12 幕藩体制の確立
<江戸幕府成立と幕府権力の強化>

[江戸幕 府の成立]
  徳川家康=三河の小大名出身、

家康 は三河松平郷の国人出身で、もともとは松平姓を名乗っていた。官位をもらうためには由緒ある家柄である必要がある。1566年、源氏の一族 である新田の傍流の得川氏の血を引くと主張して系図を作る。これで徳川を名乗った。
・確実なのは家康の6代前の親元の代からで、応仁の乱の時期に松平郷から平野に打って出たらしい。毛利氏と同じような成り上がり者の戦国大名。秀吉とは 違って譜代の家臣がいた点で強い
・尾張の織田と遠江の今川の間で苦労する。1547年、織田信秀が岡崎の松平広忠を攻撃した時、広忠は今川に援軍を求める。今川は、代償として長男の竹千 代を人質によこすように要求した。この時は6歳。途中で誘拐されて信秀のところに送られ、信秀は広忠に対して今川に背くよう要求した。広忠は「殺すなら殺 せ。隣国の信を失いたくない」と言ったため、信秀は感心して万松寺で育てる。
・信秀の長男・信広の守る安祥城が今川氏に攻められて人質にされたため、竹千代と捕虜交換した。竹千代は今度は今川に人質に出される。
・愛情不足で爪咬みの癖。

Q1 家康の残した金言は何か?。

A1 「人の一生は重荷を背負って遠い道を行くがごとし」。これを地で行く人生で、焦らずに時機を待った。

  小田原攻略後、関東で勢力拡大

・信長との同盟で台頭し、駿河・遠江・甲斐を領地として手塩にかけていた。小田原征伐後、秀吉の命で北条氏の領地である関東に移封される。江戸は まったくの荒れ地だったため、家臣は関東移封に反対。家康は開発次第だからと説得して移った。
・江戸城は太田道潅が作るが石垣もなく、江戸湾が入り込んで水浸しになるような湿地帯。沼を埋めて都市計画を実施し、石高250万石の大大名になる。
・秀吉に叩かれないように平身低頭して目くらまし。舞の名手の織田信雄とわざと並んで舞って笑いを誘ったりする。秀吉は「信雄は風流人だが国は治められな い。家康は不調法だがよく国を治める」と警戒。信雄は北条滅亡後、駿河に国替えを命じられてだだをこねて罰せられており、進んで関東に行った家康と対照 的。
・「三河者は普請下手」と言われていたが、秀吉は「上手だ」といって誉める。喜んだ家臣を家康は叱って「下手にしておけばよい」。

Q2 どうして下手でよいのか?

A2 下手なら普請の仕事から免れられる。

 1 家 康の覇権

・秀吉はたくさんの妻を持ったにもかかわらず、子供ができない。柴田勝家の死後、市の 娘の淀をもらう。53歳で長男出生。年をとってからの子なので「捨」と命名し、成長して鶴松となる。朝鮮使を引見したときには鶴松を抱き、オシッコを漏ら されても笑っていたという。
・鶴松は3歳で死んだため、1591年、秀吉は姉の子の秀次を養子に取って跡取りとした。関白就任し、聚楽第を与える。
・1593年、次男の「拾」が生まれる。これが後の秀頼にな る。秀吉は56歳。淀の腹からばかり生まれるため、大野治長の子ではないかという説もある。
・秀頼が生まれると秀次が邪魔になる。秀次は「殺生関白」とあだ名され、盲人の腕を切り落としたり、正親町天皇の喪中に狩りをしたり、妊婦の腹を割いて胎 児を見たりという話がある。
・1595年、秀吉は秀次に謀反の疑いありとして高野山に入っての切腹を命 じ、30人の妻子は三条河原にさらした首の前で打ち首にした。
・切腹は室町時代からおこなわれるようになったもの。内臓を出すことで二心のないことを示すのが本当。へその上を切ると痛みで失神するので下を切る。20 センチ切るのに20〜30秒かかる。鈍痛がするのを左から右に切り、最後をあげる。中から腸がはみ出してくるので、それを示すのが礼儀。意気あるものは十 文字腹といい、横を切った後で胃のあたりから縦に切る。
・痛いので介錯が必要。江戸時代には、切るかどうかの時に介錯してやるようになった。首を刎ねる。
・秀次の介錯は家臣の篠部淡路守。一回目は空振り、ちゃんと切れといわれて二回目は肩に食い込む。三回目で成功させ、恥じて自害。
・秀頼がとにかく心配。信長の子供や孫をいいように利用して権力を手にしてきた。自分の死後はそうされるという思いがあった。
・1598年4月、醍醐の花見。700本の桜を植え、厳重な 警戒の中で家族だけで花見を楽しむが、これが最後の楽しみとなった。

