15 幕藩体制の衰退と雄藩の台頭
<列強の接近>
[蝦夷地の状況]

Q1 蝦夷地の先住民は何か?。どのような文化を持つのか?

A1 アイヌ民族である。雑穀の農業と狩猟・採集・漁労の生活をし、熊祭り、ユカラ、派手な模様のアツシなどの衣服を着用する。これらの文化要素がいつか ら整ったのかははっきりしない。

  続縄文文化

・本土が弥生時代になっても、米が作れない北海道は8〜9世紀まで縄文文化が続いていた。これを続縄文文化という。

  →擦文文化

・7〜12世紀になると土師器の影響が出てきたため、木の刷毛目でひも状の土器をなら して作る擦文文化が形成される。この時代は鉄器時代であり、生活程度は向上した。サケ・マス漁と狩猟、それに加えて雑穀栽培をおこない、鉄は本土から交易で手に入れ、 再生して使っていた。
・坂上田村麻呂が攻撃したのは擦文文化の人たち。東北地方まで彼らの生活域は広がっていたのである。これが後のアイヌと同じ人かどうかはわからないらしい が、東北にはナイ、ペツなどのアイヌ語起源の地名は多いため、擦文文化の人とアイヌは何らかの形でつながっている。
・アイヌと言えば派手な模様を使ったり熊送りの習慣が思い起こされる。これらは擦文文化にはない要素であり、後にシベリア方面から入ったオホーツク文化の 影響と考えられている。これはアザラシやオットセイ猟の文化である。
・アイヌに伝わる口承文芸のユカラに少年英雄のポイヤウンペの物語がある。ここにはレ プウンクル(沖の人)とヤウンクル(陸の人)の対立が描かれているため、陸 の擦文文化の民族と海のオホーツク文化の民族がぶつかり合った可能性もある。

  →近世アイヌ文化

・これらがベースになり、近世アイヌ文化が形成される。北海道、南樺太、南千島に居住 し、茅葺きのチセを作り、コタンという村を形成していた。狩猟採集がベースなので5〜10軒の規模である。イオルという猟場、漁場を持ち、シカなどはトリ カブトを使った毒矢で猟をした。サケ漁も盛んであり、オヒョウの樹皮でアツシを作って着ていた。
アイヌは自然との共生の中で生きてきたため、信仰の形態をとって自然の保 護をおこなってきた。着用している衣服はアッシと呼び、木の皮で作るが、皮を剥ぐ際には目的を告げて木の神の許しを乞い、全面を剥ぐと木が 枯れるために片側だけを剥ぐようにしていた。
・熊祭りをイオマンテという。これも自然の神への感謝を示したものである。熊のカムイ(神)は毛皮、肉、胆をもたらしてくれる。穴ごもりしている母熊を春 先に獲った際、小熊を連れてきて育てる。1年ぐらい飼った後、カムイとして天上に返すものである。大切に育てて情が移った小熊を弓矢で射殺し、村人は皆涙 して執行したという。

1 安 東氏の侵入(15世紀半ば)

・アイヌの土地であった北海道に日本人が侵入するのは15世紀半ばである。津軽地方では、奥州 藤原氏の後、安倍貞任の子孫の安藤氏が十三湊を拠点に勢力を張っていた。 十三湖に形成された湊で、蝦夷地やシベリア方面との交易もしていたらしい。
・南部氏に追われた安東氏は蝦夷に侵入し、渡島半島の松前に館を築いた。 ここに蠣崎氏が家臣として入り込み、12館を築く。

    cf)コシャマインの戦い(1457)

・和人はアイヌと交易をするが、略奪も働く。アイヌの少年が殺されたため、1457年、アイヌの大酋長のコシャマインが蜂起した。12館のうち 10を占領。これを蠣崎氏の家臣・武田信広が迎え撃ち、コシャマインを射殺して鎮圧した。
・この後、100年に渡ってアイヌと和人の抗争が続く。 1515年、シヨヤ・コウジの戦い。1529年、タイサカシの戦い。1536年、タリコナの戦い。アメリカに渡った白人がインディアンと戦って西部開拓を してゆくのと同じ状況が繰り広げられたのである。

