<江戸時代の文化(2)>

化政文化は徳川家斉の時代であり、年号の文化文政をとって化政文化と称される。江戸の発展にしたがい、江戸が文化の中心となってゆく。とりわけ一般庶民が担い手となった点が重要。
この時代の美学は「粋」とか「通」と呼ばれるものである。「粋」は見えない贅沢とでも言うものであり、着物の表地は地味にして、裏地に高価な素材を使ったりする。「通」は下世話、特に遊里の世界に通じていることである。
・幕藩体制が固定される中、一般庶民は与えられた世界で生きてゆく必要がある。政治によって生きづらい部分が生じてくると、表立って文句が言えないため、風刺や皮肉によって抵抗することになる。このため、一見退廃的な文化でもある。

【教育・学問史】
A 教育
 1 藩学

・藩学は大名が建てた藩士の子弟のための学校であり、江戸時代を通じて280校が設立されている。古いものに岡山藩の花畠教場(1641)がある。元禄のころから増え始め、米沢の興譲館萩の明倫館などができ、寛政の改革後にまた増える。半分はこれ以後の設立である。
・初めは藩主が物好きで作っていたのが、途中からは富国強兵を図る人材育成の場となった。教える中身も初めは武術、漢学中心だったものが、後には蘭学、天文学、医学など実学も教えるようになってゆく。

     =日新館(会津)、興譲館(米沢)、明倫堂(尾張)、時習館(熊本)、
      弘道館(水戸)

・会津藩では保科正之がの稽古堂を建て、ここでは藩士も庶民も学ぶことができた。これが前身となって日新館ができ、幕末の会津藩士が育つ。
興譲館は上杉治憲が建てたもので、尾張から細井平洲を招いている。時習館は細川重賢の建てた藩校。弘道館は徳川斉昭が建てている。
・尾張藩の明倫堂は初代義直の時には作られていたようであり、明和高校となる。高校に受け継がれたものとしては吉田藩の時習館(江戸中期)。田原の成章館(文化年間)がある。

        cf)郷学(閑谷学校)

郷学は藩校まで遠いところに建てられた分校で、1668年に岡山城から30キロ離れたところに建てた閑谷学校が代表的。建物は現在も残り、国宝となっている。寺の本堂のような建物である。

 2 寺子屋=庶民教育

・化政文化を支えた教育機関としては寺子屋が重要である。江戸時代の日本人の識字率は高く、幕末に日本に来た外国人が、篭かき人足のようなものでも本を読んでいると驚いている。
・天保期以降の38年間で8700の寺子屋が新たに開業している。年間230校の割合。男子中心で20〜30人が学んでいた。江戸では町人の男子はほとん ど全てが通い、女子でも半分は行っていたという。7〜16歳の子たちで、1日7〜8時間の授業。江戸の町人などでは昼は食べに帰っていた。休日は年間50 日くらいなので今よりも授業日数は多かったことになる。

    「読み書きそろばん」、

・授業内容は「読み、書き、そろばん」手習いを通じて知識を習得させた。商人になるのならば「商売往来」で、実際に商家で使っている取引上の手紙、仕入れ帳のようなものを材料にしてそれに使う字、商売の用語などを学ばせてゆく。
・一人一人にあった教材を与えるので一斉授業ではない。
・月謝は志だった。隠居したり浪人となった武士、僧侶などが半分はボランティアでやっていた。儲からないが、師匠として尊敬の対象とされる。

      教科書「庭訓往来」、「女大学」(女子)

「庭訓往来」は室町時代からの伝統的な教材で手紙を材料にした教科書。このあたりを学ぶようになると寺子屋をきわめたことになった。
・女子は「女大学」を手本とし、一歩下がって暮らす女性の道徳を教わる。

 3 私塾=懐徳堂(大坂)、

・寺子屋で飽き足らないと私塾に通う。懐徳堂は大坂町人の出資でできたもので、1724年に設立。146年間続いた。庶民が学び、その優等生は富永仲基、山片蟠桃である。

     松下村塾(萩)

松下村塾は萩で吉田松陰が開いたもの。松陰はペリー来航時に密航しようとして捕ま り、国元蟄居になった。このときに作ったのが松下村塾である。高杉晋作、桂小五郎、伊藤博文、山県有朋はここの出身。8畳と10畳の2間に40人くらいが 入ったという。これも一斉講義ではなく、一人一人と問答をするような授業で、日本の今後を考えさせるものだった。

B 心学(道徳教育、儒+仏+神)
   石田梅岩(京都)

心学は神道、仏教、儒教などをミックスした道徳教育で、石田梅岩が始めた。商人としての経験をもとに町人として守るべき道徳を示し、武士に卑しめられていた金儲けを肯定して正直と倹約を訴えった。吉宗の頃の人である。

