<天保の改革>
[水野忠邦の政治改革]

  12代家慶の老中に就任(←浜松藩主)

・水野忠邦は肥前唐津藩主。若い時から老中となり、政治を動かしたいと考えていた。 「青雲の要路」と呼ぶ。そのためには譜代門閥である必要がある。徳川四天王は酒井、榊原、井伊、本多だが、水野家はこの次の家柄であり、条件にかなってい た。
・唐津藩は長崎警固の役目があり、ここにいては江戸で出世できない。水野忠成に取り入り、国替えを願い出る。
20万石の唐津から5万石の浜松に転封。家臣は大反対する が主君の出世の妨げをするものは不忠であるとして受け入れる。
・寺社奉行を8年勤めて大坂城代、京都所司代を経て1834年に老中と なる。
・1841年、家斉が死んだのを受けて家斉側近を追放。家慶の名前で天保の 改革に着手した。「劇薬を用いるが、これによって30〜40年はもつ」。

    →享保、寛政の改革を範

A 復古的改革の実施
Q1 復古的改革で最初におこなわれるとすれば何か?

A1 倹約令である。

 1 倹約令

・倹約で祭礼緊縮令、花火禁止などを出したりする。1年半で178点の町触れを出す。 贅沢な菓子、雛人形などの禁止、衣服、髪飾りの制限。製造、販売、所持を禁止。「ないないづくし」とされた。
・南町奉行の鳥居耀蔵は市中取締を徹底。贅沢な着物を着ていたら町中で丸裸にし、買い試しとして同心がお客に化けてケシ雛などの贅沢品の購入を強要し、仕 方がないとして蔵から出してきたときに御用。
・同心の中には賄賂を取って見逃す者が出てきたため、これを取り締まるために美人の隠密に華美な着物を着せ、わざと捕まって賄賂を送り、見逃したところで 御用。

 2 風俗の統制 cf)為永春水(人情本作家)の処罰

人情 本は恋愛小説。なよなよした横町の若様と娘がいちゃいちゃする話。江戸の女性たちが次回を待ちこがれる「冬ソナ小説」。風紀を乱すとして為永春水は手鎖に処され、落ち込んで病死した。

 3 人 返しの法=都市流入民の帰村強制

人返 しの法は天保の大飢饉で都市に流れ込んだ農民を帰そうというもの。年2回の人別改めを実施し、新しく江戸に出てきた者の帰村を強制する計画で大坂 でも実施。しかし、実際には人別改めだけで、強制することはできなかった。

B 経 済政策
Q2 天保の大飢饉では都市で打ちこわしが相次いだ。どうしてか?

A2 米の値段が高くて手に入らなかったからである。

Q3 1837年は豊作で、米価は下がった。連動して諸物価が下がるはずだが、そうは ならなかった。これを放っておくと幕府財政はどうなるのか?

A3 収入減、支出増で赤字になる。

 1 物価引下げ令

・幕府は強 制的に物価引下げ令を出す。商人は安売りをしたが、豆腐などは大きさが小さくなった。

Q4 都市の諸物価が下がらなかった理由としては何が考えられるのか?。

A4 株仲間というカルテルが形成されているのである。

 2 株仲間解散(1841)
    市場独占の禁止→在郷商人の参入で物価下落期待

株仲 間が商品を独占し、値を吊り上げていると判断。1841年、株仲間解散に踏み切る。十組問屋を解散して冥加を免除。村方の商品で問屋を通し ていたものを自由に売ってよいとした。
在郷商人の自由売買を認め、競争原理によって安売りをさせて物価を下げよ うというもの

     but流通の停滞で失敗 ∴株仲間再編(1851)

・しかし、今までは在方の商品は株仲間を組む問屋商人に買ってもらえなければ捌けな かったため、安価で大量に集荷されていた。これを株仲間が転売し、値段は高いが品量は多かった。これが在郷商人の手で自由に売れるようになったため、反対 に彼等は売り惜しみを始めた。また、今までの流通経路が使えなくなり、物資が都市に入ってこなくなった。 そのため物価は下がらなかった。
1851年、株仲間は在郷商人も含めて再興することになっ た。

C 軍 制改革
   アヘン戦争(1840)によるイギリスの清侵略

・イギリスでは産業革命が進展。1820年、インドからヨーロッパ向けの綿布輸出に対 し、イギリスから東洋に輸出される綿布の量が逆転している。産業革命の威力が発揮されるのはこれ以後で、イギリスからインドに綿布が流れ、インドから中国に阿片が運ばれ、中国から銀がイギリ スにもたらされる三角貿易が成立するようになる。
・清は港に積まれた阿片の焼き討ちをおこない、これに反発したイギリスと阿 片戦争になった。日本は清が勝つと思っていたが清は惨敗を 喫する。
1842年、南京条約が結ばれて香港が割譲される。拠点は シンガポールから2600キロ北上する。香港・上海間は1週間、上海・長崎間は3日の距離。翌年の追加条約で関税5パーセント、領事裁判権、最恵国待遇を 認める。

     ∴対外危機感の高まり

 1 天保の薪水令(1842)
    打払い廃止、外国船への薪水供与認可

1842 年、幕府はこの情報を得て、日本も危ないことを悟る。ただちに異国船打払い令を撤廃し、天保の薪水令を出す。

 2 軍 備の充実 cf)高島流砲術(西洋式)の導入

高島 秋帆は長崎の人で、オランダ人から西洋式の砲術を学んでいた。彼を江戸に招き、江 川太郎左衛門に洋式砲術を学ばせる。徳丸ヶ原でモルチール砲、ホーイッスル砲の射撃訓練。
・江戸湾防備のため、砲台、遠見番所を設置。鉄砲方を整備する。

D 幕府権力の強化
   上 知令(1843)
    江戸・大坂周辺の幕府直轄化→経済・軍事的に幕権強化

1843 年、江戸の10里四方・大坂の5里四方の直轄化を図る小さ な旗本、大名の飛び地が錯綜していて、外国が江戸、大坂を攻撃した場合、すぐに対処ができなかった。ここは高免地であり、幕府の財源も強化できる。

     but各領主、農民の反対で失敗=反対派により忠邦罷免

・幕府は替え地を用意して引越を迫る。しかし、替え地させられる旗本、大名にとっては死活問題。領民も、幕府領となれ ば年貢が上がることを恐れて大反対。もとの領主に貸した金を 返してくれなければ替え地反対と迫る。
・大坂では21大名、76旗本が替え地させられる。中には老中の土井利位(としつら)が含まれていた。領民から突き上げられて、上知令反対運動の先頭に立 つ。紀伊徳川家も反対。
・鳥居耀三は忠邦について反対派を抑えようとしたが、最後は寝返って忠邦の機密書類を反対派に渡し、忠邦失脚に手を貸す。紀伊徳川家を通じて家慶に忠邦の罷免を働きかける。
忠邦は罷免される。江戸市民には人気がなかったため、「振 る石や瓦飛び込む水野門」という状況になった。

Q5 水野の改革の失敗の理由は何か?。どうすれば成功したのか?

A5 水野がただの譜代大名であったため、反対派を抑えられなかったのである。将軍か大老であれば何とかなったはず。

身分 や家柄が上の者が政治を牛耳る体制を門閥制という。門閥制を崩せなかったところが問題。幕府滅亡につながってゆく。
水野の改革は絶対主義に向かうもの。成功すれば確かに幕府は長持ちしたは ず。

※門閥制打破できず、成果の出る前に 挫折=幕藩体制再建の最後のチャンス失う


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