日本史基本問題集


<原始・古代・中世・近世編>

1 日本文化の黎明
【1】旧石器時代
 日本の旧石器時代は、おおむね今から(1)(  )年以前の時代で、地質学ではおおむね(2)(  )世に該当する。この時代は寒冷な氷河期と温暖な間 氷期が繰り返され、総じて(3)(  )時代と呼ばれ、a火山活 動も活発であった。日本は大陸と地続きであったため、長野県野尻湖出土の(4)(     )や北海道出土の(5)(    )のような象 類が渡来し、これを追ってb人類もやって来た。こ の時代に日本が人類がいたことは、1946年に(6)(    )が群馬県(7)(  )遺跡でc打製石器を発見したことで確かめられている。これらの利器 は、狩猟に際しては(8)(  )として用いられた。
<設問>下線部について
a この結果、関東地方に堆積した地層を何と呼ぶか。
b この時代の化石人骨の出土例として、静岡県と沖縄県のものを記せ。
c この時代の打製石器は、どのように発展したか。次のものを古い順に並べ替えよ。
    (1)石刃・尖頭器  (2)細石器  (3)打製石斧(握槌)

【2】縄文時代
 氷河時代が終わると日本列島は大陸から切り離され、温暖化による自然の恵みは縄文文化を育んだ。狩猟には(1)(  )が用いられるようになり、a漁撈やb堅果の採集も盛んになった。旧石器時代は打製石器を用い、狩 猟採集をおこなったのに対し、新石器時代は(2)(    )の使用に加えて煮炊きのために(3)(  )を用い、(4)(  )(5)(  )をおこな う時代である。しかし、日本の縄文時代は、利器の点では新石器時代の段階にあるものの、(4)(  )(5)(  )の存在がはっきりしていない。
 縄文時代の人々は(6)(    )を建てて集落を作り、周囲にはゴミを捨てた(7)(  )が形成された。c貧富差や階級差はなかったと考えられるが、意図的に歯を抜く (8)(  )の習慣から、年齢による秩序が存在していたとされる。また、素朴なdアニミズムに基づく呪具が出土している。
 縄文文化の発展の様はe縄文土器の編年によって 確かめられる。また、石器の材料である(9)(   )が、産出地の長野県和田峠などから遠く離れた遺跡で出土しており、交易が盛んだったこともわかって いる。
<設問>下線部について
a 動物の骨や角を加工し、釣針として用いられた利器を何と呼ぶか。
b 堅果をすりつぶすために用いられた道具は何か。
c このことは、特殊な墳墓が築かれなかったことからもわかるが、遺体はどのような姿勢で埋葬されたか。
d 多産や豊穣を祈ったとされる呪具は何か。
e 次の土器を古い順に並べ替えよ。
    (1)火炎土器  (2)尖底土器  (3)亀ヶ岡式土器

【3】弥生時代
 縄文時代の末期、a水稲耕作、b金属器、弥生土器という新しい文化が大陸から日本に伝わり弥 生文化が成立した。稲を貯蔵する(1)(    )が多数建ち並ぶ大集落が形成され、貧富差や階級差が発生するとともに、c集落間の抗争も激しくなった。集落は小国へと発展し、その首 長は特殊な墳墓に埋葬されるようになる。北九州では、二つの大型土器を合わせた(2)(  )が一般に用いられたが、その上に巨石をかぶせた(3)(    )が作られ、近畿では、埋葬地の周りに溝をめぐらせた(4)(     )が現れ、やがては大型墳丘墓も登場する。首長たちは司祭者としての性格を持 ち、北九州では(5)(  )(6)(  )、瀬戸内では(7)(    )、近畿では(9)(  )が祭器として用いられていた。また、彼らは中国に使 いを送り、その後ろ盾を得て国内の抗争を有利に導こうとしている。
<設問>下線部について
a 初期の稲作は湿田でおこなわれた。収穫具として用いられたものは何か。
b 日本には青銅器と鉄器が同時に伝わった。それぞれはどのように使い分けられたか。
c このことは遺跡の状況などから判明している。具体的にはどのような事例があるか。

【4】小国の分立と邪馬台国

A 夫れ(b)海中に倭人有り。分れて百余国を為す。歳時を以て献見すと云ふ。

B 倭人は(c)の東南大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす。…dその国、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。 倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名づけて(e)といふ。鬼道に事え、能く衆を惑はす。…景初二年六月、倭の女王、大夫難 升米等を遣はし、郡に詣り、天子に詣りて朝献せむことを求む。…其の年十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く「…汝を以て(f)となし、金印紫綬を仮 し…」。

C 建武中元二年、倭の奴国、奉貢朝賀す。…光武、賜ふにg印綬を 以てす。…安帝の永初元年、倭の国王帥升等、h生口百 六十人を献じ、請見を願ふ。
<設問>
a A〜Cの史料を古い順に並び替え、それぞれの史料名を記せ。
b (b)に適する地名を記せ。
c (c)に適する地名を記せ。
d 下線部dの国の名前を記せ。また、その所在地についての有力な説を二つ記せ。
e (e)に当てはまる語句を記せ。
f (f)に当てはまる語句を下記から一つ選べ。
    漢委奴国王  安東大将軍倭王  親魏倭王
g 下線部gが出土した場所を県名とともに記せ。
h 下線部hは何と考えられているか。

【テーマ】縄文時代と弥生時代の遺跡
<設問>次の文で示された遺跡名を記せ。
a 1884年、従来の縄文土器とは異なる形式の土器が発掘され、弥生土器の由来となった東京都の遺跡。
b 1877年、アメリカ人モースが発見し、縄文文化の存在を明らかにした東京都の遺跡。
c 縄文時代晩期の土器とともに水田跡が出土した福岡県の遺跡。
d 多数の農具が出土し、弥生文化が稲作農耕文化であることを証明した奈良県で最大級の遺跡。
e 高床倉庫跡に加え、初めて畦や水田跡が発掘された静岡県の遺跡。
f 弥生時代の最大級の環濠集落跡で、高床倉庫、甕棺墓、墳丘墓などがまとまって出土し、小国をイメージさせる佐賀県の遺跡。
g 1500年間にわたり大集落が形成され、大型掘立柱建物跡が出土したことから、それまでの縄文時代の常識を覆すことになった青森県の遺跡。
h 多数の銅鉾、銅剣、銅鐸が発見され、異なる祭器によって文化圏が形成されていたとする従来の説に再考を促した島根県の遺跡。


2 ヤマト政権の成立と国土統一
【1】ヤマト政権の成立と国土統一
 ヤマト政権は畿内の豪族が連合して形成したもので、3世紀にはa支 配者の墳墓として古墳が築かれた。当時、朝鮮半島北部には(1)(   )が建国され、半島西南部の馬韓は(2)(  )、東南部の辰韓は (3)(  )によって統一されたが、最南部は統一されず、(4)(  )と呼ばれて小国の連合体であった。当時、日本は倭と呼ばれていたが、ヤマト政権 は国土の統一を図るために進んだ生産技術や鉄資源を求め、(2)とb同盟を結び、(4)と接触している。この同盟のため、4世紀 になるとヤマト政権は朝鮮半島に出兵し(1)と戦い、その様子は(5)(   )碑に記されている。
 5世紀になるとc古墳は巨大化し、形態はほぼ (6)(     )に固定され、葬列を模した(7)(  )が並べられた。また、地方にも築かれるようになり、ヤマト政権がほぼ国土統一を成し遂げたこ とを物語っている。事実、ヤマト政権の大王である(8)(     )の名を記した遺物が、d埼玉県と熊本県で発掘されている
 この時期、ヤマト政権は朝鮮半島では劣勢となっており、いわゆるe倭の五王が、中国南朝に使いを送って軍事権を認めてもらおう とした。中国史書の「(9)(     )」には、478年に倭王武が遣使し、(10)(     )の称号を得たことが記され、武は(8)に比定されて いる。
 当時の社会は、同一祖先を神として祭る(11)( )を単位としていた。小国の支配者がヤマト政権の大王と連合すると、その証しとして(12)( )と 総称されるf称号が与えられ、彼らは(13)(   )(14)(  )と呼ばれる私有地、私有民を支配する一方、gヤ マト政権の職務を分担した。地方の支配者は(15)(  )として地方支配を委ねられたが、私有民の一部は(16)(  )と呼ばれる大王 の直属民となり、大王の直轄地である(17)(  )が各地に設置され、ヤマト政権の力は地方に拡大していった。
<設問>下線部について
a 埋葬された支配者の性格は、4世紀と5世紀の副葬品を比較すると明らかに異なっている。副葬品および支配者の性格の差を説明せよ。
b 同盟の証しとして百済から倭に贈られ、奈良県の神社に残されているものは何か。
c 巨大古墳は河内平野に築かれた。代表例を記せ。
d それぞれの遺物の名前を記せ。
e 中国に対して表明した5人の名前を記せ。
f 称号の例を4つ記せ。
g 私有民を率いて特定職務に従事した際の役職名は何か。また、職務に従事した部民を何と呼んだか。

【2】古墳時代の文化
 古墳時代には日本の固有信仰が成立し、鹿の骨を焼いて占う(1)(  )や熱湯中の石を取らせて正邪を判定する(2)(    )などがおこなわれた。 神を祀るにあたり、身を清める(3)( )(4)( )などの儀式も始まった。一方、大陸の先進技術・文化も、いわゆる渡来人によってもたらされた。従来 の土師器に加え、(5)(   )が焼かれるようになったのもその表れである。(6)(   )を祖とする秦氏が養蚕で仕えた他、a技術系部民も充実した。漢字の伝来は国土統一のために大きな 役割を果たし、後漢の霊帝の末という(7)(    )から始まる東漢氏、漢の高祖の末とされ、「論語」を招来した(8)(  )に始まる西文氏が文筆で 仕えた。日本における最古の漢字使用例として、和歌山県の(9)(          )が知られている。また、仏教は百済の(10)(   )が仏像と 経典を(11)(    )に贈ったことでb公式に伝わっている
 6世紀になると従来の古墳に加え、小規模な(12)(  )が一カ所に密集する(13)(   )が出現した。c5世紀のものと6世紀のものとでは石室の構造や副葬品にも変化が現れ、 有力農民の家族墓と考えられている。
<設問>下線部について
a 渡来系の技術者の部民として、どのようなものがあったか。二つ記せ。
b 仏教公伝には二説ある。その出典と伝来年代をそれぞれ記せ。
c それぞれ、どのような変化が生じたかを記せ。


3 律令制中央集権国家の建設 
【1】飛鳥の朝廷
 6世紀になると、朝鮮半島では新羅が勢力を強めた。大連の(1)(    )が百済に任那4県を割譲したこともあり、加耶(任那)諸国はヤマト政権から 離反する動きを見せた。527年には北九州で(2)(      )の乱が起き、562年には朝鮮半島の拠点を完全に失った。国内では渡来人と結び財政を 握った大臣(3)(   )と、軍事・神事を担当した大連(4)(   )が仏教受容や皇位継承をめぐって対立した。(5)(    )を倒して両氏の対 立を制し、実権を掌握した(6)(    )は、(7)(  )天皇を殺害したとされ、女帝の(8)(    )を擁立し、その甥(9)(   )ととも に中央集権化を目指す政治をおこなった。
 603年には、従来の氏姓制度に対し、個人の能力に応じて位階を授ける(10)(     )を定め、604年にはa王権への服従とb仏教を統一理念とする(11)(     )を出している。 また、中国を統一した隋に対し、(12)(    )をc遣隋使と して派遣し、先進文化の中国からの直接導入を目指した。この後に派遣されたd留学生は、後の大化改新に大きな影響を与えた。
<設問>下線部について
a 王権の正統性を示すための歴史書が編さんされたとされる。書名を記せ。
b 厩戸王が著わしたとされる経典の注釈書は何か
c この使節が従来の遣使と異なるのはどのような点か。
d 誰が派遣されたか。3人記せ。

【2】大化改新と国際情勢の変化
 推古天皇、厩戸王、蘇我馬子の死後、a政治を独裁し たのが(1)(    )(2)(    )である。これに反発した中大兄皇子は(3)(    )と結んでクーデターを起こし、b大化改新をおこなった。646年の改新の詔は4ヵ条からな り、政権直轄地の(4)(  )、豪族私有地の(5)(  )、私有民の(6)(  )を廃して公地公民制とし、公地を貸与する(7)(    )を採用 して租庸調の税制を導入するとした。もっとも、これらが実現するのは後のことである。
 一方、朝鮮半島では同盟国の百済が新羅によって滅ぼされ、中大兄皇子はその救済のために出兵した。しかし、663年、(8)(   )の戦いで唐・新羅 連合軍に敗れたことで半島の拠点は失われ、敗戦の対策に追われることになった。大宰府防衛のために(9)(  )が築かれた他、百済人の技術によって各所 に(10)(     )が作られ、都が(11)(     )に移されている。
<設問>
a この際に滅ぼされた厩戸王の子は誰か。
b この際、遷都されたのはどこか。また、唐から帰国した留学生が任じられた役職は何か。

【3】律令国家の完成
 668年、中大兄皇子は即位して(1)(  )天皇となり、初の令として(2)(   )を制定し、670年には初の全国的戸籍の(3)(    )を 作成した。天皇の死後、a弟と子が皇位を争って (4)(    )を起こし、勝利した弟が即位して(5)(     )となった。(4)(    )で有力豪族が没落したため強力な皇親政治が展開さ れ、新たな令として(6)(      )を制定し、(7)(    )を出して位階制を改めた。(5)(     )の死後は夫人が即位して(8)(     )となり、新戸籍として(9)(    )が作成され、初の唐風都城として(10)(   )が建設された。また、701年にはb大宝律令が完成し、c律令国家としての体制が整った。
<設問>下線部について
a それぞれの名を記せ。
b この編さんにあたり、中心となって活躍したものを2人記せ。
c 律と令は現在の法律では何に該当するか。

【4】律令制下の統治組織
 律令の身分制度で良とされるものは官人と公民に大別され、他に手工業で奉仕する(1)(    )がいた。賤は5種類あり、奴隷にあたる(2)(  ) には公有と私有の者がいた。中央官庁はa二官八省一台五衛府と総称され、地方ではd官道沿いにe国が置かれ、その下に郡、さらにその下に里が置かれた。都周 辺はf畿内と呼ばれた。要地のうち都には(3) (  )、畿内の外交の要地・難波には(4)(   )、九州には(5)(   )が置かれた。
 官人には位階に応じて官職に任じられ、この制度を(6)(    )制という。また、四等官の制により、各官庁には4種の上等官人が置かれた。5位以上 の貴族には様々な特権があり、封戸を指定して収入を得る(7)(  )の他に田地を持ち、(8)(  )の制によってその身分は世襲された。
<設問>下線部について
a 二官とは何か。
b このうち、税務や戸籍を担当したのは何か。
c これは官吏の監察をおこなった。役所名を記せ。
d 7つの官道をすべて記せ。
e 国司と郡司はどのような者が任じられ、任期はどのようてあったか。
f 五畿の国をすべて記せ。

