9 守護領国制の安定と動揺
<室町幕府の構造>
[室町幕府の安定]
 3代将軍足利義満(←義詮←尊氏)

・1367年、義詮は高血圧のため38歳で死去する。子供の義満はまだ10歳であり、 管領に細川頼之を立てて、幕府の政治を任せる。
・もともと執事と呼ばれた将軍の秘書長で、足利氏の所領内の政治をおこなっていた。この権限を拡大して管領とし、将軍を補佐して守護や大名に対する政務を おこなうようにした。
・細川頼之は九州探題に今川了俊を派遣。南朝との講和路線を取る。
・義満は15歳で元服した。この頃から、守護大名はもとの管領の斯波氏を推す勢力と細川氏を推す勢力に分かれてしまい、義満は対立回避のために頼之を追放 することになる。

  =室町「花の御所」造営

・京都室町の院の御所が焼失した後、ここに室町殿を建てる。花の御所といって1380年に完成。庭に四季の花木を植えたところから 花の御所という。1381年には後円融天皇を迎えている。

A 守 護大名、国人の統御
   足利一門の守護領国制完成(国人の服属)

・足利一門が守護として派遣され、おおむね国人を服属させるのに成功した。幕府は政権を維持するためには守護の兵力に頼らざるを得ない。しかし、力を誇る守護が 横暴になってゆく。北近江の守護の佐々木道誉、美濃の守護の土岐頼康などがその例。
・義満は弱きを挫き、強きを助ける政治手法と、巧みに同族争いを誘発させる ことで守護大名を統制してゆく。

    →有力守護大名の抑圧(将軍権威の確立目指す)

・義満は1385年から諸国遊覧に出かけ、行く先々で守護大名の上に立つ将軍をアピー ルした。

 1 土岐康行の乱(1390)

・1387年、美濃・尾張・伊勢の守護の土岐頼康が70歳で死ぬ。佐々木道誉などが死 んで、残った唯一の元老。
・養子の康行が相続をするが、義満はこれに干渉した。美濃・伊勢を康行に継がせ、真ん中の尾張は弟の満貞に渡す。これで兄弟争いを挑発した。康行が挙兵すると義満はこれを討ち、1390年、土岐氏の土地は3国に三分される。

 2 明 徳の乱(1391)=山名氏清(六分一殿、11カ国の守護)打倒

山名 氏は一族で11国の守護を務め、六分の一殿と称された。ここでも同族争いを誘導する。
・将軍をないがしろにしたということで、氏清と満幸に命じて時ヒロと氏幸の兄弟を討たせた。それぞれの分国は勝った者で山分けさせた。
・この後、満幸が院の荘園を横領したとして追放にし、反対に時ヒロと氏幸の罪を許した。氏清は「将軍は山名一族を滅ぼす計略」と悟り、満幸と連合して挙兵 する。
・義満は勝てる確信はなかったが、「放っておいてもいずれ戦うことになる相手。早いか遅いかだけだ。どっちが勝つかは天が決めること」として戦うことにし た。
・義満養成の直轄軍が強く、山名氏の敗北に終わり、分国は3カ国に削減され た。

 3 応永の乱(1399)=大内義弘(6カ国の守護)打倒

・土岐、山名のあと、残った外様勢力は大内氏だった。山名討伐に戦功を立て、周防・長門・石 見・豊前の他、新たに和泉と紀伊をもらい、6ヵ国の守護。中 央の政界にも進出した。堺を貿易港として整備し、戸数1万の都市を築く。一方では倭寇禁圧をおこなって朝鮮との貿易を拡大し、南北朝合一を実現するなど大 活躍していた。
・義満は危険分子にはわざと重要な仕事を担わせ、あとでバッサリ切る手口で臨む。密かに少弐、菊池氏に義弘討伐を命じる。
・1399年、義満の上洛命令に対して義弘は戦う覚悟。数千の兵で周防から堺に入り、陣地を構築した。ここに5000の兵と住民が立てこもるが、義満は大 軍を率いて叩く。攻めあぐねたため、爆竹を使って火を放ち、堺は全焼する。
・大内氏の分国のうち、長門、周防だけが幕府に降った大内弘茂に安堵される。叩 きすぎると国人が抑えられないので、一部は残してやる。

