到達度テスト 問題と正答

<001 旧石器時代>
1 地質年代の更新世は今から1万年以上前の時代である。その始まりは新人が出現した3万年前までさかのぼる。誤
★更新世の開始は260万年前にさかのぼる。

2 更新世は温暖な間氷期と寒冷な氷河期が繰り返された。氷河期には海面が低下したため、日本列島は大陸と地続きであった。正

3 氷河時代には、マンモスやナウマンゾウ、オオツノシカや更新世人類が渡来した。北海道の野尻湖遺跡からは、マンモスの化石と打製石器が一緒に 出土している。誤
★野尻湖遺跡は長野県。ナウマン象の化石と打製石器が共出した。

4 更新世の日本は火山活動が活発で、関東地方には、関東ローム層と呼ばれる火山灰に由来する地層が堆積している。正

5 大正時代に相沢忠洋が群馬県岩宿で旧石器時代の石器を発見したことから、日本でも旧石器文化が存在したことが確かめられた。誤
★岩宿遺跡の発見は1946年。

6 旧石器文化は、簡単な土器と打製石器を用いる文化である。人々は狩猟・採集にふさわしい場所に定住していた。誤
★旧石器文化では土器は使用されない。

7 初期の打製石器は核石器と呼ばれ、石材の核の部分に刃をつけて石槍として用いていた。誤
★核石器は石槍ではなく、石斧として使われた。

8 剥片石器は石材を割りとった部分を使用するもので、ナイフとして用いられた石刃はその代表である。正

9 細石器は、細石刃と呼ばれる石材の破片を木の棒などに埋め込んで用いたもので、旧石器文化の最も進化した形態である。正

10 酸性土壌の日本では、更新世人類の化石はあまり発見されていない。沖縄県で出土した港川人のほか、本州では静岡県で浜北人が出土している。 正

<002 縄文時代>
1 今から1万年前、地球は温暖化が進んで完新世に入り、海面が上昇して日本列島が形成された。落葉広葉樹が茂り、大型動物に代わってシカやイノ シシが増えた。正

2 縄文文化は、ドイツの考古学者のモースが、東京の大森貝塚を発見して存在が確認された。この時代の貝塚は、現在の海岸線に沿って発掘されてい る。誤
★モースはアメリカの考古学者。貝塚は当時の海岸近くに形成されている。

3 縄文人はドングリなどの木の実を採集し、縄文土器で煮るなどしてアクを抜いて食用にしていた。正

4 骨や角を加工して作った道具を骨角器と呼ぶ。釣針はシカの角やイノシシの牙などで作られた。網漁もおこなわれ、土錘や石錘が出土している。正

5 縄文時代、狩猟には弓矢が用いられた。矢じりはもっぱら磨製石器で作られ、シカやイノシシを捕獲するための強力な道具となった。誤
★矢じりの多くは打製石器である。

6 縄文土器は低い温度で焼いたので薄手で赤褐色をしている。縄目文に特徴があり、様式によって草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6期に分 けられる。誤
★縄文土器は厚手で黒褐色。

7 縄文早期に多く見られる尖底土器は地面に突き刺して用いた。晩期になると火焔土器と呼ばれる複雑なものが登場し、縄文文化の発展ぶりがわか る。誤
★火炎(火焔)土器は中期に焼かれている。

8 縄文人は竪穴住居を作り、数軒でムラを形成した。生産性が低く、貧富の差や階級の差はなかったが。成人すると抜歯を施し、年齢による秩序が存 在した。正

9 縄文人は、自然そのものを神とするアニミズムの世界で生きていたと考えられる。妊婦を表した土偶や屈葬の習俗などは、何らかの呪術と関連する ものとされる。正

10 東日本には青森県三内丸山遺跡のような大規模な集落が形成された。新潟県姫川流域で産出する黒曜石が北海道で出土するなど、広範な交易もお こなわれていた。誤
★姫川流域で産出するのはヒスイ。