     秀吉の死

・6月、病気となって死を悟る。大名に対して秀頼への忠誠を誓わせ、8月5日に五大老 を集めて遺書「名残惜しく候・・・秀頼こと頼み申し候」。8月18日、秀吉 は死ぬ。「露と落ち、露と消えにし我が身かな、浪花のことも夢のまた夢」。最後はただの寂しい老人として死んでいる。
・秀吉の死後、秀吉子飼いの文治派と秀吉の幼なじみの武断派の間で対立が発 生する。

     →文治派(石田三成、小西行長)、

・文治派の小西行長は堺の商人出身。石田三成は茶坊主出身。狩りの途中で寄った秀吉に茶を点てたとき、一杯 目はぬるく、次に熱くして出したのが気に入られた。検地などの事務に長ける。

      武断派(加藤清正、福島正則)の対立

・武断派は武功で名を成してきた実力者である。
・しかし、戦時は武断派が勢力を持つが、戦がなくなれば用はない。検地など の事務仕事のうまいものが重宝される。武功のない成り上がり者の文治派と対立。文治派は独立性の強い武断派を押さえて官僚制を布こうとす る。
秀吉が生きている間は対立は避けられていた。死後、激しくなる。

       ∴武断派と結び、文治派打倒図る

・文治派の権威の源泉は秀吉だった。その秀吉の死で、文治派にとって最大の厄介者は家 康となる。家康vs三成だが、宿老の前田利家がいる間は表面化しなかった。利家が死ぬと武断派は三成暗殺を企てる。三成はこの時、あえて最 大のライバル の、家康のところに逃げ込むしたたかさ。
・秀吉死後、有力大名は国元に帰る。上杉景勝に謀反の疑いありとして家康は挙兵。江戸に入る。
・家康がいなくなったため、三成は西国大名を結集し、家康打倒を呼びかける。 家康が秀頼を見捨てたことを糾弾。毛利輝元は担ぎ出され、宇喜多秀家と連名で諸大名に家康打倒を呼びかける。

  =関ヶ 原の戦い(1600)で勝利

・三成のもとに集まった大名は戦意が低い。朝鮮出兵で金を使い、会津遠征の時にはそれ が嫌で西国警備を願い出たような連中が、三成に従わないとやられるかも知れないと考えた輩。
・吉川広家は、毛利輝元は今度のことはあずかり知らないで出陣しているとして家康に理解を求め、寝返ることを約束。
・家康は清洲に入り、西軍は大垣城に入る。東軍は大垣城攻略をすると見せて西に行く。大坂に入られることを恐れた西軍は先回りして関ヶ原に陣を敷く。東軍は桃配山。その背後の南宮山には毛利の本隊が布 陣。
・9月15日、早朝から開戦。西軍の主力は毛利の軍勢のはずであったが、吉 川広家と小早川秀秋が家康と内通。吉川は毛利本隊の前で動かず、小早川は後に寝返る。
・初めは膠着。小早川はなかなか寝返らず、家康は挟み撃ちを心配。昼頃、小早川の陣に鉄砲を撃つ。小早川は決断して大谷吉継の陣を襲う。これで三成の西軍は総崩れ
・三成は伊吹山中に逃げて大坂城に戻って再起を考える。捕まって斬首。死の直前まで再起を願う。刎ねられる寸前にのどが渇いて湯を望むがないため、干し柿 をすすめられる。柿は体に悪いといって拒否。「今首を刎ねられるのに体の用心をするのはおかしい」「大義を思う者は死の瞬間まで本位を達しようとするの だ」。

    政治主導権握る

・家康は毛利の領地はそのままと誓約書を出したが、陰謀に加担したので取りつぶし、そ の領国の2つを吉川に与えると言う。吉川は驚いて毛利の名跡を残してくれと懇願。毛利は防長2カ国36万石に削減。6カ国83万石を失う。
・上杉も90万石没収。西軍側合計640万石が奪われる。
・豊臣氏は削減されないはずが、200万石から摂津、河内、和泉の65万石になる。他の大名に領地を預けて支配させていたため、その大名がつぶれたことで 土地もなくなってしまった。
味方になった大名に対し、所領を増やしてやりながら遠隔地にとばす大規模 な国替えをおこなう。江戸から京都までの間には譜代以外の勢力は置かないようにした。
・自由に国替えをして従わせる実力を持つことは、中央権力者として位置づけ られたことを示す。