【5】律令制下の農民
 a戸籍と計帳は(1)(  )と呼ばれる親族集 団を単位に作成された。班田収授でb口分田を貸与 された農民には(2)( )を納める義務があり、正丁男子を中心に中央で労役を負担する(3)( )、特産物を納める(4)( )が課された。(3) ( )は長さ(5)(    )の布で代えることができた。これらを都まで運ぶ(6)(  )の他、地方での労役の(7)(  )の負担もあった。兵士と して徴発された者は地方の(8)(  )で訓練を受けたが、c都 や九州の警備に就く者もあった。この他、凶作に備えて穀物を蓄える(9)(  )、高利で稲を貸付ける(10)(  )も負担の一種であっ た。
<設問>下線部について
a 戸籍と計帳が作られた目的と、作成される間隔について記せ。
b 次のような戸の場合、どれだけの口分田が貸与されたか。
   男62歳、女56歳、男38歳、男35歳、男28歳、男16歳、女5歳、奴18歳、婢17歳
c それぞれ警備をした者は何と呼ばれたか。


4 律令国家の充実と動揺 
【1】平城遷都と律令国家の充実
 710年、(1)(  )天皇が平城京に遷都し、奈良時代が始まった。律令国家の充実ぶりは、a皇朝十二銭の最初の貨幣として、708年に(2)(      )が出されたことからもうかがわれる。また、天皇中心の歴史書として、b「古事記」「日本書紀」が完成するのもこの時期である。非服 属民の(3)(  )が住むc東北地方の攻略も進 められた。また、九州南部に住む(4)(  )もd服属するよう になった
 第一回遣唐使は630年に派遣された(5)(     )であり、唐からの帰国者は、e政界や宗教界で活躍をした。また、朝鮮半島へは(6)(     )が、沿海州へは(7)(    )が派遣された。
<設問>下線部について
a この貨幣の流通を促進するため、出された法令は何か。
b それぞれの編さん者と、記述に用いられた文字の差について記せ。
c 次の出来事を古い順に並び替えよ。
    (1)出羽国を設置し、多賀城に鎮守府を置く  (2)阿倍比羅夫が粛慎と戦う  
    (3)渟足・磐舟柵を設置する
d この結果、分置された国は何か。
e それぞれの例を記せ。

【2】奈良朝の政争
A (1)(  )天皇の死後、(2)(    )によって天智系の(3)(  )天皇が擁立された。政治の刷新が始まり、次の桓武天皇に受継がれた。
B (4)(   )の異父兄である橘諸兄が、唐から帰国した(5)(  )(6)(    )を用いて政治をおこなうと、これに反発した(7)(     )が九州で乱を起こした。
C (8)(     )は平城京遷都や大宝律令の制定で活躍し、娘の(4)(   )を聖武天皇に嫁がせた。
D (9)(  )の天皇への即位は(10)(     )によって阻止された。この(11)(     )神託事件後、(9)(  )を寵愛した(1) (  )天皇が亡くなると、(9)(  )は下野薬師寺に左遷された。
E 聖武天皇の死後、娘が即位して(12)(  )天皇となった。皇太后の信任を得た藤原武智麻呂の子の(13)(     )が台頭すると、(14) (     )が乱を起こしたが鎮圧された。
F 藤原四兄弟は、右大臣となった(15)(   )と対立し、これを滅亡に追い込んだ。
G (12)(  )天皇は譲位後、看病禅師の(9)(  )と接近し、反発した(13)(     )の乱を鎮圧した。(9)(  )は重祚した(1) (  )天皇のもと、(16)(      )(17)(  )となって仏教政治をおこなった。
H 聖武天皇は遷都を相次ぎ、741年には(18)(       )、743年には(19)(      )を出し、仏教興隆によって世の中を安定させ ようとした。
<設問>A〜Hを時代順に並び替えよ。

【3】律令体制の動揺
 奈良時代の農民はa過重な負担を強いられ、b浮浪や逃亡が相次いでいた。このため、口分田が荒廃してc田が不足したため、743年には次の(1)(        )が出されて開墾が促された。

  聞くならく、墾田はd養老七年の格に依りて限 満つるの後、例に依りて収受す。是に由りて農夫怠倦して、開ける地復た荒ると。今自り以後は、咸悉永年取ること莫れ。

しかし、この法令によって有力貴族や大寺社の開墾熱が高まり、私有地の拡大と公地の囲い込みを招く結果となった。こうして成立した土地を(2)(     )と呼び、公地制は動揺を始めた。
<設問>下線部について
a 「万葉集」に収められている、生活にあえぐ農民を詠んだ歌と作者を記せ。
b この他、負担逃れのためにとられた行為に何があったか。
c 722年、長屋王政権のもとで出された開墾計画は何か。
d これは一般に何と呼ばれる法令か。

【4】平安遷都と律令国家の再建
 奈良朝の乱れた政治の刷新を目指した桓武天皇は、794年、a平 安京への遷都をおこなった。天皇は国司の不正を取り締まるため(1)(    )を設置し、b農民の負担軽減に努めた。一方、蝦夷の攻略を進めて(2) (      )を征夷大将軍に任じ、802年に北上川上流に(3)(   )を築いて多賀城から(4)(   )を移し、翌年にはその北に(5)(    )を築いた。
 嵯峨天皇は、宮中の秘密を保持するために藤原冬嗣を(6)(   )に任じ、平城上皇重祚を図った(7)(    )を鎮圧した。嵯峨天皇も律令制の再 建に積極的で、c法令の整備に努めてそのd集大成を図り、e令の注釈書も作成された。一方、京都の治安維持のためには新 たに(8)(    )が設置された。こうした律令外の官職を(9)(   )と呼んでいる。
<設問>
a これ以前に平城京から移された都は何か。また、そこへの遷都が中止となった理由は何か。
b 軍団兵士制が廃止されたことで、郡司子弟の志願制が採用された。これを何と呼ぶか。
c 律令の補足修正、施行細則をそれぞれ何と呼ぶか。
d 嵯峨天皇以降の法令の集大成の成果を何と呼ぶか。
e どのようなものが作られたか。2つ記せ。

【テーマ】古代宮都の変遷
<設問>次の文で示される宮都を時代順に並び替え、それぞれの名称を記せ(なお、fとgは同じ年であるので、先後を示さなくてもよい)。
a 白村江の戦いの敗戦で遷都された近江国の都で、壬申の乱で焼亡した。
b 聖武天皇が遷都を相次いだ時期の山城国の都で、国分寺建立の詔が出された。
c 大和三山に囲まれ、条坊制を採用した初の唐風都城として建設された。
d 天子南面のかなう都として奈良盆地北部に建設され、東に外京を持つのが特徴だった。
e 壬申の乱後、天武天皇が遷都し、「赤駒のはらばう田井」を都に変えたと歌われた。
f 聖武天皇が遷都した摂津国の都で、瀬戸内につながる港としても重要であった。
g 聖武天皇が遷都を相次いだ時期の近江国の都で、大仏造立の詔が出された。
h 和気清麻呂の建議によって建設された山城国の都で、1000年の王城として機能した。
i 平城京から遷都された山城国の都で、造都長官の暗殺事件によって廃都となった。


5 貴族の政治と律令国家の解体 
【1】藤原北家の台頭
 藤原北家は天皇に娘を嫁がせ、生まれた子を即位させることで(1)(  )の地位を獲得し、天皇が幼少の場合は(2)(  )、成人の場合は(3)(   )として代理政治をおこなった。一方、他の貴族が同様の手段で出世することについてはこれを排斥することになる。
 藤原冬嗣は嵯峨天皇から(4)(   )に任じられ、平城上皇重祚を図る(5)(    )(6)(    )の乱を鎮圧したことで天皇側近の地位を得 た。その子の藤原良房は、皇太子恒貞親王に謀反の疑いをかけ、(7)(   )(8)(   )を失脚させる(9)(    )を起こし、幼少の(10) (  )天皇を即位させて(2)(  )となった。後には、古代以来の名門(11)(   )を放火の嫌疑で失脚させる(12)(     )を起こして いる。その養子のa藤原基経は、高齢の(13) (  )天皇を即位させて(3)(  )に任じられた。続く宇多天皇は(14)(    )を用いて藤原北家をけん制しようとしたが、(15)(  )天 皇が即位すると藤原時平が謀反の嫌疑で(14)(    )を(16)(   )に左遷している。
 この後、(15)(  )天皇と村上天皇は、b延喜天暦の治と 呼ばれる天皇親政をおこなったが、律令体制の解体は進行した。
<設問>
a 藤原基経の(3)就任をめぐり、宇多天皇と対立した事件は何か。
b この時に出された最後の皇朝十二銭は何か。

【2】摂関政治の完成
 藤原実頼が左大臣(1)(   )を左遷する(2)(    )を起こすと藤原北家に対抗できる勢力はなくなり、摂関は常置とされるようになった。
 摂関政治の全盛期は、藤原道長と、その子の(3)(    )の時代である。特に道長は、4人の娘をa天皇に嫁がせることに成功し、3人の天皇の外祖父となってい る。この時期、摂関家には荘園寄進が相次ぎ、政治は消極的となり、地方政治の乱れが進行した。
<設問>
a 道長が「この世をば我が世とぞ思う」と歌った様を記した藤原実資の日記は何か。

【3】荘園の発展と農民
 地方政治の混乱で班田収授が滞り、庸調という人頭税の賦課が難しくなると、指導層的農民の(1)(  )に公地を請負わせて土地税が徴収されるように なった。彼らはa永続的な耕作権を獲得し、(2) (  )と呼ばれるようになる。また、政府は財源確保のため自ら荘園を経営し、天皇家の持つものは(3)(   )と呼ばれた。
 10世紀になると、(2)(  )や地方豪族が開墾によって荘園を持つようになり、彼らは(4)(    )と呼ばれたが、国司の侵略を招いたため、b中央貴族に土地を寄進して保護を求め、c自らは現地の経営を委ねられた。こうした荘園を(5)(       )と呼び、(6)( )と呼ばれる職務と収益権が重層的に存在するのが特徴である。寄進を受けた貴族たちは、その権力を使ってd課税を免除させる(7)(    )、検田使の立入りを拒否 する(8)(    )を獲得し、荘園は完全に私有地となっていった。
<設問>
a こうした田のことを何と呼んだか。
b 寄進された者を何と呼んだか。また、その者がさらに上位の貴族に寄進をおこなった場合、最終的な持ち主を何と呼んだか。
c こうした立場の者を一般には何と呼んだか。また、彼らには様々な呼び方が用いられたが、そのうちの一つを記せ。
d 太政官・民部省が免税を認めた荘園、国司が免税を認めた荘園をそれぞれ何と呼んだか。

【4】地方政治の混乱と動乱
 地方で実務に携わる国司のことを(1)(  )と呼び、徴税吏と化してa私腹を肥やす者が相次いだ。尾張国司となった(2)(     )は「(3)(          )」でその悪政が訴えられている。国司職は利権視され、売位売官がおこなわれた。寺社造営などの功績で官職を獲得す ることを(4)(  )と呼び、それによって国司任期を延長させることを(5)(  )という。また、現地に赴任せず代理として(6)(  )を派遣する (7)(  )も横行した。
 徴税執行のために国司の従者たちは武装し、開発領主層も土地を守るために武装したことから武士が生まれた。b任期が切れて土着した国司層は、大きな武士団を形成した。 (8)(  )という同族で結集した彼らは、従者である(9)(  )を率い、地方の治安維持にあたる(10)(   )(11)(   )や、宮中警備 の(12)(     )として用いられたが、10世紀半ばには、東国で(13)(   )、瀬戸内で(14)(    )がc乱を起こしている
<設問>
a 信濃国司を務め、「今昔物語」に強欲ぶりが記されているのは誰か。
b 関東に土着し、桓武平氏の元となったのは誰か。
c この乱を総称して何と呼ぶか。


6 貴族政治の変容と武士の成長 
【1】院政の成立
 170年ぶりに摂関家の外孫ではない(1)(   )天皇が即位すると、(2)(        )を出してa違法な荘園の整理をおこない、摂関家を上回る権威を示した。 このため、天皇家が荘園の寄進先として重要になった。続く(3)(  )天皇は、摂関政治に対抗するため、幼少の(4)(  )天皇に譲位した後も上皇と して執政し、b院政を開始した。この後、院政は (5)(  )(6)(   )上皇が受け継いで約1世紀続くことになる。
 上皇は(7)(  )で政治をおこない、その役人である院司は、上皇との個人的関係で用いられた点から(8)(   )と呼ばれ、多くは受領などの中下 級貴族であった。院政は私的専制的性格が強く、それはc経済基盤に もうかがわれる。上皇たちは出家して(9)(  )となり、仏教界を支配しようとした。しかし、d極端な仏教保護はe僧兵の強訴を招き、対抗上、f武士を必要とするようになり、彼らの台頭を招くことになっ た。
<設問>
a このために設置された役所は何か。
b 院政のもと、朝廷から出される宣旨や官符などに代わって効力を持った命令書は何か。
c 一国の租税収入を個人の収益とする制度が始まった。何と呼ぶか。
d 院政期の上皇たちが建立した寺院を総称して何と呼ぶか。
e 強訴をおこなった寺社を記せ。
f 院の警備のために設置された兵力は何か。

【2】源氏と平氏の成長
 大武士団を率いる主人は(1)(  )と呼ばれ、天皇の血を引く清和源氏と桓武平氏が二大武士団を形成した。
 平氏は初め関東に土着し、平将門の乱を鎮圧した(2)(   )の一族が勢力を張っていた。一方、源氏は藤原純友の乱を鎮定した(3)(   )の子の (4)(   )が安和の変を機会に摂関家に接近し、1028年に上総で(5)(   )が乱を起こすと、(6)(   )がこれを鎮圧し、平氏に代わっ て関東に進出した。その子の(7)(   )は東北に勢力を広げ、(8)(     )で安倍氏を滅ぼし、その子の(9)(   )は清原氏の同族争いで ある(10)(     )を鎮定した。この後、東北は(11)(    )氏が支配するようになる。
 この間、平氏は伊勢に移り、平正盛・(12)(   )が瀬戸内の海賊を制圧して院政に接近し北面の武士となった。
 これら武士団が活躍するのは(13)(    )に際してである。鳥羽上皇の死後、天皇家と摂関家で起きた権力争いは、崇徳上皇と後白河天皇のa二陣営の抗争に発展し、その解決のために武士団が動員され た。前者には源氏の(14)(   )、後者にはその子の(15)(   )と平家の(16)(   )が属した。戦いは後白河天皇方が制したが、次には b院近臣同士の権力争いが起き、(15)(    )は(16)(   )と戦って敗れた。この(17)(    )は、平氏政権成立の前段階となった。
<設問>
a 崇徳上皇方、後白河天皇方のそれぞれについて争った摂関家の人物を記せ。
b 源氏、平氏のそれぞれについて争った院近臣を記せ。

