<西南雄藩の台頭>
[諸藩の政治改革]
Q1 どの藩も財政難に悩んでいた。財政再建の切り札は何か?。それを実施する際の問 題は何か?

A1 特産物を藩が一括して安価に購入し、高く転売する専売制である。しかし、利益のなくなる農民が反対一揆を起こす可能性がある。

  専売制強化による財政再建 but専売反対一揆の可能性

A 薩 摩藩の改革
   500万両の借金

・外様の大藩である薩摩藩はお手伝い普請などにかり出され、江戸中期には財政事情が悪 くなっていた。そこに薩摩重豪が無駄遣いを重ね、家臣が藩政改革を実施するが、政策を否定された重豪は怒って処分してしまい、借金がかさむようになる。
天保期の藩債は500万両となる。石高1000万石の大名 の年収に当たり、日本の土地の3分の1を持っていないと無理。毎年の利息だけでも払えない。
・誰がやっても財政再建はできっこない。思い切って身分が低くても斬新な考 えの者を抜擢することにした。

 1 調 所広郷(下級武士)の登用(天保期)
    藩債250年賦払い、

・1828年、調所広郷に命じて藩政改革開始。身分はお茶坊主。三都の商人を呼び、元金だけを返済し、これを250年払いにするとした。債権者の目の前で 証書を焼き捨て、「煮るなり焼くなりしろ」と開き直る。

    専売制強化(砂糖、樟脳)、

・薩摩は南国なので特産物が多い。これを藩が独占し、専売制を徹底した。農民は儲けが なくなるので反発するが、薩摩藩は全人口の40%が武士で、外城制によって 農村に住んでいたため、一揆を抑えて収奪することが可能だった。
・1829年、三島砂糖惣買い入れ(砂糖専売)を実施。砂糖 は奄美三島で生産され、国内唯一の産地。男子15歳以上60歳未満の者には全員に耕地を割り当ててサトウキビを栽培させた。製品は全て藩の倉庫に納めさせ る。粗悪だと札をつけてさらし者。なめれば鞭打ち。横流しすれば斬首。代わりに米を渡していたが、砂糖1斤に対して2〜3合だった。島流しになった西郷隆 盛はアイヌの扱いよりひどいとしている。
・この他には樟脳の専売をおこなう。

    琉球経由の密貿易

・「唐物抜荷」といって琉球経由の密貿易もした。「天ぷら金」といい、幕府に無断で一分金、二 分銀を鋳造した。偽金である。

   ∴藩財政好転

・1840年には一応の成功。藩財政は成功し、50万両の貯金もできる。
・1848年、調所は密貿易の嫌疑をかけられ、服毒自殺している。

 2 島 津斉彬の改革(幕末)
    集成館(洋式工場)設立=藩営マニュファクチュア ex)軍需、紡績
    洋式砲術導入

・1851年に藩主となった島津斉彬が改革を継続する。外国船の接近が相次いでいたた め、大名レベルでの富国強兵策をとった。
洋式兵備を充実させる一方、製錬所、反射炉を設置して電信 やガス灯の実験をしている。これらのために洋式工場群である集成館を建設し、 5隻の軍艦を造っている。ペリー来航の1854年以降、紡績機械を輸入し、 鹿児島紡績所のもとを造る。
薩摩藩では改革成果が藩主に乗っ取られている。これでは下級武士が表に出 にくく、幕末の政治では藩主が前面に登場している。

B 長 州藩の改革

・薩摩藩は改革に成功したとはいえ、かなりイレギュラーである。全うな路線で改革に成功したのが長州藩であり、この藩が明治国家を作るこ とになる。

   85000貫の借金→専売制(紙、ろう)の強化 but専売反対一 揆で挫折

・長州藩は銀8万5千貫の借金を抱えていた。金だと170万両であり、長州藩の10年 分の収入。本百姓の分解を抑えるため、均田制を実施し、藩による紙や蝋の専売を敷こうとした。均田制は封建農村維持策であり封建反動。専売は財政強化策で ある。
・1831年、専売に反対する天保の大一揆が起きる。113 か村、10万人が参加した。瀬戸内で始まり藩域全体に広がる。このため、長 州藩は専売制をあきらめざるを得なかった

    →毛利敬親に よる村田清風(下級武士)の登用

・この反省に立って藩政改革が実行される。
村田清風は50石取りの郡代官の子供。剛直の人なので毛利敬親に見込まれて抜てきされた。藩の財政事情を藩士と領民に公開 し、建て直しのために自由な意見を求める。これが下級武士台頭のもとを作る。