    →手島堵庵、中沢道二

手島堵庵は梅岩の弟子で、全国に心学舎を設置していった。これは心学の修行をする道場である。この段階で20箇所に設置。
中沢道二はその後に登場した者で、幕末期には日本中に173の心学舎ができる。

C 儒学 折衷学派(朱子学+陽明学+古学)、

・儒学では折衷学派や考証学派が人気となる。
折衷学派は古学、朱子学、陽明学の長所を折衷して説いたもの。荻生徂徠の説を否定するために提唱され、田沼時代に全盛期を迎える。

     考証学派

考証学派は清代儒学の主流で、古典を確実な典拠に基づいて客観的に研究しようとする もの。朱子学や陽明学は、孔子や孟子の言うことの中から都合のよい考えを持ってきて理屈づけた思想。これに対して、文献の考証をおこなってゆくもので、思 想というよりも歴史、文学の要素が強い。明治以降、朱子学や陽明学は滅びたが、考証学派は生き残る。

D 国学 日本の古典研究→日本固有の古道(大和魂)の追究
   荷田春満→賀茂真淵「万葉考」

古典の中に古い時代の日本人の精神が読み取れるという主張は荷田春満によって提唱されていた。ここに国学が創始される。
賀茂真淵は遠州の神官の子供で、荷田春満に国学を学び、1738年に江戸で塾を開く。「万葉集」を研究して「万葉考」を著わし、儒教・仏教の入る前の日本古代の精神=古道を復活しようとした。

    →本居宣長「古事記伝」

本居宣長は京都で儒学と医学を学び、松坂で医者を開業。賀茂真淵の影響で国学に傾倒 し、1763年に真淵が大和旅行の途上、松坂に泊まったとき、宿屋に訪ねてゆく。「松坂の夜」というエピソードで、宣長はここで「古事記」の研究を勧めら れる。2人が会ったのはこのときだけであるが、以後も文通を通じて師弟関係が続く。
・宣長は30年かけて「古事記」の語句や文章を精密に解読し、古代日本人の考え方を明らかにした。その著が「古事記伝」。研究の時に邪魔者が入るとまずいので2階の書斎にこもって梯子を外す。気を紛らすために鈴を鳴らし、その建物は鈴屋と呼ばれて現存している。
国学では、外来思想のうち儒教を排撃し、大和魂の復活を唱える。

    →平田篤胤復古神道(純粋な神道)→尊王論

・本居の後、国学は文献の研究を進める国文学の派と、思想をきわめる派に分かれる。
平田篤胤は本居宣長が死んでから国学を始め、本居には会ったことがない。しかし、夢枕に宣長が立って直接教えを受けたと主張した。
・篤胤は宣長の古道精神を拡大解釈し、厳しい儒教批判と尊王思想が特徴。正統派の国学者からは嫌われたが、中部、関東では人気で、地元の豪農層に受容される。稲武の古橋源六郎もその一人で地元の農民を感化していった。門人は2000人。
復古神道は平田によって体系づけられたもので、仏教や儒教の要素を除いた古代の神道に戻そうというもの。独善的で排他的だが、尊王論を生じさせ、明治維新の思想的側面とな り、神仏分離、廃仏毀釈はこれによって実現した。平田流国学の発展の中で、多くの支持者を獲得していたことが大切である。

   塙保己一=和学講談所設立、「群書類従」(文献学)

塙保己一は5歳で失明した人で、江戸で賀茂真淵に国学を学んだ。驚異的な記憶力の持 ち主で、和漢の典籍を覚え、幕府の保護のもとで和学講談所を設立する。ここで「群書類従」を編纂した。530巻、666冊。続編は1150巻、1185 冊。日本の古典を集大成した本である。国文学、日本史の最大の史料集で、大学で国文学や歴史をやる場合、かならず塙の集めた史料を利用することになる。
・和学講談所は東大の史料編さん所に受け継がれている。

E 蘭学(→洋学)
   新井白石「采覧異言」「西洋紀聞」(シドッチ尋問、海外事情紹介)
    →吉宗の漢訳洋書輸入解禁 cf)青木昆陽のオランダ語学習
       山脇東洋「蔵志」

・鎖国時代の日本が西洋に目を向けるようになったのは、新井白石がシドッチを尋問したのが契機であった。
吉宗は漢訳洋書の輸入を解禁し、青木昆陽、野呂元丈に命じてオランダ語を学ばせる
・幕府医官の桂川甫周を中心とする藩医グループが青木から語学を学んで蘭学のすそ野を広げる。「解体新書」を訳した前野良沢は中津藩藩医、杉田玄白は小浜藩藩医であり、初期の蘭学者は藩医であった。