【3】平氏政権の成立と崩壊
 平清盛は、1167年に武士として初めて(1)(    )に任じられ、高倉天皇に娘を嫁がせて一門で高位高官を独占し、(2)(  )天皇を擁立して 政権を掌握した。平氏政権はa貴族的性格を持つ一 方、家人を地頭に任じるなど武家政権的な性格も持っている。b日 宋貿易の利益を重視したのもその表れである。
 後白河法皇の院の近臣たちは、平氏政権打倒を図る(3)(   )事件を引き起こした。1180年、平氏打倒を呼びかける(4)(   )の令旨が出さ れると、伊豆に流されていた源頼朝が挙兵し、東国武士を結集して鎌倉を本拠にした。平氏は木曽谷に挙兵した(5)(   )によって京都を追われ、源義経 によって(6)(   )の戦いで滅ぼされた。この後、義経は頼朝と対立し、義経を保護した(7)(    )氏が頼朝によって滅ぼされたことで、治承寿 永の内乱が終わった。
<設問>
a どのような点にそれが表れているか。権力獲得過程、経済基盤について記せ。
b このために清盛が修築した港はどこか。


7 武家政権の形成
【1】鎌倉幕府の成立
 鎌倉幕府の組織は段階的に整備されており、中央の役職とその長官は、御家人を統率した(1)(  )に(2)(    )、財政と政務を司った(3) (   )に(4)(    )、裁判事務を担当した(5)(   )に(6)(    )という陣容だった。このうち、(4)(    )(6)(     )は京下りの貴族が任じられた。
 1183年に東国支配権を認められた源頼朝は、1185年に義経追討を名目として全国に(7)(  )を設置し、a国内の御家人を統率して軍事・警察を司らせた。一方、荘園公 領の治安維持のためには(8)(  )を置いたが、これらはb御 家人となった荘官層が任じられたもので、c在地領 主の土地に対しての権限を頼朝が保証することを意味した。この御恩に対し、御家人にはd奉公の義務が生じた。なお、地方の機関としては、京都の治安 維持のために(9)(    )が置かれた他、九州と東北に(10)(    )(11)(     )が設置された。源頼朝は1192年に(12)(      )に任じられ、名実共に鎌倉幕府の支配体制が整ったが、e幕 府の経済基盤は荘園公領体制に依存していた他、朝廷の力も強く、公武二元支配がおこなわれた。
<設問>
a 職務は大犯三箇条と総称された。具体的にはどのようなことか。
b 従来から支配されていた土地に対して任じられる場合と、新たな土地に対して任じられる場合とがあったが、それぞれ何と呼ばれたか。
c このように、土地を仲立ちとして主従関係が作られる制度を何と呼ぶか。
d 具体的にはどのような義務があったか。
e 具体的にはどのようなものか。

【2】北条氏の台頭と承久の乱
 源頼朝の死後、その子(1)(   )が将軍となったが、外祖父の(2)(    )はこれを伊豆に幽閉して弟(3)(   )を将軍とし、有力御家人 による合議体制を発足させた。(2)(    )が失脚した後、その子(4)(    )は有力御家人の(5)(    )を滅ぼして侍所と政所の長官を 兼務し、将軍に代わって政治の実権を握った。このポストを(6)(  )と呼ぶ。
 院政を布いた(7)(     )は新たな軍事力として(8)(     )を設置し、(4)(    )が暗殺されa源氏の直系が絶えると、1221年、(4)(    )追討 の兵を挙げた。これが(9)(    )と呼ばれる公武間の内乱である。結果は上皇方の大敗に終わり、隠岐に流された(7)(     )をはじめ、b3上皇が流罪となり、c皇位継承を幕府が左右した。また、朝廷監視と西国の政務のた め(10)(     )が設置された。上皇方の所領は没収されてd御家人たちに新恩給与され、幕府の勢力は西日本に拡大し、公 武の勢力が逆転した。
<設問>
a この結果、摂関家から擁立された将軍は誰か。
b 土佐、佐渡に流されたのは誰か。
c 廃された天皇と擁立された天皇を記せ。
d この給与を受けた地頭を何と呼ぶか。また、彼らに保証された得分の基準を何と呼ぶか。

【3】執権政治の展開
 承久の乱の後、執権となった(1)(    )は、集団指導体制への転換を図り、叔父の(2)(    )を執権を補佐する(3)(  )に任じ、有力 御家人10余名からなる合議機関の(4)(   )を設置した。また、合議のよりどころとして、武家政権初の成文法であるa御成敗式目を制定した
 合議を基本とする執権政治を完成させたのは(5)(    )で、迅速な裁判のために(4)(   )の下に(6)(  )を設置して予審をおこなわせ た。また、朝幕関係の融和のため、b皇族将軍を迎えた。 その一方、有力御家人の(7)(    )を滅ぼし、後の得宗専制体制の伏線も作った。
<設問>
a これは何をもとに制定されたか。
b 迎えられた後嵯峨天皇の子は誰か。

【4】荘園経済の発展
 荘園の現地管理した地頭は、有力農民の(1)(  )に耕地を請負わせ、(2)(   )と呼ばれる小作料を徴収した。(1)(  )は下人・所従を 使って請負地を耕作した他、大部分は(3)(  )に請作に出し、加地子を徴収していた。(1)(  )は、荘園領主には地頭を通じてa税を負担する義務があった
 鎌倉時代には、畿内先進地では麦を裏作とする(4)(   )が始まり、b肥料やc耕作方法にも進歩が見られた。経済発展によって生じた余剰物 は、月に3度開かれた(5)(   )で取引された。商品の輸送・保管のために(6)(  )が生まれ、貢納物を集積した貴族や社寺はd特定の者に加工・販売を委ね、都市には常設の小売店鋪である (7)(   )が開設された。商品流通量の増大は貨幣の必要性を増し、中国からもたらされた(8)(  )が使用され、e高利貸業者も発生した。また、現金に代わって(9)(  ) による決済も始まった。
<設問>
a 租庸調に由来して、どのような負担があったか。
b どのような肥料があったか。
c 人力に対し、どのような耕作方法が広まったか。
d 彼らが組織した組合を何と呼ぶか。
e これを何と呼んだか。

【5】鎌倉武士と荘園侵略
 鎌倉時代の武士の一族はその代表である(1)(  )によって、その他の(2)(  )が統率される構造であった。所領は(3)(  )相続されたた め、両者の間には土地を仲立ちとした主従関係が生まれた。武士たちは武芸の訓練をおこない、特にa騎射三物と呼ばれるものが重要であった。
 荘園の現地支配をしていた武士たちの中には、荘園領主に納める年貢を抑留し、百姓を勝手に使役する者もいて、b地頭の非法と称された。荘園領主は取締りを求めて幕府に訴訟 を起こしたが、c地頭と示談になっても取り決めが守られない場合 が多く、次第に土地を侵略されていった。
<設問>
a 具体的にはどのようなものか。
b この例として、和歌山県の農民が訴えたものがある。何と呼ぶか。
c どのような解決方法があったか。2つ記せ。


8 社会的新陳代謝と守護領国制の形成
【1】元寇と御家人の窮乏
 元を建国したフビライの服属要求に対し、執権の(1)(    )は九州御家人を動員して(2)(      )を設置して来襲に備えた。一度目の襲来 である(3)(    )ではa苦戦を強いられたが、 防衛体制を整えた結果、二度目の襲来の(4)(    )も撃退に成功した。
 元寇を機に、幕府の力はb九州に拡大したが、恩 賞が不十分だったこともあってc御家人の窮乏が進んだ。 貨幣経済に巻き込まれて没落する御家人を救うため、幕府は(5)(      )を出して所領の回復を図ったが、効果はなかった。
<設問>
a この理由を記せ。
b このために設置された幕府機関は何か。
c 恩賞の問題以外で、御家人の窮乏が生じた理由を記せ。

【2】得宗専制と鎌倉幕府の滅亡
 御家人が窮乏する一方、北条本家のである(1)(  )家とその家臣団の(2)(   )の力が強まり、時には(2)(   )の頭首の(3)(    )が政治の実権を握った。これに反発する(4)(    )がa霜 月騒動で滅ぼされると、(1)(  )専制体制が確立した。一方、単独相続への移行でb没落した庶子家を家臣団に編入した有力守護は、(1)(   )家に対抗しうる勢力となった。
 この頃、天皇家ではc皇統の分裂が生じており、 幕府はd文保の和談でこの問題に介入した。この結 果、即位した(5)(     )は、e二度にわたる討幕計画を めぐらし、畿内では護良親王や(6)(    )が挙兵する事態になった。幕府から征討軍として派遣された足利尊氏は、逆に(7)(     )を攻撃し てこれを滅ぼし、(8)(    )は鎌倉を攻略し、(1)(  )の(9)(    )をはじめとする北条一門は滅亡した。
<設問>
a このとき、有力御家人と対立し、これを滅ぼしたのは誰か。
b こうした中、御家人、非御家人を問わずに反幕府の行動をとる者たちが現れた。何と  呼ぶか。
c 2つの皇統について、その初代の天皇と合わせて記せ。
d 2つの皇統から順に即位することが決まった。この方式を何と呼ぶか。
e これを何と呼ぶか。

【3】建武の新政と室町幕府
 後醍醐天皇は、かつての(1)(      )を目標に建武の新政を開始した。中央には行政、司法の天皇親裁機関である(2)(   )、所領関係の訴 訟事務を扱う(3)(     )を置いて対処させた。
 しかし、新政に対するa武家の不満は強く、b社会の混乱を招くことになった。北条高時の子の(4)(     )が鎌倉を奪う(5)(     )が起きると、足利尊氏がこれを鎮圧し、c新田義貞打倒を名目に政権に反旗を翻した。一時は九州に逃れ た足利尊氏は、持明院統の(6)(    )の院宣を得て大義名分を確保し、d政権を倒してe幕府政治を再興した
<設問>
a 具体的にはどのような不満があったか。もっとも重要なものを1つ記せ。
b このことを伝える史料は何か。
c この人物はどのような役職についていたか。
d 後醍醐天皇に代わって即位した天皇は誰か。
e このとき、幕府政治の再興を宣言したものは何か。

【4】南北朝の動乱と守護大名の成長
 南北朝の動乱期は社会の大変革期である。a南朝の勢力は 初期の段階で衰退したが、北朝の武家政権内部でb急進派と漸進派 の路線争いが生じ、それぞれc南朝に下って戦う事 態がおきた。また、d全国の武装勢力は南北朝の内 乱を所領拡大の好機ととらえ、一揆を結んで両朝に与したため内乱は長期化した。
 室町幕府は、この動きを押さえるため守護を派遣し、それまでの大犯三箇条に加えて(1)(      )(2)(    )という権限を与え、荘園公領 年貢の半分を兵粮米とすることを認める法令(3)(  )を出した。やがて、守護は一国の下地支配を認められ、主従関係を結んだ在地領主には所領を安堵 し、荘園領主に対しては年貢貢進を約束する(4)(   )の契約を結んだ。また、一国の公領に(5)(  )と呼ばれる税をかけるなど封建領主化し、守 護大名と呼ばれるようになった。
<設問>
a 南朝勢力の中心として、「神皇正統記」を著わした人物は誰か。
b それぞれの人物を記せ。
c この戦いを何と呼んだか。
d こうした在地の武装勢力を何と称したか。


9 守護領国制の安定と動揺
【1】室町幕府の構造
 3代将軍となった足利義満は、a強大化した守護大名の抑圧をお こない、1392年にはb南北朝の合一に成功した。 彼は征夷大将軍と合わせて(1)(    )に就任し、公武の最高権力者となった。この頃には室町幕府の組織も整った。将軍は(2)(   )と呼ばれる 直轄軍を持って守護大名を圧倒し、(3)(  )の補佐を受ける一方、京都の治安維持のためには(4)(  )が設置された。(3)(  )にはc三管、(4)(  )の長官の所司にはd四職と総称された守護大名たちが交代で任じられた。地方の役 職としては関東を支配した(5)(   )が重要で、長官である(6)(    )はe足利尊氏の次男の一族が世襲した。東北地方には(7)(     )と(8)(    )、九州地方には(9)(    )が置かれている。
 室町幕府の弱点は、(10)(   )と呼ばれる直轄地が少なく、経済力に乏しかったことである。これを補うため、土地税の(11)(  )、家屋税の (12)(   )、京都の商工業者に(13)(   )(14)(   )を課した。
<設問>
a 打倒された山陰の守護大名とその事件名、九州の守護大名とその事件名を記せ。
b これは南朝の天皇が北朝の天皇に譲位をする形で実現した。それぞれの天皇名を記せ。
c この守護大名を記せ。
d この守護大名を記せ。
e これは誰か。

【2】室町幕府の対外政策
 中世に入ると、日朝、日中間には九州や瀬戸内の土豪たちによるa私 貿易が展開していたが、彼らは時には海賊化し、(1)(  )と呼ばれていた。明の皇帝は(1)(  )の禁圧と入貢を日本に求め、足利義 満は貿易の利益を求めてこれに応じた。義満は「日本国王」に任じられてb貿易を独占し、(2)( ・  )が輸出され、(3)(   ・  )が輸入された。4代将軍の(4)(    )の時に貿易は中断したが、6代将軍の(5)(    )の時に再開され、応仁の乱後は博多商人と結 ぶ(6)(  )氏と堺商人と結ぶ(7)(  )氏がc主導権を 争った
 高麗を滅ぼした朝鮮も(1)(  )に悩み、本拠地と目された対馬を攻撃する(8)(     )を起こした。この後、対馬の宗氏との間に文引を用いた d貿易が開設された。しかし、貿易制限を図った朝 鮮と日本の貿易商人が争う(9)(    )が起きてからは衰退に向かった。
 この他、沖縄では中山王朝の(10)(   )が三山を統一して(11)(    )を建国し、中継貿易で栄えた。
<設問>
a 足利尊氏も寺院造営のために貿易船を派遣した。これを何と呼ぶか。
b このとき、正式な貿易船かどうかを判別するために用いられたものは何か。
c 両者が中国で争った事件は何か。
d この貿易の主要輸出品と輸入品を記せ。

【3】室町期の経済の発展
 室町時代には二毛作が普及し、肥料を採取する(1)(   )を共同管理することが大切となった。大量の商品が流通したため、市は月に6回開く(2) (   )が始まり、同業者組合のa座も拡大した。 物資は海上を廻船で運搬し、京都周辺では(3)(  ・  )と呼ばれる陸運業者が活躍した。
 貨幣経済の進展は著しく、中国から伝わった(4)(  ・  )が通貨として用いられた他、粗悪な(5)(   )も出回ったため、これらを選別する (6)(  )がおこなわれた。年貢納入も貨幣でおこなわれ、土地の価値を表示する方法として(7)(  ・  )が使われた。京都のb高利貸業者は幕府の財源ともなっていた。
<設問>
a どのような座があったか。本所と扱っていた品名を記せ。
b どのような業者があったか。

