<室町幕府の動揺>
[惣村の発達]
cf)荘園=支配の単位(作人は名主が支配、流動的)
・荘園の場合、領主はそこにどういう百姓が住んでいるかを把握する必要はなく、名主に
請け負わせて年貢だけを納めさせれば事足りた。荘園は支配のための単位であ
る。
・一つの荘園は一つの区の半分もの大きさなので、中にいくつもの村を含んでいる。また、一つの村の農民も、いくつかの荘園に分かれて作人をしているし、一
人でいくつかかけ持ちのこともある。「諸方兼作の百姓」という。同じ村に住
んでいても一緒の名主のもとで働くとは限らない。
・名主は作人に請け負わせたが、当時は作人であっても、翌年も耕作させてもらえるとは限らなかった。名主などの一部の定住農民を除いては自分の土地を持っ
ていないのだから、働き手として流れ者になり、農民の移動度合いは高かっ
た。こういう状況では、村人同士のつながりは弱い。
A 惣村の形成(南北朝期〜)
農業発展(二毛作)→農民の力の拡大、定着化、入会地管理
(作人・下人が名主支配から自立)
・鎌倉時代以降、二毛作に代表される農業の発展が著しかった。二毛作ができるように耕地
を改造することはたいへんなことであり、それを成し遂げた作人は、その土地から離れたくはなくなってゆく。また、麦は年貢の対象でなく、作人の取り分になったので、作人の経済力は高
まっていった。作人は田畑に対する発言力、執着心を高め、作人職を世襲する
ことになり、土地に対しての権利を獲得してゆく。流動性が低くなり、定着が進む。
・一方、二毛作の開始により、共同で灌漑設備や肥料をとる入会地を管理する
ことが必要になってきた。もともと農業は田植えや稲刈りを一緒におこない、協同で使う山野や用水を管理しなくてはならないなど協同性の高い
仕事である。山野や用水は名主が持っていたが、力を強めた作人はこれに対し
ての発言力を強め、隣近所の村人同士でその管理をおこなうようになっていった。
惣百姓(村民全体)が自治的結合(生活単位)
・一方的に支配されていた農民が発言力を増し、自治をおこなうようになったのが惣村である。
・自治をする惣村の特徴は(1)惣掟があること、(2)惣有財産を持つこ
と、(3)年貢を惣が請け負うこと、である。これらは在地領主や名主の権限だったもので、これらを獲得することによって領主に支配されずに
自治をおこなうようになったことを意味する。
B 惣
村の構造(郷村制)
1 自治の方法
寄合、村掟、入会地管理、
・共同
作業の手順や用水、山野の管理について話し合う必要がある。これで寄合が開かれ、みんなの守るべき村掟が作られる。
・今堀地下掟には「犬飼うべからず」「堀より東を屋敷にすべからず」「木の葉ならびに桑の葉を勝手に切って持ちだした者は、百文の罰金を取ることにする」
とある。
Q1 どうして木の葉や桑の葉を持ち出してはいけないのか?。
A1 肥料になるからである。これらは共同管理の品物だった。 |
・よそでは「粉河寺内では、勝手に肥灰を他所に持ち出してはならない。寺内の田畑が疲
弊し、収穫が得られないためである。今後は他所の土地に出作りする場合でも、肥灰を持ち出すことを堅く禁ずる」(粉河寺の掟)とある。
・入会地は共有地なので、そこをどうやって利用するのかは最
大の関心事である。一人が水や肥料を独占することがないように掟では取り決めをする。
・山野は口開け慣行を作る。期間を切ってそれ以外は草木を切ってはいけない。切ることができる木の太さなども決めている。
・用水は足りない時には番水慣行を設けている。時間を決めて
田に配水するのである。
Q2 寄合はどんなところで開くのか?。
A2 神社である。ムラ人の結集の場は神社で、多くのムラの氏神の成立はこの時期である。神のもとで協議したことは破ることができない。
|
・滋賀県菅浦は須賀神社を中心に村が作られる。4つの門があり、その中が村になってい
る。掟に従わないものは門外に移転させられる。現在でも須賀神社の石段下からは土足厳禁になっている。
・菅浦の須賀神社には「開けずの箱」が伝わっている。開けてみたところ寄合の記録などの文書がたくさん出てきた。1651年にそれまでの惣の文書を箱に納
めたらしい。
宮座・講による連帯
・寄合を開くときも全員が集まるばかりでなく、代表者に話し合わせればよいことも多
い。この寄合に出る者はもともとは有力者に固定されていた。
有力者が神社祭祀を握っていて、神社拝殿内に座るところを持つ者だっ
