<フィリピ ン移民の話>
民俗学では聞書き調査を重視します。聞き手が話者から聞いた話は基本的には1次資料であり、他の誰も知らない事がらです。それを使ってレポート
を書くこ
とは、それだけでも評価に値します。世相史的にその資料を使おうと思った場合はどうすればよいでしょうか。聞書き資料はともすれば特殊な事がらと
捉えられ
てしまうこともあるため、それぞれの時代相の中で普遍化してゆくことが必要です。文献資料では伝わらないリアリティを聞書き資料によって肉付け
し、その時 代を生き生きと伝えることができれば、レポートであれば100点満点でしょう。
民俗学的手法によって歴史に迫るジャンルをオーラルヒストリーと呼びます。若い人がこの手法を用いてレポートを書く際のヒントになればと思い、
実践例を 掲げてみました。
日本人のフィリピン移民
『可児市史』編さん事業に関わる調査の際、岐阜県可児市今渡でフィリピン移民に行っていたおばあさんから話を聞く
機会がありま
した。これは全くの偶然の産物であり、本当は昔の嫁入り習俗を聞こうと思っていたのです。しかし、フィリピンの話がおもしろく、話を軌道修正する
ことなく 移民の話を聞いてしまいました。
日本は人口の割に耕地が少なく、明治以降は大量の移民を海外に送ってきた国です。ハワイやアメリカのカリフォルニア、ブラジル移民などが有名で
すが、東
南アジアではフィリピンのミンダナオ島に多くの移民が出ていました。フィリピン移民についてはあまり知られていないようですが、太平洋戦争前には
ダバオと いう町に約2万人の日本人が住んでおり、もっと注目されてもよいと思います。
「南の花嫁さん」
Iさんは大正4年生まれで、現在の可児市今渡の出身です。昭和10年(1935)にフィリピン移民に行っていたご
主人と結婚 し、ミンダナオ島に渡りまし た。
日本は昭和5年(1930)に昭和恐慌を経験し、特に生糸価格の暴落で農村は大打撃を受けました。昭和6年(1931)に満州事変が起きると軍
需景気に
よって経済状況は上向きになりますが、農村の状況は改善せず、移民を勧める風潮がありました。行く先は満州が多かったのですが、学校の先生をして
いたIさ
んのお姉さんが、「満州は寒い」と言っていたため、Iさんは暖かなフィリピンにしたということです。なお、当時、フィリピンは日本で比島と呼ば
れ、アメリ カの植民地支配を受けていました。
満州開拓に渡った人たちのもとに嫁いで行く女性に対し、比島に行く女性は「南の花嫁さん」とでも呼ぶ存在です。
Iさんは16歳からフィリピン移民に行っていたご主人と結婚することで南の島に渡ります。ご主人は日本人女性と結婚するために一時帰国し、見合を
したそう
です。この当時の結婚は、親同士で話をつけておき、見合まで話が進めばあとは断れないようなものでした。親から結婚話がきた段階で、Iさんはフィ
リピン行 きを覚悟します。
フィリピン行きを決断させたもの
当時の可児市今渡の生活状況は芳しくありませんでした。今渡は木曽川が濃尾平野に出たところ、飛騨川との合流点の
すぐそばで、 川の南に位置するムラで
す。Iさんによれば「川合や今渡は米がとれなかった。昔は田がなかった」と言います。川がすぐそばに流れていてもムラの周りの耕地の比高が高く、
水を引く
ことができなかったからです。木曽川の自然堤防上であり、川の氾濫で砂が堆積したところだったと言えます。「そのため、蚕をたくさん飼っていた。
蚕を飼っ て米を買っていた」のです。
養蚕は近代の農家にとってほとんど唯一とも言える現金収入源でした。生産された繭は製糸工場に送られて生糸となり、アメリカに向けて輸出され、
多くは下
着や靴下になりました。今渡では「5月10日過ぎに春蚕を飼い始め、6月10日頃に繭になった。その後、盆の頃の夏蚕はあまり飼わなかったが、8