【4】室町幕府の動揺
 入会地の管理が重要となると、二毛作で経済力を増した農民たちはa結束し、b自治のための組織を結成した。これを(1)( )と呼ぶ。そ のc指導者は半武装の上層農民で、こうした階級を (2)(  )と呼んだ。彼らはd年貢納入を請負うかわりに自治 権を認めさせ、e警察権も行使した
 室町時代は、農民の反抗も集団的な武力行使の形態をとるようになった。1428年の(3)(      )はその最初の例で、近江の(4)(  )が (1)( )の農民を動員したものである。この翌年には播磨の土一揆が起き、6代将軍足利義教暗殺後には、(5)(      )と呼ばれる武装蜂起が引 き起こされ、幕府は借金帳消を認める(6)(   )を出すことになった。
 足利義教は強引な守護大名抑圧をおこない、f鎌倉公方の (7)(    )を滅ぼす(8)(    )を主導した。しかし、守護大名たちは将軍専制に反発し、(9)(   )が足利義教を謀殺する(10)(     )を起こした。このため将軍権威は失われ、その権威に頼ってきた守護大名の領国統治にも陰りが生じるようになった。
<設問>
a 神社は結束の場になったが、祭祀のために作られた組織は何か。
b 自治のために開かれた会議、および村人同士の取り決めを何と呼ぶか。
c 彼らを何と呼んだか。
d このことを何と呼んだか。
e このことを何と呼んだか。
f この際、鎌倉公方の補佐役だった者が足利義教についた。その者の名前と役職名を記せ。


10 下剋上と大名領国制の形成
【1】応仁の乱と戦国大名の出現
 8代将軍の足利義政は政治に関心がなく、弟の(1)(    )を次期将軍とし、管領の(2)(    )が後見をした。実子の(3)(    )が生 まれると、夫人の(4)(    )はこれを次期将軍とすべく四職の(5)(    )に後見を依頼し、斯波・畠山氏の後継争いも加わってa応仁の乱が勃発した
 戦乱は長期化して地方にも拡大し、守護大名の領国では支配を委ねられていた(6)(   )など国人層のb裏切りが頻発し、領国を奪われる事態が起きた。1485年の (7)(      )では、守護畠山氏が追放されて国人たちが8年間の自治をおこなったし、1488年の(8)(       )では守護富樫氏がc一向門徒によって倒され、100年間の自治がおこなわれた。
 守護大名から領国を奪い、実力で支配をおこなった勢力を戦国大名と呼ぶ。d鎌倉公方と関東管領の分裂に乗じて関東を手に入れた(9) (    )、大内氏と尼子氏の対立を利して中国地方を支配した(10)(    )はその典型である。
<設問>
a 京都の荒廃をもたらした土民の傭兵を何と呼んだか。
b この風潮を何と呼ぶか。
c 北陸での布教で門徒を拡大した者の名前と、その本拠地を記せ。
d それぞれどのように分裂していたか。

【2】戦国大名の領国支配
 戦国大名は家臣の所領を銭納年貢高で示す制度として(1)(   )を採用し、その額に応じた軍役負担を課す一方、上級家臣が下級家臣を統率する(2) (      )と呼ばれるシステムを導入した。また、喧嘩両成敗などを規定したa分国法を定める一方、b城下町に家臣団を集住させ、商人を呼び込むために(3)(     )の政策をとり、私鋳銭対策として、(4)(   )を定めて円滑な貨幣の流通を促すとともに、通行税を徴収する(5)(  )を廃して商品流通を 拡大させた。また、年貢徴収の徹底のための土地調査として(6)(  )を実施したが、この時代にはまだc申告制がとられていた。戦国大名は鉱山開発や治 水事業にも熱心であった。
 港町、門前町、寺内町などd地方都市が栄えたの も戦国時代の特徴で、e町衆による自治も展開し た。山鉾巡行で有名な京都の(7)(   )は、こうしたf町衆の 経済力を示す祭りである。
<設問>
a 次にあげる史料について、分国法名を記せ。
 (1)朝倉が館之外、国内(に)城郭を構へさせまじく候。惣別分限あらん者、一乗谷へ引越、郷村には代官ばかり置かる可き事。
 (2)一 駿遠両国の輩、或わたくしとして他国よりよめを取、或むこに取、むすめをつかハす事、自今以後之を停止し畢ぬ。
b 次に示す城下町名を記せ。
 (1)北条氏の城下町で、この時代には関東地方最大の都市であった。
 (2)大内氏の城下町で、応仁の乱を逃れた文化人が居住し、地方での文化の中心となった。
c この制度を何と呼ぶか。
d 次に示す都市名を記せ。
 (1)中国との貿易で栄えた九州の港町で、年行司と呼ばれる町衆による自治がおこなわれた。
 (2)石山本願寺を中心に堀をめぐらせた寺内町として栄え、江戸時代には日本の経済の中心都市の地位を獲得した。
 (3)延暦寺の門前町で、琵琶湖の港町としても栄えたたため、多数の馬借が存在した。
e 堺の町を自治をおこなった者たちの役職名と、堺を自由都市と評価した宣教師名を記せ。
f 京都の町衆は日蓮宗の信者が多く、町を守るために結束し、延暦寺と対立した。この組織を何と呼ぶか。


11 天下統一と幕藩体制の萌芽
【1】鉄砲とキリスト教の伝来
 1543年、(1)(   )に漂着したポルトガル人によって伝えられた鉄砲は、(2)(  ・ ・  )などで製造されるようになり、戦乱を制するた めに急速に普及した。(3)(    )と呼ばれるイスパニアやポルトガルとの貿易も始まり、日本からは(4)( )が輸出された一方、中国産の(5) (  )が輸入された。これらの国はaキリスト教布教に 熱心で、1549年には(6)(           )が鹿児島に来航し、その後もb宣教師たちの手によって各地に教会やc学校が建てられ、dキリスト教に入信する大名も現れた。
<設問>
a 日本で最初に布教活動をおこなった宣教師会名を記せ。
b このうち、織田信長の許可を得て安土で布教した者と、活版印刷術を日本にもたらした者の名前を記せ。
c この名称を2つ記せ。
d 天正遣欧使節を派遣したキリシタン大名は誰か。

【2】織豊政権の成立
 織田信長は駿河遠江のa今川義元を討ち、13代 将軍義輝の弟(1)(    )を将軍に奉じて入京を果たした。姉川の戦いで浅井・朝倉氏を圧倒した後、比叡山の焼打ちをおこなう一方、(1)(     )を追放し、b鉄砲を用いて甲斐の(2)(    )の軍勢を 破った。信長は(3)(  )に壮大な天守閣を持つ城を築いて拠点としたが、家臣の(4)(    )のc裏切りによって殺害された
 豊臣秀吉は(4)(    )を滅ぼした後、賤ヶ岳の戦いで(5)(    )を倒して信長の後継者となり、石山本願寺の跡地に(6)(   )を築い て拠点とした。d徳川家康と戦って和睦をした後 は、四国の長宗我部氏や九州の島津氏を平定し、関東の(7)(  )氏を小田原に攻めて滅ぼして天下を統一した。秀吉はe関白・太政大臣に就任し、京都に(8)(   )を築いてf天皇の行幸を求めるなど古代的権威を利用した。(9)(    )と呼ばれる直轄地は220万石にのぼったが、g政治組織は弱 体であった
<設問>
a この戦いを何と呼ぶか。
b この戦いを何と呼ぶか。
c この事件を何と呼ぶか。
d この戦いを何と呼ぶか。
e 関白を辞した後、秀吉は何と呼ばれたか。
f 何天皇か。
g 浅野長政、前田玄以、増田長盛、石田三成、長束正家が務めた役職名、徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元、小早川隆景が務めた役職名を記せ。

【3】豊臣秀吉の政治
 1582年以降、豊臣秀吉は支配地に役人を派遣し、(1)(    )と呼ばれる検地をおこなった。a度量衡の統一がおこなわれたため、反当たり収量で土地を表示 する(2)(  )制が可能となり、実際の耕作者を年貢負担責任者とする(3)(     )の制が成立した。ここでは中間的な半武装農民の存在が比定さ れたため、彼らはb城下町に居住して家臣となるか、武器を捨てて 農民となるかの二者択一を迫られ、後者は(4)(   )によって武器を没収された。士農商間の身分は(5)(     )によって固定さ れ、近世の身分制が確立した。
 当初、キリスト教を容認していた豊臣秀吉は、博多で(6)(       )を出してc弾圧に転じる一方、南蛮貿易については奨励し、豪商たちに (7)(   )を発行して海外渡航を許可した。利潤を生み出す明との貿易は朝貢以外に認められなかったため、秀吉はその征服を企て、手始めに肥前(8) (    )を拠点としてd朝鮮侵略をおこなった。 二度にわたる侵略は多数の犠牲を生み、国内的には政権の財政を逼迫させ、大名統制力を失わせることになった。
<設問>
a 桝についてはどのように定められたか。
b これによって実現した身分制の原則は何か。
c 弾圧に拍車をかけることになったイスパニア船の漂着事件は何か。
d 二度の侵略をそれぞれ何と呼ぶか。


12 幕藩体制の確立
【1】江戸幕府成立と幕府権力の強化
 豊臣秀吉の死後、文治派の(1)(    )と武断派の(2)(    )らの対立が生じ、徳川家康は武断派に加担して関ヶ原の戦いで勝ち、政治主導権 を握った。征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開いた家康は、a秀 吉の嫡男(3)(    )を大坂城に滅ぼし、戦乱の世に終止符を打って畿内先進地を直轄地にした。
 家康はb大名を徳川家からの親疎に応じて類型化し、 強力に統制した。c領国内の城郭は一つに限定し、 居城修築制限や自由通婚を禁じる(4)(     )を定め、後には大名に江戸と国元の往復を義務づける(5)(     )が制度化された。朝廷に対し ては(6)(        )を出してd天皇の政治活動を制限し、 寺社に対しても(7)(    )を定めて政治活動を抑圧する一方、上位の寺院が下位の寺院を統制する(8)(  )制度を確立した。キリスト教禁教を徹 底するため、人々をどこかの寺に登録させる(9)(  )制度が発足すると、寺院は民衆支配の末端に位置づけられるようになった。
<設問>
a この戦いを何と呼ぶか。
b どのように類型化され、どのように配置されたか。
c この法令を何と呼ぶか。
d これに反発し、譲位した天皇、およびその事件名を記せ。

【2】幕府の政治機構と幕藩体制
 江戸幕府の将軍直属軍は、お目見えの可否により(1)(  )と(2)(   )に分かれていた。a幕府直轄地は(3)(  )と呼ばれ、総石高は(4)(   )石で、(1)(  )知行地と合わせて全国石高の4分の1を占めた。
 将軍に次ぐ常置の最高政治責任者は(5)(  )で、臨時にこの上に(6)(  )が置かれて政務を専断した。(5)(  )を補佐した(7)(    )、寺社を統括した(8)(    )は譜代大名が任じられた。また、(5)(  )の配下には、江戸の民政を担った(9)(   )、財政と(3) (  )を統括した(10)(    )、大名の監察をおこなった(11)(   )が置かれた。(7)(   )の配下には(1)(  )の監察にあ たった(12)(  )が置かれた。京都にはb朝廷の監視、 大坂にはc西国大名を監視するための役職が任じら れ、また、長崎などの要地に置かれた役を総称して(13)(    )と呼んだ。
<設問>
a 現地で幕府直轄地を支配した役職を何と呼んだか。
b この役職名を記せ。
c この役職名を記せ。

【3】幕藩体制下の農民と身分制度
 江戸時代の農民の基本は(1)(   )で、a自分の田畑を持 ち、検地帳に名前が記入され、b年貢を負担した。 村の自治はc村方三役によっておこなわれた。負担 の中心は、田畑屋敷に課税される(2)(    )で、(3)(  )という収穫量調査に基づいて徴収されたが、後期には、過去の収量に基づいて定額の年 貢を徴収する(4)(  )が拡大している。この他、山野河海など土地の用益に課税される(5)(   )、石高に応じて一律に課される(6)(   ) という付加税、臨時に宿場に人馬を提供する(7)(   )などの負担があった。
 幕府は(1)(   )の維持を図るため、富農の土地兼併を禁じる(8)(         )、本田畑での商品作物栽培を禁じる(9)(        )、分割相続を制限する(10)(     )を出し、(11)(      )では贅沢を禁じて農業の心得を示した。
<設問>
a 田畑を持たず、小作で生活していた農民を何と呼ぶか。
b 年貢納入や治安維持について連帯責任を負わせるために組織されたものは何か。
c 三役の名を記せ。

【4】江戸初期の外交
 1600年、aオランダ船が豊後に漂着し、b新教国との貿易が始まった。太平洋航路による貿易も企図さ れ、伊達政宗は(1)(    )を太平洋経由でローマに派遣している。一方、中国産生糸には(2)(   )制度が導入され、五カ所商人が(3)(      )を結成して一括購入し、適正価格を維持するようにした。
 江戸時代初期、多くの日本人がc東南アジアに渡航し、 d日本町が形成された。貿易を担ったのはe幕府とつながる豪商や西国大名で、幕府は(4)(   )と 呼ばれる渡航許可証を発行した。
 朝鮮との国交は対馬・宗氏によって回復し、将軍の代替わりごとに(5)(   )が来日した。一方、薩摩藩によって征服された琉球は日中両属となり、将 軍と国王の代替わりごとにf使節が江戸に来た
<設問>
a 船名を記せ。
b 幕府の外交顧問に登用されたオランダ人とイギリス人は誰か。
c 東南アジアに渡航したのはなぜか。
d 日本町が形成されたところを2カ所記せ。
e どのような者がいたか。2人記せ。
f どのような使節が江戸に来たか。

【5】鎖国の完成
 鎖国政策は貿易統制とキリスト教禁教の徹底のために実施された。1616年、幕府がa外国船寄航地を制限した後、1623年には(1)(     )が日本貿易から撤退し、1624年、幕府は(2)(     )と断交した。日本人に対しては、1633年に(3)(   )以外の海外渡航を禁じ、 1635年には全面渡航を禁じている。また、ポルトガル人を長崎の(4)(  )に隔離した。1637年、b九州でキリスト教徒を中心に大規模な一揆が起こると、幕府は 1639年にポルトガルと断交し、1641年にcオランダ人を (4)(  )に隔離した。鎖国後、dキリスト教の禁教は徹底さ れたが、長崎での貿易はかえって拡大することになった。
<設問>
a どこに制限をしたか。
b この乱の名称と、指導者となった人物名を記せ。
c 彼らがヨーロッパ情勢を知らせるために幕府に提出した書類は何か。
d キリスト教徒を発見するためにおこなわれた行為は何か。


