15 幕藩体制の衰退と雄藩の台頭<列強の接近>

 18世紀後半になると、シベリア開発を進めるロシアは日本との通商を求め、蝦夷地に接近するようになる。蝦夷地は弥生文化の伝わった本州以南とは異な り、8〜9世紀まで縄文時代が続いていた。この文化を(1)と呼ぶ。7〜12世紀には土師器の影響下で独特の土器を用いる(2)文化が形成され、これらを ベースにして近世アイヌ文化が作られていったらしい。15世紀半ば、津軽の十三湊を拠点とする(3)氏が渡島半島に侵入し、その家臣(4)氏が(5)に勢 力を張ってアイヌとの交易を始めた。しばしば略奪を働いたため、1457年には大規模なアイヌの反乱である(6)が起きている。この後、江戸時代には (5)藩が成立したが、米のとれないこの藩は、領地の代わりに家臣にアイヌとの交易場を与え、この制度を(7)制と呼んでいる。しかし、アイヌとの交易は やがては本州商人が請負い、合わせて漁場経営もおこなうようになる。これを(8)制と呼ぶが、アイヌに対する搾取はひどくなり、1669年には(9)、 1789年には(10)という反乱が起きている。
 ロシアは1778年、(11)に来航していたが、正式に通商を求めたのは、1792年に(12)に来航した(13)が最初である。幕府は蝦夷地ではなく (14)での交渉を指示したことから、1804年には(15)が同地に来航した。しかし、幕府は鎖国を祖法として通商を認めなかったため、ロシア艦が北方 沿岸で略奪に及び、日露間は一時緊張状態に陥った。日本がロシア人(16)を幽閉し、日本の商人(17)がカムチャッカに連行されたのはこの時のことであ る。幕府は北方防備が急務であるとして、相次いで探検隊を送った。すでに田沼意次の頃、(18)が蝦夷地探検を命じられていたが、(13)の来航後は (19)が千島探検をおこない、(20)の領有を宣している。「大日本沿海與地全図」を作成した(21)も蝦夷地から測量を開始しているし、(22)は樺 太を探検してこれが離島であることを確認している。(13)の来航後、幕府は東蝦夷地の直轄化を図り、(15)の来航後は全島を直轄地として(23)が支 配した。
 一方、1808年にはイギリス軍艦(24)が長崎のオランダ商館を攻撃する事件が起きた。これは英仏戦争の余波であり、フランス支配下にあったオランダ の東洋の拠点を叩きに来たものであった。事件後、外国勢力を武力で駆逐する(25)の声が高まり、1825年には(26)が出され、沿岸に接近する外国船 は砲撃によって撃退することが定められた。この法令により、実際に撃退されたのはアメリカ商船(27)であり、1837年、日本人漂流民送還のため来航し た(28)および鹿児島山川で砲撃を受けた。この後、幕府は江戸湾への外国船侵入を防ぐため、防備体制を強化することになる。
 1828年、幕府は禁制品の日本地図を海外に持ち出そうとしたオランダ商館の医師(29)を追放し、地図を与えた天文方の(30)を処刑している。蘭学 者は異国とつながる存在として警戒された。このため、(27)事件の後、蘭学者の田原藩家老(31)が「(32)」、医師(33)が「(34)」を著わ し、一方的な外国船撃退は戦争を招くとして幕府を批判すると、彼らを処断する(35)と呼ばれる弾圧事件が起きている。

<解答>
(1)続縄文文化 (2)擦文 (3)安東 (4)蠣崎 (5)松前 (6)コシャマインの乱 (7)商場知行 (8)場所請負 (9) シャクシャインの乱 (10)寛政の乱 (11)国後島 (12)根室 (13)ラックスマン (14)長崎 (15)レザノフ (16)ゴローニン  (17)高田屋嘉兵衛 (18)最上徳内 (19)近藤重蔵 (20)択捉島 (21)伊能忠敬 (22)間宮林蔵 (23)松前奉行 (24)フェート ン号 (25)攘夷 (26)異国船打払令 (27)モリソン号 (28)浦賀 (29)シーボルト (30)高橋景保 (31)渡辺崋山 (32)慎機 論 (33)高野長英 (34)戊戌夢物語 (35)蛮社の獄