月の秋蚕
はたくさん飼った」といいます。養蚕は効率よく蚕に桑を食べさせるのが肝心でした。「春蚕の餌は軸から出た芽を桑切りハサミで切って持ち帰り、家
で手でし
ごいて取って」食べさせました。「夏蚕と秋蚕はツメを使って葉を摘み取って」与えます。夏休みには子供が桑摘みに行き、家業を支えていました。蚕
に与える
桑が足りなくなるとたいへんで、そのままだと死んでしまいます。蚕は好き嫌いの激しい虫で、桑以外は食べません。このため、桑の余っている人から
もらった
り、桑問屋から買うことになります。桑問屋はたくさん桑を作って余った人から買い集める業者です。桑問屋は今渡に2軒くらいあり、摘んだ桑を篭に
入れて1
貫目いくらで売っていました。葉はいきるので、ひろげて水を撒いておくと3日くらいはもったといいます。取れた繭は広見の製糸工場に売りました。
ところが、アメリカ経済が世界大恐慌で破綻したため、「昭和10年頃は蚕が安く、精繭で1貫目2円30銭」ということになりました。このため、
生活に
困った農家では女の子を工場に働きに出すようになります。Iさんの家は、この頃国鉄の高山線が敷かれるという話を聞き、投資のために山を買ってい
ました。
ところが汽車はなかなか通らず、投資したお金が回収できなくて家が破産してしまったそうです。これが、フィリピン行きを決断させた理由でしょう。
フィリピンに行くまで
昭和10年6月に見合をしたIさんはすぐに結婚を決意しました。兼山にあったご主人の実家のお墓参りに行った後、
7月には実家 のある今渡で結婚式を挙
げ、その後は比島行きのための準備に追われました。ご主人もいつまでも日本にいるわけにはいかず、8月末には比島に戻らなくてはなりませんでし
た。名古屋
で必要なものを買いそろえ、もう日本には戻って来られないかも知れなかったため、京都に旅行に行ったりしました。嫁入道具と言っても、長持やタン
ス、布団
は必要がなく、比島では着物もいらなかったので簡単な洋服ばかりを用意したといいます。ただ、下駄などは向こうにはないので買ってゆき、ミシンは
向こうで 買って洋裁を覚えたそうです。
神戸から船に乗り、現地までは別府、門司、長崎、台湾の基隆、高雄、マニラ、ダバオというように進みます。貨物船に乗れば立ち寄り先がないので
1週間く らいで着きますが、客船の場合は15日くらいかかったといいます。
ダバオとその近郊
Iさんのご主人の農園があったのは、ダバオのそばのツインリバーというところでした。ダバオは当時は「南洋の東
京」と言われ、 何でも日本から届き、ここ
には日本の領事館、寺、中学校、女学校、日本人病院などがありました。日本人は2万人くらい住んでいて、沖縄の人だけでも1万人はいたといいま
す。もとも
と、1907年にマニラ麻を扱う太田興業株式会社が設立されたことで移民が拡大し、先住のバゴボ族と話を付けてミンタルというところの土地を獲得
し、 4000戸の日本
人移民が3万ヘクタールの麻農園を経営していました(『読谷村史』第5巻資料編4「戦時記録」上)。ミンタルには日本人町が形成されます。
ツインリバーは日本政府が借りたところで、近くのマナンブランには学校や麻を集めるところや、最初にミンダナオ島開拓をおこなった太田興業の本
店なども あ り、比島でも一等地の部類でした。
マニラ麻の栽培
比島に移民で行った日本人は、船舶用ロープの原料として海軍や船会社での需要が多かったマニラ麻の栽培をしていま
した。日本で の暮らしが貧しくて移民で
行った人たちは、最初は日本人が経営している農園で働き、ここで元手を作ってから山を開いて麻を植え、自分の農園を持つようになってゆきます。麻
を引くた
めの機械も購入しなければならず、お金は相当稼ぐ必要がありました。Iさんのご主人もそうして麻農園を経営していた人でした。Iさんの農園では、