  →征 夷大将軍となり江戸幕府開設(1603)

・1603年1月、家康は征夷大将軍に就任する。源氏の系図を持つので可能。朝廷政治の代 行者である関白とは違い、将軍は独自のスタンスで政治ができる。江戸に本拠を置いたのは、鎌倉政権と同じで独自の武家政権としようしたため。
・1605年には将軍職を三男の秀忠に譲る。家康の長男の信 康は死に、次男の秀康は豊臣氏の人質として秀吉の養子になっていた。将軍職 は徳川家が世襲することを示しておく。自分は大御所として政治をおこなう。
・実力者と名目上の権威者がいる二元政治は怖い。秀忠は律儀者であるため、自分を押しのけることはないと判断した。関ヶ原の戦いの時、真田幸村の上田城攻 めにこだわって遅刻するほど。
・秀頼に対しては、それまでは臣下として振る舞っていたが、秀忠が将軍となると、新将軍に挨拶に来いと命令。秀頼は拒否。

 2 豊 臣氏の滅亡
    反幕府勢力の拠点をつぶす必要

・家康は秀頼を屈服させて完全な臣下にすることを考える。豊臣方は行く末を案じて寺社 造営に資金を投入する。家康もそれを勧めて金を使わせてゆく。
・仮に幕府を倒そうという勢力が現れた場合、豊臣氏はその結集のシンボルと して機能する。つぶしておいた方がよい。

      cf)方広寺鐘銘事件

・方広寺は1589年、秀吉が作る。刀狩りで集めた刀を材料として釘鎹にし、本尊は 18メートルの木の大仏。1596年、地震で倒壊。家康は秀吉の追善供養のために再建を勧める。本堂は52メートル、金堂の大仏を作る。
・1614年、方広寺は完成。落慶法要に対して家康が難癖をつけた。法要の日取りの縁起が悪いと言ってきたほか、鐘銘に家康を呪う文句があるとした。これ は林羅山が家康のご機嫌取りのために漢文をねじ曲げて読んだもの。「国家安康、君臣豊楽」が「家康」の二字を分断し、豊臣を主君として立てる意味だとし た。方広寺鐘名事件という。
・秀吉恩顧の大名で、秀頼の肩を持つ加藤清正は1611年、浅野幸長は1613年に死んでいる。豊臣方に残った人材は片桐且元くらい。家康の攻撃を避け、 ある程度は臣従しても豊臣の名跡を残したいということで動く。一方、大野治長、淀君たちが強硬派として存在し、豊臣が主君であると主張
・鐘銘事件の後始末で片桐且元が駿府にゆくが家康は会わない。淀君は大蔵卿局を同時に派遣するが、これには家康は面会し、秀頼のことは咎めないと言われ る。
・大坂に戻った且元は、事態収拾の自分の腹案を家康の案として提示。(1)大坂城明け渡し、(2)秀頼が江戸に詰める、(3)淀君が江戸に詰める。このど れかを選べ。 遅れて到着した大蔵卿局は、家康はそのようなことは言っていないとして、且元を家康の回し者として糾弾した。且元はクビとなり、調整役がいなくなる。
・大坂方は抵抗を決め、島津に「正宗」の脇差を添えて援助を頼む。島津は「関ヶ原の時には訳も分からず西軍に味方して家康から叱られた。それを家康は許し てくれたので、いまさら背けない」。福島正則に援軍を頼むと使者に会いもせず「心をあらためて淀君が江戸か駿河に行けば豊臣は守られる。自滅するかどうか 選ぶように」。
・長宗我部元親や真田幸村など、関ヶ原の戦いで浪人になった大名が味方に なったのみ。その数は10万人。

   =大 坂冬の陣(1614)、

・1614年10月、家康が出陣。74歳であるが「海道一の弓取り」であり、三方ヶ原 の戦い以外には負けなし。戦争が好きで、それまで気分がすぐれなかったのも治ってしまう。
・家康は大坂城を包囲するとすぐに講和の交渉をしながら攻撃。大砲で天守閣を撃つ。命中して淀君が驚き、講和交渉が進展。浪人たちは反対するが決着をつ け、本丸のみを残して二の丸、三の丸を取り壊すことになる。堀については取り決めなしで、大坂方は外堀だけを埋めるものと解釈していたが、家康は内堀も埋 めるつもりで実行。

