<封建農村の崩壊と大塩の乱>
[封建農村の崩壊]
・封建社会の基本は土地を与えられた領主が小農民を支配し、年貢を収奪。一対
一の関係
であることが望ましい。
・小農民が階層分解してゆくとやりにくくなる。地主(ブルジョ
ア)は中間搾
取をするため、収奪される貧農(プロレタリア)が一揆などを起こす。場合によっては、地主と貧農が手を結び、領主の年貢収奪に対しても抵抗し
てゆく。
寄生地主の在郷商人化=豪農(地方農民のリーダー)
・寄生地主はたくさんの米を手に入れ、これに付加価値をつけて換金することを考えていた。
Q1 米に
付加価値を付けるとするとどうするのか?
A1 酒造をおこなうことになる。
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Q2 愛知
県は米どころである。酒はどこで多く作られているか?
A2 知多半島だった。半田の国盛、中埜家(ミツカン酢)、常滑の盛田家(ねのひ)など無数に出現。こういう連中を在郷商人と呼
ぶ。
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・鳴海の下郷家。大地主であり、酒造をおこなう。細根山に別荘を建て、芭蕉をもてなしたりする。
・しかし、酒がだめなときに備え、酒屋のかたわら、肥料商、古着商などの多角経営をするのがよい。江南市布袋の村瀬家も肥料商、繭の寄せ屋か
ら発展して銀行などを作っている。吉良町の糟谷家も在郷商人。廻船を扱ったりする。ここからマニュファクチュア経営に向いてゆく。
・これらは豪農と称され、地方農民のリーダーになる。稲武町の古橋源六郎。国学を学び、尊王攘夷を説いたりする。
A 地主・商
業資本の成長
1 問屋制家内工業の進展
2 マニュファクチュア(工場制手工業)の成立
・マニュファクチュア経営は都市の商人ではできない。原料が生産されている地方で生まれた生産形態であり、地主が経営者となっていた。
Q3 問屋制家内工業と
マニュファクチュアの違いは何か?
A3 内職で個別生産するのに対し、工場を建てて労働者を集める。そのため分業生産が可能となる。
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工場を建設し農村労働者を吸収、分業による生産
=近代的機械工業の前段階 ex)上方の酒造、
・マ
ニュファクチュアでは分業で生産がおこなわれるところが重要。酒造業では早い段階から実施されていた。蔵元に杜氏が来て分
業で酒を造る。醤
油も同じであり、上方で成立している。
・瀬戸の陶磁器も早くからマニュファクチュアによる生産がおこなわれていた。周辺農民が窯元に働きにゆき、製土、ロクロ成形、上絵付け、焼
成、窯出しなど
を分業でおこなう。最近まで窯元は月の1日、16日が休みで、農業はこの時だけに片手間でおこなっていた。藩が一括して納入させ、尾張藩専売
とする。「せ
ともの」として販路を東日本に広げ、藩の重要な財源になる。
尾張の綿織物、
・軽工業品で重要なのは織物。衣料は生活必需品であり、当時の財産の主体を占
めるも
の。桃太郎が鬼ヶ島から持ち帰る宝物の中には、大量の反物が描かれている。織
物の分野でマニュファクチュアが導入されるかどうかが社会が変わるかどうかのポイント。
・繊維産業では、原料生産、糸にする過程、織る過程の3つの分業が必要となる。これが地域的に分担されなければならない。
・綿織物は尾張中島郡や葉栗郡で生産された。
「尾張名所図絵」に描かれているため有名
である。島畑地帯の岩倉あたりで木棉が栽培され、繰り綿が一宮の三八市に出される。これを買って糸を紡ぐ業者が一宮におり、これがまた市に出
る。これを尾西方面の業者が購入してゆく。起では5軒に1軒は織り屋を営んでいたという。
・尾張藩の鵜多須代官所管内には42の村があるが、織物をしていた家は322軒、そこにあった織機の数が1435台、平均して5台くらい。1
台の織機に織る人と下前という準備の人が必要だとすれば、工場に10人くらいを雇っていたことになる。300を超えるマニュファクチュアの工
場があったのであり、ここでは手の込んだ高級品の縞木綿が生産される。
足利・桐生の絹織物
・絹織
物は北関東でマニュファクチュア生産される。生糸は近世を通じて国産化が図られてきた。特に1685年に白糸輸入制限をお
こなってからは長
崎貿易が衰退し、国産化を急ぐ。
・蚕の餌である桑は高燥地での栽培が適していたため、信州や上州などの山間地に植えられる。初めのうち、上州の生糸は「登せ糸」として京都に
運ばれて西陣
織の原料になっていた。