<003 弥生時代>
1 弥生文化は朝鮮半島から伝えられた文化で、水稲耕作のほか、弥生土器と金属器の使用を特色としている。正

2 もっとも早い時期の水田跡に佐賀県菜畑遺跡があり、縄文土器が出土するため縄文晩期の遺跡とされる。研究者の中には、弥生早期の遺跡に分類す べきだという意見もある。正

3 九州に伝えられた水稲耕作は東北地方にまで急速に拡大した。青森県亀ヶ岡遺跡は、東北地方を代表する弥生時代の遺跡である。誤
★亀ヶ岡遺跡は縄文時代晩期の遺跡。

4 弥生文化の存在は、東京の本郷弥生町遺跡の発掘によって確認された。その後、奈良県唐古遺跡の発掘で木鍬や木鋤などの農具が見つかり、弥生文 化が農耕文化であることが確定した。正

5 弥生時代は農耕技術が確立していなかったため、籾は湿田に直播きされ、鉄の普及も進まなかったことから、収穫には打製石器の石包丁を用いて穂 首刈りがおこなわれていた。誤
★直播ではなく田植がおこなわれた。石包丁は磨製石器である。

6 日本に最初にもたらされた金属器は青銅器で、銅矛や銅剣などの武器が作られた。その後、鉄器が伝わると青銅器は祭りの道具として使われるよう になった。誤
★青銅器と鉄器は同時に伝来している。

7 弥生土器は高温で焼成したことから薄手で赤褐色を示す。入れ物としての壺、煮炊きに用いた甕のほか、食器として高坏が作られ、その様式から前 期、中期、後期に区分される。正

8 弥生時代には低地に大集落が形成されるようになった。住まいはそれまでと同じ竪穴住居だったが、稲の保存のために高床倉庫が作られた。正

9 稲作の開始によって余剰生産物が発生すると、貧富の差、階級・身分の差が生じた。一般の人たちが簡単な支石墓や方形周溝墓に埋葬されたのに対 し、有力者は大きな甕棺墓に埋葬された。誤
★甕棺はごく一般の墓である。
10 集落の首長は宗教者でもあり、太陽や山の神を祀っていたと考えられる。彼らの墓には、祭りに使われた銅剣や銅鐸が大量に副葬されている。誤
★銅鐸は副葬品にはならない。

<004 小国の分立と邪馬台国>
1 弥生時代のムラはクニになり、抗争や連合を繰り広げた。墳墓から出土する遺物は、北九州は平形銅剣、瀬戸内は銅矛・銅戈、近畿は銅鐸が多く、 共通の祭器を祀るクニ同士の連合体が作られていたと想像される。誤
★北九州に銅矛・銅戈、瀬戸内に平形銅剣。

2 弥生時代の日本で、大きな抗争が繰り広げられたのは紀元前1世紀と紀元後の2世紀である。この時期、防御用の環濠集落や、攻撃用の高地性集落 が形成された。誤
★高地性集落は逃げ込むための防御施設。

3 中国史書では、日本は倭の名前で登場する。「漢書」地理志は、紀元前1世紀の倭が100余国に分かれ、楽浪郡に使いを送っていると記してい る。正

4 「後漢書」東夷伝は、57年に倭の奴国王が楽浪郡に使いを送り、武帝が金印紫綬を下賜したと記している。奴国王は、日本での抗争を有利にする ため、中国に後ろ盾を求めたと考えられている。誤
★奴国王は中国まで使いを送った。印綬を下賜したのは光武帝。

5 奴国王がもらった金印と思われるものは、江戸時代に福岡県の志賀島で発見された。、そこには「漢委奴国王」と刻され、「かんのわのなのこくお う」と読むとされている。正

6 「後漢書」東夷伝は、107年、帥升という倭の王が中国に使いを送り、生口を献上したと記している。生口は奴隷と思われ、倭に階級が成立して いたことがわかる。正

7 「魏志」倭人伝は、3世紀の日本で、30余国が邪馬台国の元に連合し、女王卑弥呼を共立していたことを記している。卑弥呼は、鬼道と記された 一種の呪術を操って人々を従えた。正