麻は2〜 3町作っていて、比島は暖かいので肥がなくても一年中収穫ができたといいます。
マニラ麻は里芋のようなものから茎が伸び、悪くても7尺、いいものだと1丈2尺ほどの長さに育ちます。茎の太さは20センチくらいで、これを倒
して車で
運んできて、包丁で傷を付けて皮をむしります。皮むきは背の大きな人の仕事で、お金がよかったそうです。これを石油で動く発動機の機械にかけてつ
ぶしま
す。水が出るので翌朝の5時から麻干し場で干し、夕方に取り込んで生糸のように丸く縛って重ね、倉庫にしまっておきました。倉庫にいっぱいになる
と売り、 マニラ麻はトラックで引き取られてゆきます。
麻農園の使用人
マニラ麻栽培には人手が必要であり、Iさんの農園では比島人の使用人を常時15,6人雇っていました。現地の人た
ちはビサヤと いい、「土人」というと怒
られました(ビサヤは実際にはミンダナオ島で話されている言語のことです)。作付け面積が少ない農園であれば年に2〜3回の収穫時だけ人を5〜6
人雇う程
度でしたが、Iさんの農園は広かったため、いつも収穫していたし、草取りなどの仕事でも6人くらいは必要でした。作っていたのはマニラ麻だけで、
使用人の
ことをヘンテと呼び、他にムチャチャという女中さんが一人いてヘンテのご飯の仕度をしていました。ヘンテは住み込みで、別棟に住んでいましたが、
おとなし い人たちで、独身の男の人ばかりでした。そのうちの一人は結婚し、子供もできて家族で暮らしていたといいます。
給金は麻を売ったときに油代などを引いた残りを使用人とヒキワケにしていました。給金は現金支給ではなくIさんのところで預かり、ツインリバー
の太田興
業の出張所に預けておきました。Iさんのところは「イグアルバンコ(銀行と同じ)で、お金を預けてもすぐにもらえる」といって信頼されており、3
日前に話 してもらえば、預かったお金を引き出してきました。
フィリピンでの生活
家は日本人大工に作ってもらい、2階建てで階下は倉庫になっていました。麻は引いた日に干さないといい麻になら
ず、倉庫には乾 燥させた麻をしまっておき
ました。2階は板の間に上敷きを敷いて居室として使っていました。ヘンテの住まいも2階建てで、彼らは階上に寝てベッドか布団(毛布程度)を使っ
ていまし た。階下はご飯を食べるところと麻を引く作業場になっていて、発動機が置いてありました。屋根はいずれもトタン葺きです。
比島の海岸部は暑いところですが、ツインリバーは過ごしやすく、ホウレンソウやサツマイモもできました。しかし、一生懸命に作っても1反くらい
の野菜を
盗まれることもあり、そのうちに野菜は作らなくなって食べ物は購入するようになったといいます。米はカリフォルニア米がおいしく、日本米は高かっ
たし南京
米はまずいので食べませんでした。家族のご飯はIさんが作り、子供が生まれてたいへんな時期にだけ女中さんを雇っていました。茶碗は日本から持っ
てゆき、 テーブルを使っての食事でした。
魚は豊富で、魚屋が自動車で日本人の家をまわって売りにきました。カツオを一匹ごと買い、刺身はいつでも食べることができたといいます。食べ残
ればタキ ギで燻して薫製にして保存しました。
水道はミンタルにはありましたが山の中腹のツインリバーにはなく、トタン屋根で雨水を受け、これを6つくらいのタンクに貯めて使っていました。
毎日
15〜20分くらいのスコールがあったので、水は充分にまかなえました。風呂は日本から五右衛門風呂を持って行き、これにタンクの水を入れて毎日
入ってい ました。
電気は来ていなかったため、ドイツ製の空気を入れるランプを使っていました。これは明るかったそうです。煮炊きに使うタキギは、最初に2町の山