   →蠣崎氏の支配

・この間、安東氏は東北に戻り、武田氏は蠣崎氏を継承して松前氏を名乗る。秀吉と家康は松前氏に蝦夷の支配権を認め た。

2 松 前藩の成立(1604)
   アイヌとの交易(商場知行制→場所請負制)

・松前は米がとれないため、アイヌとの交易で食べてゆくことになる。これは耕地がない対馬が朝鮮と の貿易で生活していたのと似ている。米・酒・漆器をサケ・ニシン・ラッコ毛皮と交換。
・初めは城下交易であり、アイヌが売りに来る。宣教師アンゼリス報告では、メナシから家族ぐるみで100艘の船でアイヌが来た。日本からは300艘の船が 来ると記している。
・松前藩は本州商人が来ることを拒否して交易権を独占し、家臣に知行として 交易場を授けた。交易場は土地の代わりであり、商場知行制と いう。
・やがて松前藩士が直接交易するのは面倒になり、交易を本州から来た商人に 委ねるようになった。これを場所請負制とい う。商人は交易だけでなく、アイヌを使って漁場経営もする。

Q2 蝦夷地の産物はどんなところで消費されたのか?

A2 海産物の俵物は日本の輸出品の50%を記録。中国に出荷された。ニシンの〆粕は金肥として重要であり、商品作物栽培を支えた。ほかにサケや昆布な ど。近世経済の発展は蝦夷地の物産によって支えられていたのである。

  but圧政により反乱招く

・松前藩は価格統制をしてアイヌに安売りさせる。1641年にはサケ100匹と米2斗 が相場だった。1669年になるとサケ100匹は米7〜8升となり、松前氏は3分の1の価格でサケを入手している。
・アイヌは算数が苦手だとし、アイヌ勘定という言葉がある。大きい数字がわからない。わざと小さな小袋に分けて米を数えさせる。途中で話しかけたりし、最 初に数えた分を忘れさせる。
・場所を請け負った飛騨屋はアイヌに借金をさせ、金で縛って奴隷のように使うようになっていた。釧路場所の労賃は支配人29両、番人12両に対し、アイヌ は2両であった。アイヌの夫婦を引き裂いて、妻を妾にしたり、言うことを聞かないと〆粕の釜に突っ込んだりしている。
・本州の漆器はアイヌにとって宝物であり、チセの奥に飾られた。お椀一つで冬中働かせる事例もあった。明らかにアイヌから搾取しているのである。

    ex)シャクシャインの乱(1669)、

・1669年、日高から釧路にかけてを統率する大酋長シャクシャインが蜂起を呼びかける。6月20日から和人300人 余りを殺害。10月23日、松前藩は和睦を申し出て、シャクシャインを騙して宴席で酔わせて殺す。以後、組織的なアイヌの蜂起はなくなる。

      寛政の乱(1789)

・1789年、飛騨屋に対して寛政の乱(クナシリ・メナシの戦い)が起き、71人の和人が殺される。 鎮圧し、アイヌ37人が処刑された。これがアイヌ蜂起の最後となる。
日本人の進出でアイヌ社会は急速に崩壊してゆく。1822 年のアイヌ人口は2万3500人。1854年に1万7800人となり、30年で6000人近く減っている。
・石狩場所の場合、1810年に3800人いたものが、1856年には記録上は670人となり、そのうち140人は逃亡者で実際にはいなかった。
・一方、和人は1701年に2万人だったものが1853年には6万人となり、アイヌの人口を上回っている。近世の北海道はアイヌの土地ではなく、日本人の 土地になりつつあった。ここにロシアが来るのである。

[ロシアの来航と北方政策]
   市民革命と産業革命(18C)→資本主義発展で植民地市場の拡大図る
A ロ シアの接近
   極東開発

・ロシアはシベリアへの進出を企てていた。

Q3 その目的は何か?