たので、彼らのことを宮座といっていた。議員のようなもので
ある。
・初めは有力な家に固定されていたものが、だんだんと解放されてゆき、選挙になったり家の順になったりする。
・講は仏事の組織で、神社祭祀よりも仏教が盛んだったところ
でたくさん作られた。道場などというところで仏を拝んだあと、村の人が話し合いをしたのである。
→自治権拡大=地下請発生(年貢納入を村が請負う)
・従来は、荘園の農民に対して領主がいろいろ口出しをしてきた。年貢はきちんと払うので、村のことには口を出すなという契約が取り交わされるようにな
り、地下請と呼んでいる。
・1568年の菅浦の掟では、「守護不入自検断之所」とし、自治の場所であることをうたっている。延暦寺領であるが在地領主がいないところだったので、自
治ができた。
Q3 寄合で話がつかないときはどうやって解決しただろうか?。クラス演劇で「サリー
ちゃん」と「ゴジラ」でもめた時はどうしているか?。その難点は何か?。
A3 多数決である。難点は「サリーちゃん」をやりたかった半分の人は禍根を残すことである。
|
Q4 惣村でそういう状態を作ったとしたら何が問題なのか?。
A4 農業での共同作業ができない。 |
Q5 多数決を避けるにはどうするのか?。
A5 全会一致でいくしかない。 |
Q6 そのためにはどうするのか?。
A6 根回しをしておく。全会一致は頼み込んだりして無理を通すことにもなる。「サリーちゃんに賛成してくれたら、ヨッちゃんの代わりにゴジラを出してあ
げ
る」と説得する。
|
・室町時代は社会秩序が定まらなかった時代であるため、基本的に話し合いの時代であっ
た。日本には民主主義がないということを述べる人がいるが、それは誤っている。話し合いで決着がつかなかったから武力を用いたのであ
る。
・日本の政治風土は全会一致である。それは今の政治にも表れ
ている。自民党総裁を決めるのも話し合いだった。これが密室制度と言われたが、仲間割れをしないために必要だった。自民党が強かったのは仲間割れをしな
かったからである。
Q7 全会一致の根回しをしたり、反対派を抑えることができる人物はどんな者か?。
A7 年輩者である。ここから、惣村のリーダーを年寄と称した。
|
・年寄は尊敬語であり、幕府でも評定衆のことを宿老、引付衆を中老と呼んでいた。相撲
界では、今も指導者のことを年寄といっている。
2 半武装上層農民の指導
地侍(有力名主階級)→おとな、沙汰人、年寄など
・惣の
間の抗争を解決し、荘園領主に年貢を負けさせるためには武力が必要なので、農民の中に侍分が登場する。これを地侍といい、武装した有力名主階級である。半分農民、半分武士という立
場の上層農民であり、小百姓を巻き込んで惣の力を伸ばし、小百姓を支配して
惣のリーダーとなってゆく。沙汰人、乙名などと呼ばれる苗字を持っている連中。
※畿内周辺で特に発
達
→年貢減免要求、守護、国人の支配に対抗、自衛
一方で地侍は国人らの被官となって惣を支配
・国人
たちの搾取に対抗する一方、場合によっては国人の家臣になって惣を支配する。農民にとっても国人にとっても地侍は二面性を持った厄介な勢力
である。
=惣村の連合も生じる cf)一揆の基盤となる
・用水はいくつかの村で分けて使うため、惣が連合せざるを得ない。山野利用についても
いくつかの村で争論になる可能性がある。横のつながりを作って大規模な一揆
を組織するようになってゆく。
[土一揆の発生]
農民の反抗=
Q8 従来の農民の反抗の形態はどのようなものだったか?。
A8 逃げるのが基本だった。作人は根無し草であり、逃げて他の名主に雇われればそれでよかった。
|
・二毛作ができるようになると、せっかく手をかけた土地を捨てて逃げるのはばからし
い。武力を用いた反抗に姿を変える。
愁訴、強訴、逃散→土一揆(集団的武力行動で要求を通す)
1 正
長の土一揆(1428)
・1428年1月、義持が死ぬ。5月には関東で持氏謀反の計画が露見して騒然となっ
た。この年は天候不順で凶作が予想され、三日病の流行で「人民多く死亡」という大変な年だった。借金を抱えた連中は不作の中で危機感を持った。
・当時、醍醐寺などは年利6〜7割の高利を取っていた。ここに不作では目も当てられない。将軍代替わりは新しい世になることであり、古い借金はチャラになるという発想が出てく
る。
坂本(近江)の馬借が徳政(借金帳消)要求
・8月、坂