8 卑弥呼は239年、洛陽に使いを送り、「親魏倭王」の称号と金印紫綬をもらった。朝鮮半島での勢力を維持するため、中国の承認を得ようとした ものである。誤
★朝鮮半島での勢力維持ではなく、国内での抗争を有利にしようとした。

9 邪馬台国には王、大人、下戸、生口の階級があり、一大率を派遣して諸国を監督していた。卑弥呼の死後、男王が立ったが国が乱れたため、壱与と いう少女を女王に立てた。正

10 邪馬台国の所在地について、「魏志」に距離の間違いを指摘するのが畿内説で、邪馬台国がはヤマト政権になって3世紀に国土統一が実現する。 方角の間違いを指摘するのが北九州説で、国土統一は4世紀以降となる。誤
★方角の間違いを指摘するのが畿内説、距離の間違いを指摘するのが北九州説。

<005 ヤマト政権の成立>
1 ヤマト政権は畿内の豪族が連合して作ったものである。箸墓古墳のある大和盆地の三輪山の麓を中心に、4世紀には成立していたと考えられてい る。正

2 日本の神話では、日向国に天下った日本武尊が大和を攻め、初代の崇神天皇として即位したとされている。ヤマト政権の発足にあたっても、こうし た戦いがあったことが想定される。誤
★神話の「天孫降臨」は瓊瓊杵命、初代天皇は神武天皇。

3 前方後円墳はヤマト政権の王たちの墳墓として作られた。前方部には竪穴式石室が設けられ、後円部で葬儀をおこなったと考えられ、周囲には円筒 埴輪を巡らせていた。 誤
★後円部に埋葬し、前方部で葬儀をした。

4 古墳時代前期の副葬品は土器や日用品のほか、祭りの道具として用いられた銅矛や銅剣などが中心である。ここから、被葬者は司祭者としての性格 を持っていたと考えられている。誤
★副葬品は玉や鏡などの祭りの道具。

5 中国が南北朝時代に入ると朝鮮半島では諸国の自立の動きが進んだ。北部では高句麗が勢力を拡大し、中国が置いた楽浪郡を滅ぼした。正

6 朝鮮半島南部は馬韓、辰韓、弁韓の地に分かれて小国の連合体が形成された。このうち馬韓は百済、辰韓は新羅によって統一された。正

7 弁韓は加耶によって統一された。鉄の産地であったことから、倭がこの地への進出を企てた。誤
★弁韓は統一されなかった。

8 ヤマト政権は国土統一を達成したのち、朝鮮半島に勢力を伸ばして加耶を征服した。倭は現地を支配するための地方組織として任那官家を設置し た。誤
★加耶を征服した事実はなく、任那官家も支配組織ではないと考えられているる。

9 百済は高句麗の南下に対抗するため、倭と同盟を結んだ。その証として贈られた七支刀は、石上神宮に伝えられている。正

10 好太王碑には、倭が辛卯の年に朝鮮半島に軍を送ったことが記されている。これは西暦391年のことで、その後、倭は好太王率いる高句麗軍と 戦って敗れ、朝鮮半島から後退することになった。正

<006 国土統一と氏姓制度>
1 5世紀には、仁徳天皇陵に比定されてきた誉田山古墳など、それまでよりもはるかに大きな前方後円墳が河内平野に築かれるようになった。これは 支配者の力が強大化したことを物語るものである。誤
★誉田山古墳は応神天皇陵とされてきた。仁徳天皇陵は大仙山古墳。

2 古墳時代中期の古墳の竪穴式石室内部には、形象埴輪や馬具・武具などの副葬品が多数収められた。馬具や武具は被葬者の権力者的性格を示すもの である。誤
★形象埴輪は竪穴式石室の中ではなく、古墳の表面に並べられた。

3 埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣と熊本県江田船山古墳出土太刀(鉄刀)には、いずれも雄略天皇に比定されるワカタケル大王の名が記されており、5世 紀にはヤマト政権の力が関東から九州に及んでいたことがうかがわれる。正