 1 医学
    前野良沢、杉田玄白「解体新書」(「ターヘルアナトミア」の翻訳)
       cf)「蘭学事始」

前野良沢と杉田玄白は1771年3月4日、小塚原刑場で50歳の女性の腑分けに立ち合った。 2人ともオランダ語の解剖書である「ターヘルアナトミア」を持ってきており、内臓以下の形が図とそっくりなことに驚く。「ターヘルアナトミア」は扉に書か れたラテン語の名であって、正式名称は「解剖学表」。もとはドイツ人のクルムスが書き、これをオランダ語訳したものだった。
・杉田がこれを翻訳したいと申し出て、翌日から開始される。しかし、前野のオランダ語の語彙数は1000語なので中学英語のレベル。杉田はABCがわかる だけだった。辞書もないのに難しい解剖書を翻訳しようとしたのであり、「蘭学事始」によれば、「櫓や舵のない船を大海に乗り出したようなもの」とされ、 「眉というものは目の上に生じた毛なり」を訳すのに1日以上かかっている。
・辞書なしでどうやって訳したのか。例えば「鼻はフルヘッヘンドしたもの」の訳に困った時、他の本でフルヘッヘンドという単語が使われている部分を探し、 前後の文から推測しようとした。「木の枝を切り取った後はフルヘッヘンド」「庭掃除をするとゴミが集まりフルヘッヘンド」とあったので、「盛り上がる」と いう単語の意味がこれで分かる。
・翻訳に4年かけ「解体新書」として世に出る。しかし、訳出者の名には前野の名はない。杉田は一刻も早く本を出して世間に知らせたいとして、完璧な訳ができていない状況で出そうとした。前野はこれを杉田の功名心として嫌い、名を出させなかったという。

     大槻玄沢「蘭学階梯」(入門書)

大槻玄沢は杉田の高弟。入門書の「蘭学階梯」を著す。上巻は蘭学の由来、下巻でアルファベット、ローマ数字、発音、文法などを記した。芝蘭堂を設立して100人の蘭学者を養成。新暦正月をオランダ正月として祝う。

     稲村三伯「ハルマ和解」(辞書)

稲村三伯は芝蘭堂出身。フランソワ・ハルマの「蘭仏辞書」をもとに、フランス語の代わりに日本語を書き入れた蘭日辞典を作る。これが「ハルマ和解」で、13部から成り、6万4000語を収録。
・他の医学者としては華岡青洲が有名。ナス科のマンダラゲを主成分として麻酔薬を作り、1805年、全身麻酔によって乳ガンの摘出手術を成功させる。実験 台は奥さん。エーテルを使った麻酔手術はアメリカのロングが1842年に成功しているが、これよりも早い。しかし、マンダラゲは猛毒のため、量を間違える と意識が戻らず。これ以後は用いられない。

     宇田川玄随「西説内科撰要」

宇田川玄随は前野良沢の弟子で津山藩医。「西説内科撰要」18巻は日本初のオランダ内科書。

 2 物理・化学・測量学
    平賀源内(エレキテル)、

平賀源内寒暖計、エレキテル、石綿(火完布)を作る。エレキテルは外国からもたら されたものを直したもので、摩擦によって静電気を起こした。何十人かを2組に分けて手をつながせて丸くし、端の2人にエレキテルの静電気を流す。ここから 離れた端の2人が手をつなぐと電気が流れてショックを受ける。源内は医療用に使えないかと考えたが、単なる見世物と捉えられる。西洋画を描いたり戯作を書 いたりしたが受け入れられず、才能が理解されないところから酔って人を殺して投獄され、牢死している。

    志筑忠雄「暦象新書」(地動説)

志筑忠雄は長崎の通訳。イギリスのケイルの天文学書を翻訳して「暦象新書」を著す。コペルニクス、ケプラー、ニュートンを紹介して地動説、ニュートンの万有引力の法則を説明した。
・ヨーロッパでは地動説を唱えると教会から異端者として指弾されている。しかし、日本ではそういうタブーはなかった。

    宇田川榕庵「舎密開宗」、

宇田川榕庵は玄随の跡を継いだ玄真の養子。化学、薬学を広め、「舎密開宗」を記す。 イギリス人ヘンリーの化学書がドイツ語、さらにオランダ語に訳されていて、これを日本語に翻訳している。舎密はchemic(オランダ語の化学)の音訳。 明治になって化学の訳語が使われ、それまでは舎密だった。明治の初めに建てられた理化学研究所は舎密局と呼ばれている。

    伊能忠敬「大日本沿海輿地全図」

 3 教育機関
    鳴滝塾(シーボルト)、適塾(緒方洪庵、大坂)
    芝蘭堂(大槻玄沢、江戸)

