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<不平等条約と開国の影響>
#1
[対欧米貿易の開始]
#2
A 日米修好通商条約 1858
#3
B 貿易の開始 1859
#4
[開国の影響]
#5
A マニュファクチュアの進展
#6
B 物価の高騰(10倍)
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<不平等条約と開国の影響>
[対欧米貿易の開始]
A 日米修好通商条約
1858
神奈川、箱館、新潟、兵庫、長崎の開港
・通商条約で開港されたのは当初は3港。神奈川、箱館、長崎が1859年に開港。神奈川は下田の替わりなので、
この3港は和親条約の段階ですでに開かれている。
・新たな開港地として新潟が1860年、兵庫が1863年に開港される予定。しかし、兵庫は天皇の反対で開けず、実際には1868年まで開港がずれこんでい
る。新潟は信濃川河口の場所であり、砂が流れ込んでくるために港として不適。1869年になってから開かれている。いずれも明治になってから。
商人の自由貿易の許可、居留地
・幕府は貿易統制のために会所貿易を提案したが一蹴された。商人同士に自由に貿易をさ
せることになった。
・日本人と外国人の接触を避けることを考え、居留地を設定して隔離することにした。これは出島と同じ発想。
Q1 居留地は外国人にとってどういう土地になると思うか?
A1 列強は実力で居留地を拡大してゆくだろう。そうなると、日本の中に外国の領土ができるようなことになる。横浜では、欧米人は高台を占拠して都市整備
をし
ていった。警察権を握り、自治をおこない、治外法権の規定もあったために事実上の外国領土である。清の場合、「中国人と犬は立入禁止」という立て札が立て
られたりして、外国人に土地を取られたようなものだった。
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→不平等条文
関税自主権がない(協定関税)
Q2 関税とは何か? 自由にかけられないことのデメリットは何なのか?
A2 国内産業を保護するため、外国の安い製品に対して関税をかける。自由にかけられないということであれば、国内産業が打撃を受ける。日本の関税は約20%までかけられた。清は
5%までだったので、それよりはましだったとされる。
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治外
法権(領事裁判権)認める
Q3 治外法権とは何か? これを認めたデメリットは何か?
A3 外国人の犯罪を日本人が裁けず、外国人の手に裁判を委ねるものである。身
びいきとなって寛刑になる恐れがある。治外法権を認めたのは、外国人の裁判を日本がやらないのでよいので楽と考えていたからである。これで
どういう問題が生じるのかが思い浮かばなかった。
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cf)蘭、露、英、仏とも同じ条約締結(安政の五カ国条約)
※日本の半植民地化の恐れ
・半植民地化の危機は様々なところで生じていた。ロシアは、1861年、勝手に対馬に
軍港を建設しようとして上陸している。これに対し、宗氏や幕府は何にもできなかった。土地の人たちが建設を阻止し、イギリスもロシアの力が伸びることを
嫌って圧力をかけたため、ロシアは退去している。
B 貿易の開始 1859
横浜(神奈川)での対英貿易中心
・神奈川は東海道の宿場のため、幕府は開港地として避け、代わりに隣の横浜村を開いた。当時は100戸の寒村で、川と周囲に掘った堀の中に外
国人を閉じこめる計画。
・神奈川とは違う場所だといって、ハリスは条約違反だと抗議してきた。このため、ハリスは神奈川に領事館を置いている。しかし、神奈川は遠浅で港として不
適であり、磯の横浜の方が港として栄えていった。
Q4 貿易相手国を見てゆくと、1位はイギリスであり、2位フランスとなっている。日
本を開国させたアメリカが貿易額第3位なのはなぜか?
A4 日本を開国させたアメリカは、南北戦争が勃発して貿易どころではなかった。
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輸入・・・毛・綿織物、武器、艦船
輸出・・・生糸、茶、蚕卵紙
・輸入品はイギリスなどの産業革命で作られた毛織物、綿織物が主であった。
・輸出の主力は生糸。当時、ヨーロッパの生糸産地である仏伊
で蚕の病気が発生し、ほとんど全滅状態になっていた。このため、生糸の供給地としてアジアに目をつけたが、中国産生糸は質が悪く、日本に強く依存すること
になった。
・蚕卵紙は種紙ともいい、蚕の卵が生み付けられている。蚕は
成虫になっても飛ぶことができず、人間の手で雄、雌を枠の中に入れて交尾をさせる。雌が産んだ卵が紙にくっついたものが蚕卵紙。これに温度をかけること
で、ケゴと呼ばれる幼虫が孵る。これを輸入して全滅した蚕を補うつもり。
・幕末貿易では当初は輸出が多かった。日本は儲かっていたの
である。それだけ生糸輸出が好調だった。輸出入が逆転するのは1866年か
らで、それは改税約書を取り交わし、関税率を5%まで引き下げたのと関係がある。
・貿易のトラブルは多かった。言葉が通じず持ち逃げされて訴えても、治外法権でラチがあかなかった。
[開国の影響]
A マニュファクチュアの進
展
・手工業は農村家内工業→問屋制家内工業→工場制手工業と発展し、次に工場制機械工業
へと進歩してゆく。日本では、江戸時代後期にはマニュファクチュアの段階ま
で進展していた。
Q5 マニュファクチュアのメリットは何か?