13 幕藩体制の安定と産業の発達
【1】文治政治への転換
 江戸幕府は武断政治で大名を統制したが、改易によって大量の牢人が出現し、1651年に(1)(    )が乱を企てると、文治政治への転換が図られ た。4代将軍の(2)(    )は、(3)(    )の禁を緩和して改易を減らし、徳川支配の正当性を強調するため、大義名分論を唱える(4)(    )を振興した。5代将軍の(5)(    )は、林羅山の孫(6)(   )を(7)(   )に任じ、孔子を祀る(8)(    )を建立した。a諸学問も奨励したが、将軍側近の(9)(   )として台頭 した柳沢吉保のもと、極端な動物愛護令である(10)(      )を出し、社会の混乱を招いた。この時期からb幕府財政は逼迫するようになり、勘定吟味役となった(11) (    )がc財政再建に乗り出している。
 6代・7代将軍に仕えた(12)(    )は、d朝廷との融 和策をとり、朝鮮通信使の待遇を簡素にするなど、名文論に基づく政治をおこなった。経済面ではe貨幣の質を高め、長崎貿易での金銀流出を防ぐため、(13) (    )を出している。
<設問>
a このためにどのような役職を設置したか。役に任じられた人物名を合わせて記せ。
b この理由の一つとして、江戸で起きた大火の名称を記せ。
c どのような政策を打ち出したか。
d これによって設立された宮家は何か。
e 発行された貨幣は何か。

【2】幕藩体制下の農業・諸産業の発達
 江戸時代には(1)(    )による耕地の拡大が目覚ましく、a金肥と呼ばれる速効性肥料の投入が生産性を向上させた。農具 の面でも、深耕が可能な(2)(   )、水車よりも簡便な灌漑設備である(3)(  )の他、b脱穀調製具での進歩が見られた。また、c農書の刊行は農業技術の普及に役立った。商品作物としてはd四木三草が栽培され、この他に衣料革命をもたらした(4) (  )、灯火革命をもたらした(5)(  )が作られた。
 漁業では、網を用いた(6)(    )と呼ばれる漁法が広まり、e九十九里浜で獲られた鰯が肥料に加工された。漁場は蝦夷地に も拡大し、海産物が(7)(  )として中国にも輸出された。
<設問>
a どのようなものがあったか。2つ記せ。
b どのようなものがあったか。3つ記せ。
c 前期と後期を代表する農書について、著者名と合わせて記せ。
d このうち、染料作物として栽培されたものに何があるか。2つ記せ。
e どのような網が用いられたか。

【3】幕藩体制下の商業の発達
 年貢米や専売品など、(1)(  )と呼ばれた大名の商品は、江戸や大坂のa蔵屋敷に運ばれて販売された。物資の流通を担ったのはb海や川に就航した船で、西国や北陸・奥羽の物資は(2)(    )航路で大坂へ、関東や東北の物資は(3)(   )航路で江戸に集積された。上方での余剰はc南海路を経て江戸に廻送され、このd荷積みと荷受けのための組合が結成された。また、旗本・御家 人の蔵米は浅草御蔵で支給され、(4)(  )という業者で換金された。なお、幕府は当初はe商工業者の組合結成を認めていなかったが、商業統制のために 許可し、(5)(  )(6)(  )という一種の税を課した。
 陸上交通は大名の(7)(    )の便宜のために整備され、f五 街道などには宿場が設置された。
 貨幣制度は三貨制と呼ばれ、幕府の(8)( )で鋳造されたg金 銀銭が流通した。異なる通貨の流通にはh両替商が 必要となった。
<設問>
a 販売と国元送金を扱った商人名をそれぞれ記せ。
b 全国の海上航路を整備した者、保津川や富士川、高瀬川を整備した者の名を記せ。
c この航路に就役した廻船を2つ記せ。
d それぞれの組合の名称を記せ。
e この組合を何と呼んだか。
f 街道に設置され、「入り鉄砲に出女」を取り締った施設は何か。
g 代表的な金貨と銀貨の形態にはどのようなものがあったか。
h 「現金掛値なし」の商法で呉服屋を営み、両替商に転じた大商人は誰か。


14 幕藩体制の動揺と政治改革
【1】幕藩体制の動揺
 貨幣経済の進展は、幕藩体制を揺り動かした。農村では貧富の差が顕著となり、均質な本百姓は地主と小作とに分解し、高額小作料を収奪して生活する(1) (    )が現れ、彼らの中にはa商業を営む者も出てきた。 貧農はb飢饉のたびに打撃を受け、そうした折には c一揆も頻発した
 一方、財政難となった諸藩では、(2)(    )と称して家臣の俸禄を削減したため、困窮した武士の中には士分を売却する者も現れた。
<設問>
a 都市の問屋商人に対し、農村に出現した商人を何と呼ぶか。
b 近世三大飢饉とは何か。
c 一揆の形態は、近世前期・中期・後期でどのように変化したか。

【2】享保の改革
 8代将軍徳川吉宗は、家康の政治を理想としてする将軍親政の方針をとり、財政の再建を図った。大名から米の上納を命じた(1)(     )、町人の出 資で開墾をさせる(2)(      )、商品作物栽培の奨励、a実 学奨励などの政策はこの一環であり、年貢徴収方法を検見から(3)(  )に切り替えることで増収を実現した。
 政治の刷新では、下級からの人材抜擢を可能にした(4)(  )の制の採用、公正迅速な裁判のための(5)(      )の編さん、借金関係訴訟の当 事者解決を定めた(6)(    )などの政策がある。また、民政重視の姿勢は、(7)(   )を設置してb直訴を認めたことや、米相場の安定のために株仲間の結成を許 可したことに表れている。
 吉宗の改革により、幕府財政は強化されたが、農村では貧富の差が拡大し、幕藩体制の根本的建て直しにはいたらなかった。
<設問>
a このため、漢訳洋書の輸入が解禁され、蘭学が始まった。蘭学者の中で、サツマイモの栽培を研究したのは誰か。
b これが認められて設置されたものを2つ記せ。

【3】田沼時代
 10代将軍徳川家治の側用人として台頭した田沼意次は、重商主義に基づく政治を推進し、(1)(   )を積極的に結成させて(2)(  )(3)(   )を徴収した。また、a幕府専売の座を設置する とともにb町人請負新田を奨励し、長崎貿易の拡大 のため、金銀の枯渇で新たに採掘が拡大した(4)( )や、中国向け海産物の(5)(  )の輸出を振興した。さらには、cロシアとの貿易も視野に入れ、蝦夷地開発の計画も立ててい る。
 一連の政策は幕府財政を強化したが、貨幣経済の流入した農村では急速な階層分解が生じた。浅間山噴火に端を発した(6)(      )により多数の餓 死者が出ると一揆・打ちこわしが頻発し、賄賂政治と批判されたこともあって田沼は失脚を余儀なくされた。
<設問>
a 具体的にはどのようなものが専売になったか。
b この結果、干拓がおこなわれた利根川の三日月湖は何か。
c 蝦夷地へのロシア人接近を知らせた人物と、その著書を記せ。

【4】寛政の改革
 11代将軍(1)(    )の老中として田沼政治を否定し、享保の改革を範とする政治改革に着手したのがa松平定信である。天明の大飢饉の手当として都市流入民の帰村 を奨励し、凶作に備えてb米の貯蔵を大名に命じ、 c農村で貯穀を促した。都市下層民対策としては、 町費を節約させて非常時のために貯金させる(2)(    )を実施し、浮浪者を収容して職業指導をおこなう(3)(       )を作っている。ま た、旗本や御家人をd借金から解放するため(4) (   )を出した。言論統制にも積極的で、遊里を舞台とするe洒 落本作家の他、f海防の必要性を説いた者を 処罰している。また、綱紀の粛正のため、儒学のうち、古学や折衷学に押されていた(5)(   )を振興するため、林家の私塾を官学の(6)(       )とし、(5)(   )以外の講義を禁じる(7)(      )を出している。
<設問>
a 彼は何藩の藩主だったか。
b この政策を何と呼ぶか。
c 農村に設置された備蓄施設は何か。
d どのような業者から借金をする例が多かったか。
e この人物名を記せ。
f この人物名と著書を記せ。


15 幕藩体制の衰退と雄藩の台頭
【1】列強の接近
 蝦夷地を支配した松前藩は、時にはaアイヌの反乱を 押さえつつ、交易によって藩の経営をおこなっていた。ロシアは極東開発のための物資を求めて、1792年に(1)(      )が根室に来航し、 1804年には(2)(    )が長崎に来航した。幕府は通商を拒否したため、日露間は緊張し、幕府はb北辺の探検を急いだ。
 一方、1808年にはイギリス軍艦が長崎のオランダ商館を攻撃する(3)(      )事件が起きた。事件後、攘夷の声が高まり、1825年には (4)(      )が出され、沿岸に接近する外国船を撃退することが定められた。これにより、アメリカ商船(5)(     )が打払われる事件が起 きている。この事件は、c蘭学者たちから批判されたが、 幕府は(6)(    )で彼らを弾圧した。
<設問>
a どのような出来事があったか。
b 千島、樺太の探検をおこなった者を記せ。
c 幕府を批判した者について、著書と合わせて2人記せ。

【2】封建農村の崩壊と大塩の乱
 江戸時代後期には問屋制家内工業が進展し、さらには農村にa工 場を建設して分業で生産する(1)(         )が成立した。これらは(2)(    )と呼ばれる農村の商人によって経営された が、b彼らは都市での自由な商業活動を求め、農民 と結んで(3)(  )と呼ばれる訴訟をおこなった。一方、彼らは村役人でもあったため、農民が村政改革を訴える(4)(    )では攻撃対象になるな ど、農村は複雑な対立の場となっていた。
 この頃、11代将軍(5)(    )は放漫な親政をおこなっており、冷害によって(6)(      )が拡大すると、大坂では(7)(     ) が政治腐敗を糾弾して乱を起こした。内憂外患の克服のために改革が必要となったのである。
<設問>
a この形態で絹織物生産をおこなった地域はどこか。
b 彼らの自由な商業活動を阻害していたのは何か。

【3】天保の改革
 12代将軍徳川家慶の老中となった水野忠邦は、大御所時代のa風 紀の乱れを引き締め、天保の大飢饉によるb江戸流 入民への対策を講じようとした
 一方、在郷商人の参入による物価引下げを期待して(1)(   )の解散を命じた他、中国がイギリスと戦った(2)(     )に敗れた知らせを受け ると、異国船打払令を廃して(3)(        )を出し、(4)(    )を招いて洋式砲術の導入を図った。軍事的・経済的に幕権を強化するた め、江戸・大坂周辺を直轄地にする(5)(   )を出したが、幕府門閥勢力の反対に遭い、改革は挫折することになった。
<設問>
a 恋愛小説を書いていた作家が処分された。人物名と小説のジャンル名を記せ。
b どのような法令を出すことを計画したか。


【4】西南雄藩の台頭
 財政難に悩む薩摩藩は、下級武士の(1)(    )を抜擢し、藩債整理とa専売強化、(2)(  )経由の密貿易によって財政再建を果 たした。その後、藩主の(3)(    )は洋式工場を建設し、藩の軍事力・経済力を高めた。また、b専売強化に失敗した長州藩は、下級武士の(4)(    ) を用い、下関での越荷方拡充で財政を好転させ、豪農層の支持を得た。土佐藩では(5)(    )による改革がおこなわれ、、肥前藩では藩主鍋島直正が小 作地を再分配する(6)(   )を実施し、c洋式大砲の鋳造を 成功させた。
 一方、水戸藩では藩主(7)(    )が改革派下級武士を用いたが、門閥層の反対で失敗に終わっており、政治発言力を強めた西南雄藩と明暗を分けた。
<設問>
a どのようなものを専売品にしたか。
b どのようなものを専売品にしたか。
c これを鋳造するために建設したものは何か。



<近現代史編>

1 幕藩体制の崩壊
【1】ペリーの来航と開国
 産業革命の進行した欧米の目がアジアに向けられるようになると、日本への開国の要求が出されるようになった。1844年、(1)(    )国王は開国 を勧め、1846年にはアメリカの(2)(   )が浦賀に来航して通商を求めている。a1853年のペリー来航に対しては、老中首座の(3)(     )が対応したが、翌年、(4)(      )を締結し、b2 港を開いてアメリカ船の寄港を認めた。この条約では、日本が一方的に(5)(     )を認めており、不平等な内容を含んでいた。また、 同様の条約を結んだロシアとはc北辺の国境を画定している
<設問>
a 同年、長崎に来航したロシア使節は誰か。
b 2港とはどこか。
c 千島、樺太についてどのように定められたか。

【2】幕府独裁制の閉幕
 13代将軍の跡継ぎをめぐり、幕府内にはa雄藩勢力と b譜代勢力の二派が対立し、前者は(1)(     )、後者は(2)(    )を継嗣に押していた。一方、アメリカからは通商条約締結を求められていたため、阿部正弘の後任で譜代の老中(3)(     )は、朝廷に条約締結の勅許を求めた。これに対し、(4)(  )天皇は締結を許さず、譜代勢力は(5)(    )を大老に任じて事態の打開を図っ た。アメリカ総領事の(6)(   )が、アロー戦争を利して通商条約締結を強要すると、(5)(    )は条約締結に踏み切り、将軍継嗣も(2)(     )にc決定した。これを譜代勢力の専断とみ なした雄藩勢力は、朝廷と図って巻返しを企てたため、(5)(    )によってd弾圧されることにる。しかし、そのため、(5)(    ) はe暗殺されることになり、幕府の独裁体制は幕を 閉じることになった。
<設問>
a これは何派と称されたか。また、その中心人物を2人記せ。
b これは何派と称されたか。
c 将軍継嗣に決定された後、14代将軍となって何と称したか。
d この弾圧事件を何と呼ぶか。
e この事件を何と呼ぶか。

【3】不平等条約と開国の影響
 1858年に締結された日米修好通商条約ではa5港の開港が約 されたが、日本側にとってのb不平等条約であった
 貿易では(1)(    )が主要な相手国となり、輸入は(2)(   )(3)(   )、輸出は(4)(  )が重要であった。大量の物資が都市の 問屋商人を介さず、生産地の(5)(    )の手で開港地に出荷されたため品不足が生じ、幕府は(6)(       )を出したが効果は一時的だっ た。また、cインフレが激化したことで一揆や打ち こわしが頻発し、外国人を排撃する(7)(  )運動も激しくなった。
<設問>
a 5港を記せ。
b どのような点が不平等であったか。
c インフレ激化の原因を金銀比価と貨幣の点から記せ。

【4】公武派と尊攘派の対立
 井伊直弼暗殺後、老中首座となった(1)(    )は公武合体のため、孝明天皇妹宮を家茂に嫁がせる(2)(    )を企てた。彼がa反対派に襲撃されて失脚すると、薩摩藩の国父(3)(     )は文久の改革によるb旧一橋派の政界返り咲きを実現し、 実質的な公武合体を推進した。
 一方、長州藩は尊王攘夷を説いて朝廷に接近し、一時は実権を掌握したが、1862年8月のc薩摩藩の巻返しでd京都を追われ、天皇奪還を図った(4)(    )で敗れて e朝敵となった
<設問>
a この事件を何と呼ぶか。
b 政権に返り咲いた人物2人と、その役職を記せ。
c この出来事を何と呼ぶか。
d このために活躍した会津藩主とその役職を記せ。
e この結果、長州藩は薩摩藩主体の幕府軍の攻撃を受けることになった。この出来事を何と呼ぶか。