※守護 大名の上に立つ将軍の地位確立

B 南北朝の合一(1392)

・南朝は、懐良親王が九州で頑張っていたが、1380年代になって今川了俊に叩かれて 勢力が後退した。楠木正儀は北朝に降り、北畠顕能も伊勢で死ぬと、即位したばかりの後亀山天皇は徹底抗戦をあきらめ、北朝との妥協を考えるようになった。
・幕府としても、離反した守護大名が南朝を担ぐことは危険であるため、南朝 との和平を模索した。
・南北朝合一の条件は、(1)後亀山天皇は後小松天皇に神器を渡す。(2)皇位は大覚寺、持明院統で交互とする。(3)国衙領は大覚寺統、長講堂領は持明 院統のものとする。

   後亀山天皇(南朝)の後小松天皇(北朝)への譲位

1392 年10月、後亀山天皇は入京して神器を渡す。しかし、他の条件は無視され、皇位は後小松天皇の皇子が継ぎ、所領も南朝方には渡されなかった。
・だまされた後亀山天皇は、1410年に吉野に脱出し、南朝の遺臣が神器奪還を企てて京都を攻める。
・その後も後亀山天皇の血筋の者は吉野にこもって正統を主張。後南朝と称される。1443年、後村上天皇の孫が京都御所に侵入して三種の神器を奪い、その 子が新しい天皇として即位した。幕府は1457年に神器を取り返している。
・吉野の南朝の子孫は、現在では200軒ほどになる。戦後、その中の一人が熊沢天皇を名乗り、「自分は正統の南朝の子孫だから天皇として即位する権利があ る」と裁判を起こした。最高裁判所によって却下された。

※南北朝動乱の完全な終結
    cf)義満の太政大臣就任(1394)

・1368年、11歳で征夷大将軍となっていたが、官位を進めることで公家としても君 臨し、幕府が朝廷の政権を接収しようと考えた。1382年、25歳で左大臣となり、翌年には准三后。1394年、37歳で太政大臣となった。
・清盛は太政大臣だったが征夷大将軍ではない。頼朝は征夷大将軍だが太政大臣ではない。両方を兼ね備えたのは義満が最初である。

       =公武の最高権力者となる

・いっそのこと天皇の位につきたいがそれは難しい。

Q1 天皇以外で天皇をしのぐ公家の最高権力者になるにはどうするのか?。

A1 出家して法王になる手がある。

・1395年、義満は出家して公武の頂点に立とうとした。儀式や服装は法皇のものを準 用し、子供を親王に擬して一家を天皇家に見立てる。1408年、北山邸に後小松天皇を招待した時は、天皇と並んで座り、天皇と同じ桐竹紋の法服を着る。 15歳の次男・義嗣は関白の上に座っていた。
・義満は義嗣を天皇の養子にして即位させようとしていたともいう。元服の11日後に義満が死に、義持が全てを覆したために実現しなかった。義満には、死後、太上法皇の称が与えられている。

[室町幕府の構造]
A 機構(足利一門による要職独占)
 (中央)
   将軍(行政の最高責任者)cf)直属軍=奉公衆

直轄 軍の奉公衆を充実させる。守 護は国人を家臣としていったが、その時、相手が鎌倉以来の地頭だった場合にはやりにくかった。将軍との関係では、それぞれが直参であり、地頭は守護の陪臣 になることに抵抗があった。また、地頭の所領は各国に散らばっているため、一国単位に任じられる守護は本領安堵をしにくかった。このため、地頭は将軍に直 接本領安堵を願い、将軍直属軍の奉公衆を形成した。
奉公衆は3000騎。大守護が京都に置いている兵力は300騎くらいなの で、将軍は大守護を圧倒できる。

