<享保の改革>
[徳川吉宗の政治改革]

・吉宗は幕府政治中興の祖とされる。紀伊藩の4男の生まれなので、本来は藩主にもなれ なかったはずの者。父が風呂番の大女・ゆりに生ませたもので180センチ以上の大男だったという。19歳の時、お抱えの相撲取りと組んで負けなかった。
・部屋住みだったが、綱吉の目にとまって越前丹生藩3万石藩主となる。木綿しか着ない質素な生活。
・3人の兄が次々に死んだため、紀州55万石の藩主となる。ここでも質素倹約を進め、お供の者80人に暇を出す。
・女性観は丈夫な子を産める者がよいとする武骨なもの。鷹狩りに行って見つけた、俵2つを両手に下げていった農家の娘を妻にする。

  紀伊藩主から8代将軍就任

6代 将軍家宣のあと、家継が4歳で将軍に就任したが、7歳で死ぬ。

Q1 江戸の将軍家が絶えた時はどうするのか。

A1 徳川御三家から迎えるのである。御三家筆頭は尾張藩。

・家宣は家継の後見として尾張藩主の吉通に期待し、遺志を残していた。
・家宣時代には新井白石、間部詮房など譜代以外の人材が用いられていた。家宣の遺志を継いで尾張から将軍を迎えれば間部がそのまま政権に残ることになる。 これに対しての譜代の巻き返しが起こり、紀伊藩主吉宗を推した。
・吉通は死んで弟が尾張藩主となったため尾張藩は出遅れ、吉宗将軍が誕生し た。
・尾張と紀伊との確執が起きる。吉宗は倹約令を出し、名古屋でも芝居や遊郭が禁じられた。後に尾張藩主となった宗春は倹約をやめさせ、祭りも盛大にやらせ る。倹約に沈む日本の中で、名古屋だけが賑わい、芝居興行も相次ぐ。享保・元文期の賑わいは「享元絵巻」に描かれている。
・尾張藩が財政逼迫して町人に上納金を命じたところ、吉宗は宗春を詰問して隠居させる。

  →新井白石、間部詮房を退け、家康の政治理想

・曾祖父の家康を尊敬。「権現様成し置かれ候通り」と言って家康の政治を理想とした。
・白石、間部らを解任。家宣以来の政治の公家化を改める

A 財 政の再建

・財政再建を最重要課題とする。勘定奉行を訴訟を扱う公事方と財政を扱う勝手方に分 け、勝手方を重視。勝手掛老中を専任とする。その配下の代官には人材を抜てき。

 1 倹 約令

・倹約の徹底。木綿しか着ない。玄米食。
・家来が来たとき、贅沢な着物を着ていると返事もしないで着物を見つめる。家来はいたたまれずに退出する。
・大奥3000人に暇を出す。その場合は再就職がしやすいように美人からクビにしたという。
・武芸の奨励。自ら鷹狩りに何度も出てゆく。

 2 上 げ米の制
    大名に対し、1万石あたり100石の米上納命じる
    (代償:参勤交代在府期間半減)

・大名に対し、1万石について100石の米上納を命じた。代わりに江戸在府期間の半減。 大名は江戸生活は全て貨幣でまかなわなければならないため、負担軽減となって抵抗なし。「御恥辱をも顧みず」。
・年18万7000石の収入。幕府財政の10%をまかなう。1722〜31年の9年間実施。

 3 農村からの収入拡大
    新田開発 ex)武蔵野新田(町人請負新田)

・天領未開墾地を開く。町人の財力を利用した町人請負新田であり、その例が武蔵野新田。天領は400万石から450 万石に増える。

    商品作物栽培奨励

・年貢増徴に耐えられるよう、商品作物を作らせて現金収入を得させる
・勝手作の禁があるが、これは本田畑についての制限。本田畑は元禄以前の検地で村高に入ったもので、享保までの新田は古新田、それ以後は新田になる。古新 田や新田では商品作物はOKである。

    生産増強のための実学奨励
     cf)漢訳洋書輸入解禁
Q2 漢訳洋書はどうして輸入が禁じられていたのか。

A2 キリスト教のことが書かれている可能性がある。

漢訳 洋書を実学奨励の立場から、キリスト教関連以外は輸入を認めた。これで蘭学というオランダ語の本を通じてヨーロッパの学問が学ばれるように なる。

     ex)青木昆陽(甘藷栽培)