【5】薩長連合と幕府の滅亡
 反目し合っていた薩長両藩は、外国との接触を機に歩み寄りを見せた。薩摩藩は英人を殺傷した(1)(    )の報復として(2)(    )を戦い、 長州藩は下関での攘夷実行の報復として英・米・仏・蘭による(3)(          )を経験した。外国の実力を知った両藩はa藩論を転換し、倒幕による新政権樹立を目指すようになり、土 佐藩の(4)(    )らの仲介で薩長連合を結んだ。イギリス公使の(5)(    )は薩摩藩を援助した。
 一方、幕府は恭順の姿勢を見せない長州藩を再征したが、この(6)(       )に敗れると急速に力を失い、フランス公使の(7)(    )の援 助で軍制改革を進めた。
 孝明天皇が急死すると倒幕の機運が盛り上がり、急進派公卿の(8)(    )の画策で討幕の密勅が薩長両藩に出された。これに対し、前土佐藩主の (9)(    )は、15代将軍となった徳川慶喜に対し、公武合体の立場から(10)(    )を勧め、1867年10月に実行された。b不安定な世情の中、民衆はc一揆・打ちこわしを通じて倒幕を支持しており、これが幕府に 政権返上を決断させることになった。
<設問>
a 長州藩で奇兵隊を使い、保守派を一掃した下級武士は誰か。
b この時期は新興宗教がいくつも出現した。その例を開祖の名前と合わせて1つ記せ。
c この一種として、幕府滅亡期に宗教的興奮を伴って流行した集団乱舞を何と呼ぶか。


2 近代国家の形成
【1】徳川勢力の一掃と新政府発足
 大政奉還後、薩長両藩の下級武士は徳川勢力を一掃するため、(1)(        )によって天皇中心の新政府樹立を宣言し、a三職によるb小御所会議を開いた。徳川慶喜はこれに反発したが、(2) (    )の戦いで敗れて江戸に退き、結局は江戸を明け渡すことになった。東北諸藩は(3)(       )を結成して新政府に対抗したが敗れ、箱館 に立てこもった(4)(    )も投降してc内乱は終結した
 この間、新政府は新政の基本方針として(5)(      )を出し、(6)(   )を定めて太政官制を発足させ、形式的な三権分立体制を整えて政治 をおこなった。しかし、民衆に対しては(7)(     )を出して幕府の方針を受継ぎ、人々の新政への期待は裏切られた。
<設問>
a 三職の職名を記せ。
b この会議で何が決定されたか。
c この内乱全体を何と呼ぶか。

【2】中央集権体制の樹立
 1869年、a旧藩主は土地と人民の支配権を返還す る(1)(    )をおこない、(2)(   )に任じられて引き続き旧領の政治をおこなった。1871年には彼らを解任して中央から府知事や(3) (  )を派遣する(4)(    )をおこない、b中央集権化 を完成させた。一方、これと合わせて太政官制の改革も数次に渡り実施され、(1)(    )の際には、c神道に基づく統治を目指したことから祭祀を司る(5)(    )を太政官と並立させ、(4)(    )の後には(5)(   )を廃して太政官d三院制の体制を作った
<設問>
a このとき、率先して返還をおこない、後の藩閥政治の流れを作ったのは何藩か。
b このとき、抵抗に備えて設置された天皇直属軍を何と呼んだか。
c このため、神仏習合を否定するために出された法律は何か。また、これによって起きた仏教排撃運動は何か。
d 三院とは何か。


【3】近代軍隊の創設
 明治政府は、士農工商のa平等をうたう(1) (    )の政策をとり、b身分制の改定をおこ なった。その目的は、国民皆兵原則に基づく徴兵制を布くことにあった。武士に対するc家禄支給は打ち切られたため、d士族授産の対策が講じられたが、多くは没落し、不平士族化し ていった。
 徴兵制は長州藩の(2)(     )(3)(    )の構想に基づくもので、陸軍は全国6カ所に(4)(  )が置かれ、ここで訓練を受けた。しか し、これに反発する農民たちは、(5)(    )と呼ばれる一揆を起こしている。
<設問>
a それまでの穢多・非人に対しても形式的に平等とされた。そのために出された法令は何か。
b 旧藩主らは新たな身分を与えられ、特権階級とされた。どのような身分か。
c この一連の政策を何と呼ぶか。
d 士族を北海道開拓に利用した政策は何か。

【4】税制改革と殖産興業
 戊辰戦争の戦費や藩債肩代わりで財政難に陥っていた明治政府は、財政の安定のため、土地所有者に(1)(  )を発行して所有権を認め、a地租改正を実施した。また、殖産興業政策を推進し、群馬県に は官営模範工場として(2)(     )が設置され、b武器製 造のために幕府事業を引き継いだ。北海道開拓の役所として(3)(      )が開設され、アメリカ式大農場経営を移植するため(4) (     )を開校した。鉄道は東京・新橋と(5)(  )間に開通し、海運では土佐藩出身の(6)(     )が経営する三菱会社が保護された。ま た、郵便制度は(7)(   )の建議によって整備された。貨幣制度では、1871年に(8)(    )が出されて円銭厘の十進法が定められ、c兌換紙幣発行のために(9)(      )が出された。
<設問>
a 納税額はどのように算定されたか。また、納税方法はどのように定められたか。
b 陸軍の兵器工場、および海軍の軍艦を製造した造船所をそれぞれ2カ所ずつ記せ。
c このため、第一国立銀行を創業したのは誰か。

【5】新政府の外交
 中央集権化を実現した明治政府は、a使節団を欧米に派遣し て近代化の手本とする一方、b国境の画定をおこなった。 日露雑居とされていた樺太で、日本はロシアとの開発競争に敗れたため、(1)(        )を締結してこれを放棄した。
 中国に対しては対等条約として(2)(      )を結んだが、中国と日本の両属関係にあった琉球については、これを日本領に組み込む方針をとり、琉 球藩を設置して(3)(  )を藩王とした。宮古島の漁民が漂着先の台湾で殺害されると、日本は(4)(    )と呼ばれる軍事行動を実施して琉球に対 する影響力の拡大を図り、沖縄県を設置した。
 朝鮮に対してはc開国を求め、(5)(   ) 事件をきっかけに軍事的圧力をかけ、d朝鮮側の不平等条約で ある(6)(      )を締結している。
<設問>
a この団長は誰か。
b 日本が領有宣言をし、日本領に組入れた太平洋上の島嶼はどこか。
c 開国した朝鮮が日本に対して開いた港を記せ。
d どのような点が不平等であったか記せ。


3 民権の拡大と立憲政体の樹立
【1】新政府への反動
 明治政府の専制的な近代化政策に対してはa民衆反乱が相次いだ。 一方、政府内部では朝鮮を武力で攻撃する(1)(   )をめぐって反主流派が下野し、1874年に(2)(         )をb左院に提出して自由民権運動を開始した。c国会開設を求める政社も各地に発足し、これらを糾合して大阪 で(3)(   )が組織された。政府は大阪会議を開いてこれに対処し、(4)(          )を出してd三権分立、立憲体制への方向性を示す一方、(5)(      )(6)(   )を出して運動を取り締った。
 徴兵令に続き、1876年に(7)(   )が出されて武士の存在が否定されたこともあり、民権運動が下火になると、反政府運動の中心はe不平士族の乱に移った。しかし、(8)(    )を首領と した最大の内乱・(9)(    )が鎮圧されると、武力反抗は幕を閉じた。
<設問>
a とりわけ農民が反発した政策には何があったか。3つ記せ。
b 提出した人物を4人記せ。
c 土佐で発足し、民権運動の中心となった政社は何か。
d この時に設置された、憲法草案の作成にあたった立法機関と、司法の最高機関とを記せ。
e 佐賀県、熊本県、福岡県、山口県で起きた乱を記せ。佐賀、山口で起きたものについては、指導者名も記せ。

【2】民権運動の拡大
 a豪農の参加によって自由民権運動は拡大した。 1880年には(1)(      )が結成されて国会開設請願が提出されたが、政府は(2)(    )を出して集会の弾圧を図った。1881年、b開拓使官有物払下げ事件が起きると、政府内部で国会開設を主 張した(3)(    )が罷免され、政府は10年後に国会開設を約束することになった。この一連の政変を(4)(        )と呼ぶ。
 民権運動はc政党の結成に進み、d民間でも憲法草案が作成された他、e民権思想も一般に広まっていった
<設問>
a この背景として、豪農に地方政治への参加が認められたことがある。地方行政を刷新するために出された法令を総称して何と呼んだか。
b 藩閥の横暴と攻撃された開拓使長官は誰か。
c 政党のうち、フランス流急進民主主義と、イギリス流漸進民主主義の立場をとった政党名と党首名、政府支持の御用政党の名称と党首名を記せ。
d これらを総称して何と呼んだか。
e 「日本のルソー」と称された民権思想家と、その著書名を記せ。

【3】松方財政と民権運動の収束
 西南戦争以後のインフレを抑えるため、大蔵卿となった(1)(    )は間接税増税、官営事業払下げを柱とするデフレ政策をとった。この結果、インフ レは収束し、a銀本位制が確立されたが、農村を中 心に深刻な不況に見舞われた。没落した農民たちは民権運動に合流したが、運動は激化し、福島県では県令(2)(    )と対立した自由党の(3)(     )が検挙される福島事件が起き、その後もb自由党員が政府と 衝突する事件が相次いだ。埼玉県では、没落した農民が困民党を結成し、武装蜂起する(4)(    )が起きている。
 政府の弾圧で民権運動は沈静化したが、その後、1886年には(5)(    )運動として復活し、翌年にはc三大事件建白運動に発展した。政府は(6)(    )を出 して取締り、対立の場は国会へと移っていった。
<設問>
a 銀兌換紙幣を発行した銀行は何か。
b どのような事件があったか記せ。
c 三大事件とは何か。

【4】立憲政体の樹立
 aドイツで憲法の理論を学んだ伊藤博文は、b憲法草案の起草に着手した。この一方、上院の開設に備えて (1)(   )を制定し、太政官制を廃して(2)(    )を創設して自らは首相となった。さらに、c地方政治においても、民権派の締め出しを企てている。憲法草 案は(3)(   )で審議がおこなわれ、大日本帝国憲法としてd明 治天皇によって発布された。天皇は主権者とされ、陸海軍を指揮する(4)(   )、議会閉会中に法律に代わる(5)(    )を発布す る権限が付与されていた。国会はe衆議院と(6) (   )の二院制であったが、両者は対等で、後者が前者の動きを抑えていた。憲法発布で日本は立憲国家となり、fその他の法も整備されたが、g基本的人権などはきちんと確立していなかった
 憲法発布の際、黒田清隆首相は(7)(    )を宣し、初期議会では民党との間でh対立が繰り返された。内務大臣の(8)(     )が大規 模な選挙干渉をおこなったのもこの時期である。
<設問>
a 伊藤が憲法理論を学んだドイツ人法学者を2人記せ。
b 伊藤以外で起草にあたった日本人3人と、ドイツ人顧問1人の名前を記せ。
c このために地方政治制度に改変がおこなわれた。どのような制度が公布されたか。
d このような憲法を何と呼ぶか。
e どのような者に選挙権が与えられたか。また、その者は全国民の何%にあたったか。
f 穂積八束の批判を招いた、民主的民法を起草したフランス人法律顧問は誰か。
g 国民の権利はどのように定められていたか。
h 対立の原因は何か。政府と民党の主張を記せ。


4 大陸進出と資本主義の発達
【1】朝鮮問題と日清戦争
 1880年代、日本はa朝鮮に対する政治主導権をめぐって清と 対立し、bクーデターにからんで二度にわたる軍事 衝突が起きた。1885年に締結された (1)(    )は、両国の朝鮮からの撤兵を約したものだったが、1894年に大規模な農民蜂起である(2)(      )が起きると、日清両軍は出 兵し、日清戦争に発展した。
 戦争に勝利した日本は、c下関条約を締結し、清 に対してd領土の割譲とe賠償金の支払を認めさせた。この賠償金により、日本は欧米並 みの貨幣制度として (3)(   )制度を確立している。
<設問>
a この対立の中、当初は親日派だった閔氏は親清派に転向して事大党を形成し、親日派の独立党と衝突した。独立党の中心人物は誰か。
b 二度の軍事衝突の事件名を記せ。
c 日本と清の全権は誰だったか。
d 割譲された領土名を記せ。
e 金額を清国の貨幣の単位で記せ。

【2】列強の中国分割
 下関条約で日本が獲得した遼東半島は、a三国干渉を受けた結 果、清に返還された。この後、b列強の中国分割が始まり、 これに反発する民衆の蜂起を招い た。1900年、「扶清滅洋」を唱える(1)(   )は北京の外国人を包囲し、清も宣戦布告をおこなったため、連合国との間にc全面的な戦争となった。 結局、清は敗北を喫し、連合国との間に(2)(     )を締結し、賠償金の支払と北京への軍隊駐留を認めることになった。
 この間、ロシアは満州を占領し、さらに南下をうかがったため、日本の内部ではロシアと妥協して満灌交換をおこなうか、イギリスと結んでロシアと戦うかの 意見が対立した。1902年、日本は(3)(    )を締結し、戦争を選択するのである。
<設問>
a この三国はどこか。
b ロシア、ドイツ、フランス、イギリスの租借地を記せ。また、アメリカはどのような態度をとったか記せ。
c この戦争を何と呼ぶか。

【3】日露戦争と大陸政策
 世論がa開戦論に傾く中、1904年、日露戦争 が始まった。日本は旅順を占領し、(1)(     )でバルチック艦隊を撃破したが、財政的に継戦は難 しく、アメリカの仲介でbポーツマス条約が締結された。 これにより、日本はロシアからc租借地と鉄道を引継ぎ、 d新たな領土を獲得したが、敗戦を認めない ロシアは賠償金の支払に応じず、これに不満を持つ国民は暴徒化し、(2)(        )を起こしている。
 戦後、日本はイギリスとの間の(3)(    )を強化し、アメリカとは(4)(      )を結んだ。前者はインドへのロシア南下阻止、後者はアメ リカのフィリピン統治を容認したもので、その代わりに日本の韓国保護国化を認めさせた。韓国には(5)(    )の締結を強要して外交権を接収し、ソウ ルに(6)(     )を設置して初代長官には伊藤博文が着任した。韓国ではe民衆の抵抗が激しくなり、伊藤が暗殺された後、1910年に は韓国を併合 し、統治機関として(7)(     )が設置された。朝鮮支配は武断政治の方針で臨み、土地所有者を確定するための(8)(      )を通じ、多く の農地が東洋拓殖株式会社に集積されて小作地経営がおこなわれた。
 一方、満州支配のためには関東都督府が設置され、(9)(         )が鉄道経営をおこなった。日本はアメリカを仮想敵国としてロシアとの間に (10)(    )を締結し、満州利権の維持に努めた。
<設問>
a これに対し、非戦論を唱えたものを3人記せ。
b 日本とロシアの全権は誰だったか。
c 租借地名と、鉄道名を記せ。
d これはどこか。
e 具体的にはどのようなことが起きたか。