 1 越 荷方(金融業)の設置、一揆指導者(豪農)との結合

・藩自らが金貸しをすることにした。土地を第一にする封建領主が貨幣経済の急先鋒に なったのである。これが越荷方で、下関を通過する船に対し、商品を担保にして運転資金を貸し出した倉庫を設け、必要に応じて大坂に転売してやる。豪商の白石正一郎らが経 営請け負う。1846年には藩借金の大部分が解消する。
・一揆指導者層の在郷商人には免札を与えて一定限度の自由売買を許可してやった。これにより商業統制を目指す一方、今まで農民の味方だった豪農を藩の味方につけることに成功する。

 2 軍制改革→幕末期の諸隊編成へ

・1843年、高島流砲術を取り入れた大演習を実施。後には農商を含めた諸隊を編成し、封建的身分秩序によらない軍隊を作ってゆく

※藩+反封建勢力(ブルジョア)→藩 権力強化(雄藩絶対主義)

・三都の商人からの借金に頼るのではなく、成長してくる領内の在郷商人との結束がカギになる。
・一揆を起こす農民からその指導者のブルジョアを切り離して手なずけ、一方 では軍事力強化で藩権力を強めてゆくことに成功している。

Q2 このような政治体制を何といったのか?

A2 絶対主義である。

・長州藩は明治時代を先取りするもっとも先進的な藩になる。長州藩は明治国家の柱と なった藩であり、雄藩絶対主義を全国に及ぼしたのが明治国家だ と言える。
・小泉内閣までの歴代首相の出身県をみると、山口は13人でトップであり、2位は東京の10人。山口はそのうち10人が明治・大正の首相であり、東京はそ の間に1人しかいない。いかに長州藩が明治国家に大きな力を持ったかである。

C 土 佐藩の改革
  「おこぜ組」による(中断)

・土佐藩ではおこぜ組という下級武士たちによる改革がやられた。藩主の山内豊煕が用 いる。おこぜは醜いが、持っていると幸福になるとされたところからついた。
・おこぜ組は門閥勢力の反対で失脚し、改革は中途半端。した がって、下級武士は幕末でもあまり活躍できていない。

D 肥 前藩の改革
   鍋島直正による

・毎年1万貫の借金をする。全て利息払いのためのものでサラ金地獄だった。
・米と陶器しか特産がない。他の藩のように特産物で勝負できないため、本百姓体制を立て直すことが大切だと考えた。

    均田制(地主所有地の再分配)、陶器の専売
    反射炉の築造→大砲製造で軍事大藩へ

・1842年、小作料免除をおこなったのを初めとして均田制という農地改革を実施した。
・30町以上の土地所有者の土地は6町を除いて藩が没収。小作に分配する。伊万里の大商人も土地を取られ、藩権力が高まり、日本で初めて反射炉を建設した。それまでのたたら製鉄では砂鉄に木炭を 混ぜて溶かしたため、不純物が混じっていいた。反射炉は耐火煉瓦の天井に熱を反射させて鉄を溶かすもので、不純物がない。これでアームストロング砲が作れ るようになり、大砲生産で軍事大藩となる。
・肥前藩の改革は封建反動であり、絶対主義の路線ではない。大隈重信などの先進的な改革派は藩からは孤立。軍事力では一目置かれるが、政治的にはだめだった。

E 水 戸藩の改革
   徳川斉昭による but下級藩士(藤田東湖、会沢安)登用に保守派が反対し挫折

・水戸藩では水戸学の藤田東湖、会沢安が徳川斉昭によって抜てきされる。門閥層と対立し、内部抗争で失敗する。水戸では多くの有能な武士が脱藩 し、勝手なテロをするようになり、政治的に力を発揮できなかった。

※藩政改革の成否=門閥制打破、重商主義+軍事力強化(絶対主義化)

・改革を通じて下級武士が台頭したところは政治的発言力を強めている。幕府のように門 閥層が有能な改革派を妨げたところは失敗している。身分にとらわれていては だめなのであり、優秀な人材を登用できる官僚制を布かなければならないのである。これにブルジョアと結んだ重商主義、そして軍事力強化で絶対主義を完成させれば歴史のコマを次に進めることにな る。

 西南雄藩→改革成功で経済力増大 ∴幕末に政治的発言力増す

・長州を除いては下級武士による改革は中途半端。幕末に長州がもっとも改革的であり、 尊王攘夷で早くからまとまっていたのに対し、あとの藩は後からついていった。


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