<封建農村の崩壊と大塩の乱>

 江戸時代後期になると、問屋制家内工業の進展で都市の商業資本の農民に対する収奪がいっそう激しくなった。また、彼らの中には農村に工場を建設し、下層 民を雇用して手工業で生産をおこなう者が現れ、この生産形態を(1)と呼んでいる。上方の(2)などでは早くからこの生産形態がとられていたが、この時代 には尾張の(3)や、養蚕の盛んな地域を背景とした足利・桐生の(4)などの業種に拡大している。これは近代的機械工業の前段階であり、多くの農民が賃労 働者化したことは封建農村の解体を意味する。
 一方、農村で力を持った寄生地主たちの中には小作米を使って酒造業を営んだり、肥料商、古着商などを始めるものが出てきた。これらは都市の問屋商人に対 して(5)と呼ばれ、農民相手に商売をおこなったものである。ことに肥料商を経営する場合、金肥を節季払いで供給したことから農民は借金を抱えることとな り、その担保である土地が彼らのところにいっそう集積することを促した。彼らは政治的・文化的にも地方の農民のリーダーとなり、(6)と呼ばれる地位を獲 得してゆく。このような新たな商業資本の登場により、今までにない流通機構が形成されたため、従来、問屋商人を使っておこなわれてきた商業統制は破綻して いった。江戸近郊では新たな経済圏としていわゆる(7)が形成され、大坂への依存度を低下させたし、南海路では菱垣廻船に代わって二十四組問屋の統制を受 けない(8)が活躍するようになった。
 しかし、都市住民を対象とする商売は、相変わらず株仲間を組織する問屋商人の手に握られていたため、(5)は自由取引を求めて幕府に訴訟を起こすように なった。これが(9)と呼ばれるものである。農民の多くはムラのリーダーである(5)の後押しをし、要求を貫徹したりもしたが、一方で小作を搾取し、村政 を牛耳る(6)たちに対し、農民が小作料減免や村政改革を求める(10)が頻発し、農村は複雑な階級対立の場となっていた。こうして、本百姓を中心とする 単純な封建農村は崩壊してゆくのであり、農村は一足早く、近代の様相を呈するようになっていた。
 松平定信の引退後、11代将軍(11)は親政をおこない、12代将軍(12)への譲位後も政治権力を握り続けた。この時代を(13)と呼ぶ。北方警備の 負担と放漫財政によって幕府の経済力は傾き、農村で没落した人々が大量に都市へ流入した時期である。没落者のアウトロー化により治安が悪化し、幕府は (14)を設置して取り締まったが効果は上がらなかった。また、1833年から39年にかけては、冷害によって(15)が起き、一揆や打ちこわしが相次い だ。こうした中、1837年に大坂で起きたのが(16)の乱である。大坂町奉行所の元与力で、(17)を学んでいた(16)は、大坂の米不足をよそに将軍 就任に必要な米を江戸に廻米させる幕府の政治腐敗を糾弾した。乱はたちまち鎮圧されたが、これは体制内部からの政治批判であり、乱後に(16)の残党を名 乗って(18)の乱なども相次いだことから、幕府は抜本的な政治改革を迫られることになったのである。

<解答>
(1)マニュファクチュア(工場制手工業) (2)酒造業 (3)綿織物業 (4)絹織物業 (5)在郷商人 (6)豪農 (7)江戸地廻 り経済圏 (8)内海船 (9)国訴 (10)村方騒動 (11)徳川家斉 (12)徳川家慶 (13)大御所時代 (14)関東取締出役 (15)天保 の大飢饉 (16)大塩平八郎 (17)陽明学 (18)生田万