本、大津の馬借が蜂起した。代替わりの徳政を認めろと言って借金先を襲って証文を奪って焼き捨てる。その数は数1000という。
・馬借は運輸業者なので情報に通じている。荷物を守るための人足を持っているので武器を持たせれば組織的な兵力になる。
→京都近郊の農民を合わせて酒屋、土倉、寺院攻撃
・11月になると京都周辺から一揆が頻繁に乱入して放火、略奪をし、奈良でも荒れ狂
う。
cf)徳政一揆(不可の時は私徳政=踏み倒し)
・借金
帳消しの徳政を求める一揆を徳政一揆と称する。このときは、結局は幕府は徳政令を認めなかった。しかし、高利貸業者は個別に徳政を認めたようで、これを私徳政と称している。
・柳生の疱瘡地蔵に「正長元年ヨリサキ者カンヘ四カンカウニオヰメアルヘカラス」という落書きがあるのが発見された。
2 播
磨の土一揆(1429)
・1429年1月、連続して播磨の土一揆が起きる。国人と百姓が守護赤松満祐の軍勢に対して国外退
去を求める。国人が守護を裏切る国一揆としての性格のものだった。
3 嘉吉の土一揆(1441)
代始めの徳政要求→初めて実現
・1441年、義教が死ぬ。8月末から近江の馬借に不穏な動きが見られ、9月には京都
を包囲して乱入を試みる。地侍が指揮を執り、組織的な動きを見せ、あらゆる出口を固めて16カ所に陣取って一カ所に1000〜3000人を配置する。「一
国平均」の徳政を求めて土倉、酒屋、寺院を襲撃し、半月で勝ち取る。これを嘉
吉の土一揆と呼び、代始めの徳政は先例があるとして、初めて徳政令を正式に出させている。
※大
規模な農民蜂起=幕府権力の低下(応仁の乱後は全国化)
・もっとも先進地となっていた京都、奈良を支配していたのがもっとも古代的な荘園領主
層。高利貸や幕府は彼らの擁護者であり、これらに対しての一種の反荘園闘争と見られる。
cf)幕府の対応=分一銭(手数料)徴収で徳政令を出す=土一揆の
財源化
・徳政によって高利貸は打撃を受け、そこからの納銭に頼る幕府も窮地に立たされた。土
一揆を財源にしようと考えるようになる。
・債務者が借入金の1割(分一銭)を幕府に出せば徳政を出して借金を帳消しにしてやる。
・債権者が貸金の1割を幕府に出せば、その業者には徳政を適用しない。
・分一銭をとって出す徳政令を分一徳政令という。これで土一揆は幕府の財源と
なった。幕府権威は形無しである。
[守護大
名の強大化]
5代将軍義量の早世、4代将軍義持に嗣子なし
・義持は出家したため、形の上では5代将軍として義量が就任。実権は義持が握り続ける
ため、政治に口を出せず、酒色にふける。19歳で若死に。
・1428年1月、義持は43歳で急死。足の腫れ物から悪性
の菌が入った。子供はいない。
・三宝院満済が病床の義持に次期将軍の意向を聞く。「実子があっても誰とは言えない。実子がないのだから皆の推すところに従う」。
Q9 実子があっても誰とは言えないのはなぜか?。次期将軍はどう決めるのがよいの
か?。
A9 室町時代には相続の制度が確立していないのである。分割相続から単独相続に変わったが、長子単独ではなく、惣領を決めるのは家臣の意向だった。家臣
も決められなければ籤になる。
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∴くじで6代将軍決定→義教(将軍権威の高揚に努める)
・義持
の4人の兄弟の中から籤にした。臨終の場で籤を作って管領が引く。当たり籤は出家していた義円であり、還俗して義教になった。
・籤にしないと有力守護がもめることになったので、この解決方法は理にかなっていたとも言える。
義
教の恐怖政治=強引な守護大名抑圧策
・籤で将軍に就任したため、権威の高揚を第一に考える。
・守護大名の継嗣問題に介入。山名氏、斯波氏、京極氏などが翻弄される。
・公家に対しても恐怖。会って笑っただけで「馬鹿にしている」として所領没収、閉門。合計70人が閉門配流される。
・比叡山も怒りに触れて攻撃を受け、根本中堂を焼かれる。この噂をした京都の人たちは処罰。喋った商人を連れてきて首を刎ねる。
・裁判で湯起請を実施。「万人恐怖」と記録される恐怖政治だった。
1 永享の乱(1438)
鎌倉公方・足利持氏との対
立
・鎌倉公方は尊氏の次男の足利基氏を任命した。鎌倉公方は将軍をねらうことも多く、2
代目の氏満は義満に代わって将軍を望み、3代目満兼は大内義弘と手を結ぼうとした。
・義持には他に子がないため、持氏は6代目将軍をねらっていた。