を開いて 麻の畑にしたとき、たくさんの木を切っていたため、これをノコギリで引いて割って使っていました。これは比島人の仕事でした。
また、時々新聞屋が日本の新聞を売りにきたので、懐かしいので買って読んでいたそうです。もちろん、日にちは何日も遅れたものが届くことになり
ます。楽 しみは近所の人とダバオに遊びに行くことでした。帰りには支那料理を食べてきたといいます。
多くの日本人が住んでいたため、お産の際も日本人の産婆さんを頼んできました。床屋の奥さんと歯医者の奥さんが産婆をしていて、生まれそうにな
ると使用
人に隣家の日本人を呼びに行ってもらい、ハイヤーを頼んで産婆にきてもらいました。隣家といっても近い家で200メートル、あとは500メート
ル、1キロ くらいの距離だったといいます。
現地で使っていた言葉は、基本的に日本語で事足りたようです。「英語を習うとよいといっていたが、現地の人はウノ、ドス、トレスというようにス
ペイン語
で勘定をしていた。夫のことを探すのに、「ドンデ、アモ」といっていた」というように、アメリカ統治下にあっても、土地の人たちはそれまで植民地
支配をし ていたスペインの言葉を使っていました。もちろん、土地の人同士はビサヤ語を使っていたはずです。
フィリピンの日本人と現地の人
Iさんの比島での生活を聞くと、日本にいたときよりも豊かであった感を受けます。マニラ麻の栽培が軌道に乗れば、
現地の使用人 を何人も雇い、食べるもの
にも事欠かなかったようです。また、ダバオ近郊の日本人は日本人社会を作っており、ある程度は日本式の生活を持ち込んでいました。移民の人の家が
日本人の
手で作られたり、日本人の産婆さんを頼んでいたように、現地の人たちとは別個の暮らしを営んでいたといえます。現地の人との接触は、農園の雇用主
と使用人
という関係のものでした。これは南米でファゼンダを営む農場主と現地労働者のインディオの関係と同じです。ここで雇用されていたフィリピン人は1
万
2000人以上(『読谷村史』第5巻資料編4「戦時記録」上)に上ったといいますが、この現地の人たちはどんな目で日本人移民を見ていたのでしょ
う。
日本人の農場主は生活程度も高く、現地の人たちにとって見ればうらやましいものだったはずです。ともすれば労働力を搾取する存在と見られること
もあった
でしょう。現地の人に対して彼らを見下したり、ひどい扱いをする場合もあったようです。Iさんによれば、「喧嘩して殺された人もいるが、そういう
のは日本 人が悪かった」と言います。
また、ミンダナオ島には様々な民族が住んでいて、必ずしもお互いが理解し合っているわけではなかったようです。Iさんは「山から来る人があり、
コウライ キビなどを持ってきてマッチや石鹸と換えてくれといってきた。怖いので、そのまま物を出してやった」と言います。
日本人の開拓した土地は、現地の人たちに土地に対しての所有観念がなかったことから、アメリカ政府と交渉して入手したものでした。それまでの現
地の人た
ちの土地の慣例から言えば、日本人移民は不法に土地を占拠していると見られていました。そんなことから現地の人たちとの間で土地争いも起きていま
す。Iさ
んは、「土地問題が起きると、来栖大使が来て解決してくれた」と言い、日本政府の力により、腕づくで現地の人を押えているような場面もあったので
す。
太平洋戦争が起きると、フィリピンの人たちは移民で来ていた日本人たちに対して激しい憎悪の感情をぶつけてきます。一時は日本軍の上陸でフィリ
ピン人た ちは抑圧されるものの、ゲリラを作って日本人と戦い、アメリカ軍の上陸を待つことになります。
Iさん一家のその後
昭和16年になって戦争が迫ってくると、ミンダナオ島の状況も緊迫してきました。万が一に備え、Iさんはご主人を
島に残し、子 供3人を連れて日本に帰国