緒方洪庵は江戸で宇田川玄真に蘭学を学び、長崎でオランダ医師ニーマンから医学を学ぶ。大坂に適塾を建てる。25年間活動し、福沢諭吉、大村益次郎、橋本左内などが出る。

 4 研究機関
    天文方→蕃書和解御用→蕃書調所(幕末)→洋書調所→開成所→大学南校(東大)

・暦は土御門家が作っていたが、だんだん合わなくなり、渋川春海が貞享暦を作って訂正した。1684年に幕府天文方が設置されてここで暦を作るようになる。
蘭書の翻訳は天文方職員がすることになり、高橋景保が任じられる。これが蕃書和解御用で1811年に設置。高橋はシーボルト事件で獄死したが、以後、大槻玄沢、宇田川榕庵などが務める。
・ペリー来航後は外国語の翻訳に本腰を入れることになる。1855年に洋学所として設立され、蕃書調所に改称。洋学研究と翻訳をした。その後、洋書調所、 開成所と名前が変わる。オランダ語、英語が主で、後に仏、独、露語学科が加わる。明治以後は大学南校となって東大に引き継がれる。

【文学史】
Q1 文学が庶民のものとなったのが化政文化の特徴。どうすれば庶民が文学に親しめるのか?

A1 識字率が高まるのはもちろんだが、印刷技術の革新で本が普及することも必要である。

木版による大量印刷がされ、版元→書籍問屋→本屋・貸本屋というように流れていった。
・1枚ずつ版木で印刷するのでコストが高くなる。読本は今の価格で1冊が6〜7000円した。南総里見八犬伝は全106巻。全て揃えようとすると70万円 かかる。刊行は500部限定で、それ以上の発行は版木が減ってしまってできなかった。重版の場合は版木から作ることになる。
・高価なものなので貸本屋で借りて読むのが普通。文化5年、江戸の貸本屋は656軒。808町に1軒ずつあった計算。1冊20文、今なら500円でレンタルできる。
・合巻であれば1冊300円の値段で売られていたので、田舎源氏は1500〜1600部は刷られていた。
地方でも意外に文学は浸透している。江戸土産で本が入ってきたほか、俳諧師の活動が大きい。俳句愛好者が増え、俳諧師が各地を廻って指導をしていた。小 林一茶などが代表であり、豪農がスポンサーになっていた。彼らは地方文化のセンターであり、ここから一般農民に拡大してゆく。

A 小説

・小説は基本的には浮世草子の延長である。この中の各部分がクローズアップされ、一つのジャンルになってゆく。

   洒落本(遊里ネタ、ポルノ)

洒落本は浮世草子の好色部分が取り出されたものと見てよい。通と滑稽で遊里を舞台に 展開するものである。吉原で遊ぶには、その流儀を知らないといけない。女の子にもてるには、いろいろな雑学的知識、流行を知らないといけない。知っている 人を「通」という。知らない者が滑稽な振る舞いをすることになる。

     山東京伝(寛政改革で弾圧)

山東京伝は洒落本の作者である。初めて原稿料収入で食べられた人。洒落本は場所が遊 廓なのでポルノであり、「通」でないとわからない文学。遊女の髪型や服装を徹底的に細かく書き、喋っている内容もその時々の流行のことである。吉原に通じ ていないと理解できない。誰でもが「通」になれるわけではないので、読者は限られていた。

   滑稽本(軽口とギャグ)

・洒落本が弾圧されたため、その中のポルノの部分がなくなり、滑稽だけが残った。滑稽本は駄洒落と低俗なギャグの連続。従来の狂言などで使われたギャグを盗用しているので垢抜けしない。

     十返舎一九「東海道中膝栗毛」

十返舎一九の「東海道中膝栗毛」は野次郎兵衛と北八が江戸から伊勢参りにゆく道中記。旅の途中で様々な事件が起きるが、たいていは江戸っ子を気取る2人が失敗して田舎者の物笑いになる話。
・小田原宿では五右衛門風呂に入って失敗。先に入った野次郎兵衛が浮き蓋を押し込むのではなく、とってしまう。釜に直に足をつくと熱いので下駄履きで入る。次の北八には下駄を隠すが見つけだし、同じように下駄履きで入って底を抜いてしまう。

     式亭三馬「浮世床」「浮世風呂」

式亭三馬の「浮世床」「浮世風呂」は社交場であった床屋や風呂屋が舞台。そこに来る客の滑稽話の連続。三馬は落語のようなネタを文章で記したものとしている。薬屋や化粧品屋からお金をもらい、作品の中で「延寿丹」「江戸の水」などの宣伝をしたりもしている。
・一九や三馬は庶民の出。高尚な笑いよりも、庶民に身近で通俗的な笑いで人気を博した。こういうものは他愛もないものなのでお上も何も言わなかった。

   人情本(恋愛小説)
     為永春水「春色梅児誉美」(天保改革で弾圧)