4 「宋書」倭国伝によれば、讃珍済興武の倭の五王が中国南朝に遣使を送ったことが記されている。このうちの興は安康天皇、武は雄略天皇に比定さ れている。正

5 倭王の武は、478年に宋に遣使して上表文を差し出し、高句麗と対抗するため朝鮮半島南部の軍事権の承認を求めた。この結果、武は安東大将軍 に任じられた。正

6 氏は同じ祖先を持ち、ともに氏神の祭祀をおこなう者たちの集団で、氏上と氏人で構成される。小国の王(豪族)がヤマト政権の大王と連合した場 合、氏に対して称号である姓が与えられた。正

7 畿内豪族のうち、大王と覇を競い、通婚したりして連合した葛城、平群、物部などは臣の姓、早くから大王に仕えて職務を分担した蘇我、大伴、中 臣などは連の姓を与えられた。誤
★物部氏は連、蘇我氏は臣の姓をもらった。

8 ヤマト政権と連合した豪族は伴造に任じられ、支配下の部民を品部として率い、さまざまな職務で政権を支えた。例えば玉作氏は玉作部を率いて玉 を作り、土師氏は土師部を率いて土師器を焼いた。正

9 ヤマト政権の支配下にあった人たちを部民と総称する。豪族の支配民は部曲といって支配地である屯倉の耕作をおこない、大王の支配民は子代・名 代といって田荘と呼ばれる直轄地を耕作した。誤
★豪族の私有地は田荘、大王の直轄地は屯倉。子代・名代は地方豪族から大王家に貢進された人々を指す。
10 ヤマト政権と連合した地方豪族には君や直の姓が与えられた。彼らは国造に任じられて地方支配をおこなう一方、ヤマト政権に対して奉仕や労役 のため部民を差し出した。正

<007 古墳時代の文化>
1 古代の日本人は自然そのものを神と崇め、自分たちの祖先を氏神として祀ったため、日本の固有信仰は「八百万の神」と言われるような多神教と なった。正

2 祭りのときに神を迎えるため、祓や禊でケガレを清め、太占や盟神探湯という占いで神意を尋ねた。のちには神を迎える場が常設され、神社が建て られた。正

3 毎年、豊作を願うためにおこなわれるのが農耕儀礼である。春には祈年祭が催されて予祝がおこなわれ、秋には収穫感謝のために大嘗祭が執行され た。誤
★毎年秋におこなわれる農耕儀礼は新嘗祭。大嘗祭は天皇即位後、最初の新嘗祭のこと。

4 ヤマト政権が地方の豪族を従える中で、出雲大社や諏訪大社など地方で祀られる神々がヤマトの神話の中に取り込まれていった。こうして成立した 物語が「天皇記」「国記」である。誤
★神話を伝えるのは「帝紀」「旧辞」。

5 朝鮮半島からは小豪族が政治亡命で渡来し、渡来系氏族を形成した。弓月君は日本では司馬氏を名乗り、養蚕や機織で仕えた。誤
★弓月君は秦氏となる。

6 ヤマト政権が全国支配を目指す上で、文字の使用は欠かせなかった。阿知使主を祖とする東漢氏、王仁を祖とする西文氏は、いずれも文筆で政権に 仕えた。正

7 朝鮮半島からは先進技術を持つ者たちが渡来し、土師部、錦織部、韓鍛治部、玉作部などの品部を充実させた。王仁が「論語」をもたらし、新羅か ら五経博士が来日するなど、儒教も広まった。誤
★土師部や玉作部は渡来系ではない。五経博士は百済から来日。

8 「上宮聖徳法王帝説」には、538年、百済の聖明王から欽明天皇に仏像と経典が贈られたと記され、これが仏教の公伝である。「日本書紀」は、 これを552年のことと記している。正

9 6世紀になると、山の尾根を利用した小さな円墳がたくさん築かれ、密集して群集墳が形成されているところもある。これらは首長クラスではな く、有力農民の墓だと考えられている。正

