14 幕藩体制の動揺と政治改革<幕藩体制の動揺>

 独立した小農民である本百姓を基盤とする幕藩体制は、18世紀の頃から変容してゆく。その最大の理由は農村への貨幣経済の流入である。金肥を使用した商 品作物の栽培が始まり、それに成功した者と失敗した者とで格差が生じたところに、頻繁に凶作、飢饉が発生する。その結果、貧農は土地を手放し、富農の土地 兼併が進んだ。こうして、均質な本百姓は地主と小作とに分解してゆくのである。近世でもっとも被害の大きかった三大飢饉は(1~3)であるが、生産力の低 い東北地方での被害が大きく、新生児を殺害する(4)がおこなわれた。このため、近世の人口は3000万人を上限に停滞してゆくことになる。
 土地を兼併した農民は、当初は自らがその土地を耕作する(5)と呼ばれる形態で経営をしていたが、やがては零細農民に土地を貸し出して高額小作料を徴収 して生活するようになる。このタイプの地主が(6)である。彼らの中には、集積した資本を使って酒造や肥料商などを営む者も現れ、都市の問屋商人に対して (7)と呼ばれた。農業生産に欠かせない肥料は、前借金で貧農に供給されたため、返済に窮した者が土地を手放す現象が跡を絶たず、農民の分解はいっそう進 行した。一方、都市の問屋商人の中にも、問屋制家内工業を営み、前借金によって貧農層を労働力として使役する者が現れている。
 疲弊した農民は、しばしば一揆を起こしている。初期の頃は、大名や代官の圧政に対し、村人の声を代表して村役人が訴えて出る(8)と呼ばれる形態が多 かった。願いを聞き入れる代わりに訴えた者は死罪となり、村人からは義民として祀られることになった。下総佐倉藩領の百姓一揆を指導した(9)などが有名 である。享保の頃からは、村役人の指導で一般農民が年貢減免を求め、一斉に武装蜂起する(10)が増加した。飛騨で起きた大原騒動などが知られている。し かし、それまで一般農民を指導してきた村役人層は、江戸時代中期からの農村への貨幣経済の流入によって富裕化し、(6)や(7)に転じていった。彼らは零 細農民からの収奪をおこなうようになり、一揆の攻撃対象とされるのである。小作地の返還や商業高利貸資本の排除を求めた(11)と呼ばれる一揆が起こされ ることになる。また、一般農民が年貢割り付けなどに対する村役人層の不正をただし、役人の選挙制導入などを求めた(12)も頻発するようになった。近世に おける一揆の発生件数は(13)件に上るとされ、幕藩体制を動揺させることになった。また、都市部では、米価の高騰などを受けて米屋や酒屋を襲撃する (14)が発生している。
 一方、文治政治への転換の中で、幕府や藩財政の窮乏も進行していた。各藩では家臣の俸禄を借上げる措置をとり、これを(15)などと称している。生活に 窮した家臣は借金や内職を余儀なくされ、中には士分の売却をおこなう者も現れてきた。大名が富裕な商人から借金をすることを大名貸と称したが、返済できず に御用商人に財政を委ねる台所預かりとなる場合も出てきた。身分制の頂点に立つ武士が経済力で商人に屈し、その身分を失うことは、封建制度が根本から崩壊 してきていることを意味し、抜本的な政治改革が必要となったのである。

<解答>

(1~3)享保の大飢饉、天明の大飢饉、天保の大飢饉 (4)間引き (5)地主手作 (6)寄生地主 (7)在郷商人 (8)代表越訴一揆 (9)佐倉 宗吾(惣五郎) (10)惣百姓一揆 (11)世直し一揆 (12)村方騒動 (13)3000 (14)打ちこわし (15)半知、借上