ところが籤で義教が就任したため、持氏はおさまらない。翌年、永享への改元がおこなわれても元の正長を使い続け、京都に従わないという態度を取った。
・義教は持氏打倒を考え、1432年、富士遊覧と称して駿河に行く。持氏に出仕するように命令し、来たら殺すつもりだった。持氏が来なかったため、これを
討つために関東管領を使うことを考える。
→関東管領を利用(cf)上杉禅秀の乱)
・鎌倉
公方は補佐役として関東管領を持っていたが、一枚岩ではなかった。持氏は上杉禅秀の乱で関東管領家と戦った経験を持っている。
・上杉氏が世襲していたが、内部は4家に分かれていた。このうちの犬懸、山内両家が勢力争いをしていた。
・持氏は、常陸の小田氏の所領没収をめぐって関東管領・犬懸上杉の禅秀と対立する。禅秀を辞めさせてライバルの山内上杉の憲基をつけた。これに対して禅秀
は持氏に不満を持つ足利満隆(持氏の叔父)とともに、1416年10月2日に挙兵した。持氏は不意をつかれて箱根に逃げる。
・1417年1月、幕府方は禅秀打倒の兵を差し向けて討つ。多くが寝返ったため、禅秀の天下は3カ月で終わったが、義教はこのような鎌倉公方と関東管領の
対立に目を付け、上杉憲実に接近して両者を離反させることに
した。
=上杉憲実を味方につけ滅ぼす cf)以後、関東は上杉氏が支配
・持氏は、子の元服にあたり将軍の一字をもらうことをしなかった。関東管領の上杉憲実
はこれを諫めたため疎まれ、鎌倉を去って上野に向かう。憲実は幕府に訴えた
ため、足利義教は動員令を出した。
・天皇から持氏追討の綸旨を引き出し、2万5千を派兵。持氏最大の兵は憲実の兵であったため、大軍にどうすることもできず。持氏への裏切りが続出し、鎌倉は焼かれる。持氏は称名寺に入って命乞い
をするが義教は認めず自殺をした。一族は放火で焼かれるが、持氏の子の安王丸(12歳)、春王丸は脱出をする。
・持氏方についていた結城氏が二人を奉じて挙兵した。これを結城合戦という。
・1441年、幕府の大軍に囲まれ、食糧が尽きて陥落する。女子は助けると言われ、安王、春王を女装させて逃がそうとするが捕まり、京都へ歩いて連行され
る。途中、垂井で切り捨てられる。
・乱後は上杉憲実が関東を支配。調整役に徹して最後に主君を
見限ったものである。
2 一色氏、土岐氏の討滅
・1440年、若狭・三河・丹後の守護であり、足利一門の一色義貫(よしつら)、伊勢
の守護の土岐持頼を滅ぼす。
but守護大名の反感拡大
3 嘉吉の乱(1441)
・1437年、義教は赤松満祐の領国である播磨、美作を召し上げようとした。結局、満
祐の弟が義教ににらまれて所領没収。これで満祐は次のターゲットは自分であ
ると気づく。やられる前にやる方がよい。
赤松満祐による義教の謀殺
・1441年6月24日、赤松満祐は結城合戦の勝利を祝うとして、京都の屋敷に義教を
招待し、猿楽の宴を張る。義教は下手にでてきたので上機嫌で酒を飲んだが、満祐はこの場にいなかった。酒を飲ませて盛り上がったときに厩の馬を放し、何事
かと混乱した隙に背後の戸を開けて将軍に斬りかかる。義教は満祐の計略に
よって謀殺された。「看聞御記」では「犬死に」と記されている。
・満祐は自刃するつもりだったが幕府は混乱して討手を出せなかったため、満祐は播磨に帰って徹底抗戦することにした。
・7月28日、侍所の山名持豊が勝手に赤松を打倒。一連の出来事を嘉吉の乱
と呼ぶ。播磨の国人は恩賞の好機として山名に寝返る。播磨、美作、備前は山名の領国になる。
※将
軍権威の低下=将軍・守護大名の均衡崩れる
→守護大名強大化 but国人層の統制ができなくなる
Q10 どうして将軍権威が低下すると守護大名による国人の統制が難しくなるのか?
A10 将軍権威が地に落ちるということは、守護大名の権威の源泉がダメになるということである。守護大名の言うことを聞いていたのは、そのバックの将軍
権力が怖かったからである。将軍権威が低下すれば、守護大名も怖くはない。
|
・国人は利用できるものにすり寄ってゆくしたたかな体質である。守護大名の家臣になっ
た時は、守護の力を背景にして自分が荘官を務める荘園の年貢を抑留したり土地を横領したりしてきた。将軍や守護の力が弱くなれば、自分たちで横の連絡を取り合って一揆を結び、守護と対立
するようになる。
(∵将軍権威で領国支配)
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