<田沼時代>

・正徳の治、三大改革はプラスのイメージ。それに対して「田沼時代」というのはプラス かマイナスかがわからない。

Q1 どうして「田沼の改革」と言われないのか?

A1 賄賂政治という烙印を押されていたためである。しかし、近年では評価する見方が多い。

[田沼意次の政治]

・吉宗は62歳で長男の家重に将軍職を譲る。家重は35歳になるまで将軍になれず、酒 に溺れる。吉宗がその後も6年間は後見をする。「小便将軍」。
・発声障害。何を言っているかがわからない。大岡忠光だけがわかったため、側用人として将軍と老中の仲介をする。これにより側用人政治が復活し、その力が老中をしのぐようになる。

  10代家治の側用人として台頭(後、老中)、

9代 家重の後、子供の家治が将軍となる。吉宗に目をかけられてきた人物で、ちやほやされて温室育ちだが賢かった。
・「隣が何をしているか全くわからん」「隣は田安、清水、一橋家。何をやっているかわからないことはないのでは」「予が隣というのは支那、朝鮮、天竺、オ ランダだ」。
・見識のある人物ではあるが、小さい頃から将軍として育てられ、大奥からはあまり出てこなくなっていた。
田沼は紀伊藩の中級藩士の出。吉宗について江戸に来てい た。15歳で家重の小姓に上がる。500石くらいの家だが利口であったため将軍に気に入られ、遠州相良1万石の大名になる。「侍にあるまじき心を持ち、商 人のよう」。
家治が将軍になると5万7千石の大名となり、1767年に側用人。 1772年に老中となった。出世の理由は家治の側室に近づき、大奥に勢力を伸ばしたからだという。ハンサムな人物だったことも幸い。頭が低 く、話をそらさない。今までの老中などは鼻にもかけない大名の江戸留守番役にも親しく声をかけた。身分の低い者が権力に近づくためにはこういう方法しかな い。
・松浦静山「甲子夜話」には意次を慕う人の多さが記される。意次のところに挨拶に行くと、30畳敷きの部屋に先客がいっぱい。次の部屋には客の刀が置いて あり、海の波のようだった。

     子・意知も若年寄
   →重商主義政策への転換図る

・子供の田沼意知も若年寄に出世する。
農業中心では幕府財政は好転しない。重商主義へのシフト。

A 株 仲間の奨励
   販売・製造特権を与え運上、冥加徴収

・十組、二十四組問屋にそれぞれ年100両ずつの冥加金を上納させる。質屋も2000 軒に限定して銀2匁5分を上納させる。酒、醤油、酢などの製造にも冥加金を課す。
運上は営業税で、一定の税率で納める。冥加は営業許可に対する手数料、献 金。

B 幕 府専売制(直営の座の設置)
   ex)銅、鉄、真鍮、人参

・幕府自ら商売をするのもよい。銅、鉄、真鍮、朝鮮人参、竜脳、明礬、硫黄など、可能 なものを幕府専売にしてゆく。

C 町 人請負新田の奨励
   ex)印旛沼・手賀沼の干拓(中断)

印旛 沼は利根川の三日月湖。周囲76キロもあるが水深は2メートル。12キロの長さの堀割を作って沼の水を海に落として新田にする計画。耕地の 拡大と水運、利根川洪水防止の一石三鳥をねらった。江戸・大坂の商人に金を 出させ、1782年に工事開始。1786年に工事は完成する。しかし、6月に大水が発生し、利根川が決壊して全ておじゃん
手賀沼は順調に200町歩が干拓された。しかし、干拓のた めに排水不良となり、水をかぶることになった農地の百姓が堤を破壊。干拓地は水没してしまう。
・天保の改革でも実施されるが、水野忠邦失脚で工事70%で中止している。

Q2 幕府が完全に独占している商売は何か?

A2 長崎貿易である。しかし、金銀を輸出するやり方だと国内貨幣量が足りなくなって財政難につながる。

D 貿易振興
   長 崎貿易=銅、俵物(海産物)の輸出、金銀輸入

銅を 輸出して金銀を輸入する方針。銅山の開発に力を注ぐ。中国に棹銅として輸出。
・銅が不足してくると、代わりに俵物の輸出を伸ばす。ナマコ を干したイリコ、フカヒレなど。

Q3 そんなものを買って中国はどうするのか?

A3 中華料理の原料である。

蝦夷 地は俵物の宝庫。中国に輸出して2万5千両も稼ぐ。

    →貨幣大量発行(南鐐二朱銀=計数貨幣、金銀貨の統一)

・スペインが南米のポトシ銀山を開発。大量の銀がヨーロッパにあふれていわゆる価格革 命が起きる。金の価値が高まり、銀の価値が暴落する現象。金:銀=1:15となった。これは幕末に問題となる。
・オランダ船が安い銀を持ってくるため、田沼はこの銀で銀貨を新鋳し た。
南鐐二朱銀は8枚で小判1両。これで金貨と銀貨の交換ができる。

   ロ シアとの貿易計画=蝦夷地開発による(中断)
    cf)ロシアの極東開発(18C)、「赤蝦夷風説考」工藤平助

工藤 平助は紀伊の出身だが、仙台藩医の家に養子で入った。松前藩の関係者が修業に来る。ここで東蝦夷地にロシア人が来ていることを知る。これを もとに「赤蝦夷風説考」を書く。
・ロシア人は極東に領土を拡大し、日本人漂流者から日本語を学んだりしている。これと貿易をし、その利益で蝦夷地の開発をすれば大きな利益が得られるとし た。
蝦夷地の開発は俵物増産のために必要だった。