A3 毛皮である。

・ウラル以東にはノバゴロド人がいたが、1465年に滅ぼす。シベリア方面で最有力な のは韃靼人(モンゴル)であったが、コザック騎兵を使って進撃し、1598年、クチューム汗国を滅ぼす。1650年代末にはバイカル地方のブリヤートを下 す(家光の頃)。
・この東には銀があるのではないかと黒竜江沿いに東に行くが、清との間で土地争いが生じ、1689年にネルチンスク条約を締結することになる。この後は南 下を諦めざるを得ず、ツンドラ方面に進んでカムチャッカに到達し、1711年に千島を発見した。ここはラッコやアザラシ、オットセイなど の海獣の産地であり、毛皮がたくさん採れた。
・ロシア人は南下して1768年頃にはウルップ島を根拠地にし ていた。ウルップ島は漁期だけ択捉島からアイヌが来る無人島で、ここでアイヌとロシア人の接触が生じた。1778年には国後島にロシア人が来航している。「赤蝦夷風説考」が書かれるのはこの時期である。

     →国後島へ来航(1778)

 1 ラッ クスマンの来航(根室)1792

最初 のロシア人の来航は根室に来たラックスマンである。これは日本人漂流民の送還が名目だった。
・漂流者は大黒屋光太夫で、伊勢白子の船頭だった。1782 年、江戸に向かう途中で難破してアリューシャンに漂着。助けられてイルクーツクに移される。
・ロシアは北太平洋開発に必要な物資をヨーロッパから送るのは困難だった。アイヌとの交易だけでは間に合わず、物資生産をおこなって交易可能なのは日本ぐ らいなので日本との交易を考えていた。このため、光太夫は 10年間、日本語教師として暮らす。
・大学教授のキリル・ラクスマンと会い、エカテリーナ女帝に帰れるように頼んでもらう。1791年、ロシアの首都・ペテルブルグに行って女帝に会い、帰国 が許可される。
・1792年、子のアダム・ラクスマンが根室に来航。松平定信が対処することになる。根室は日本領でなく交渉できないとし、長崎に回航するように指示。ラクスマンは無理強いせず、そのまま帰国し た。長崎に来れば、蝦夷地か長崎で交易を許可することを定信は考えていたという。
・大黒屋光太夫はその後は江戸で軟禁生活を送る。桂川甫周が聞き取りをし、 「北槎聞略」をまとめている

 2 レザノフの来航(長崎)1804

・1804年9月、レザノフが長崎に来航して通商を求める。上陸させて事実上の軟禁扱いと し、幕府の返事が来るまで半年待たされる。定信は政権から退いていたため、通 商拒否の返事がくる。

    通商拒否→日露の緊張

・レザノフは腹を立て、武力を用いて通商の途を開くことを考える。「16門の大砲と60人の兵 士を乗せた2隻の船があれば、日本の全艦隊を沈められる」。
・この報告を受け、1806年から1807年にかけ、択捉島をロシアが攻撃。 番屋を略奪して焼く。

      ex)ゴローニン、高田屋嘉兵衛の幽閉

・1811年、ディアナ号に乗って南千島測量に来たゴローニンは、国後に上陸したとき、幕府役人に捕まり、松前で2年間幽 囚される。
・副長が救出を図るため、択捉の漁獲物を運んでいた高田屋嘉兵衛を つかまえてカムチャッカに連行。高田屋はゴローニンの幽囚状況を説明し、捕虜交換を提案した。
・ロシアは1806年からの択捉攻撃を謝罪。捕虜交換が実現した。
・ゴローニンは「日本幽囚記」で日本人の欠点と長所を述べる。「文明をさらに発展させたなら、我々の子孫をうち負かすであろう」。日露戦争では予言通りと なった。

B 北方防備の強化
   北方探検(最上徳内、

・1786年、蝦夷地の開発を考えた田沼意次の命で最上徳内が蝦夷地を探検した。アイヌの生活や言語も記録 し、アイヌ収奪に対して非難をしている。

     近藤重蔵、

・ロシアはウルップ島を拠点としていた。松前藩は1754年以降、国後島を支配してい たが、その中間の択捉の帰属が問題となる。1768年にロシアが占領するが、その後、経営を怠っているスキにとってしまう。
・1798年、近藤重蔵を蝦夷地御用とし、探検させる。ロシ ア人の立てた標柱を倒し、「大日本恵土呂府」の標柱を立てて択捉島の領有宣 言をした。以後、択捉、ウルップ間が自然に国境になり、幕末 の日露和親条約で画定する。

