日←秋季皇霊祭)、11月3日(文化の日←明
治天皇誕生日)、11月23日(勤労感謝の日←新嘗祭)、12月23日(天皇誕生日)。
なお、1月15日、7月20日、9月15日、10月10日はハッピーマン
デーで日が動くようになる。
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日の丸
・もともと大名が使用していた旗だった。金輪、銀輪などで白地に赤ということではな
い。1854年、薩摩藩が外国船と区別するために使用し、1870年に国旗とした。皇祖神であり太陽神の天照大神と結びつける説明がされた。国民統合のシ
ンボルとして定着させるために祝日に強制的に揚げさせたが普及しない。
Q10 日の丸は後に一挙に定着した。どういう機会か?
Q10 国旗はナショナリズムの象徴である。他国と張り合ったときにナショナリズムが出てくる。今ならオリンピックやワールドカップだが、この時代は戦争
がそれにあたる。日露戦争の時に兵隊を送り出すのに盛んに使われて定着する。
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君が代
・古今集に掲載されている歌。君=「あなた」の意であり、謡曲、小歌、乞食の門付けに
まで歌われていた。宴会のお開きの時、もてなしてくれた人に謝意を表明する歌だった。
・軍隊の歌を作るとき、大山巌が好きだったために選ぶ。1869年、イギリス軍楽隊が曲をつけたがばた臭いもので受け入れられない。1880年、軍楽曲と
して作曲し直し。小学校の儀式用の唱歌の一つになる。日清戦争の頃から国歌の扱いを受け、君=「天皇」とされた。
・もともとは天皇とは関係のないものだが、後に天皇制にくっつけられた。植民地にも強制した。
・いずれも負の歴史を持つため、掲揚や斉唱に抵抗のある人は多いが、最近は明治政府のようにまた強制がされている。
・日の丸、君が代問題を象徴しているのは沖縄。米軍占領時代には、本土復帰を願う象徴として日の丸が盛んに振られた。本土に復帰すれば米軍基地もなくなる
と考えていた。しかし、本土復帰が実現しても基地はなくならない。この中で、日本に対しての失望感から日の丸は逆に拒否されるようになる。1985年の沖
縄県の学校の卒業式では、日の丸掲揚6%、君が代斉唱0だった。文部省が徹底的に指導をして1991年には100%になる。この間、抵抗する教職員や生徒たちを力で抑え込んだのである。
「日の丸と君が代」私の考え
・嫌なのを強制するということがよいのかどうかは考えさせられる。東京都では、卒業式に歌わなかった教員が処分された。東京都の教育委員の米長邦雄が、2004年秋の園遊会で天皇に「日本の学校で国旗を掲げ、国歌を歌わせるのが自分の仕事」と言ったところ、「強制はよくない」とたしなめられたのは有名なエピソードである。
・国として国旗や国歌というシンボルを持つ意味はあるだろうし、日の丸、君が代以外に今さら新しい国旗、国歌を作るのは難しいに違いない。国民投票をしてみても、結局は日の丸、君が代が国旗、国歌になるだろう。
・そうであるならば、国威発揚に利用された負の歴史を確認
し、朝鮮や台湾などには掲揚や斉唱を拒否して迫害された多くの人がいることを知った上で、政治権力に利用されないように用いることが大切なんだと思う。
そういうことをしないで一方的に押し付ける体質が問題なのであり、それでは反発を招くだけである。強制がおこなわれるとすれば、日の丸、君が代に反対する声はなくならないだろう。
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cf)神
仏分離令→廃仏毀釈運動
・日本人は神と仏を一緒のものととらえてきた。神仏習合という。平安時代には本地垂迹説が登場し、神は衆生を救うた
め、仏が姿を変えたものと説明された。天照大神は、大日如来が姿を変えたという。
・神仏習合の存在として、天王や権現も登場する。神社内には神宮寺が建てられ、多くの場合は神宮寺の僧侶が神社を支配した。僧侶の方が神主よりも上だった
のである。
Q11 神仏習合が残っていると、天皇を神格化して政治に利用とする場合、どんな不都
合があるのか?
A11 生き神である天皇が仏よりも下になってしまう。
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・1868年3月、神仏分離令を出し、神宮寺の廃止、天王・権現号の一元化が求められた。
津島牛頭天王は津島神社になる。秋葉大権現は秋葉神社と秋葉寺になる。
・神社内の仏像も捨てられることになった。これが拡大して廃仏毀釈を
招く。神仏分離に関係ない仏像や寺も壊された。江戸時代、僧に抑えられていた神官が先導し、民衆も役所の出先として機能していた寺に反発があった。
・この時期に大量の文化財が外国に流出している。興福寺五重塔は250円で払い下げられた。金具をとるために焼かれるところを周辺住民の反対で残る。
・苗木藩では領内の寺を全て壊し、寺領を取り上げる。葬式は仏式でできなくなり、神葬祭が導入される。愛知県では豊橋近辺に多い。平田派国学を信奉する神
主がおり、豪農たちに影響力を持っていたため。
B 1871の改革
三院制(正・右・左)→正院への行政権集中
・廃藩置県に合わせて改革がされる。神祇官は省に格下げになった。
・太政官を3つに分け、正院が行政を統括する。大臣と参議(←参与)で構成され、議定はなくなった。右院は各省の長官会議である。左院は法律を作る際の諮
問機関とされた。
=明
治政府の基礎完成
※薩長土肥の下級武士実力者が要職独占(藩閥均衡政府)
・藩閥
均衡政府と言われる。参議は薩長土肥で1人ずつ。左院副議長・右院の卿と大輔は薩長土肥から2人ずつ出された。大名勢力は姿を消している。
数人の公家の他は津和野藩から1人が参画するのみで、これは神祇大輔であり影響力はなかった。
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