洒落本の恋愛部分を残したのが人情本である。為永春水の「春色梅児誉美」が代表。
・吉原の唐琴屋の養子だった丹治郎は、主人夫婦の死後、番頭の策略で別の店に養子に出される。そこはすぐにつぶれて負債を背負う。唐琴屋の娘、店の芸者、出入りの芸者の3人が、それぞれ相手に嫉妬しながら、落ちぶれた色男の丹次郎を救おうと献身的に尽くす話。
・会話ばかりで続いてゆき、小学校3年生程度の力で読める。読者は女性層。お昼のメロドラマのようなもの。
天保の改革で遠山の金さんの手によって弾圧される。明治以降も春本扱いを受けたが、永井荷風は「粋」な読み物として絶賛している。

   黄表紙

浮世草子の挿絵を拡大したのが黄表紙である。子供向けの絵本が大人向けになったもの。絵が中心で、そこに文字が記されている。風刺や笑いを主とした漫画のようなもの。
・山東京伝の「江戸生艶気樺焼」が代表。モテない男がどうすればモテるかと知恵を絞るもの。

    →合巻(絵が主体)

・黄表紙は薄っぺらだったが、合巻はこれを合冊したようなもの。絵が中心。

      柳亭種彦「偐紫田舎源氏」

柳亭種彦の「偐紫田舎源氏」は172冊からなる長編。絵は歌川国貞。足利義政の子 供・光氏が細川勝元と結び、山名宗全と対抗する話。光氏は好色だが、これは敵を欺くためのものという設定。その好色ぶりは将軍家斉の私生活を描いていると いう噂が流れ、絶版。旗本だったため、寄留している種彦を追い出せという命令が出される。未完のまま病死。

   読本(長編小説)

読本は浮世草子の中で武家物など、まじめな読物の部分がクローズアッブされたもの。絵よりも文章が中心である。

      上田秋成「雨月物語」、

上田秋成の「雨月物語」は和漢の古典を100以上引用して知性的な文にしている。怪談話。
・「浅茅が宿」はその中の一つ。戦国時代、絹商人の勝四郎が商売に出る。妻はずっとこの家で待っていると言うが、戦乱に巻き込まれて帰宅できなくなる。7 年ぶりに帰り、出迎えた妻と一夜を過ごす。朝起きたら家はなく、雑草の生い茂る野原。妻は5年前に死に、夫を出迎えたのは妻の亡霊だった。

      滝沢馬琴「南総里見八犬伝」

滝沢馬琴は京伝の門下。代表作の「南総里見八犬伝」は98巻で日本の古典史上の最長編小説。28年かけて完結している。74歳で失明し、残りは字の書けない嫁を鍛えて語って記させた。
・戦国時代、里見家が安西氏に攻められた際、飼い犬の八房に「お前が安西の首を持ってきたら娘の伏姫をやろう」という。八房は首を持って来る。伏姫は約束 だからとして八房と家を出る。伏姫は犬の気を受けて妊娠するが、純潔を証明するために切腹。首に下げていた数珠が切れ、「仁義礼智忠信孝悌」の文字を刻ん だ8つの玉が飛び散る。犬塚、犬山など、「犬」の字を苗字に持つ8人の剣士にこの玉が宿り、8人は巡り会って里見家再興のために力を結集する。
・登場人物は400人以上。スケールが大きい勧善懲悪のお話。
・馬琴はベストセラー作家だが、原稿料は年に40両ほど。今で言えば240万円〜400万円くらいなので大したことはない。知的財産の評価は低かった。

B 川柳
   柄井川柳

川柳は俳句の形式をとり、季語や切れ字の制約を受けないもの。
柄井川柳が点者をしていたことから川柳と呼ぶ。個人名が文学のジャンル名になったのはこれだけ。
・川柳は前句をつけ、それに対しての投稿を募った。年に10回投句を受けつけ、各町内に投稿場所がある。1回16文(400円くらい)の応募料。優秀作は「誹風柳多留」に掲載し賞品も出た。
・例えば、前句「恥ずかしいこと恥ずかしいこと」につながる句を考えるのであり、投句されたものに「独り者、帰ると飯を嗅いでみる」がある。
・当時は数万人の江戸市民が川柳を楽しんでいたとされる。18世紀後半の段階で、優雅な遊びにこれだけの人が没頭していた国はないという評価がある。アメリカでは盛大にインディアン狩りをしていた時期である。

  狂歌
   大田南畝(政治風刺、社会批判)

狂歌は和歌の形式のパロディであり、政治風刺も利いている。太田南畝などが著名。
・「よい歌は天地を感動させて揺り動かす」とされるが、宿屋飯盛は「うたよみは下手こそよけれ天地の、動き出してはたまるものかは」と茶化す。
・ペリー来航時の「泰平の眠りを覚ます上喜撰、たった四杯で夜も眠れず」も狂歌である。