     管領(←執事、将軍の補佐、斯波、細川、畠山氏の就任=三管領
     侍所(京都の警備、刑事裁判、所司に山名、赤松、 一色、京極氏就任=四職

・室町幕府初期は将軍−執事−侍所−直轄軍という指揮系統だった。しかし、執事=管領 が強大化すると将軍の権力をしのぐ恐れが出てくる。
・義満は侍所を将軍直轄にして管領の仕事から分離し、直轄軍を直接支配することにした。侍所長官の頭人には管領と対立する守護を任じ、互いに牽制させた。
侍所長官は所司と呼び、山城の守護を兼ねた。
三管四職の体制を作り、細川・斯波・畠山、山名・赤松・一色・京極の7家 とし、守護はそれ以外の数家から出すようにした。こうして、将軍をトップとする守護の序列を作った。

     政所、問注所

・政所は財政を管轄、問注所は記録の保管や詐欺などの訴訟を担当。

 (地方)
   鎌倉府鎌倉公方=基氏(尊氏次男)の一族世襲、補佐=関東管領上杉氏)

鎌倉 府の下には政所、侍所、問注所、評定衆を置き、関東幕府の色彩を帯びていた。
・管轄は関東8カ国、伊豆、甲斐、陸奥、出羽の12カ国(陸奥と出羽は応永の頃のみ)。室町幕府に勢力は匹敵した。

   奥州探題・羽州探題

・もともとは南朝の陸奥守・北畠氏に対抗するために設置したもの。正式に奥州探題と なって畠山・吉良氏が就任し、後に斯波・上杉氏に代わった。斯波氏の時、陸奥と出羽を分治することになって羽州探題が分かれた。

   九州探題

・尊氏が九州に逃げたとき、一色氏を置いたのが始まり。九州は南朝勢力が強く、途中ま では苦戦し、九州に入れなかった九州探題もいる。
・今川了俊の時に九州を制圧し、後に渋川氏が世襲した。

B 特色
 1 将軍と守護大名の妥協・均衡
    将軍=守護大名の力で国土支配
    守護大名=将軍の権威で国人支配

国人 の上にヤジロベエで立つのが室町政権。将軍が守護大名を抑えすぎれば国人が暴れる。守護大名が力をつけすぎれば将軍がやられてしまう。
・しかし、将軍がやられることは、守護大名にとっては権威の源泉を断ってし まうこと。単独で国人を抑えられればよいが、将軍の力を借りなければならないのであれば命取りとなる。

     →領国支配を強化して独立の動き=室町政権の不安定さ

・義満のように上手に守護大名を抑えられればよいが、守護大名は何とか力をつけて将軍から独立しようとするので、政権は不安定になる。

 2 経 済基盤の弱さ
    御料所(直轄地)少ない cf)200カ所

御料 所は足利氏の持っていた所領。もともとからの武家の棟梁であったのではないから、荘園といっても領家職ではなく、地頭職が多い。関東御領な どに比べれば極端に少ないし全国に散在していた。

Q2 在京の奉公衆を増やすには経済力が必要だが、直轄地収入が少ない。財源の多角化 を図る必要があるが、どんなことができるのか?。最大のメリットは京都を掌握していたことである。

A2 土地にとらわれず、都市特有の課税をすればよい。

     ∴各種課税=段銭(土地税)、棟別銭(家屋税)、関銭・津料(通行税)

・段銭は土地の反別に応じて掛けた臨時税。即位、内裏造営、将軍就任などを名目に掛 け、守護に徴収させた。
・棟別銭は反別ではなく家屋数に応じて掛けた同種のもの。
・京都には大量の物資が入り、人も入ってきたため、関銭や津料も有効だった。

           土倉役・酒屋役(営業税)

・土倉は質屋で、倉庫に質物を保管した。酒屋は酒造の儲けで高利貸しをしていた。年 6〜7割の利息を取るもの。幕府はこの高利を取る営業を保証してやる代わり に財源とした。1399年には確立。
さらに財源不足を補うために日明貿易を考える。

※幕府に大きな力なく、将軍と守護大名の連合政権=守護大名の成長で崩壊

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