<天保の改革>

 唐津藩主から浜松藩主に転じた(1)は12代将軍(2)の老中に就任した。大御所の徳川家斉が死去すると、内憂外患を克服するため、ただちに天保の改革 に着手する。この改革は享保の改革、天明の改革に範をとったが、(1)によれば「劇薬を用いる」改革であり、今まで以上に大胆な施策をおこなっている。
 幕政の改革は基本的には封建反動であるため、この改革でも町人たちに厳しく贅沢を禁じる(3)が出された。大御所時代とも呼ばれた文化・文政年間の、活 気があるものの退廃的でもあった時代風潮を立て直すため、風俗の統制にも力を入れている。当時、「春色梅児誉美」など(4)と呼ばれる一種のメロドラマの ジャンルの作品を書き、女性たちに人気のあった(5)が処罰されたのはその例であろう。また、天保の大飢饉では江戸に大量の農民が流入し、多くの浮浪者を 生み出して治安の悪化を招いていた。(1)は江戸への移住を禁じ、出稼ぎも制限するとともに、彼らを強制的に帰村させて農村の復興を図るため、(6)を出 すことを考えた。それに必要な人別改めが実施されたが、効果はあまりなかった。
 一方、このような封建反動の政策の他、天保の改革では新味のある政策もおこなわれている。米価安諸色高に対応するために物価引下げ令を出したが効果がな かったため、1841年、(7)の解散を命じている。これは、それまで(7)によって独占されていた都市の市場に新興の(8)を参入させ、競争原理によっ て物価の下落を期待したものであった。しかし、従来の流通機構が使えなくなったことで物資の滞留が生じて失敗に終わり、1851年に(8)を含めて(7) を再興している。
 この頃、中国はイギリスの侵入を受けていた。産業革命で大量の綿織物をインドに輸出していたイギリスは、ここから得たアヘンを中国に持ち込んで銀や茶を 本国に運んだ。このため、中国はイギリスと衝突し、1840年には(9)が勃発している。結果は中国の敗北であり、南京条約で香港が割譲された。この情報 は幕府首脳を驚愕させ、1842年、従来の(10)を廃して(11)を出し、外国船に対しての物資補給を認めて衝突の恐れを回避することになった。また、 外国の侵入に備えて江戸湾の防備を固め、西洋式砲術を学んだ(12)を招いて射撃訓練を実施するなど、軍制の改革を図っている。
 幕府は外国の侵入に迅速に対処し、都市近郊の高免地を確保して経済的・軍事的に幕権を強化するため、1843年に(13)を出した。これは幕府にとって 起死回生の政策であり、これにより(14)(15)の10里周辺が幕府直轄地とされた。しかし、この政策に対しては高免地を失う領主や年貢増徴を恐れる農 民の反対が相次ぐことになる。幕府門閥勢力は一介の譜代大名に過ぎなかった(2)の追い落としに動き、結局、彼が罷免されたことで改革は中途で挫折してし まう。
 天保の改革は新興の(8)を把握し、幕府の軍事力を強化しようとした点で絶対主義の方向を目指したものとされる。しかし、幕府という大機構の中では門閥 制を打破することができず、幕藩体制立て直しの最後のチャンスを失ったのである。

<解答>
(1)水野忠邦 (2)徳川家慶 (3)倹約令 (4)人情本 (5)為永春水 (6)人返し令 (7)株仲間 (8)在郷商人 (9)ア ヘン戦争 (10)打払令 (11)天保の薪水令 (12)高島秋帆 (13)上知令 (14,15)江戸、大坂