C 俳諧
   与謝蕪村、

与謝蕪村は「菜の花や月は東に日は西に」が代表句。見たままを吟じたものが有名だが、実際には和漢の古典に置き換えている。

   小林一茶、良寛

小林一茶は信濃柏原の百姓の子。継母が連れ子をしてきたので追い出され、江戸に出る。ここで俳句を始め、点者となる。父が死んで遺産をめぐって義弟と裁 判をし、一生をそれで振り回されている。結婚は52歳。奥さんとは死に別れたりして3回結婚し、子供も生まれるとすぐに死ぬなど不幸が続いた。その分、弱 いものへの愛情あふれる作品に特徴がある。「痩せ蛙、負けるな一茶これにあり」「やれ打つな、蠅が手をすり足をする」。
・大事なのは北信濃という地方で俳諧のグループを拡大していること。田舎の人でも俳諧を楽しんでいたのである。

D 戯曲
   浄瑠璃(竹田出雲)、歌舞伎(鶴屋南北、河竹黙阿弥)

竹田出雲は「仮名手本忠臣蔵」が代表。赤穂事件を室町時代に焼き直したもの。
・ラブシーンなども露骨になってきたため、天保の改革で歌舞伎は弾圧される。天明の頃は、ラブシーンは手を取り合うくらいのことで、女性の観客はそれでも 顔を赤くして顔を隠していた。天保の頃は抱き合ったりしても平気になったと「世事見聞録」は記している。弾圧の対象となり、市川団十郎は贅沢な暮らしだっ たからとして手鎖、江戸追放となる。
鶴屋南北の代表作は「東海道四谷怪談」。民谷伊右衛門は金持ちのお梅に迫られて、妻のお岩が邪魔になる。毒を飲ませて顔をぐちゃぐちゃにして離縁しよう とするが、お岩は勘づいて自殺。伊右衛門は小平という男を殺すが、2人が密通したために小平を殺したことにして戸板にくくって死体を流す。お梅が嫁いでく るが、お岩の幽霊がとりついてお梅の顔がお岩になる。伊右衛門はこれを殺してしまい、その後も幽霊に悩まされて妄想を見て、発狂したところを人に討たれ る。殺し、流血の連続で、不気味なリアリズムが売り。
河竹黙阿弥は明治にかけての作者。「三人吉三」「弁天小僧」など、現在も上演される作品など360本を書く。「こいつは春から縁起がいいや」「しらざあ言って聞かしやしょう」などの名セリフは彼のもの。

【美術史】

1 浮世絵
   鈴木春信錦絵、多色刷り版画の完成)→大量生産で大衆化

・江戸では絵暦がブームになっていた。大の月、小の月を図案化したもので交換会が開かれたりする。
鈴木春信は1765年、絵暦の制作に当たって多色刷り版画を工夫し、錦絵の創始者になる。華奢でなよなよした美人画で、衣装を細かく描くことに特徴がある。
・錦絵の作り方は完全分業である。最初に版元の依頼で絵師が版下絵を描く。これは墨一色で細かい描き入れはない。この絵を版木に糊で貼り付けて彫り師が描 線を彫る。刷り師が描線だけの版画をする。絵師がこれを見て色の指定をする。表裏で11色程度まで。濃い色から色ごとに刷ってゆく。一つの版で200枚が 限度。だんだんとつぶれてゆく。このため、初版は貴重であり、高く売れる。売れたものはもう一回刷るが版木がつぶれてしまう。つぶれた版木だけ彫り直した り、色を省略したりするので質が悪くなってゆく。
・錦絵は絵草子屋などで販売。江戸土産となる。1枚500円とか1000円のレベルであり、ポスター感覚で楽しめた。

   喜多川歌麿(美人画)

喜多川歌麿は美人の大首絵を始める。主人公は美人の評判の立った町娘から水茶屋の看板娘へと広がる。水茶屋はお茶とお菓子を提供する店で、かわいい子が お運びをするので大人気だった。笠森稲荷の門前の茶屋娘・おせんなどが絵に描かれる。今ならメイドカフェであり、グラビアアイドルである。

   東洲斎写楽(役者絵)

東洲斎写楽は歌舞伎人気に乗って役者の似顔絵を描く。1年足らずの期間に140種の作品を残して姿を消した謎の人物。江戸時代には人気がなかったといわれ、有田焼の包装紙としてヨーロッパに渡り、そこで評価された。

   葛飾北斎(風景画)「富嶽三十六景」

旅行ブームに乗って風景画も人気が出る。葛飾北斎は「富嶽三十六景」で人気。奇抜な構図が売りであり、赤富士は印象派画家に絶賛される。当時のヨーロッパは暗い絵が多く、赤という色で山を表したところが驚きだった。

