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<鎌倉武士と荘園侵略>
[鎌倉武士]
開発領主、荘官の子孫→将軍と主従関係を結んだ者=御家人
cf)非御家人
A 武士の社会
武士の一族=本家:惣領、分家:庶子
※惣領制=分割相続を通じて惣領が一族支配
cf)合戦、番役などで庶子を指揮
・財産である所領は惣領が相続すべきもの。これを庶子にも分割して相続させてやる。
Q1 土地をもらった庶子は惣領に対してどのように接することになるか? それによっ
て作られるのはどのような社会体制か?
A1 土地をもらった見返りとして庶子は惣領のために尽くすことになる。土地を仲立ちとした主従関係であると言えるので封建制。将軍-惣領-庶子の二重の封建制が成立している。
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B 武士の生活
農村で土地経営
・武士の住んだ住居は武家造によって建てられる。150メートル四方の屋敷に堀をめぐらし、
1~2メートルの土手を作って垣根をめぐらせる。いざというときの砦である。門の上には物見の櫓。堀之内、土居の地名として残る。
武芸の訓練 ex)流鏑馬、笠懸、犬追物、巻狩
・当時
の合戦は騎射が中心。東国武士の弓=三人張り、五人張り。源為朝は五人張りで、伊豆大島に流されてから、押し寄せる船を300m離れた海岸
から射て撃沈したという。那須与一は、屋島の戦いで80m離れた扇を射る。当時の鎧には隙間が多いので、ここをねらって馬上から射た。
・右手を「めて」(馬手)、左手を「ゆんで」(弓手)というのもここからきている。右手で手綱、左手で弓を持ったのである。
・騎射三物が重要。流鏑馬は走る馬から3的をねらう。笠懸は笠をぶら下げて射る。55cmのヒノキ板の的をねらった。犬追物は周囲38mの円を描き、12騎を3組に分けて4騎ずつで中央か
ら放される犬をねらって射る。犬は的を引いている。馬上の進退や動作の修得に最適。
→質素、献身的な奉公、武勇・名誉を重んじる=「もののふの道」
・武士はもともと人殺しを技芸とする職人である。かっこ良く人殺しをすることにこだ
わった。ここから「もののふの道」ができる。やくざが任侠を是とするのに似ている。
・質素のことは「男衾三郎絵詞」に見られる。弟の男衾三郎と兄の吉見次郎。三郎は毎日が武芸の修練。奥さんはわざわざ見目悪い人をもらう。美人をもらえば
毎日ぼーっと見ていることになり、武芸に身が入らない。粗衣に身をまとい、食べ物も粗食。次郎は京の美人を嫁にもらい、贅沢三昧。和歌や管弦にうつつを抜
かす。次郎は三郎を馬鹿にしていたが、合戦となったら三郎が大活躍。
・武勇のことは赤糸威の鎧、兜を用いたことにうかがえる。
Q2 どうしてわざわざ目立つ色のものを着用したのか?
A2 目立つような色のものを着用するのは活躍を示すため。旗差しものを立てる。
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・名誉の子とは義経のエピソードに見られる。義経は小男。源平の合戦の時、海に弓を落
とした。矢が飛んでくる中を拾おうとした。家臣があきらめろというと、「叔父の為朝は五人張り。源氏の大将がこんな弱い弓かと言われたくない」。
[武士の荘園侵略]
・中央の持ち主は現地支配者の地頭に管理を委ねる。しかし、もともと中央の領主の力の
強かった畿内周辺では、領主が預所を派遣し、それが代理人の雑掌を出していた。雑掌は勧農(田畑を割り当て、年貢の額を決める)をし、地頭は検断(治安維
持)というように役割分担していた。
・現地を支配した地頭は、その武力で雑掌を追い出し、百姓を勝手に支配する
ようになってゆく。これを地頭の非法と称した。
Q3 地頭の非法を言い表したことわざは何か?