<西南雄藩の台頭>

 幕府が天保の改革に着手していた頃、財政難に悩む大名の中には政治改革を実行するところがあった。改革の切り札は専売制の強化による財政再建であった が、これは農民の反対一揆を招く可能性があり、一筋縄でゆくものではなかった。
 薩摩藩は度重なるお手伝い普請の出費もあって、天保の時期には500万両の借金を抱えていた。財政再建は誰がやってもうまくゆかず、大胆に下級の者を抜 擢して改革をおこなわせることとした。こうして登用されたのが茶坊主だった(1)である。彼は藩債を250年賦払いとする事実上の踏み倒しをおこない、奄 美地方特産の(2)や(3)の専売を強化した。薩摩藩は外城制をとって藩士を分散配置し、武士人口も多かったことから一揆を防ぎながら専売を強化すること ができた。また、唐物抜荷と称される(4)を経由しての清との密貿易をおこない、偽金の鋳造にも着手したとされる。こうして藩財政は好転したが、(1)は 密貿易の嫌疑で切腹に追い込まれる。改革を引き継いだのは藩主の(5)であり、洋式工場群である(6)を設立し、製錬所や大砲鋳造のための(7)を設置 し、紡績機械を導入するなど、藩の軍事力・経済力を強化した。ただ、改革が藩主によって継承されたことから、初期の幕末の政界では下級武士の活躍の場は制 限されることになった。
 長州藩も銀8万5000貫の借金を抱え、(8,9)の専売を強化したものの大規模な反対一揆を招き、改革は失敗に終わった。こうした中で毛利敬親に登用 されたのが下級武士の(10)であった。彼は有能な人材を身分に関わらず抜擢し、政治改革についての意見を求めた。これによって下関に開設されたのが (11)と呼ばれる倉庫兼金融業である。西廻り航路の船への融資と荷物保管をおこなったもので、豪商との協力のもとで運営され、藩財政を好転させた。ま た、専売制に反対した豪農(在郷商人)層に一定限度の自由売買を認めて懐柔し、逆に商業統制を実現した。さらに高島流の洋式砲術を導入した軍制改革を進 め、これが幕末期に農商を含めて組織された(12)の編成につながっていった。このように、長州藩では反封建勢力であったブルジョア層と藩が結び、かえっ て藩権力の強化に成功しているのであり、典型的な雄藩絶対主義の改革だったと言える。これを日本全国に拡大する改革が明治維新なのである。
 この他、土佐藩では(13)と呼ばれる下級武士による改革がおこなわれたが反対派の台頭で中断している。肥前藩では藩主の(14)が地主所有地を小作に 分配する(15)を導入し、(16)の専売を実施している。これらの藩は門閥制を打破することができず、下級武士の台頭は著しくない。ただ、肥前藩は日本 で初めて(7)を築造して大砲の鋳造に成功しており、軍事大藩となったことで幕末維新に重きをなした。
 一方、水戸藩でも藩主(17)が(18,19)などの下級武士を抜擢して改革をおこなわせた。しかし、門閥層の反対で内部分裂が起こり、幕末期には多く の藩士が浪士となってテロ活動をおこなうようになり、明治維新ではイニシアチブをとることができなかった。このように見ると、藩政改革の成否は封建制の根 幹である身分制を打破して人材登用を進め、ブルジョア層と手を結んで軍事力を強化できるかどうかにあったと言える。政治改革の成功の度合いは異なるもの の、薩長土肥の4藩は経済力・軍事力をそれなりに強め、(20)と呼ばれるようになる。改革に失敗した幕府に対し、これらは幕末維新の難しい政治局面で発 言力を増すのである。

<解答>
(1)調所広郷 (2)砂糖 (3)樟脳 (4)琉球 (5)島津斉彬 (6)集成館 (7)反射炉 (8,9)紙、ろう (10)村田清 風 (11)越荷方 (12)諸隊 (13)おこぜ組 (14)鍋島直正(15)均田制 (16)陶器 (17)徳川斉昭 (18,19)藤田東湖、会沢 安 (20)雄藩