・しかし、養蚕地帯の周辺で絹織物を織った方が効率が良い。こうして西上州で養蚕、中上州で製糸、下野で絹織りというように地域的分業が成立
する。桐生では西陣から高機の技術が入って織物生産を開始す
る。
・マニュファクチュア経営は儲かる。桐生の吉田
清助は、
1820年、資本金21両で織機2台を置く機屋を始めた。これに出機も加えて生産を拡大し、奉公人
18人を雇って分業で生産する。150種の新規織物を考案して好評を博し、儲けは1825年に704両、1827年に1312両と倍増。
∴農民の資本家への従属度高まる
・マ
ニュファクチュアで働くのは自由な労働者ではなく、年季奉公で反奴隷状態に置かれていた。貧しい者なので前借金で給金を先
にもらってしま
い、後はただ働きなのである。
・昭和14,5年、米1石が40円の頃、木曽川町の機屋に小学校卒業と同時に年季奉公に来ている人は、5年契約で200円だった。米価換算だ
と、200円
の給料は今の25万円にしかならない。
・岩手、秋田、新潟、長野などの人は足元を見られ、5年で150円。東北から来ている人の中には、年季が明けてクニへ帰ると、途中で吉原に売
られてしまう
といって、戻りたくないといっている人もあったという。それだけ経済格差が激しかったのである。
※特権商人に代わる新しい流通経路の開拓→商業統制困難
cf)江戸地廻り経済圏の成熟、内海船の登場
・在郷
商人は従来の流通経路を使わずに商品を扱う。このため、単純
な大坂集中の流通ではなくなり、大都市の江戸近郊では江戸地廻り経済圏が形成される。南
関東の畑作物、北関東の織物、野田や銚子の醤油などである。醤油は上方のヒガシマルのものなどが江戸に下ってきていたものが、ヒゲタ、ヤマ
サ、キッコーマ
ンなどの地場産品が江戸に入るようになる。
・大坂の菱垣廻船も衰退する。これは知多半島を
拠点とする内海船の登場によるところが大きい。
北前船と並び、諸国で買積、販売を
おこなう廻船で、目的を
持って何かを運ぶのではなく、入港した港で安いものを買い、別の港で転売する。大坂・江戸間の定期船を出し抜き、大坂に集まる商品は減少す
る。このため、
江戸後期の大坂の人口は減少に転じている。
Q4 在郷商人は商品販
売においては大きなハンデがあった。どんなことか?
A4 大都市で販売する権利を持っていないのである。木綿や糸を一宮や尾西に売っている時はよいが、最後、名古屋の店に売ろうと
すると問屋商人に買い叩かれてしまう。
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B 階層間の対立
1 国
訴=問屋商人(株仲間)×在郷商人、農民
→特権商人に自由取引要求し訴訟
・幕府は特権的問屋商人に株仲間を結成させ、これを保護して商業統制をしてい
た。
・在郷商人は農民から商品を買い集めて都市で販売したい。しかし、問屋商人
が販売権利を独占しているため、直接販売はできず問屋商人に転売することになる。ここで買いたたかれて利益が出ない。
・在郷商人は国訴をおこなう。「くにそ」「こく
そ」と読む。在郷商人が農民を指揮し、株仲間商人の販売独占を
訴訟によって打破しようとした。綿
作、菜種栽培が盛んな近畿で頻発。
・1822年、在郷商人が菜種を買って油をとることを禁じ、大坂の油屋に廻すよう指示したところ、1823年、摂津、河内、和泉1037か村
が参加して自
由販売許可を求める訴訟が起きた。組織率75%。幕府は命令を撤回せざるを得なかった。
・木綿については1823年、1007か村が国訴をして株仲間廃止を要求、自由販売を勝ち取っている。
2 村方騒動=地主×貧農→村政改革要求
・在郷商人は農民の味方ばかりでもない。一方では地主として貧農から搾取して
いる。
・小作料減免や村政改革を求めて貧農が立ち上がる。
村役人世
襲制に対して選挙を求め、村役人が拒否すれば領主に訴える村方
騒動が
起きる。近世を通じて3200件ほど。
※
本百
姓を中心とする単一な農村の崩壊=近代農村
・農民の中には土地を手放して小作となり、マニュファクチュアの工場の労働者
として酷使される者がいる反面、土地を集積して自らは農業をしないで小作料を稼ぎ、商業資本家になるものが現れている。農村は領主−本百姓と
いう単純なものではなく、領主−ブルジョア−プロレタリアという構造になっているのである。
[反封建闘争の激化]
A 大
御所時代
11代家斉の親政、放漫政治による財政危機
・定信引退後、家斉の親政となる。その後、1837
年に家慶に将軍職を譲って大御所となった。定信引退後、家斉の執政した40年間を大御所時代という。
・松平定信が老中となった時、家斉は15歳だった。定信はこれを名君にしようと説教ばかりしていたため鬱陶しがられる。食事の量が少ないと聞