A3 泣く子と地頭には勝てない。
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A 地
頭の非法 cf)阿弖河荘の訴状
百姓名田の奪取(免田へ編入)
百姓の私的夫役での使用
荘園領主への年貢横領
・阿弖
河荘は寂楽寺領で、後に高野山領となった。そこの農民が1275年に出した訴状がある。
・阿弖河荘の農民は寂楽寺に材木を公事として納めることになっていた。しかし、寂楽寺に出す材木を切り出しにゆこうとすると、地頭の湯浅氏が京都往復の人
足として農民を徴発。残った者が切り出しにゆこうとすると、逃げた農民の畑に麦を蒔けと言って連れ戻す。作業をしなければ女子供を監禁して耳を切り、鼻を
そぎ、髪を切って尼にして縄で縛って責めさいなむと言って脅迫。だから材木を出せないという。この他、農民が寂楽寺に納める年貢、麻、真綿を横領してい
た。地
頭の非法の典型とされる。
Q4 年貢を出さないのは地頭の権限逸脱行為。荘園領主はどうするか?
A4 幕府に訴えて取りしまってもらう。地頭が年貢を払うのは義務なので、事実とすれば裁判には勝てる。
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・当時、寂楽寺と地頭の湯浅氏が裁判をしていて、預所となった従連が裁判を有利にするために農民に地頭の非法を訴える手紙を書かせたもの。カタカナ書きで
たどたどしい。
・農民はこの訴状の中で、寂楽寺に納める材木が滞っているのは地頭のせいとして自分たちの負担軽減も求めている。農民にとっては領家も地頭も搾取者。
B 荘園領主の対応
幕府への訴訟
Q5 鎌倉に訴訟に行ったときの紀行文は何か?
A5 「十六夜日記」。阿仏尼の夫が死んだ後、播磨にあった実子の土地を継子が取ってしまった。この訴訟のために鎌倉に行っている。夫は藤原氏なので律令
で裁けばよいのだが、裁判能力がないため、鎌倉幕府に裁定を求めていった。
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・京と鎌倉を結ぶ道は往来が激しく、鎌倉街道と呼ばれる。萱津はその宿場だった。
Q6 土地に関する裁判は、幕府はどのような態度で臨んでいたか? そのことで生じる
領主側のデメリットは?
A6 非常に丁寧に時間をかける。裁判が鎌倉でおこなわれれば、鎌倉に行ってずっとそこにとどまっていなければならない。往復の旅費、滞在費がかさむので
ある。
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but裁判長期化→和与(示談)とする
・東寺が持っていた荘園に丹波国大山荘がある。承久の乱で地頭職が没収されたため、新
補地頭で中沢氏が入る。非法を重ねて年貢を出さなかったため、
1241年、東寺は六波羅探題に訴えた。1221年に地頭になっているので、わずか20年でこの始末というのはタチが悪い。裁判が長引いたのかも知れず、
和与となり、地頭請けにした。
1 地
頭請
領主の荘園経営の中止
・領主は勧農の権利を持っていた。用水の管理などをおこなう代わりに好きなものを植え
させたりして支配してゆく。やりようによっては年貢をたくさんとることも可能だった。この権利を地頭に与える。
→自由な土地、人民の支配認める
定額年貢の納入のみ確約させる
・現地
管理権は地頭が握り、定額年貢だけを送る。
・会社であれば社長(所有者=経営者)であった荘園領主が、地頭請によってただの株主(所有者)になり、一定の配当をもらうだけになってしまったというこ
と。
but年貢未進
・中沢氏は1280年代になると、東寺への年貢はほとんど送らなくなる。560石を滞
納。東寺は年貢は取れず、現地管理権も取られて困る。
2 下
地中分
荘園の折半→地頭分:自由に経営、荘園領主分:新荘官が管理
・下地
中分は土地を折半して半分を地頭に与えるもの。東寺は下地中分を求め、1295年に実施。地頭は土地の3分の1を確保して大儲けとなった。
※完全な武士の所領の形成(二重支
配の解消)
・下地中分=1237~1393年まで68例が確認されている。43例までが鎌倉末期
で西日本。
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