<江 戸時代の文化(2)>

 江戸時代後期の文化は化政文化と称される。それは、徳川家斉の治世・文化文政 期に栄えたことによるネーミングであるが、実際には安永・天明期以降、江戸の文化的発展の上に形成されたものである。
 江戸時代の後期は文治政治の推進に加え、政治改革に必要な人材の育成も必要で あったことから、各藩では藩学を建てて藩士の子弟たちに教育を施した。とりわけ寛政の改革以降に設立された藩学が多い。当初は武術や漢学中心であった教育 内容も、途中から蘭学、天文学、医学なども講じられるようになってゆく。会津藩では稽古堂を前身として(1)が設立され、幕末の会津藩士が育ち、米沢藩で は上杉治憲が(2)を建て、細井平洲を招聘した。尾張藩の明倫堂、熊本藩の時習館、水戸藩の(3)など、近世を通じて280校程が開校している。一方、城 下から離れたところには(4)が設立され、岡山藩の(5)が知られている。
 庶民の教育機関として(6)が普及したことは、日本人の教育程度を飛躍的に高 めることになった。特に江戸の一般庶民は子供の教育に熱心であった。(6)では「読み書きそろばん」と呼ばれる実学が学ばれ、教科書には「(7)」などの 往来物が用いられた。大人を対象とした私塾も設立され、大坂町人の出資で建てられた(8)や幕末に吉田松陰が設立した(9)などが有名である。庶民を対象 に平易に道徳を講じたのが(10)である。京都の(11)は武士に卑しめられていた商売を肯定し、正直と倹約を訴えた。その弟子の(12,13)は、全国 に(10)舎を設立し、普及に努めている。
 儒学では古学、朱子学、陽明学の長所を学ぶ(14)や、儒学の古典を客観的に 研究しようという(15)が流行した。
 荷田春満が創始した国学は、「万葉考」を著わした(16)に受け継がれた。そ の弟子の(17)は国学の大成者であり、古事記を研究してその成果を「(18)」にまとめた。この後、国学は古典中に表れた思想をきわめるものと、純粋に 文献の研究するものに分かれる。前者は(17)の弟子を任じた(19)が広め、外来思想に影響されない純粋な神道として(20)を提唱した。これは尊王論 に発展し、地方の豪農層に受け入れられた。後者の人物としては(21)が重要である。彼は幕府の保護のもとで(22)を設立して和漢の典籍を集め、日本の 古典を集大成して「(23)」を編さんしている。
 オランダ語を通じて西洋の学問を学ぶのが蘭学である。蘭学は(24)が漢訳洋 書の輸入を解禁したことで始まり、甘藷栽培を普及させた(25)がオランダ語を学んでいる。蘭学の進歩に弾みを付けたのが、人の解剖を実見した (26,27)による「ターヘルアナトミア」の訳出であった。日本名は「(28)」である。この時の訳出の苦労は(27)が記した「(29)」でうかがわ れる。彼の高弟であった(30)が、蘭学の入門書として「(31)」を著わし、(32)が「(33)」という辞書を編さんしたことで、蘭学研究は飛躍的に 楽になった。また、(26)の弟子の(34)は、「西説内科撰要」を著わし、初のオランダ内科書となった。
 科学の分野では寒暖計やエレキテルなどを作った(35)が有名である。また、 (36)は地動説や万有引力の法則を日本に紹介する「(37)」を著わしている。化学では(38)が化学書を翻訳し、「舎密開宗」を出している。また、 (39)は直接測量をおこなって正確な「大日本沿海與地全図」を作成した。
 蘭学の教育機関としては、長崎のオランダ商館付き医師の(40)が開設した (41)があり、蘭方の医師を養成した。また、大坂には(42)が(43)を設立し、ここからは福沢諭吉や大村益次郎などが輩出している。江戸では (30)が(44)を開き、オランダ正月と呼ばれた新正月を祝ったりしていた。幕府の蘭学研究機関としては、当初は天文方の(45)が蘭書の翻訳にあたっ ていたが、幕末になるとこれが(46)という一機関として独立し、さらに洋書調所、開成所と変った。明治以降は大学南校となり、東京帝国大学に引き継がれ る。
 化政文化の大きな特徴は、その担い手が一般庶民であったことである。文学の場 合、特に出版業の集まった江戸が文化の中心となった。(6)の普及により、庶民の識字率は高まっていたが、文学が庶民のものになるためには印刷技術の進歩 が欠かせない。また、書籍を扱う貸本屋の存在も欠かせなかった。さらには庶民受けする題材を作家が供給することも大切である。小説では、寛政の改革の頃、 浮世草子の流れを汲み、遊里を舞台に「通」を美学とした(47)がブームとなった。吉原で遊ぶための流儀を広めたこの本は、寛政の改革で弾圧の対象とな り、作家の(48)が罰せられている。(47)の中に見られた駄洒落やギャグを引き延ばした小説のジャンルが(49)である。伊勢参りの途中でのドタバタ を描いた(50)の「(51)」や、庶民の社交場であった床屋や湯屋を舞台にした(52)の「(53)」「(54)」などが代表作である。一方、(47) の中の色恋部分を取り上げたのが(55)で、「春色梅児誉美」を書いた(56)が一世を風靡した。しかし、これも天保の改革で弾圧されている。