10 6世紀の後期古墳は横穴式石室を持つのが特徴である。これは追葬が可能であり、家族墓として用いられたことがわかる。副葬品には木鍬や木鋤 などの農具が多く、豊作を祈ったものと思われる。誤
★副葬品は日用品や土器であり、農具は副葬されない。

<008 飛鳥の朝廷>
1 5世紀末にはヤマト政権内部で政治抗争が繰り広げられ、王統断絶、葛城、平群氏の没落などの混乱が生じた。大伴金村が台頭したが、任那4県の 百済への割譲で加耶諸国の離反を招き、失脚した。正

2 新羅が加耶諸国を支配下に置いたことから、ヤマト政権は出兵して阻止を試みた。しかし、筑紫国造磐井が乱を起こしたため朝鮮半島に渡海するこ とが妨げられ、やがては残りの加耶の地も新羅に吸収された。正

3 渡来人出身の蘇我氏は欽明天皇との姻戚関係を利用して大臣となり、内蔵、外蔵、大蔵の三蔵を管理して財政を掌握し、政治改革に着手した。誤
★蘇我氏は渡来人出身というより、渡来人と結合した豪族。外蔵ではなく斎蔵。

4 百済の聖明王から仏像と経典が伝えられた際、欽明天皇は敬うかどうかを諮問した。蘇我稲目が受容を進言したのに対し、大連の物部守屋は国神の 怒りを招くとしてこれを拒否した。誤
★蘇我稲目と対立したのは物部尾輿。

5 蘇我氏と物部氏は皇位継承をめぐっても対立した。蘇我馬子は物部守屋を滅ぼし、崇峻天皇を擁立したが、天皇と対立するとこれを暗殺して政権を 掌握した。正

6 推古天皇は初の女帝であり、叔父の蘇我馬子と、甥の厩戸王(聖徳太子)の補佐を受けて執政した。また、600年には新羅の支配を目指して遣隋 使を派遣し、安東大将軍に任じられた。誤
★600年の遣隋使は朝鮮半島における立場を隋に認めてもらおうとしたもの。新羅支配が目的ではないし、安東大将軍に任じられたこともない。

7 冠位十二階は、豪族の身分を確定し、官僚制を整備するために出された。徳・仁・礼・信・義・智の儒教の徳目をもとに大小に分けた位が豪族を単 位に授けられ、世襲された。誤
★冠位十二階は個人単位に位を与えて官僚として組織することを意図したもの。

8 十七条憲法は推古朝の政治理念であり、豪族間の融和、仏法僧の三宝を敬うこと、詔の絶対性などが命じられている。天皇を中心に仏教による統一 国家建設を目指したものと言える。正

9 607年、遣隋使として小野妹子が派遣された。新羅をけん制する目的で対等外交を求めたのに対し、隋の煬帝が激怒したことが「日本書紀」に記 載されている。誤
★煬帝激怒の記事は「隋書倭国伝」に記されている。

10 隋は高句麗遠征を念頭に答礼使・裴世清を派遣してきた。その帰国に際し、高向玄理、僧旻、南淵請安などが留学生として隋に渡り、飛鳥文化の 形成や大化改新に影響を与えた。正

<009 大化の改新と国際情勢の変化>
1 中国では隋が滅亡し、618年に建国された唐は、公地公民、均田制、租庸調の税制を柱とする強力な律令国家を築いた。日本は630年、阿倍仲 麻呂を遣唐使として派遣している。誤
★第1回遣唐使は犬上御田鍬。

2 推古天皇の死後、蘇我蝦夷・入鹿は厩戸王の子である山背大兄王を滅ぼし、独裁体制を固めた。中大兄皇子や中臣鎌足はこれに反発し、乙巳の変で 蘇我氏を滅ぼした。正

3 乙巳の変後、孝徳天皇が即位し、中大兄皇子は皇太子、中臣鎌足は内臣となり、高向玄理、僧旻は国博士に就任した。都は難波長柄豊碕宮に移され た。正

4 646年、改新の詔が出され、豪族私有地の田荘や私有民の部曲が廃止されて公地公民制が導入された。各豪族は官吏として登用され、屯倉が与え られることになった。誤
★官吏に与えたのは食封や布帛。