    大 坂夏の陣(1615)で滅ぼす

浪人 は大坂城から退去せず、家康は大坂城明け渡しか浪人追放を迫る。どちらも豊臣方にとっては困難。
・1615年4月、家康は出陣。大坂城は籠城ができず、5月6日、7日の決戦は市街戦。大坂方は2万が戦死して大坂城も落城。真田幸村は奮戦し、家康本陣 を突いて旗本を蹴散らして「真田日本一之兵」と称せられるが、多勢に無勢。
・秀頼の妻は家康の孫の千姫。救い出せば嫁にやると言われ、坂崎出羽守が救出。醜男なので千姫が嫌い、別の男に縁付いたという話が伝わる。出羽守は嫁入り 行列を襲って横取りしようとして失敗。自殺したとされる。実際には大野治長が逃げさせ、引替に秀頼親子の助命を願ったもの。家康は拒否したため、豊臣方は 自害。秀頼は23歳。淀君は49歳。8歳の秀頼の子・国松も首を斬られる。大坂方の落人はことごとく斬られ、京都から伏見にかけて18段のさらし首の場を 作り、1段に1000人ずつさらしたという。これで豊臣氏は滅亡した

※敵対勢力消滅(元和偃武)、畿内先 進地の直轄地化

[幕府権力の強化]
A 大名統制
   大名=将軍から1万石以上の領地を与えられたもの(奉 公の義務)

・時代によって動くが、おおむね270家あった。

     親藩=徳川氏一門 ex)御三家(尾張、紀伊、水戸)

・徳川御三家は9男義直が尾張62万石、10男頼宣が紀伊55万石、11男頼房が水戸 28万石。

Q3 年が下の者を大名にした理由は?

A3 年が下の方の者を御三家にしてゆくのは秀忠に背かないだろうと考えたため。4〜6男は大名になるが改易されている。他に松平の親戚筋も入る。全部で 23家。

     譜代=関ヶ原の戦いより前からの家臣、幕政参与(5万石以下多い  ex)井伊氏)

・徳川氏の家来が大名になったものなので領地は少ない。145家のうち94家が5万石 以下。

     外様=  〃   以後の家臣(大藩多い ex)前田、島津氏)

・外様は20万石以上が14ある。家康と天下を争った者たちなので領地は広い。譜代は 2、親藩は6である。

 1 改易(取りつぶし)、減封、転封(国替)

・17世紀半ば以降はほとんどない。初期のうちは徹底してつぶしている。関ヶ原の戦いで91家、600万石 を没収。跡継なしで57家、400万石。養子については幕府は制限を加えていた。武家諸法度違反で62家、600万石。
・改易のたびに徳川直轄地を徐々に増やし、最終的には400万石にした。

     外様=遠隔地(東北、九州)
     親藩・譜代=要地(関東・畿内・東海)

力が 強く、服属度合いが低い外様大名は遠隔地に配置し、親藩と譜代を要地に置いて外様の侵攻を防ぐことにした。日本中の土地を支配するのは将軍 であり、それを家臣に与えて統治させる。どこに配置するかという国替は将軍の権利である。
・家康の次男の結城秀康の子・忠直は無軌道であったとされ、豊後に流される。その子は領地福井を取られて越後高田に転封。大給松平氏は126年間に10回 転封している。
・佐竹氏は常陸の大名。関ヶ原では軍隊を出さなかったが秀吉と仲が良く、東から家康を牽制した。このため、54万石が20万石に減らされて秋田に移され る。このとき、領内の美人を秋田に連れ去ったという話があり、水戸は不美人が残り、秋田は秋田美人であふれたとか。

      cf)福島正則の改易

・外様の有力大名はねらわれて改易されている。福島正則は広島城が大水に遭い、修理したいと幕府の役人に届け出た。こ れが将軍に伝えられていなかった。武家諸法度違反で広島49万石から信州川中島5万石に転封。正則の死後、検視をしないで勝手に火葬にしたとして3000 石だけ残して没収。幕府の策略にかかったもの。

 2 一国一城令(1615)
 3 武家諸法度(1615)
    大名の守るべき事柄示す(起草=金地院崇伝)

・秀吉などが出した従来の定めは諸大名に誓約させたもの。1615年に出した武家諸法度は金地院崇伝が起草し、一方的に大名を集めて読み聞かせたも ので、逆らうことはできないものとされていた。
・軍役については1616年に示され、おおむね100石について2人。それまでは3人だった。土木工事なども軍役として課されていた。

     ex)居城修築制限、自由通婚禁止
     →以後、将軍が替わるごとに修正

 4 参勤交代制(家光の法度〜)1635
    妻子を江戸に置き、1年ごとに江戸と国元の往復義務づけ

参勤 交代は1635年の家光の寛永令から盛り込まれる。
・加賀前田利長が母を江戸に人質に出し、参勤したことが始め。1635年に制度化される。外様は東西に分けて4月交替、譜代は6月か8月に 交替。関東は半年交替で2月と8月に替わった。