 これらに対し、江戸時代の中期には大人向けの絵本とも言える黄表紙が成立し、 化政期になるとこれを合わせた合巻と呼ばれるジャンルが生み出される。代表的作家は(57)であったが、「偐紫田舎源氏」が将軍家斉の私生活を描いている という噂が流れ、絶版にされた。合巻から発展し、絵よりも文章が中心となったのが(58)である。(59)は和漢の古典を引用して拡張高い怪談話・ 「(60)」を著わし、(61)は安房里見家の復興物語を勧善懲悪の立場で綴った長編作「(62)」を書き、原稿料で生活した最初の作家となった。
 江戸の庶民が自ら創作して楽しんだ文芸に、俳句の形式を取って季語や切れ字の 制約を受けない(63)があった。点者をした(64)の号が文学のジャンルの名となったもので、時には政治を風刺する作品も作られている。和歌の形式を 取って一種のパロディや風刺の作品として作られたのが(65)で、大田南畝などが活躍した。
 俳諧では和漢の古典を句に置き換えて写実的に吟じた(66)や、庶民の立場に 立って北信濃で活躍した(67)などが知られる。
 戯曲では歌舞伎が一大ブームとなっていたこともあり、赤穂事件に題材をとって 「仮名手本忠臣蔵」を残した(68)、不気味なリアリズムの怪談話「東海道四谷怪談」を書いた(69)、「三人吉三」「弁天小僧」などの名作を生んだ (70)などが出ている。
 この時期には、美術においても庶民が担い手となっている。浮世絵では(71) が多色刷りの版画である(72)を考案し、大量生産による大衆化を進めたことが美術を身近なものにした。彼は柳腰の美人画を得意としたが、美人の上半身を クローズアップした大首絵で人気を博したのが(73)であった。また、同じ手法でデフォルメした役者絵を描いた(74)、風景画では奇抜な構図で富士を描 いたシリーズ「(75)」で知られる(76)、旅情を誘う作品として「(77)」を出して支持を得た(78)がいる。浮世絵は色合いの鮮やかさでヨーロッ パの人たちを驚かせ、印象派の画家に大きな影響を与えている。
 一方、学者たちが余技で描いたのが文人画である。(79)が(66)と合作し た「十便十宜図」のように、中国の南画の影響を受けた洒脱なものの他、蛮社の獄で罰せられた(80)の作品「鷹見泉石像」のような西洋画の陰影法を取り入 れたものもある。
 この他、狩野派を学んで写生画を始め、円山派の祖となった(81)、遠近法を 用いた銅版画の作品を残した(82)など、多彩な芸術家が出現している。
 江戸時代前期に起きていた宗教の娯楽化傾向はピークに達した。秘仏を拝観させ る開帳や遠方の社寺の秘仏を出張させる出開帳などは多くの人を集めたし、巡礼や寺社参詣の名目であれば旅行も比較的自由に認められた。御師の活躍もあって 伊勢信仰は高揚し、60年に一度、参詣者が爆発的に伊勢に殺到する(83)が起き、奉公人などが主人に無断で参宮する(84)などもおこなわれた。幕末に なると不安な社会情勢を反映し、(85~87)のような新興宗教が発生している。
 思想界では、朱子学の大義名分論や(19)の国学から尊王論が力を持ってき た。国学者で神道家であった(88)は、幕府専制を批判し、尊王思想を天皇に説いたため追放され、この事件を(89)と呼んでいる。また、(90)は尊王 斥覇を唱えて幕府打倒の軍法を論じて処刑されている。この事件が(91)である。この他、尊王を幕府に説いた高山彦九郎、天皇陵を調べた蒲生君平、尊王思 想に立つ歴史書「日本外史」を著わした頼山陽などが現れ、幕末にかけて尊王は政治上のキーワードになっていった。当初は素朴な尊王敬慕の思想だったもの も、外国と接触したことで尊王攘夷思想に発展し、明治維新を実現する動きに直結していった。「大日本史」の編さんを通じて尊王論を主張するようになる水戸 藩では、(92,93)などが輩出し、長州藩では吉田松陰が(9)で尊王攘夷を説いている。
 封建社会を批判した思想は数々あるが、八戸の医者であった(94)は階級のあ ることを批判して「自然真営道」を著わした。そこには全ての者が生産労働に携わるべきだという共産主義的な考えが表れている。この他、鎖国政策を批判して 海外貿易の促進を主張し、「西域物語」「経世秘策」を書いた(95)、重商主義を説いて「稽古談」を執筆した(96)、大名が割拠する政治体制を批判し、 統一国家の必要性を説いて明治国家を予言した(97)などが登場している。変ったところでは、既成の宗教を批判した富永仲基や、「夢の代」を著わして無神 論を唱えた(98)などが現れている。

