<寛政の改革>
[松平定信の政治改革]

・松平定信は吉宗の孫で御三卿の田安家の出身。家治とはイトコの関係である。11代将 軍の家斉は吉宗の曾孫なので、血筋はよい。12歳で自分を戒める書を著し、17歳までに7000首の和歌を暗記した。182冊の著書を持つ学者肌の大名で あり、家治は「徳川家を興すのはこの子」と賞賛していた。
・将軍になられると困るため、田沼の策略で白河藩松平家に養子に出されたとされ、白河藩主となった。
・天明の大飢饉では、白河藩の稲作は全滅。定信は越後の分領から廻米を命じ、西日本を中心に米を買いあさる。人別扶持で米を配り、春の端境期には江戸でヒ エやフスマなどを買って送らせる。その結果、「仙台では40万、津軽では30万が餓死したが、白河藩では1人も死ななかった」とされる。
・間引きを防止し、加工農作物の栽培を奨励。人口を逆に3000人増やして「名君」と賞された。

  11代将軍家斉の老中に就任(←白河藩主)

・田沼失脚によって老中となって将軍を補佐することとなった。このときは29歳であ る。

   →田沼政治の否定、享保の改革を範

吉宗 を手本とした政治改革を実行する。「工商盛んにして士農衰える」とし、その理由は金穀の流れを商工に握られているからとした。再び農業に立 脚した政治に戻そうとしたのである。定信が信奉していた朱子学では、商業は卑しく、農業は尊いとしていたのもその理由である。
田沼政権と結びついていた特権的専売機関をなくすこととし、1787年、 人参座、鉄座、真鍮座を解散させる。一部の株仲間も解散。

A 社会政策の実施(天明飢饉の手当)

Q1 早急に手を打つ必要があるのは天明の大飢饉への対応である。農村 と都市ではどんな事態が生じていたのか?

A1 農村では人口が急減している。都市に流れて来るため、都市人口は増え、治安が悪くなっている。

・1780年と1786年で、日本の人口は140万人減少していたが、江戸の人口は 3〜4万人増加している。食べられなくなった人たちが流れ込んでいたのである。

 1 農村復興
    帰農令=都市流入民の帰村奨励

農村 復興のためには、都市流入民を返す必要がある。1788年、人口減少の激しい東北の農民に対し、他国出稼ぎ制限令を出す。1790年、旧里帰農奨励令を出し、帰る旅費を支給することとした。犯罪者でも罪を 許すというが申し出る者は少なく効果はなかった。

Q2 次の飢饉に対しての備えとしてはどのようなことが考えられるの か?

A2 食糧の備蓄である。

    囲米、義倉・社倉の設置(凶作に備え米貯蔵)

飢饉 に備えて囲米を実施する。1789年、諸藩に対して1万石に ついて50石ずつの貯穀を命じる。幕府は三都に55万石を蓄えた。
・他に住民が分に応じて貯穀する社倉、富裕者が義捐によって貯穀する義倉を 発足させる。

 2 都市下層民の保護

・天明の大飢饉で都市に流入したが職にあぶれた者たちは、ひとたび飢饉が来ると米屋な どの打ち壊しに加わることになる。これを防ぐため、いざというときに備えて貯金をさせることを考えた。

    七分積金=町費節約、70%を非常時に備え貯金

・各町内では町費=町入用を徴収していた。これは道普請や祭礼費などに充てるもので、 定信はこれを節約させる。町費の節減額の7割を積み立てさせたのが七分積金で ある。貧民救済といざというときの貯金であり、この金が相当になり、明治になってから銀座の煉瓦街を作る元手になったとされる。

Q3 都市のホームレス対策としては何が考えられるのか?

A3 授産である。

    石川島人足寄場の設置=浮浪者の強制収容と授産

・江戸では無宿者、浮浪人が激増し、市中の橋のたもとに並んで物乞いをし、治安が悪く なっていた。火付盗賊改を置いて年間に1000人単位で刈り込む。
火付盗賊改の長谷川平蔵の建議により、石川島の埋立地に人足寄場を作り、 軽罪で再犯の恐れのある者を強制収容した。200人ほどが入り、細工物などの授産をして、改悛すれば道具と元手金を渡して出してやった。

 3 旗本・御家人の財政難救済
    棄捐令(1789)=6年以上前の借金帳消し

・飢饉の際には年貢徴収高が減るため、幕臣に対しての給米も削減されることになる。そ の後も幕府は打ちこわしを起こさせないため、米価の引き下げに力を入れた。しかし、物価が連動して下がらなかったため、旗本・御家人は手取りが減って生活 苦が深刻になっていった。
・収入が減れば借金しかない。札差は蔵米を担保にとって年利40%の高利で 金を貸していたが、返済が滞って困る者が続出した。
1789年に棄捐令を発令。1784年以前の債権は破棄。 以後のものは年利6%とし、今後は年利12%を公定とするというもの。
・これにより、96人の札差が118万両の債権を失った。札差の金融拒否が発生したため、札差を救済する資金を貸し付ける目的で猿屋町貸金会所を設置し た。

B 綱 紀の粛正
 1 倹約令

・贅沢な衣服、髪飾りを付けているものを取り締まる。発見すれば町奉行所に連行した。

 2 寛 政異学の禁
    朱子学振興で体制再建図る

・定信は子供の頃から朱子学を叩き込まれてきた。しかし、朱子学は現実の問題に対応で きず、どちらかというと人気がなかった。

Q4 朱子学のお上にとってのメリットは何か?