     =交通費、江戸生活費の多大な出費で経済力失わせる

・人数は石高に応じて規定。加賀藩では2500人。軍装なので雨具、非常食、漬け物 桶、風呂桶、便器なども持ってゆく。

Q4 軍装であったというから、参勤交代がどういう性格のものなのか?

A4 参勤は江戸の警固という色彩を持っていたのであり、鎌倉番役などと同じような奉公の義務である。

・鍋島藩では、公費のうち20%が参勤費用。今も昔も旅費はかさむ。九州からだと1カ 月くらいの日数が必要。江戸藩邸費用は28%。

B 朝廷統制
Q5 朝廷に対しては何を警戒するのか?

A5 大名が謀反を起こすとき、大義名分を与えると困る。

   禁 中並公家諸法度(1615)=天皇の政治活動抑圧

禁中 並公家諸法度も崇伝起草。武家諸法度を出した直後に出す。宮廷生活の細かいことを定めて叙位任官は幕府の許可を得ることとした。改元も幕府 の発案で朝廷がおこなう。天皇の政治的活動を制限し、大名勢力が天皇の権威 を利用することを防いだものである。

    (cf)紫衣事件)

・秀忠の娘の和子を後水尾天皇に嫁がせて牽制。しかし、諸法度が出た後も上人号や紫衣が許可されていた。1627年、幕府はこ れを咎めて取り消しを命令。面目丸つぶれの天皇は譲位をほの めかす。大徳寺の沢庵も抗議してきたため、幕府は出羽に流す紫衣事件という。
・腹を立てた後水尾天皇は勝手に譲位をおこなう。和子の生ん だ7歳の女一宮が即位して明正(めいしょう)天皇となる。称徳天皇以来の859年ぶりの女帝を作って嫌がらせ。
・出羽に流された沢庵はその最中に沢庵漬けを考案。崇伝亡き後、罪が許されて家光が帰依。

    →禁裏御料与え、生活は保証(将軍権威の源泉)

徳川 の将軍は、形の上では天皇によって政治を依頼されたもの。実力も持っているが天皇権威で補強することが望ましかった。天皇の権威を落すと幕府の権威も落ち てしまう。
・3万石。皇族・公家に7万石程度。公家は最大の近衛家でも3000石程度。それでも生活保障されている点で室町時代よりはまし。

C 寺 社統制
 1 寺院法度=宗派ごと、活動の抑圧

・1601〜16年にかけて宗派ごとに34通出す。学問を奨励し、本山末寺の制を定め る。

 2 本 末制度=本寺による末寺の統制

・1665年、共通の諸宗寺院法度を出して本末制度を確立。本寺が末寺に住職を派遣する。
・幕府は本寺を保護し、本寺と幕府は権力という点で癒着してゆくので、本寺 を抑えれば全体が抑えられる。末寺が本寺を訴えても、幕府の裁判では絶対に勝てない。

 3 寺 請制度=キリスト教禁教策、どこかの寺の檀那として登録

寺請 制度は島原の乱後に確立。1640年、宗門改役を設置。1664年には諸藩にも命じる。1671年、宗門人別帳が毎年作られることになっ た。
キリスト教徒でないことを証明するため、どこかの寺の檀那になることを義 務づける。檀那はその寺のスポンサーという意味である。出生、死亡の際に寺に届けて人別帳に記載してもらう。

    ∴宗教活動おこなわず、民衆支配の末端組織となる

・旅行、移転、結婚の時にはキリシタンでない証明が必要であったため、報告をする。現在の役所の働きを寺に請け負わせたものである。

Q6 寺請制度は、寺にどのようなメリットをもたらすのか?

A6 仏教の強制であり、必ずスポンサーを付けてもらうことになった。寺はスポンサーが死んだら仏式で葬式をしてやり、これで食べてゆくようになる。

・寺は役所の仕事をして葬式をすれば食ってゆけるので宗教活動は低迷。葬式仏教と揶揄 されるようになる。

※強力に大名を統制するとともに古代 的権威との結合を防ぐ


目次に戻る   トッ プページに戻る

Copyright(C)2006 Makoto Hattori All Rights Reserved