※経済活動活発化、幕府 財政強化
  but貨幣経済の急速な農村への流入→本百姓層解体

貧農 の出稼ぎ。小作人への転落相次ぐ。5〜10石の中堅の百姓が没落していっている。
・博徒、無宿者があふれるようになる。

    cf)浅間山噴火→

1783 年、浅間山が大噴火した。この噴火が鬼押出の溶岩原を作る。6月末から火山性の地震が相次ぎ、7月5日夜から小石が降るようになる。6日は 灰を吹き上げて7日は昼でも夜のような状況。8日には火砕流が発生。
・北麓の鎌原村が壊滅する。村外れの観音堂に逃げた人は助かる。石段は50段ほどあったものが、現在は数段しか残らず、あとは埋没してしまう。戦後に発掘 調査をしたところ、石段下で火砕流に呑み込まれて死んだ2体の死体が出る。年輩の女性と若い女性。嫁と姑かとも言われる。
・火砕流は利根川上流をせき止め、これが崩れて大洪水。利根川筋で2万人が死に、江戸にまで首や手足のない死体が流れてくる。
・成層圏に漂う火山灰のため、夏でも気温が上がらなくなる。

      天明の大飢饉の発生(1780年代)
       被害拡大=関東・東北中心に餓死者、向都離村、

・夏は冷夏でヤマセが吹く。東北は皆無作。津軽藩の餓死者8万人。南部藩は6万人。仙 台藩では作柄は9割減で、40万人が餓死。
・菅江真澄が1785年に津軽に入り、体験談を記録している。白骨が累々。牛馬、ニワトリ、犬の順に食べ、なくなると肉親で死にかかったものを食べた。人 肉を食べたものは目が狼のように光ったという。
・杉田玄白の「後見草」には南部、津軽の状況が記される。日に1000人、2000人が流民となるが、途中で餓死する。子供の首を斬って焚き火で炙って食 べ、頭を割って脳味噌に草木の葉を混ぜて炊いて食べたという。全国で140 万人の人口が減ったとされる。多くの者が都市に逃れた。

        一揆、打ちこわし

・食糧不足の中で、年貢減免を求める一揆や都市での米屋への打ちこわしが頻発する。貧富差が拡大して生活難になっていた人たちは、天災が起きるのは田沼の政治が悪いから だとする。

[田沼政治への反発]
  幕府門閥層の巻き返し(松平定信)

・田沼は成り上がり者である。譜代を押しのけて、家治との個人的つながりで政権を持っ ていたもの。今まで幕府の政治を動かしてきた譜代層は不満だらけだっ た。その急先鋒が松平定信
定信は田安家の出身で吉宗の孫。吉宗は、将軍家に跡継ぎが なかった時に備え、御三家に代わって御三卿を作っていた。子供を立てた田安、一橋家と、孫を立てた清水家。定信は田安家なので将 軍になれる家柄だった。
・田沼としてはこれが幕府の政治に介入してくるとまずい。そのため、松平家に養子に出るように仕向けたという。定信は将軍になる芽を摘まれ、意次暗殺を決 意し、懐に刀をしのばせていたという。

  賄 賂政治との批判

・田沼は賄賂を贈ったりして上司に取り入って出世しただけあり、自分のところに賄賂が くるのは当然と考えていた。
・仕事をして帰ってくると、山のような贈り物を見るのが楽しみ。「贈り物をやって仕事に就こうというのは、それだけ仕事熱心な証拠」と言ったという。
・キスとユズの贈り物が届き、開けると高価な後藤某の小刀が添えられていたり、「京人形一箱」の中から本物の京美人が登場したりした。

   意知暗殺、意次失脚

若年 寄の意知が暗殺される。犯人は佐野政言であり、江戸城内で殺されたもの。「覚えがあろう」と肩先を切り、股を刺した。出血多量で2日後に死 ぬ。佐野は切腹となる。原因は賄賂を贈ったのに出世できなかったため。
・事件後、米価が一時的に下がり、政言は「世直し大明神」とされる。墓には参詣人が押し掛ける。
・田沼に対しての風当たりも強くなり、将軍にも意次を解任するように訴えが相次ぐ。家治が病気の際、意次が出入りの医者を紹介したところ、薬を飲んで苦し む。「毒ではないか」として、家治は意次の老中職をクビにし、閉門として所領を没収した。
1786年8月、田沼は失脚して江戸市民は大喜びする。松 平定信は政権に就こうとしたが田沼の息のかかった者たちが入閣を拒否。
・1787年5月、江戸では大打ちこわしがあり、米屋980軒が打ちこわされ、その他の商家8000軒も被害を受ける。3日間に渡って無政府状態。田沼派 への批判であった。打ちこわし後、田沼派は影をひそめ、定信の入閣が実現する。

    but柔軟な幕政改革の芽が摘まれ、重農主義へ

田沼 は重商主義者。この時代には本多利明のような重商主義者が出現している。貿易を伸ばして金銀を蓄積する。資本を蓄えたらマニュファクチュアなどを盛んにし、育 成してゆく。この延長線上に絶対主義という政治体制が待っていたはず。
絶対主義は17〜19世紀のヨーロッパに出現している。封建領主の支配力が弱くなり、商人資本の力が強くなる中で、両者の利害を調整する国王 が登場し、官僚制と常備軍とで全国支配をしてゆくもの。
・封建社会の矛盾が吹き出してくる中、絶対主義の方向をとることが歴史を発展させることにつながる。幕末に長州藩は商業資本と結び、軍事力を強化する中で 政治的なイニシァチブをとり、幕府を倒して明治維新政府を作っている。田沼時代は、幕府政治がその方向をとる可能性を示したものと評価することもできる。
・オランダ商館長のチチングは田沼をもっとも開明的な政治家と評する。しかし、あまりにも急速に推し進めたため、矛盾が吹き出したと言える。

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