青木 昆陽は伊藤東涯門下。大岡忠相に認められて幕府の書物方になり、吉宗の命で野呂元丈とともに蘭学を学ぶ。救荒作物として甘藷の栽培を拡大した。
・甘藷は17世紀初めに琉球に伝来。琉球では唐イモと言う。これが鹿児島に入って琉球イモとなり、九州に拡大。薩摩イモと称される。青木は「蕃藷考」で救 荒食物としての重要性を訴え、栽培法を宣伝。関東でも栽培されるようになる。
・甘藷は朝鮮にも入り、飢饉を救ったことがある。

    →年貢増徴(五公五民、定免法)

五公 五民に吊り上げる。検見法を定免法に変更。
・実際には五公五民は建前であり、そこまでとることはできなかった。それでも、前の時代よりは多くとっているのは確か。

Q3 定免のメリットは何か?

A3 検見役人の不正防止と労働意欲の向上である。

検見 だとたくさん収穫してもたくさん取られてしまうので働く意欲がなくなる。定免ではたくさん取れば農民の手元に余剰が残るので、労働意欲が高まる。

B 行政・司法の改革
 1 足 高の制

・政治改革には人材が必要。幕府の体制の元では、知行高に応じて役職が振られる。身分 の低い者を人材登用するためには知行高を増やす必要。知行は世襲だったの で、財政事情が悪い時は低い身分の者を登用できない。

    旗本就任役職の標準知行高制定→在職中だけ不足分支給

・標準知行高3000石ならば大目付、町奉行、勘定奉行など。標準知行高以下の者を登用する時は就任中だけ知行高をあげてやり、退任したら元に戻し た。今でいえば役職手当のようなものであり、我々にとっては当然である。しかし、江戸時代の常識からは外れていた。

     ∴下級からの人材登用可 cf)大岡忠相

大岡 忠相は中級旗本から抜擢された。山田奉行などを経て41歳で南町奉行となる。
・大岡政談は講談で有名。迷子探し(二人の親が名乗り出る。手を引っ張らせて持っていた方の子供とする。手を引かせて子供が痛がり、離した方の子供とし た。親なれば子が泣くのを不憫に思う)、三方一両損(3両入ったサイフを拾って届ける。落とし主はいらないといい、拾い主もいらないといって喧嘩となる。 忠相は没収。1両加えて2人に褒美として授ける)。

 2 公事方御定書編集
    公正迅速な裁判のための法令集

・20年かけて庶民を対象とする法令をまとめさせる。公事方御定書といった。上巻は警察や評定所の事務、下巻は刑事、民事の 手続きと犯罪の刑罰規定。評議の資料とした。
・この頃から、刑罰は見せしめ主義から教化主義に変わる。
・死罪は斬首、獄門、磔、鋸挽き、火刑があった。
・普通は斬首。顔に紙で目隠しをし、後ろ手に縛り、2人の非人が肩をつかんで首を前に出させる。土壇場。血を溜める穴が掘られている。首を刎ねる者は「ま だあるぞ」と声をかけ、ほっとして首の緊張が緩んだところを刎ねる。この際、首の皮一枚を残して切ると、首が血まみれにならない。人切り朝。刀の試し切り を依頼されて首を斬る。
・獄門は付加刑で、首を鈴が森、小塚原でさらす。
・鋸挽きは穴に埋めて首を出し、鋸を置いて通る人に挽かせたものであるが、実際には付加刑で、後に斬首した。実際に挽く者が出たので取りやめ。
・火刑は放火犯に対して実施。顔だけ出して薪を積み、火を付けるもの。八百屋お七が有名。1682年の火事で檀那寺に逃げる。寺の小坊主と仲良くなり、再 開するために翌年に放火した。14歳以下であれば無罪となるため、奉行は14歳だなと念を押すが、お七は丙午生まれの15歳と言って火刑となる。以後、丙 午生まれは災いをもたらすという迷信ができ、縁遠くなる。明治以降も、丙午生まれは出生率が下がっていた。最近では昭和41年生まれ。クラス数も10では なく9だった。
・遠島は博打などに適用。伊豆七島に流される。以下は追放、払い、叩き。叩きは背中をムチで叩くもので50と100。
・さらし、引き回し、入れ墨は付加刑。

    cf)寛保御触書集成(現行法集大成)

・今まで出た一般向けのお触れを集大成させ、寛保御触書集成として出した。


 3 相対済令
    借金関係訴訟の整理(当事者解決)