【4】条約改正問題
 不平等条約の改正は明治国家の悲願であった。1872年には(1)(    )がアメリカで改正のための下交渉をしたが失敗し、本格的な交渉は外務卿と なった(2)(    )が税権回復を目指して開始した。アヘン密輸事件が起きると法権回復が優先され、外務卿となった(3)(   )は、外国人裁判官 任用を条件に交渉を進めた。しかし、a極端な欧化政策をとったこ とでb批判が高まり、退陣に追い込まれた。続いて 外務大臣として交渉にあたった(4)(     )も、大審院に外国人裁判官を任用するとしたため右翼に襲撃されている。
 1890年、日本が立憲国家となり、c極東情勢が変化すると 改正交渉は楽になった。外務大臣の(5)(   )はイギリスとの間に交渉を成功させたもの の、dロシア皇太子が襲撃される事件で辞職に追い 込まれ、1894年、(6)(    )外務大臣のもとで駐英公使となり、治外法権の撤廃と関税自主権の 一部回復を実現する(7)(        )の締結にこぎ着けた。税権の完全回復は、1911年、外務大臣(8)(     )の手で成し遂げられてい る。
<設問>
a このための社交場として建設された洋館は何か。
b 世論の憤激を招き、三大事件建白運動のきっかけとなったイギリス船沈没事件は何か。
c これはどのようなことを指しているか。
d この事件は何か。また、この事件に関連し、司法権の独立を守った人物は誰か。

【5】産業革命と日本資本主義
 日本の産業革命はa国家主導のもとに実現した。 産業革命に必要な機械は1870年代の殖産興業政策によって導入され、b資本家と労働者は1880年代に おこなわれた(1)(    )の時期に創出されている。第一次産業革命はc製糸・紡績業で始まった。前者は(2)(    )と呼ばれ る小規模な生産形 態が多かったが、後者では渋沢栄一が設立した(3)(    )の成功によって機械紡績が拡大し、d従来の水車動力の生産を圧倒した。綿織物業でも、 (4)(    )の発明した力織機が農村に普及している。また、第二次産業革命は北九州に(5)(       )が設立されて1900年代に進行し た。この時期のe日本の貿易を見ると、主要輸出品 は(6)(  )(7)(  )、輸入品のトップは(8)(  )であった。
<設問>
a 鉄道も国家経営となった。1906年に出された民営鉄道を買収する法律は何か。
b 官営事業の払下げによって成長したのが財閥である。4大財閥を記せ。
c それぞれ、どのような糸を生産するものか。
d これには臥雲辰致が発明した道具が用いられた。何か。
e 外国為替を扱った特殊銀行、およびボンベイ航路を開設した海運会社名を記せ。

【6】社会運動の発生
 明治期の厳しい労働者の実態は、横山源之助の「(1)(       )」などに詳しい。労働条件改善のため、高野房太郎の組織した(2)(        ・職工義友会から改称)が鉄工組合や日本鉄道矯正会などの労働組合を育成している。a渡良瀬川流域では公害も発生し、(3)(    )が問題解 決の ために努力をした。
 b社会主義の考えも紹介され、社会主義の政党と して1901年に結成された(4)(     )は、前年に制定された(5)(     )によって活動 を禁じられた。日露戦争の時期、c社会主義の立場で非戦論が唱え られ、戦後は西園寺内閣のもとで初の合法的無産政党として(6)(     )が認められ ている。一方、1910年、d天皇暗殺計画を口実に社会主義者の 弾圧をおこなった政府は、翌年、労働条件改善のために(7)(   )を制定したが、内実 は不徹底なものであった。
<設問>
a どのような事件が起きたか。
b 片山潜、幸徳秋水、安部磯雄らが作り、社会主義協会につながった組織は何か。
c そのために発行された新聞名を記せ。
d この事件を何と呼ぶか。処刑された社会主義運動の中心人物は誰か。


5 第一次世界大戦と大正デモクラシー
【1】政党政治の進展と大正政変
 明治時代後期、藩閥と政党の妥協と対立が繰り返された。a日本 初の政党内閣の(1)(    )内閣は、自由党と進歩党の合併でできた(2)(   ) を与党としたが、党内対立で瓦解し、続く長州陸軍閥の第二次(3)(    )内閣は、(4)(     )を改正して政党員の官僚への道を閉ざし、 (5)(         )を導入して内閣に対しての軍部の影響力を拡大した。一方、(6)(    )は自ら新政党(7)(     )を組織し、こ れを与党に第四次(6)(    )内閣を組織している。この後、(3)(    )(6)(    )はb政治の一線を退き、後継者の(8)(   ) (9)(     )がc交互に内閣を組織した
 第二次(9)(     )内閣がd藩閥の横暴で 総辞職し、第三次(8)(   )内閣が発足すると、e第一次護 憲運動と呼ばれる倒閣運動が起きた。内 閣は退陣に追い込まれ、次いで組閣した薩摩海軍閥の(10)(     )内閣も、海軍の汚職事件である(11)(       )によって総辞職した。 この後、(12)(     )を与党に第二次(1)(    )内閣が発足することになる。
<設問>
a この内閣は、その中心人物の名前から何と呼ばれるか。
b 彼らは次の首相を選出するなど、背後で政治的影響力を行使した。この立場の者たちを何と呼んだか。
c この時代を何と呼ぶか。
d 具体的には何が起きたのか。陸軍の要求と内閣の対応、それに対する陸軍の行動について説明せよ。
e この運動の中心となったのは誰か。2人記せ。

【2】第一次世界大戦と中国進出
 日露戦争後、中国では(1)(  )の指導のもと中国革命同盟会発足し、1911年には(2)(    )が勃発して翌年には清朝が滅びた。新たに (3)(    )が建国されたが、軍閥の(4)(   )が実権を握り、(1)(  )と対立して混乱が続いた。
 1914年、a第一次世界大戦が起きると、日本 は(5)(    )の情誼を理由に参戦し、ドイツ支配下の(6)(  )(7)(    )を制圧し た。日本は(4)(   )に対して満州権益の拡大とドイツの持つ(8)(     )の継承をb要求し、武力でこれを認めさせたたため、c列強の反感を 買った。(4)(   )の死後は、後継軍閥の(9)(   )に対して西原借款と呼ばれる財政援助をおこない、影響力の拡大を図ったが失 敗した。
<設問>
a 大戦直前までのヨーロッパの対立関係について記せ。
b この要求を何と呼ぶか。
c このため、列強との間に打開策が講じられた。英・仏・露に対する対策、ロシアに対する対策、アメリカに対する対策について記せ。

【3】大戦景気と大正デモクラシー
 第一次世界大戦の時期、日本はa大戦景気を享受し、 b産業構造も大きく変化した。国民の政治意識も高 まって民主主義思想が普及し、この風潮を(1)(         )と呼んでいる。c天皇を神格化せず憲法の統治機 関と理解した憲法学者の(2)(     )や、d主 権問題から離れて国民本位の政治の必 要性を説いた(3)(    )などは、この時代をリードした人物である。この結果、一般大衆への参政権拡大を求める(4)(    )運 動が活発化し た。
 大隈内閣に次いで組閣した長州陸軍閥の(5)(    )は、ロシア革命に干渉するため(6)(      )を強行した。軍事行動は米価を高騰させ、 戦時インフレのピークと重なったこともあってe全国的に米屋の打 ちこわしが起き、(5)(    )は退陣を迫られた。続いて首相となった(7)(  ) は、f「平民宰相」と呼ばれて本格的政党内閣を組 織したが、(4)(    )の実現には消極的でg選挙制限の緩 和にとどめ、政治腐敗も問題となって暗殺 された。
<設問>
a 造船・海運業で財をなした者を何と呼んだか。
b ドイツからの輸入が途絶えたことで勃興した産業は何か。
c この学説を何と呼ぶか。
d この主義主張を何と呼ぶか。
e この暴動を何と呼ぶか。また、何県で始まったか。
f なぜこのように評価されているのか説明せよ。
g どのように緩和されたのか。

【4】第一次世界大戦の終結とベルサイユ体制
 第一次世界大戦中、ロシアではロシア革命が起き、社会主義政権が誕生した。列強は革命に干渉するため(1)(      )をおこない、日本も出兵した が失敗に終わっている。1918年、大戦は独墺の降伏で終結し、a講 和会議が開かれて(2)(       )が結ばれた。日本はドイツ領だった(3) (    )の委任統治権を得たが、ドイツが中国に持っていた(4)(     )の継承要求に対しては、中国で(5)(    )と呼ばれる反日運動が 起き、結論は持ち越された。この時期は朝鮮でも(6)(      )が起きて世界的に民族自決の風潮が高まり、b平和維持のための国際機関が発足するな ど、帝国主義への反省がなされている。
<設問>
a この会議をリードしたアメリカ大統領、および日本側全権は誰か。
b この機関は何か。日本はどのような地位に就いたか。

【5】国際協調の時代
 1921年、国際協調のためにワシントン会議が開かれた。ここでは、a太平洋の勢力現状維持を定めた(1)(     )、b海軍の軍備縮小を定めた (2)(           )、c中国三原則を確認す る(3)(     )が締結されている。一方、日本はイギリスとの間の(4)(    )を廃 棄して国際的に孤立し、中国問題でアメリカと妥協を図るために結んで(5)(         )も無効となった。この後、日本では列強とのd協調外交が 展開され、1928年には(6)(      )、1930年にはeロンドン海軍軍縮条約が締結されている。
<設問>
a 締結国名を記せ。
b 米英日間の主力艦の保有比率はどのように定められたか。
c この結果、日本から中国に返還されることになったものは何か。
d これをおこなった外務大臣は誰か。
e これに対し、右翼や海軍は内閣攻撃をおこなった。この出来事を何と呼ぶか。


6 政党政治の確立と資本主義の行き詰まり
【1】恐慌と階級闘争の激化
 大戦景気によるインフレ、その反動とa関東大震災に よる恐慌のため、大正期には労働運動、社会運動が高揚した。1912年、労使協調のために(1)(     )が組織した友愛会は、1921年に(2)(       )と改称して労働組合の全国的組織となった。1922年には、小作争議の指導のために (3)(      )が発足した他、同年に部落解放運動の全国的組織として(4)(     )、1920年には女性文学の会である(5)(   )を 前身に、b婦人参政権の獲得を目指す(6)(      )が作られている。また、社会主義運動では1920年に(7)(        )が発足し、 1922年にはコミンテルン日本支部として秘密裏に(8)(     )が創立された。
 一方、c右翼・軍部はこうした動きを封じようとし、 dファシズムの考えも登場してきた。
<設問>
a この際、民族差別に基づいて起きた事件は何か。
b この活動の中心となった女性を2人記せ。
c 関東大震災の際、殺された無政府主義者は誰か。
d 「日本改造法案大綱」を著わし、軍部に支持されたのは誰か。

【2】第二次護憲運動と政党政治の確立
 原敬暗殺後、高橋是清内閣の後は海軍の内閣が続いた。1924年、(1)(    )が貴族院中心内閣を組織すると、a護憲三派はb第二次護憲運動を展 開した。総選挙の結果、この内閣を倒すと、第一党党首の(2)(    )が三派連立内閣を組織した。これ以後、衆議院第一党党首が組閣する(3)(      )と呼ばれるルールが確立した。
 1925年、(2)(    )はいわゆる(4)(     )を定めて参政権を拡大する一方、c共産主義革命運動の弾圧のために(5)(     ) を制定した。
<設問>
a この政党名を記せ。
b このスローガンを記せ。
c こうしたことが必要となった外交上の変化について記せ。

【3】金融恐慌と対華強硬外交
 加藤高明内閣の後、同じ憲政会の(1)(     )が組閣した。外務大臣には(2)(     )を迎え、中国革命の一環として進行していたa北伐に 介入しない方針をとり、協調外交を展開した。しかし、b関東大震 災時に振り出されていた手形の処理をめぐってc金 融恐慌が勃発すると、退陣を余儀なくされ た。
 続く政友会の(3)(    )内閣は、大蔵大臣に(4)(    )を起用してd恐慌の収束にあたらせ、e中国の日本資本を守るためf北伐に介入し た。結果は失敗で、日本の援助を受けていた軍閥の(5)(   )が、関東軍の手によってg満州の奉天で爆殺され、列強の非難を招いた。(3)(     )は治安維持法を強化してh共産党への弾圧を強 めるなど、ファシズム政治の先駆けとなった。
<設問>
a 北方軍閥に対して攻撃を始めた国民党の指導者は誰か。
b これを何と呼ぶか。
c 不良債権の存在が明るみに出て、倒産の危機に直面した発券銀行と、その融資先を記せ。
d どのような政策を打ち出したか。
e 第一次世界大戦以降、中国に進出した大紡績資本を何と呼んだか。
f この軍事行動を何と呼んだか。
g この事件は、日本では何と報道されたか。
h 1928年、29年に起きた弾圧事件を何と呼ぶか。

【4】世界大恐慌と政党政治の閉幕
 田中内閣の後、憲政会から変わった民政党党首として(1)(    )が組閣した。大蔵大臣には(2)(     )を起用し、緊縮財政、a産業の合理 化を進め、(3)(   )を実行して景気回復を図ったが、アメリカに端を発した世界恐慌の影響からb昭和恐慌を招き、事態はいっそう深刻となった。外交 では外務大臣に(4)(     )を招いて協調外交を展開し、c補 助艦の保有制限を約す(5)(          )を締結したが、これがもとで (6)(     )問題が起き、(1)はテロに倒れた。
 次いで首相となった(7)(     )は、柳条湖事件を契機に関東軍が起こした(8)(    )を収拾できず、政友会の(9)(   )が組閣し た。大蔵大臣となった(10)(    )はd金本位制から離脱 する(11)(      )をおこない、e為替を円安に誘導し て輸出の回復を図った。し かし、軍部は政党政治を「無能腐敗」と断じ、(9)(   )が暗殺される(12)(     )が起きた。
<設問>
a このために制定されたカルテルを奨励するための法律は何か。
b とりわけ価格が暴落したアメリカ向けの輸出品は何か。
c 米英日で保有比率はどのように定められたか。
d この結果、採用された通貨制度は何か。
e こうした動きに対応するため、宗主国と植民地間で実施された閉鎖的経済政策は何か。


7 ファシズム体制の成立と大日本帝国の崩壊
【1】ファシズムと満州事変
 昭和恐慌が深刻化する中、中国では爆殺された張作霖の子の(1)(   )が国民政府に服属し、満州利権の回収を図る動きが出てきた。一方、国民政府の 蒋介石と共産党の毛沢東との間で内戦が始まった。これを好機と見た関東軍は、1931年、満鉄爆破を自作自演した(2)(     )をきっかけに満州事 変を起こし、清朝最後の皇帝(3)(  )を執政に迎えて満州国を独立させた。日本は満州国との間に(4)(     )を締結して国家承認をおこなった が、その実態は政治・軍事を日本人が掌握した傀儡国家であった。満州事変は日本経済を再生させ、重化学工業部門を中心にab新興財閥が大陸に進出した
<設問>
a 化学肥料の生産を軸に発展し、朝鮮に進出した化学工業の新興財閥を記せ。
b この例として、鮎川義介が設立し、満州国政府と折半で満州重工業開発株式会社を発足させた新興財閥を記せ。