5 改新の詔では各国に国司を置き、その下に郡司を配して地方分権を徹底させることとした。また、交通制度を整え、伝馬や駅馬などを設置すること とした。誤
★地方分権ではなく中央集権を目指した。

6 改新の詔では、計帳を作成して班田収授の台帳とするとともに、戸籍を作成して人民を把握し、これに基づいて租庸調の税を課すこととした。誤
★計帳は課税台帳、戸籍は班田収授の台帳。

7 孝徳天皇の死後、皇極天皇が重祚して斉明天皇となった。中大兄皇子は、有力な皇位継承候補であった有間皇子を謀殺し、専制体制を打ち立てた。 正

8 日本の同盟国の百済は、高句麗と新羅の連合軍に攻められて滅亡した。日本は百済再興のため出兵したが、白村江の戦いで敗れて撤退した。誤
★百済を滅ぼしたのは唐と新羅連合軍。

9 白村江の戦いの敗戦後、日本は防衛体制の構築を急いだ。九州沿岸には防人が配置され、大宰府防衛のために水城が作られ、大野城など朝鮮式山城 が築かれた。正

10 白村江の戦いの敗戦で、都も飛鳥から近江大津宮に移された。この後、朝鮮半島では高句麗が滅び、新羅が半島を統一することになった。正

<010 律令国家の完成>
1 中大兄皇子は弟の大海人皇子を政治協力者とし、日本最初の令として近江令を制定し、日本最初の全国的戸籍として庚午年籍を作成した。近江令は 「令集解」と「令義解」に所収されている。誤
★近江令は中身が伝わっていない。

2 672年、天智天皇の死後、子の大友皇子と弟の大海人皇子が皇位をめぐって戦ったのが壬申の乱である。大海人皇子は吉野を拠点に大和の大豪族 を味方につけて戦い、近江の新興豪族の支持を得た大友皇子を滅ぼした。誤
★大海人皇子に味方したのは東国豪族。大友皇子に味方したのは大和の伝統豪族。

3 壬申の乱後、大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となり、飛鳥浄御原律令の制定に着手して中央集権化を強力に進めた。天皇号や日本の 国号が定まったのはこの頃とされる。正

4 八色の姓は、新興の豪族を含めて身分秩序を再編するために定められた。最高位の臣、連の下に朝臣や宿禰を配し、冠の色で見分けができるように した。誤
★八色の姓の最高位は真人。冠の色は関係ない。

5 国家権威の発揚につながるものとして、天武天皇は「帝紀」「旧辞」を集成し、正史の編さんを命じた。この事業は中断するが、最終的には「古事 記」「日本書紀」の成立につながった。正

6 富本銭は天武天皇の時代に発行された貨幣である。かつて、日本初の貨幣は和同開珎とされていましたが、現在は富本銭が最古とされている。正

7 天武天皇の死後、皇位継承者の草壁皇子が急逝したことから、皇后が即位して持統天皇となった。この女帝は、孫が成長し、文武天皇として即位す るまでの中継ぎでもあった。正

8 持統天皇の時、飛鳥浄御原令の施行に合わせて庚寅年籍が作成された。これは後の戸籍の台帳として永年保存され、この戸籍に基づいて租庸調を徴 収した。誤
★永年保存とされた戸籍は庚午年籍。庚寅年籍によって班田収授がおこなわれた。

9 持統天皇は藤原京への遷都を命じた。唐の都・長安をモデルにしたもので、中心に天皇の居所である藤原宮が置かれ、ここから延びる放射状の道路 と同心円状の道路で街区を区切った。誤
★藤原京の都市計画は碁盤の目状の条坊制に基づく。
10 大宝律令は藤原不比等、刑部親王によって編さんされ、701年に完成した。この律令は古代国家の根本法典となり、律令国家体制が成立するこ とになった。正