・1718年の訴訟3万5千件のうち90%が借金関係。1719年、借金訴訟を受理しないことで訴訟事務を減らすことにした。結果として借金に困る旗本、 御家人を救うことになる。

     but旗本、御家人の借金踏み倒し生じる

・借金踏み倒しが続出して1729年に廃止。

C 民 政の重視
 1 米価調節
Q4 武士に取って米の値段は高い方がよいのか、安い方がよいのか。

A4 米を換金して生活するのだから高い方がよい。

    下落=武士の収入減、上昇=都市民の打ちこわし

・米の生産量が上がれば「米価安、諸色高」になって幕府財政は厳しくなる。米価つり上 げのため、大名に江戸、大坂への廻米を制限させたり、商人に米の買い占めをさせて値を吊り上げようとした。しかし、高くなりすぎれば都市民が生活苦にな る。

    ∴株仲間を公認し、安定図る
      cf)堂島米市場、米将軍

・幕府は、従来は楽座の方針を継承していたため、株仲間については認めない方向。認め れば価格が吊り上げられる恐れ。しかし、米については価格を維持したい方 向で動いた。
堂島米市場で株を初めて認める。蜆川と堂島川の中州。全国 の米が集まるところであり、米相場が立つ。仲買株は1300ほどで、これに加わらないと米の取引ができない。株仲間を通じて米の廉売などを防ぐ。カルテルを認めて価格の維持をさせ ることと考えればよい。

 2 目 安箱設置=直訴認める

・1721年、竜ノ口評定所前に目安箱を設置。月に3度、投書をさせる。記名で投書。将軍自らが読む。 これによって小石川養生所、江戸市中防火方針を出す。

     cf)小石川養生所

・町医者は値段が高かった。庶民のために小石川養生所を1722年設置。小石川薬園内に設置して診 療。医師20人。40人収容、後に170人規模になる。

       町火消の設置

・江戸は火事の多い町だった。公式な消防組織は幕府直轄の定火消と大藩が組織した大名火消。それぞれ 100人程度の組織であり、延焼を防ぐために家屋を壊すことに主眼。纏で壊す位置を指示。鳶口などで破壊。龍吐水は消火よりも破壊に当たる者に水をかけ る。
・庶民の家は消しに行かなかったため、左官、鳶を組織して自治消防である町 火消を作らせた。一つの町に30人とし、これを合わせて「いろは四十八組」に編制。「い組」は500人ほど。江戸全体では1万人が加わって いた。

[享保の改革の限界]
  幕府財政難の一時的緩和

・松平慶永は誉めちぎる。質素で飾らず、先頭に立つ姿勢。「暴れん坊将軍」のドラマ。 一方では女性にだらしがなく、人妻に言い寄ったりしている。
・この改革によって近世最高の年貢収入を記録。140万石→156万石。
幕府財政はよくなった。1725年、歳入は米53万石、金 84万両。歳出は米55万石、金96万両。結果として赤字である。それが1735年、歳入は米77万石、金97万両。歳出は米59万石、金94万両。黒字 に転じている。最終的には100万両の貯金もできた。

   but農民の貧富差拡大
    (商品作物栽培、定免=競争原理の導入)

Q5 商品作物栽培の奨励や定免は農民にどのような変化をもたらすのか?

A5 農民の中に競争原理をもたらし、貨幣経済を流入させて貧富の差を開かせる結果となった。

商品 作物は価格変動が大きいし、金肥を投入しないとできない。賭けのようなところがある。成功者と失敗者を生じさせる。
定免は収量の多かった者には余剰を残し、失敗者は借金をしてでも年貢を払 わなければならない。
・農民に対する政治観も変わっている。神尾春央勘定奉行「胡麻の油と百姓は 絞れば絞るほど出る」
改革には痛みが伴い、弱者にしわ寄せがいったのである。財 政改革はできても、本百姓解体という封建社会の根本を揺るがす問題には対処できていない。

     cf)享保飢饉で打ちこわし激化(1733)

・1732年には享保の大飢饉が来て米価は4倍となる。江戸では米の買い占めをしたと して幕府御用の米屋が打ちこわされる。
・1733年からは豊作になり、米価はまた下がる。

※武士 (貨幣経済)の農民(自給経済)からの収奪=限界(cf)米価安諸色高)
Q6 享保の改革の最大の矛盾は何か?

A6 年貢増徴のために米を増産させた。しかし、米の収量が増えれば、当然だぶつくことになって米価は下がり、武士の財政事情は悪くなる。

都市生活者であり貨幣経済に浸かっている武士が、米という現物経済に立脚 しているのが矛盾。

Q7 農業に立脚しないで政治改革をするには何に着目すべきなのか?

A7 商業である。

・田沼意次の政治はこういう中で出てくることになる。


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