<解答>
(1)日新館 (2)興譲館 (3)弘道館 (4)郷学 (5)閑谷学校 (6)寺子屋  (7)庭訓往来(8)懐徳堂 (9)松下村塾 (10)心学 (11)石田梅岩 (12,13)手島堵庵、中沢道二 (14)折衷学 (15)考証学  (16)賀茂真淵 (17)本居宣長 (18)古事記伝 (19)平田篤胤 (20)復古神道 (21)塙保己一 (22)和学講談所 (23)群書類従  (24)徳川吉宗 (25)青木昆陽 (26)前野良沢 (27)杉田玄白 (28)解体新書 (29)蘭学事始 (30)大槻玄沢 (31)蘭学階梯  (32)稲村三伯 (33)ハルマ和解 (34)宇田川玄随 (35)平賀源内 (36)志筑忠雄 (37)暦象新書 (38)宇田川榕庵 (39)伊 能忠敬 (40)シーボルト (41)鳴滝塾 (42)緒方洪庵 (43)適塾 (44)芝蘭堂 (45)蕃書和解御用 (46)蕃書調所 (47)洒落 本 (48)山東京伝 (49)滑稽本 (50)十返舎一九 (51)東海道中膝栗毛 (52)式亭三馬 (53)浮世床 (54)浮世風呂 (55)人 情本 (56)為永春水 (57)柳亭種彦 (58)読本 (59)上田秋成 (60)雨月物語 (61)滝沢馬琴 (62)南総里見八犬伝 (63)川 柳 (64)柄井川柳 (65)狂歌 (66)与謝蕪村 (67)小林一茶 (68)竹田出雲 (69)鶴屋南北 (70)河竹黙阿弥 (71)鈴木春信  (72)錦絵 (73)喜多川歌麿 (74)東洲斎写楽 (75)富嶽三十六景 (76)葛飾北斎 (77)東海道五十三次 (78)歌川広重  (79)池大雅 (80)渡辺華山 (81)円山応挙 (82)司馬江漢 (83)御蔭参り (84)抜け参り (85~87)天理教、金光教、黒住教  (88)竹内式部 (89)宝暦事件 (90)山県大弐 (91)明和事件 (92,93)藤田東湖、会沢安 (94)安藤昌益 (95)本多利明  (96)海保青陵 (97)佐藤信淵 (98)山片蟠桃


戻る

Copyright(C)2007 Makoto Hattori All Rights Reserved