【2】国際社会からの孤立と軍部の独走
 不況が長期化し、国民政府の中国統一で満蒙の危機が叫ばれると、軍部の若手の中にはファシズムの路線を選択し、無能、腐敗の政党政治打倒を主張する者が 現れた。a浜口内閣に対するクーデター、b若槻内閣に対するテロは未遂に終わったが、c元蔵相の井上準之助や三井合名理事の団琢磨などが暗殺されている
 五・一五事件で犬養毅が暗殺された後、元老の西園寺公望は、海軍の(1)(   )に挙国一致内閣を組織させた。満州事変に対し、中国は国際連盟に提訴 をおこない、(2)(    )調査団が派遣されたが、国際連盟は満州国を認めなかったため、日本は連盟から脱退することになった。この頃から思想・学問 の自由が脅かされる事態が起き、自由主義的刑法学説を説いた京大教授(3)(    )が休職処分となったり、天皇を一国家機関と見なす東大教授(4) (     )の憲法学説(5)(     )が否定される事件が相次いだ。(1)に代わった岡田啓介首相は、天皇の尊厳を協調するため(6)(       )を出し、以後、国体を論じることはタブーとなった。
 一方、陸軍内部では官・財界と結んで影響力を拡大しようとするd統 制派と、天皇権力を仰いだ国政改革を目指すe皇道 派が対立した。後者は政権奪取を目指 して(7)(     )を起こしたが反乱軍として鎮圧され、統制派が政治力を拡大して指導体制を確立することになった。
<設問>
a この事件を何と呼ぶか。
b この事件を何と呼ぶか。
c この事件を何と呼ぶか。また、このテロ集団を組織したのは誰か。
d この中心人物は誰か。
e 「日本改造法案大綱」を著わし、この派閥の理論的指導者となったのは誰か。

【3】日中戦争の勃発
 二・二六事件の後、首相となった広田弘毅は、陸軍の要求する(1)(         )の復活を認め、ドイツとの間に(2)(      )を締結し た。陸軍の暴走は国民の不満を招き、民心掌握のために(3)(    )が首相となった。
 この頃、中国では国民政府と共産党との内戦が続いていたが、張作霖の子(4)(   )は国民党の蒋介石を軟禁し、容共抗日を迫る(5)(    )を 起こした。1937年、偶発的に起きた(6)(   )事件によって日中戦争が始まると、中国側は第二次(7)(    )で抗日民族統一戦線を組織し、 日本軍によって首都南京を占領されても重慶に遷都し、徹底抗戦の構えをとった。(3)は「蒋介石を相手とせず」という声明を出し、中国にa新たな政権を樹 立して日中満による(8)(     )の建設を呼びかけた。しかし、中国国民はこれを支持せず、戦争は泥沼化し、国内ではb戦争最優先で国民生活の統制 が企てられ、思想統一が図られた。こうした中、c自由主義的な思 想に対しても弾圧が加えられている。また、戦時における国の人的物的資源の運用を自由に認 める法令として(9)(      )が成立し、d軍需最優先の 生産体制と、e全国民を戦争に動員する体制が 確立した。
<設問>
a 重慶から脱出し、南京に樹立された傀儡政権のトップとなったのは誰か。
b このためにおこなわれた運動は何か。
c 日本の植民地政策を批判して免職となった東大教授は誰か。また、反ファシズムを叫んだ自由主義的な学者が多数検挙された事件は何か。
d 食糧統制のため、生産者に対して課された制度、消費者に対して課された制度は何か。また、日用品の消費制限のために導入された制度は何か。
e 国民を軍需工場に動員するために出された勅令は何か。

【4】第二次世界大戦と枢軸国の形成
 第二次世界大戦が勃発し、ドイツの優勢が伝えられると、軍部の中にはドイツと結んで仏印に軍隊を送り、重慶の蒋介石を援助するルートを寸断しようという 考えが登場した。この時期、元首相の(1)(    )は、軍部を抑えるためにa強力な政党を組織しようという運動を開始していたが、これが かえって軍部 に利用されることになった。第二次(1)(    )内閣のもとで、運動の結果、全政党は解散して(2)(     )が組織された。職場では(3)(      )、地域では(4)(  )が発足し、(2)(     )はこれらを傘下に収めた政治組織になるはずだったが、実際には政策の上意下達の機関と され、国民の生活を監視・統制するファシズム支配体制が確立した。戦争継続のためのファシズム化は植民地に対しても例外ではなく、天皇への忠誠を要求する b皇民化政策が推進された
 1940年、日本は米英をけん制して南進政策を推進するために(5)(         )を締結し、米英との対立が激しくなった。
<設問>
a この運動を何と呼んだか。
b 朝鮮で、日本式の家族制度と名前を強制した政策は何か。

【5】太平洋戦争の勃発
 1940年9月、日本軍は援蒋ルート寸断のために(1)(    )に進駐した。北を安定させて南進を進めるため、翌年4月には(2)(      ) を締結し、7月には資源確保を目指して(3)(    )に進駐した。これに対し、すでに(4)(        )の廃棄を通告し、対日貿易の中止を示 唆していたアメリカは、全面的な(5)(      )を通告し、他国とともにa日本の経済封鎖を強化した。日本はその突破を目指すことにな る。
 太平洋戦争は日本軍の(6)(   )攻撃で始まった。緒戦で日本は南方の占領地を拡大したが、(7)(      )海戦で敗退してからは劣勢に立た された。物資欠乏や勤労動員、学徒出陣、学童疎開などで国民生活は崩壊し、労働力不足のため、炭鉱などへの朝鮮人強制連行もおこなわれている。連合軍は 1943年11月に(8)(     )を出して日本の領土処分を示し、1945年2月には(9)(     )を開いてソ連の対日参戦を決めた。そして 7月には(10)(      )を出して無条件降伏を求め、b最 終的には日本はこれを受諾することになった
<設問>
a この経済封鎖を日本では何と呼んだか。
b 無条件降伏を決断させた出来事を2つ記せ。


8 民主主義国家の建設
【1】占領政治の開始
 日本の敗戦処理はポツダム宣言に基づいておこなわれた。ab日 本の占領政治のために東京に置かれたのが(1)(             )であり、そ の長官には(2)(      )が着任した。敗戦とともに成立した(3)(      )内閣は軍隊の武装解除を円滑におこない、その後の(4)(      )内閣のもとでc本格的な改革がおこなわれた。 d連合国軍は天皇制を存続させ、日本政府を通じた 間接統治を原則としたが、e軍国主義を徹底的に排除 することを目指し、A級戦犯に対しては(5)(        )を設置してこれを裁いた。また、fg政党も復活し、女性の選挙権も認められた。
<設問>
a この他、占領政策の最高決定機関としてワシントンに置かれ、連合国11ヵ国で構成されたのは何か。
b (1)の諮問機関として東京に置かれ、米英仏ソで構成されたのは何か。
c 日本の民主化、非軍事化のために示された基本方針は何か。
d 天皇自らがその神性を否定した出来事は何か。
e 軍国主義者を政治などの場から退けた出来事を何と呼んだか。
f 戦前の政友会、民政党、無産政党の流れを汲む政党名を記せ。
g 戦前は非合法で  あったものの、この時に認められた政党名を記せ。

【2】日本国憲法と民主化の推進
 日本の民主化の実現のため、日本国憲法が出されて民法が改正され、地方自治法の他、教育の民主化のために(1)(     )が出された。また、経済の 民主化政策が急ピッチで進められた。a15財閥の資産を凍結して 株式を放出させる(2)(    )がおこなわれ、新たな独占を防止するため(3)(      )が出されている。また、財閥系以外の大企業も(4)(          )が出されて分割されることになった。b寄生地主についても解体が図ら れ、二次にわたる(5)(    )が実行された。労働者の権利を保証する改革もおこなわれ、いわゆるc労働三法が出され、d労働組合の結成が進んだ
<設問>
a このために設置された委員会は何か。
b このために設置された委員会は何か。
c この法律名を記せ。
d この結果、結成された労働運動の全国的組織として、社会党系のもの、共産党系のものを記せ。

【3】労働運動の激化と東西対立
 敗戦後の国民生活はどん底状態で、激しいインフレに見舞われた。その抑制のために(1)(       )が出されて預金封鎖がおこなわれたが効果はな く、共産党は平和革命運動を展開し、1947年2月には(2)(       )を計画した。GHQは日本の左傾化を恐れて中止命令を出し、以後、日本の 占領政治の見直しが始まった。1948年には官公労働者の争議権を奪う(3)(      )が出された。
 一方、a東欧の社会主義化を進めるソ連と、自由主義体制の維持 を図るアメリカ・西欧諸国の対立も始まり、bそれ ぞれが軍事同盟を結成するとともに、cd ヨーロッパ、アジアで分断国家が成立した。こうした中、日本の反共基地化が急務となっていった。
<設問>
a アメリカ大統領によるソ連封じ込め宣言は何か。
b それぞれの軍事同盟の名前を記せ。
c ヨーロッパの分断国家の例を記せ。
d アジアの分断国家の例を3つ記せ。

【4】占領政治の転換
 日本では右にも左にも寄らないa中道政治のも と、(1)(      )を設立してb基幹産業に集中的に資金 を投入する(2)(    )方式に基づく 政策をおこなっていた。しかし、融資額は莫大で深刻なインフレを招き、アメリカ政府は日本経済を自立させる方策として(3)(    )を打ち出した。来 日した(4)(   )がデフレ予算を組み、(5)(    )が所得税を柱とする税制改革をおこなった結果、為替相場は安定して単一為替レートが設定さ れ、日本経済は国際経済とつながった。しかし、不況が深刻化して労働運動は激化し、政府が人員整理を進めたc国鉄では怪事件が相次いだ。1950年になる と、マスコミや政府機関から共産党員を追放(6)(      )が実施され、過度経済力集中排除法も骨抜きとされた。
<設問>
a この時期、二代にわたる保革連立政権が組まれた。与党の主力となった政党名2つと、二代の首相名を記せ。
b 基幹産業とされたのは何か。
c 事件の名前を記せ。

【5】朝鮮戦争と日本の独立
 1950年6月、朝鮮半島で(1)(    )が勃発した。日本は特需景気によって経済を回復させたが、アジアでの東西対立は頂点に達し、在日米軍の出 動で生じた軍事的空白を埋めるため、(2)(     )が設置され、共産党系労働組合の全国組織である産別会議に対抗するため、(3)(           )が組織された。また、日本に反共基地としての役割を分担させるため、西側陣営の同盟国として早急に独立させようという動きも強まった。この結果、 1951年、(4)(   )首相はab西側48ヵ国と(5) (            )を調印して独立を回復した。一方、極東の平和と日本の内乱鎮圧 に寄与するとして米軍駐留を認める(6)(        )が締結され、翌年には(7)(      )が結ばれて、日本は無制限、無期限に米軍に基地 施設を貸与し、駐留費も負担することになった。アメリカは日本の軍事力増強を求め、(2)は1952年には(8)(   )、1954年には(9)(      )が締結され、アメリカの軍事・経済援助の見返りとして(10)(   )に再編された。
 この時期、暴力的破壊活動を主張する団体を規制するために(11)(       )が出され、これが治安維持法の再来とされるなど、急速な逆コースの 動きが表れていた。c各地で反基地闘争が起き、水 爆実験で日本漁船が被爆した(12)(       )が起きると、世界的な原水爆禁止運動が巻き起こっ ている。
<設問>
a日本の植民地であったにもかかわらず、会議に招請されなかった国はどこか。
b日本の交戦国であったにもかかわらず、会議に招請されなかった国はどこか。
cこの例を2つ記せ。


9 現代の日本 
【1】雪どけと国際社会への復帰
 ソ連のスターリンの死後、1955年には冷戦後初の米ソ首脳会談が開かれた。自主外交路線をとった(1)(    )内閣は、社会党の左右統一に対して 保守合同をおこない、新政党(2)(     )を作って対抗した。これによってできた政治体制が(3)(      )である。(1)(    )は 1956年に(4)(      )を出してaソ連との国交を回 復した
 その後、重武装、親米反共路線の(5)(   )が首相となり、自衛隊と米軍に相互防衛の義務を課すため(6)(        )の改訂を目指した が、アメリカの紛争に自衛隊が巻き込まれる恐れから、国民は大規模な(7)(    )を展開した。条約は改訂されたものの、内閣は総辞職に追い込まれ、 次いで首相となった(8)(    )は「寛容と忍耐」と「(9)(    )]」をスローガンに政治的対立を回避しつつ、b安保体制下での経済発展を優 先する政策をとった
<設問>
a これによって、日本の加入が認められた国際機関は何か。
b これによって実現したのは何か。

【2】高度経済成長と経済大国化
 朝鮮戦争の特需景気の後、日本は1950年代から70年代半ばにかけて高度経済成長を成し遂げた。1955年の好景気は(1)(    )と呼ばれ、耐 久消費財が普及した。日本は自由貿易体制のもと、1$=(2)(   )円という有利な為替相場に支えられて輸出を拡大し、1964年には赤字防止のため の資金移動制限が認められない(3)(      )になり、貿易・金融で協力して途上国を支える(4)(    )にも加盟し、1968年にはGNP世 界第二位の地位に昇った。
 一方、経済のa農工間格差は拡大し、大企業と中 小企業、都市と農村との差も広がり、経済成長最優先の姿勢がbc公 害問題を引き起こすなど、成長のゆがみ も問題となった。
<設問>
a 1961年、高度成長期の農業政策を決定した法律は何か。
b 四大公害病とは何か。
c 公害規制をおこなうための官庁として、1971年に発足したのは何か。

【3】ベトナム戦争と戦後の終了
 ベトナムの民族独立闘争に介入したアメリカは、1965年に(1)(      )を起こし、その長期化のためにab経済状況を悪化させた。対韓援助の 削減を迫られたアメリカは日韓国交正常化を強く求め、1965年、(2)(    )内閣は(3)(      )を締結し、植民地統治の責任を曖昧とす る代わりに、経済協力をおこなった。また、(2)(    )は沖縄の施政権返還をアメリカに求め、1972年に実現したが、米軍基地は温存されることに なった。
 アメリカは米中国交回復によって中ソ間に楔を打ち、ベトナムから撤退する道をとった。このため、次いで首相となった(4)(    )は、1972年、 中国との間に(5)(      )を発してc国交を回復した。 この時期、戦後に残された政治的な懸案のいくつかは解決されたが、日本は経済的にも一つの 転換点を迎え、d高度成長に幕が下ろされた
<設問>
a アメリカは金とドルの交換に応じられなくなった。1971年におこなわれた円切り上げの合意は何か。
b 1973年になると変動為替相場制に移行したが、これにより、日本ではどのような事態が進行したか。
c 日中間で正式に戦争状態に終止符が打たれたのは1978年である。締結された条約名とこの時の首相名を記せ。
d このことを決定づけた出来事として、1973年に起きた事態を記せ。



トッ プページに戻る


************
2014年4月発行    
著者:服部 誠   
無断複製転載を禁ず 
************