A5 たくさんの労働者を一つの工場に集めているため、マニュファクチュアは分
業による生産ができる。分業は生産効率を高めることになる。
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・工場内での分業と並び、材料調達に当たっても分業が成立していることが大切である。
尾張中島郡は、綿織物のマニュファクチュアを成立させていた地帯であったが、ここでは岩倉、一宮、尾西で役割分担をしている。
・綿織物の原料である木棉栽培は、島畑地帯の岩倉あたりでおこなわれていた。島畑は大河川流域に展開している地形で、川の氾濫で土砂が流れ込んでくるた
め、田の中に島状に畑が形成された。畑に肥料を与えると、これが田に入って土地が肥えてゆき、生産効率がよかった。
・岩倉の木棉は一宮の三八市に売りに出された。これを買って手紡ぎで糸にする農家が一宮あたりにはたくさんいて、また市に出していた。これを尾西方面の村
が買い、マニュファクチュアで生産した。繊維産業は、糸が切れると困るため、河川流域の湿潤なところが産地となる。
・尾西の中心の起では、当時は5軒に1軒は織り屋であり、10台の織機を入れて10人くらいの織り子を雇っていた。織り屋の中では、染色、経糸を織り機に
掛ける整経、横糸を糸車に巻く仕事、織る仕事というように分業されていた。
・マニュファクチュアの段階まで生産形態が進んでいれば、資本主義経済に転
化するのは容易。工場、労働者は揃っているため、機械を導入するだけでよい。機械導入で大生産に移行する直前の形であると言える。
・この時期、インドは植民地となり、中国は半植民地となった。日本が平気だったのはそのためだという説がある。
ex)北関東、甲信の製糸業の発展
・輸出生糸は国内向けの8割増しで売れた。このため、生糸生産が飛躍的に伸びることになった。山野や本田畑にまで桑を植える
ようになり、貿易が始まると、繭の生産量はそれまでの5倍となった。
・生糸マニュファクチュアも進展した。甲州の若尾逸平は工女
70人を雇い、水車動力の器械を数10台入れて器械製糸を始めている。岡谷でもこのような座繰製糸の工場が栄えていた。
cf)尾張の綿織物業の衰退→輸入綿糸利用で再生(明治期)
・製糸業が伸びたのに対し、綿織物業は打撃を受けた。機械生産の安価な綿織物が大量に入ったからで
ある。尾張の綿織物も売れなくなり、一時期は完全に衰退してしまった。
・しかし、綿織物業はマニュファクチュアまで進んでいたため、ちょっとしたきっかけで立ち直ることができる。国内木棉を紡績して糸にして生産していたので
は太刀打ちできないが、輸入綿糸は安価であったため、それを使えば輸入綿織物に価格面で対抗可能。一度は衰退した綿織物業も、明治の早い時期には回復している。
在郷商人の活動→横浜との直接取引
・江戸時代の商人は、都市に住んでいる問屋商人と地方の在郷商人に
分かれていた。都市で品物を売るのは問屋商人だけの特権であり、在郷商人は問屋商人に買いたたかれて江戸・大坂で転売していた。今回、貿易がおこなわれる
横浜は、問屋商人も在郷商人も自由に売買ができた。生糸を生産するのは地方の農民であり、これを糸にして買い集めた地方の在郷商人は、江戸に送るよりも儲
かるため、横浜で直接取引をするようになった。
Q6 幕府は商人を問屋商人と在郷商人に分け、問屋商人だけが都市で販売できるとし
た。この形態をとった理由は何か?
A6 幕府は商業を統制したかったのである。問屋商人は株仲間を結成し、これに入らないと商売ができなかった。
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Q7 どうして商業統制を図ったのか?
A7 幕府にとっては、国中で商業が盛んになってしまうと困ったことになる。経済を農業主体の段階にとどめおきたかったからである。
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Q8 どうして農業主体の経済段階にしておきたかったのか?
A8 封建社会は土地を仲立ちとした主従関係を柱にしている。土地は農業生産のための生産手段として重要であり、その土地を与えることで主従関係ができて
い
る。農業が廃れて土地に価値がなくなれば、家臣は土地をもらっても主君に仕えなくなってゆく。農民に貧富の差が生じ、その中から地主や在郷商人が出現して
商業に従事したりすると、幕府としては困るのである。
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・貿易が始まると諏訪の生糸価格は暴騰した。1858年は
100斤で89両だったが、1859年になると国内で145両、横浜では254両となった。横浜に直送すれば大儲けであるため、高崎-八王子-横浜間が生
糸搬送の「絹の道」として栄えた。
Q9 在郷商人による横浜直送はどのような弊害をもたらすか?