   歌川広重(風景画)「東海道五十三次」

歌川広重の「東海道五十三次」の方が一般受けした。旅人の寂しさが出る描き方。旅情、哀愁が漂うセンチメンタリズムが受けた。月の広重といわれ、月を描いた作品に名作が多い。
・日本が開港すると大量の浮世絵が流出。ヨーロッパでは異国趣味から日本ブームが起きた。浮世絵の色使いの鮮やかさは印象派の画家に影響を与え、ゴッホなどは広重の浮世絵をそっくりそのまま油絵で描いたりしている。

2 文人画(中国南画の影響)

文人画は専門家ではなく、学者や文人が余技で描いた絵。中国の南画の影響を受ける。

   池大雅「十便十宜図」

池大雅は与謝蕪村と合作で「十便十宜図」を描く。川沿いの亭から釣り糸が垂れられる風流を描いたりして、俗人にまみれない生き方を讃える。

   谷文晁

・谷文晁は江戸文人画家の代表。渡辺崋山の師匠。松平定信について諸国を廻り、絵を描く。

   渡辺崋山「鷹見泉石像」

渡辺崋山は余技で絵も描いていた。「鷹見泉石像」は西洋の陰影法を用いたもの。

3 写生画
   円山応挙、松村呉春

円山応挙は狩野派を学んで新しく写生画を始める。山水、花鳥を徹底的にリアルに描いてゆく。足のない幽霊の絵を描いて普及させたのは応挙。円山派を立てる。
・松村呉春は尾張の人。与謝蕪村に南画を学び、応挙に写生画を学んで四条派を立てる。

4 銅版画、油絵
   司馬江漢

司馬江漢は初めは浮世絵を描いていたが、平賀源内と接触して洋画に興味を持ち、日本で初めて銅版画を作る。遠近法を用いた手法。

【宗教史】

宗教の娯楽化
   出開帳、

・封建社会には様々な行動の制約があったが、信仰ということであれば許されることが多かった。宗教は娯楽になってゆく。
開帳は秘仏を特別に拝ませるもの。観音などは33年に一度だったが、人気が出てくると7年に一度、3年に一度になり、そのうちに毎年になる。出張して秘 仏を拝ませるのを出開帳という。善光寺は全国出張の出開帳を計画し、門前町の反対で中止となる。開帳の時は人出で賑わうため、それを当て込んで芝居小屋、 見世物小屋、縁日が出た。開帳で上がった賽銭は寺社の修繕費用などになった。
・富籤は修繕費をまかなうために実施。宝くじのようなもので、当たり札を錐で突くのを公開。千両富は1枚1分で、大工の日当程度。今なら1.5万〜2.5万円もする。当たると1億円である。

   巡礼、寺社参詣

・聖地霊場を廻ることで信仰を深めるもので、平安時代には熊野詣でがあった。室町時代になると、伊勢の御師が勧進をして伊勢参宮を勧め、江戸時代にはブームとなる。
西国三十三カ所は花山法皇が定めた観音霊場を廻るもの。那智〜谷汲。名古屋近郊でも盛んで、何人かで村から連れ立って出かける。行ってくると一人前で、みんなで記念に観音像を一つずつ建てる。33揃うとよい。村の寺などに観音堂が建てられている。
四国八十八カ所も盛んだったが、尾張では遠くて行けないので知多四国などが作られる。

   伊勢信仰の高揚(お蔭参り、抜け参り)

・伊勢参宮は一生に一度はお伊勢参りの風潮の中で盛んとなった。お蔭参りは60年の周期で発生。1650、1705、1771、1830年である。 1705年は50日間で362万人が参拝。1830年も1カ月で223万人という記録がある。普段は封建秩序のもとでものも言えない人たちが、こういうと きは解放される。「旅の恥はかきすて」であり、羽目が外せた。奉公人や女性なども抜け参りといって黙って参宮に出かけることが悪されており、途中は柄杓を 出せばお金を恵んでもらえる。戻ってくれば元のように生活をした。
・60年に一度は一生に一度。還暦のように元に戻るという発想。お鍬祭りなどもこの系譜。尾張地方では伊勢から受けてきたお鍬を祀る神社が多い。この祭りとして馬が出たり乱痴気騒ぎをした。最近では戦後すぐの亥年(昭和22年)にあった。2007年が亥年だがどうなるか。

・一方、仏教が葬式仏教となったため、民間信仰が盛んとなる。村の中では講がたくさん作られる。
庚申講は庚申日には三尸の虫が体中から出て、天帝に悪口を言いにゆくため、寝ると殺されるのでおしゃべりしながら夜明かしをするもの。渥美などでは今も盛ん。これを母体に葬式の互助組織や無尽が作られたりもする。