くと間食を禁
止した。家斉が飼っていた金魚を入れる器が小さいので大きくしたいと言うと、それを咎めて倹約を説いている。家斉は定信が煙たくて、小姓に聞
いていなく
なったというと羽を伸ばしていた。定信引退でその反動が出て贅
沢三昧と
なる。
・徳川家斉の奥さんは40人、子供は55人。この子たちは大名の養子や夫人に押し付けられる。東大赤門は21女の溶姫を押し付けられた加賀前
田家が上屋敷
に建てたもの。大奥の女中は大御所付きが606人、将軍付きは279人。
・家斉は親政と言っても何もしない。1818年、水野忠成(ただあきら)が老中となる。家斉は頭痛持ちで忠成だけが治せたことで気に入られ
る。賄賂もも
らったので「水の出てもとの田沼になりにけり」と揶揄される。
・北方警備と家斉の贅沢で財政が破綻したのがこ
の時期であ
る。
治安の悪化 cf)関東取締出役の設置
・農民の階層分解で没落民がアウトローとなってゆく。博徒や無宿者となって社会問題化する。
・やくざはオイチョカブの手で8,9,3の札が役なしであるところから出た名前である。1〜9の数字を示す3枚の札を手にして、下一桁が9が
最高、0が最
低である。
・博徒としては国定忠治が有名。子分は700〜800人。檄を飛ばせば10日で4000人は集まるとされた。浪曲では民衆のために金を施し、
悪役人相手に
立ち回る人気者だが、実際にはやくざの人殺しであり、テラ銭で喰っている奴らである。彼らの取締りのため、関東取締出役が設置される。
→天保の大飢饉の発生(1833〜39)、一揆・打ちこわしの激化
・1829年は大豊作。しかし、古老は大飢饉の前兆ではないかと恐れる。
1830、
31年は不作。1833年は多雨、奥羽洪水、関東暴風で大凶作。ここから天
保の大飢饉に入る。西日本
は半作〜三分の一作、東北は皆無作。巳年のケカチという。この飢饉は長く続き、1836年が頂点だった。低温多雨、暴風、遅霜。東北は1〜2
割作で津軽藩
では4万5千人が餓死。一揆や打ちこわしが全国化し
た。
・1836年、初の世直し一揆として三河加茂一揆が起きる。
畑作地帯であり、不作による米価高騰で大打撃を受けた。豊田市北部の九久平村の農民などが20
人が集まり、足助の商人に米の安売りを要求。在郷商人や村役人を襲撃し、1万人が商家250軒を打ちこわした。岡崎、尾張藩などの手で鎮圧さ
れ、主謀者は
処刑、1万人以上が処分された。一揆の理由を聞かれ、「上の政治が間違っているから世直しをするんだ」と公然と開き直る。「世直し」という言
葉が用いられ
た最初だという。
B 大塩平八郎の乱(1837)
元大坂町奉行所与力、陽明学者の反乱
・大塩
平八郎は元大坂東町奉行所の与力で、38歳で隠退していた者。陽
明学者でもあった。陽明学は儒学の一派であるが、「知行合一」を唱える。頭だけの学問でなく、実践を重視し、朱子学の大義
名分論とは異な
り、間違った政治は糺されなければならないとする革命思想がある。
・大坂では天保の大飢饉のため、日に170人の餓死者を出していた。ここで家斉が引退し、12代将軍就任のセレモニーをやるという。大坂の米が足りない
中、江戸に廻米をおこなうことになる。大塩は町奉行にやめるように言いにゆくが無視され、隠居の分際でそういうことを言え
ば強訴に当たると
たしなめられ
る。三井、鴻池に6万両の借金を申し入れるが断られ、誤った政
治をただすた
めに挙兵を計画する。
・蔵書5万冊を売って1000両を得て1万戸に施し。武器を調達して準備し、2月19日に大坂で火の手が上がったら集まるよう貧民に檄を飛ば
す。
・途中で寝返りが出て準備不足のまま8時間早く挙兵。300人で大
坂の町の
5分の1を焼く。半日で鎮定された。
政治腐敗糾弾→大坂打ちこわし、全国へ拡大 ex)生田万
の乱
・大塩は逃げて40日後に隠れているところを包囲される。爆破して自殺したら
しいが、
死体が出なかったところからどこかに逃げたとされ、「大塩残
党」を名乗って
各地で挙兵騒ぎが起きる。
・柏崎では平田篤胤門下の生田万が桑名藩陣屋に切り込む。
3
人でやったのですぐ鎮圧される。
Q5 大塩の乱は幕府に
は大きな危機と受け取られた。どうしてか?
A5 身内からの政治批判なのでこたえるのである。
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※
体制
内部からの政治批判
・外国船の接近と合わせ、内憂外患と呼ばれ、政治改革が必要とされた。
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