     伊能忠敬、

伊能 忠敬は18歳で佐原の酒造業・伊能家の養子になった。50歳で隠居し、江戸に出て天文方の高橋至時に入門。地球の正確な地図を作るには子午 線1度の長さを測る必要があり、そのための測量を願い出る。幕府は蝦夷地に 限って測量を許可した。
・1800年から主として歩測によって測量開始。1818年に74歳で死ぬ。1821年に「大日本沿海輿地全図」214枚が完成する。伊能忠敬は地球を完全な球 体と考えていたため、地図は周辺域で少しいびつになる。測量誤差はわずかであったが、今の地図と比べれば表現手法が未熟。
・沿岸についてはほぼ完璧なできであり、シーボルトも欲しがる品物。幕末に列強が測量させろと言ってきたとき、これを見せて引き下がらせた。
・伊能図の大図は3万6000分の1の縮尺で、一枚当たりは畳一枚分の大きさである。明治政府に引き継がれていたが焼失し、東大図書館に貸し出されていた 複写も関東大震災で燃えてしまった。
・たくさんの模本が作られていたが、アメリカで保存されているものがあるのがわかり、2004年に里帰りした。全部並べると60m。並べるところがないの で名古屋ではナゴヤドームに並べた。

     間宮林蔵)

間宮 林蔵は伊能忠敬から測量学を学ぶ。樺太にはロシアの手があまり伸びていなかった。ヨーロッパ人も、樺太は大陸の一部と考えていた。1808 年の調査で樺太が離島であることを確認。1809年、間宮海 峡を踏破してシベリアに渡り、地理的位置を確認する。
・シーボルトによって間宮海峡と命名された。

   蝦夷地の直轄化(松前奉行の設置)

・1799年に東蝦夷地を幕府直轄とし、1802年に蝦夷地奉行を置く。後に箱館奉行 となった。
・レザノフ帰国後のロシアによる択捉島攻撃により、幕府は1807年に西蝦 夷地も直轄とし、箱館奉行を松前奉行とした。 その後もロシア船によって松前藩の船が襲われたりしており、北辺は物騒だった。

[英米の 接近と鎖国の固守]
A イギリスの侵入(フェートン号事件)1808
   長崎オランダ商館攻撃(英仏戦争の余波)

・1808年、オランダ国旗を掲げた船が長崎に来る。小舟で近寄ったところ、実は大砲 38門を備えるイギリス軍艦フェートン号で、オランダ商館員 を人質にとる。
・この頃、ヨーロッパではナポレオン戦争でフランスがオランダを併合し ていた。フランスと対立していたイギリスはオランダ植民地の攻撃をおこなう。 長崎に来たのはオランダ船拿捕が目的。長崎港内でオランダ船を探したがいないのを知り、人質と食料を交換して帰る。
3日間も蹂躙され、追い返せなかった。警備の佐賀藩は 1000人体制のはずが80人しかいない。長崎奉行の松平康英は責任をとって自刃している。
・この後、長崎警備のため、長崎町年寄筆頭の高島秋帆が洋式砲術を学び始める。

    ∴攘夷の声の高まり cf)異国船打払令(無二念打払令)1825

・1806年、文化の撫恤令を出し、外国船には薪水を与えて退去させることを定めてい た。しかし、この事件後、攘夷の声が高まる
・フェートン号事件後もイギリス船が頻繁に出没していたため、1825年、 中国、オランダ船以外の外国船が接近してきたら打払を命じる法令が出る。異国船打払令である。オランダ船は見分けがつかない場合があるが、 こだわらずに攻撃しろという内容。