A9 株仲間(幕府の統制)を通さないため、幕藩制的流通機構は崩壊する。都市に品物が供給されなくなり、品不足から物価は上がる。
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but大幅な輸出超過により国内での品不足生じる
・西陣や桐生では原料生糸がなくなってしまった。西陣では1500人の織り屋が死活問
題として生糸輸出禁止を幕府に訴えている。
∴五
品江戸廻送令 1860
生糸、水油、雑穀、ろう、呉服は江戸経由で横浜回送
・幕府は生
糸、水油、雑穀、ろう、呉服の横浜直送を禁じ、江戸で販売した残りを廻すように命令した。これは一時的には効果があり、価格は下がった。し
かし、すぐに元に戻ってしまっている。
B 物価の高騰
・貿易の開始は物価の急騰をもたらした。1859年から1866年にかけての物価の伸
びは、米価換算で10倍である。生糸一包みは200$から800$へと4倍。蚕卵紙は1枚銀2枚が30~40枚となり、20倍になっている。
無計画な輸出
・この原因の一つは、国内需要を満たすことなく、儲かるのでどんどん輸出してしまった
ためである。
金貨の流出
・もう一つの理由は金貨の流出である。
cf)金
銀比価の相違(日本=1:5、外国=1:15)
・金貨流出の原因は、外国に比べ、日本は銀に対しての金の価値が低かったからである。銀は新大陸で銀山が
発見されたことにより、大量にヨーロッパに流入し、価値が暴落していた。
・幕末の段階で、アジアではメキシコ銀が基軸通貨となっていた。外国人は銀を持ってきて生糸を買ってゆく。この時、同質同量の日本の銀に替えることにな
る。1$=3分。これで生糸を買うよりも、金を買って(銀と金を交換して)外国に持ちだした方が利益が大きかった。100$は300分の銀と交換でき、こ
れを金と替えると75両になる。この金貨を外国に持ち出せば300$の銀と交換できた。幕末には、一説に50万両、300億円分の金貨が流出している。
Q10 金貨の流出をくい止めるにはどうしたらよいのか? その政策を実行するとどの
ような現象が生じるのか?
A10 改悪して、1$銀と交換できる金貨の大きさを小さくするしかない。
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∴貨幣改悪で抑止(万延小判)→インフレ
・金貨は今
までの3分の1の大きさの万延小判になった。しかし、ものを売る方にしてみれば、万延小判で1両だと言われても納得できない。大きさが3分
の1なので3両でないと売らないということになり、物価が上がる。
Q10 インフレになって困るのは誰か? その連中はどのような行動をとると思うか?
A10 物価が高くなることで困るのは都市で消費生活をしている連中である。下層町人は打ちこわしをおこない、武士は外国人のせいで物価
が高くなったとして、外国人を襲撃して日本から追い出そうという攘夷運動が
おこなわれる。
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※武
士・町人の生活圧迫
一揆・打ちこわしの激化
開国反対=攘夷運動(ヒュースケン暗殺、東禅寺事件)、幕
府批判
・攘夷運動は激化していた。1859年7月夜、食料買い出しのロシア人水夫が横浜で襲
われた。2人が日本刀でばっさりやられて死に、1名が負傷した。オールコックの記録によれば「現場は血の池である。肉のかたまりが残るだけ。手足は身体か
らぶら下がっている状況。切りさいなむことで恨みを晴らしたものだろう」と記され、恨みが募っていたことがわかる。
・その後、イタリア人の商人、オランダ人の船長が殺された。いずれも犯人はわからなかったが、そのたびに賠償要求が出され、幕府は窮地に立たされた。
・1860年12月、ハリスの通訳のヒュースケンが暗殺され
ている。また、1861年5月には、水戸浪士10数人がイギリス公使館となっていた東禅寺を襲撃し、200人の警備兵と斬り合いをしている。1862年
12月には、品川御殿山に建設途中のイギリス公使館が焼打ちされる事件も起きている。この時の犯人は久坂玄瑞、品川弥二郎であり、江戸市民の行楽地がイギ
リス人にとられたことへの反発だった。
=開
国による幕府滅亡の促進
・貿易の開始は、幕府の滅亡を促進することに
なった。封建経済の国がいきなり自由貿易をするとどうなるかの見本である。貿易開始から幕府滅亡までは10年もかかっていない。
cf)兵庫開港の遅れ→改税約書(1866)=日本の市場化の進行(関税5%)
・最初は儲かっていた外国との貿易も、1866年を境に赤字になってゆく。兵庫の開港
が遅れた代償として、列強は改税約書を押し付けてくる。また、攘夷運動が下火にならないのは、天皇が通商条約の勅許を出さなかったからだとして、兵庫に軍
艦9隻を並べて圧力をかける。これで条約勅許が出されることになった。
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