しました。4月に出航した最後の引き揚げ船で香港経由で戻ってきたといいます。寄港地の香港では、日本では買えないからといって、船員の人たちが
砂糖や油
を買っていました。砂糖は2俵も買っていたといいます。「支那人が売りに来て、円は嫌われていたがペソは使えた」そうです。6ペソが10円で、ペ
ソは日本 では使えないため「全て使ってしまえ」と言われていました。日本に戻ったIさんは、実家のインキョ屋で寝起きをしました。
12月8日の日米開戦により、ミンダナオ島の日本人は小学校などに収容され、中には監視をしていたフィリピンの人たちから虐待される例もあった
といいま
す。日本軍がフィリピンに上陸して収容されていた日本人を解放したのはそのすぐ後のことで、今度は逆に監視をしていたフィリピン人が虐殺されたり
しまし た。
昭和20年1月にはアメリカ軍がミンダナオ島に上陸し、日本軍と交戦します。ふたたび立場は逆転です。日本人移民の人々は山中に逃れたりしまし
たが、食
糧の欠乏で日本兵に殺されたり、現地の人に襲われたりという惨状が繰り広げられました。この間の出来事は『読谷村史』第5巻資料編4「戦時記録」
上
(http://www.vill.yomitan.okinawa.jp/sonsi/vol05a/index.htm)を是非見てくださ
い。いざとなれば兵隊は国民を守らないとい
う、戦争の実態が伝わってくるはずです。終戦の知らせを聞くことなく、そのまま逃亡を続ける人もあり、戦後も日本に戻ることなく、現地の土となっ
た人もた くさんいます。
Iさんのご主人は幸いなことに命は無事で、戦後になって帰国してきました。しかし、40年間をフィリピンで過ごしていたため、日本で再就職する
こともで
きず、見よう見まねで百姓仕事を始めたといいます。40年間かけて築き上げた全てのものを失ったご主人が、どんな気持ちで日本で暮らしたのか、そ
の無念さ は想像にあまりあります。
日本にとってのフィリピン移民とは
ハワイやアメリカへの移民とは異なり、フィリピンへの移民は日本人が現地の人たちを搾取する構図の上に成り立って
いました。こ れは満州移民の場合と全く 同じです。
太平洋戦争中、東南アジア各地で日本の支配に対する抵抗が試みられていますが、フィリピンは最も激しい抵抗を受けた地域です。その理由は、大正
時代以 降、急増する日本人移民と現地の人たちとの摩擦、それを腕づくで押さえて支配をしてきた歴史に対する反発だったと思われます。
移民でフィリピンに渡った人たちは、日本国内で没落し、ある意味では虐げられた人たちでした。彼らは新天地に行くと、現地の人たちを虐げること
で(それ は意図しなかったにせよ)経済的 に成長し、深い恨みを買ってすべてを失うことになります。
虐げる者と虐げられる者、それに対しての恨みと反発、このやるせない関係が何から生じたのかを考えることはとても大切な気がします。それが戦前
の日本を 見つめて反省し、これからの日本をよりよくしてゆくカギのはずです。
そして、今の日本の町では多くのフィリピンの人を見かけます。その人たちと日本人とが、現在どのような関係にあるのかを考えるのも大事でしょ
う。
もっと詳しく知りたい人のために
・河合弘之「フィリピン日系人の法的・社会的地位向上に向けた 政策のあり方に関する研究」2005、東京財団
インターネットで公開されています(PDF)。検索ソフトで調べてみてください。フィリピン移民の歴史、在比2世の人たちに対しての聞き取り、移
民の子孫 の人たちの現在置かれている状況などが記されています。
Copyright(C)2007 Makoto Hattori
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