   新興宗教(社会不安のため)黒住教、金光教、天理教

階層格差が拡大すると社会不安が増大する。このため、新興宗教ブームが起きる。黒住教や金光教、天理教などはこうした中で生まれた。

【思想史】

A 封建制維持の政治思想(儒学)
   熊沢蕃山「大学或問」、荻生徂徠「政談」・・・武士の帰農説く
   太宰春台「経済録」・・・重商主義政策

儒学の中で現実問題の解決を掲げたのは古学である。財政難に対し、熊沢蕃山の「大学或問」や荻生徂徠の「政談」などでは武士の帰農を説き、太宰春台は「経済録」で商売をすることを勧めている。

B 尊王論(←朱子学の大義名分論)(←平田派国学)

尊王論は天皇を敬おうという考えで、平田派国学や朱子学の大義名分論から発生した。

   竹内式部(宝暦事件で追放)1758

竹内式部は国学者で神道家。公家に使えて塾を開き、尊王論を説いた。幕府の専制政治に不満を持つ勢力がこの説を天皇に伝える。朝幕関係が悪化することを恐れた公家が京都所司代に訴えたため、竹内は追放される。宝暦事件という。

   山県大弐「柳子新論」(明和事件で処刑)1767

山県大弐は神主になって「柳子新論」を書き、尊王斥覇を唱える。幕府に代わって天皇が政治をすべきという考えである。発表しなかったがばれてしまう。兵学にも通じ、幕府打倒の軍法を論じたカドで摘発して処刑した。明和事件という。竹内も重追放として遠島にされている。

     cf)高山彦九郎、蒲生君平「山陵志」

・高山彦九郎は尊王を説いて幕府に監視された者で、蒲生君平は荒廃した歴代の天皇陵を調査して「山陵志」を記した。この2人と林子平を寛政の三奇人という。

   頼山陽「日本外史」

・頼山陽は広島藩の儒官の子。「日本外史」を書いて松平定信に贈呈した。武家の興亡を主要な武家ごとに記したが、朱子学に基づいた尊王思想が含まれており、尊王攘夷者が読むようになる。

    →政治運動へ発展(尊王敬慕→尊王攘夷)
      cf)水戸学(藤田東湖、会沢安)、松下村塾(吉田松陰)

・尊王論は初めは素朴な尊王敬慕の考えであった。それが幕末に外国人がやってきて経済的に混乱すると、時の孝明天皇が外国人嫌いだったこともあり尊王攘夷思想に発展する。
水戸学はその一つで、藤田藤湖や会沢安の儒官が唱えた。徳川斉昭擁立の立て役者で、抜てきされて藩政改革をおこない、尊王派志士の指導者ともなっている。尊王論は水戸藩の手で天皇を尊び外国人を排斥しようという政治運動へと仕立てられるのである。

C 封建社会批判
   安藤昌益「自然真営道」(階級制批判、原始共産制)

安藤昌益は八戸の医者。忘れられた思想家として明治末にその著が発見される。「自然真営道」93冊は、慢性的な飢饉に対し、上下の身分、貧富の差がある のがいけないとし、「聖人」が自分たちが働かないで食べてゆくためにこの制度を作ったとした。人は全て生産労働にたずさわり、自給するのが理想とする。

   本多利明「西域物語」「経世秘策」(鎖国批判→海外貿易推進)

本多利明は浪士として経世の策を著し続ける。洋学に通じ、ヨーロッパを手本とした改革を叫ぶ。国内開発、鉱山開発、商業・貿易などを盛んにし、人口増加に対応するために海外渡航の必要を説く。

   海保青陵「稽古談」(重商主義)

海保青陵は商品貨幣経済の発展は避けられない。倹約ばかり勧めるのではなく、積極的に商業拡大をすべきと主張した。

   佐藤信淵「農政本論」「経済要録」(統一国家形成)

佐藤信淵は産業振興や流通の統制、貿易の必要を説く。水野忠邦にも上申。統一国家を作る必要性に言及し、明治国家を予言していた。

   帆足万里

・帆足万里(ほあし)は西洋物理学に通じて「窮理通」を記す。物理学と哲学のミックスのようなもの。

     cf)富永仲基(神仏儒批判)、山片蟠桃「夢の代」(無神論)

富永仲基は仏教の教義は釈迦が説いたこととは違い、後の坊主が適当に作っているとして神仏儒を批判。それらを除いた誠の道を主張した。本居宣長、平田篤胤に影響している。
山片蟠桃は「夢の代」を記し、神が人を作ったのではなく、人が神を作った。主君が家臣を作ったのではなく、家臣が主君を作った。したがって、人はもともとは平等であると説いている。


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