A4 朱子学は大義名分論を柱にしていたため、体制維持には好都合である。

    湯島聖堂→官学・昌平坂学問所(朱子学以外教えない)

・林家の私塾である聖堂学問所で儒学の試験をしていたが、初めは14人しか応募がな かった。定信はこれを官立の昌平坂学問所にして、林家以外の 学者を充実させた。このときに抜擢されたのが、柴野栗山、尾藤二洲、古河精 里の寛政の三博士である。
古学派、折衷学派に圧されていた朱子学を盛り立てるため、異学の禁を実 施。昌平坂学問所では朱子学以外を教えなくなった。これは柴野が定信を動かして実現したものである。また、諸藩の藩校も朱子学一本となって いった。
・試験に合格しないと出世させないとしたため、次には230人が受験している。

 3 風俗の統制

・都市流入民で仕事にあぶれた女性は夜鷹と言われる売春婦となる。このため、私娼を摘 発し、幕府公認の遊郭に送り込むことにした。京都などでは2日間で2000人が逮捕されている。
・変ったところでは風呂屋での混浴を禁止し ている。今のようにお湯につかって暖まる風呂は当時は湯と呼ばれたもので、温泉場は別として一般には珍しかった。江戸などの風呂屋は膝くらいまでの少ない 湯に浸かり、発生する湯気で暖まる一種の蒸し風呂であった。このため、湯気を逃がさないように柘榴口という壁が天井から下りていて、この下をくぐって湯船 につかる。このため、湯殿はたいへん暗かった。このため、男女混浴だと風紀を乱す振る舞いも多かったとされる。

    cf)言論の弾圧=山東京伝(洒落本作家)、

・新規出版と好色本を絶版とした。
洒落本は遊廓を舞台にした小説である。女の子にモテるため には通でなければならない。これは世事に通じているということで、今なら芸能界などの話題が豊富であるということであろう。洒落本は通になる手引書のよう なもので、場所が遊廓のためポルノ小説でもあった。この作家として一世を風靡した山東京伝は弾圧され、手鎖50日に処せられている。

            林子平「海国兵談」の処罰

林子 平は幕臣であるが兄が仙台藩士だったため、仙台に移り住んだ。工藤平助の影響から、蝦夷地へのロシア接近を知り、江戸、長崎、蝦夷地の国防 の必要性を感じる。「三国通覧図説」で朝鮮、琉球、蝦夷地の状況を記し、1791年、「海国兵談」を記した。
江戸からオランダまでは水で続いている。長崎よりも房総、三浦の防衛が大 切と説く。自費出版38部。定信はこの本を見て防衛のための現地視察を命じたが、林については世間を不安にさせるとして版木を没収し、蟄居を命じた。

※社会の一時的安定 but緊縮財政で景気後退、保守性への不満

Q5 「世の中にかほどうるさきものはなし、ぶんぶぶんぶと夜も寝られ ず」の狂歌は何を批判しているのか。

A5 文武の奨励をやかましく言ったため、蚊にかけて批判したのである。

・寛政の改革を批判した狂歌は多い。「白河の清き流れに魚住まず、濁れる田沼いまは恋しき」は、清廉すぎる 白河藩主の定信を批判し、自由だった田沼時代を懐かしむものである。
・「政治は初めは歓迎されても、やがては飽きられるもの」と言って定信は引退した。自叙伝の「宇下人言」を著している。

Q6 「宇下人言」は何を意味する言葉か?

A6 定信の文字をばらしたものである。

[諸藩の改革]
 上杉治憲(米沢)、

・寛政期には名君が出て改革をしている。倹約、殖産興業、文武の奨励がこの時期の改革 の特徴。
上杉治憲は米沢藩主。上杉家は関ヶ原の戦いで会津120万 石を米沢30万石に削減され、その後、藩主が死んだことで15万石にされていた。お手伝い普請などで財政は傾き、天明の大飢饉では3万人の餓死者を出す。 藩主は政治ができないとして版籍奉還を願い出る始末。
・隠居した父に代わり、17歳の治憲が藩主となる。倹約を実施し、一汁一菜、木綿に限る。奥女中は50人から9人にする。藩主の年間生活費1500両を 209両に削減した。反対する保守派には切腹を命じる。
・殖産興業政策をとり、富農から借金をして桑を植えさせ、蚕を飼わせる。米沢織りが国産として奨励された。
・興譲館に折衷学派の巨頭・細井平洲を招き、文武を奨励した。

 佐竹義和(秋田)、細川重賢(熊本)

・佐竹は勧農と殖産、人材登用。細川は執政39年間で時習館を建て、殖産に努める。

  財政難の克服=専売制 ex)陶器(佐賀)

財政 再建の切り札とされたのが専売の導入であった。特産品を藩が専売とすれば利益は甚大となる。しかし、買いたたかれる農民は反発するので難し い。

  藩学の設置 ex)時習館(熊本)、造士館(薩摩)

儒学 の奨励のため、藩学を設置するところは増えた。熊本の時習館、薩摩の造士館などが知られる。

目次に戻る   トッ プページに戻る

Copyright(C)2006 Makoto Hattori All Rights Reserved