B ア メリカの接近(モリソン号事件)1837
   浦賀での打払い→江戸湾防備体制の強化

・1837年、アメリカの商船モリソン号はマカオで保護されていた日本人漂流民7人を日本に送還し、ついでに通商を要求しようと浦賀に来る浦賀奉行が砲撃して打ち払い。鹿児島の山川に着岸しようとしてまた打ち 払い。漂流民も解放できずに逃げ帰る。幕府は江戸湾の防備体制構築に本腰をあげるようになる。
・翌年提出された「オランダ風説書」にはこの事情が記され、攻撃に来たのではないことを知る。
・ちなみに、この時、モリソン号に乗ってきた漂流者のうち一人は、今の美浜町小野浦出身の音吉である。鳥羽から江戸に向かう途中、遠州灘で遭難し、アメリカ西海岸に漂着してインディアンに助けられ、その後、イギリスに送られて送還のためにマカオに移され、那覇までイギリス船で、そこからはモリソン号に乗り移ってきたものだった。音吉は日本に帰れなかったためアメリカで働き、幕末に日英和親条約の交渉をおこなったとき、通訳として来日している。

C 蘭学者(対外革新派)の弾圧
 1 シー ボルト事件(1828)

シー ボルトは28歳のドイツ人の医者。1823年、日本が見たくてオランダ商館の医師として来る。
・特別の計らいで長崎鳴滝に診療所兼塾を開くことが許可さ れ、57人の弟子が育つ。初めて医学の臨床講義がおこなわれたのがここである。丸山の遊女お滝との間に女の子をもうけ、この子は後に産科医となり、再来日 したシーボルトに会っている。
・1828年、シーボルトは任期が切れて帰国。積み荷から禁制品の「大日本国沿海輿地全図」が出てくる。天文方の高橋景保と知り合い、学術資料の交換をお こなったもので、これを間宮林蔵が訴えたという。

    シーボルト追放、高橋景保処刑

シー ボルトはスパイ容疑で取り調べられる。国外追放措置。高橋景保は逮捕されて獄死。遺体は塩漬け保存され、死罪を申しつけられる。ここから、 蘭学者は外国人と通じた不審な者という認識が出てくる。

 2 蛮社の獄(1839)
    打払いの無謀を説く尚歯会(蛮社=洋学者グループ)の弾圧

・モリソン号事件の頃、田原藩家老の渡辺崋山を中心に洋学の研究者グループである尚歯会ができていた。医師の 高野長英、幕府役人の江川太郎左衛門などがメンバーであり、別名を蛮社と称した。
・天保の改革の時期であり、鳥居耀蔵が目付をしていた。鳥居は林家の出であるため、洋学嫌いで尚歯会に対しても反感を持っていた。
・江戸湾防備計画を進める水野忠邦は、鳥居と江川太郎左衛門に仕事を命じるが、崋山が江川を援助し、鳥居よりすぐれた計画を提出し、鳥居の面目はつぶれ る。鳥居はこの仕返しを考えていた。

    →渡辺崋山(「慎機論」)、高野長英(「戊戌夢物語」)処断

・こうした中、モリソン号事件に対し、崋山は「慎機論」、長英は「戊戌夢物語」を書いて諫め、鎖国の 固守は外国の侵略を招くと説いた。反撃されたらひとたまりもないことを彼らは知っていたのである。しかし、公然とした幕府批判は取締りの対象になる。
・鳥居は江川失脚をもくろんで「慎機論」「夢物語」の著者を調べさせる。調書が上がった際、小笠原渡航計画がねつ造され、処罰するように求める。
1839年、渡辺華山や高野長英に対しての弾圧が開始され る。渡航計画はでっち上げであることがばれるが、政治誹謗は罪であり、崋山は国元蟄居を命じられる。貧乏で家族を養えず、書画会に出品したのが咎められ、 藩主に累が及ぶことを恐れて自刃する。
・高野長英は永牢となる。病気を治してやって牢名主になっていたが、6年目に火災となり、3日以内に戻ることを条件に切り放される。そのまま逃げ、故郷の 水沢に戻って母に会い、伊豆の江川宅に身を寄せ、宇和島で伊達宗城の保護を受けて蘭学を教える。追っ手が向けられて脱出し、薩摩の保護を受けて再び江戸 へ。薬品で顔を焼いて変装し、江戸で沢三伯と名乗って医者をするが、密告者が出て捕まる。のどを突いて自刃している。
対外的に知識の豊富な者たちを口封じしているところに問題が ある。後にペリーが来たとき、阿部正弘は身分の高下を問わず優秀な人材を登用して対処しようとした。このときはそれと大きく異なっている。

※鎖国の固守

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