<享保の改革>

 7代将軍徳川家継の死去で、(1)藩主であった徳川吉宗が8代将軍に就任し、享保の改革に着手した。吉宗はそれまでの文治政治を担ってきた(2)や (3)を退け、家康の政治を理想とする将軍親政の方針をとり、財政の再建を図った。倹約令に次ぎ、吉宗は(4)の制を定め、大名から石高1万石あたり (5)石の米の上納を命じ、見返りとして(6)の在府期間を半減する措置をとった。また、農村からの収入拡大のため、武蔵野新田など富裕な町人に出資させ る(7)の開設を進め、菜種、木綿、タバコなど(8)の栽培を盛んにした。生産増強のため、儒学の陰になっていた実学を奨励し、禁じられていた(9)の輸 入もキリスト教に関するもの以外は認められた。こうして蘭学を学ぶことが可能となり、救荒作物として(10)の栽培を根付かせた(11)などの学者が登場 することになった。この結果、吉宗は年貢の増徴を企て、従来の四公六民を(12)としたことに加え、役人買収の温床であった検見を改めて(13)へと徴税 方法を転換した。こうして、享保年間には江戸時代で最高の年貢高を確保する。
 幕府の政治システムでは禄に応じて役に任じられるのが普通で、下級の者を抜擢する場合は家禄を上げる必要があり、財政難の折には大胆な人事が難しかっ た。このため、吉宗は(14)の制を導入し、旗本就任役職の標準知行高を定め、これに満たない者は在任中だけ禄を上乗せすることにした。これは封建社会に あって画期的な制度である。享保の改革の時期、微禄にもかかわらず大抜擢された例として、町奉行を勤めた(15)がいる。また、吉宗は公正迅速な裁判のた め、司法警察関係の重要法令、判例や取決めをまとめた基本法典を作成させた。これが(16)である。また、それまで出されていた一般向けの法令を集大成さ せ、(17)を作らせている。さらに、増大する借金関係訴訟については幕府は受理せず、当事者解決とする(18)を出した。もっとも、これは旗本や御家人 の借金の踏み倒しを助長し、翌年には改められている。
 吉宗は民政を重視したことでも知られる。その代表が米相場への介入である。米価は高騰すれば都市民の生活を圧迫し、下落すれば武士の収入を減らすことに なる。このため、大坂の(19)米市場を公認し、売買する者に(20)の結成を認めて価格統制を図っている。また、評定所前に(21)を設置して一般から の直訴を認め、それに基づいて貧民の救護施設として(22)を設けた。さらに江戸町人の自治消防組織として(23)を発足させ、江戸市中の防火方針を出し ている。
 享保の改革により、幕府の財政難は一時的に克服され、吉宗は幕府中興の英主とされる。しかし、吉宗の改革は農村に競争原理を持ち込むことで成功を収めた ものである。(8)は大量の施肥を必要とし、大資本を持つ者に有利で、相場も上下したことから投機性が高かった。定率の税を取る(13)は、金肥を投入す る余裕があって収穫を伸ばした者には有利であるが、それが難しい者にはかえって負担が重くなった。このため、農村の階層分解が進行したのである。米価調整 に力を入れたにも関わらず、虫害による(24)で米価が高騰し、江戸で初めて打ちこわしが起きている。貨幣経済に依存している武士が自給経済の農村から収 奪することには限界があったと言える。

<解答>
(1)紀伊 (2)新井白石 (3)間部詮房 (4)上げ米 (5)100 (6)参勤交代 (7)町人請負新田 (8)商品作物 (9) 漢訳洋書 (10)甘藷 (11)青木昆陽 (12)五公五民 (13)定免 (14)足高 (15)大岡忠相 (16)公事方御定書 (17)寛保御触 書集成 (18)相対済令 (19)堂島 (20)株仲間 (21)目安箱 (22)小石川養生所 (23)町火消 (24)享保の大飢饉


<田沼時代>

 9代将軍となった徳川家重は、言語不明瞭であって大岡忠光を側用人として必要とした。こうして側用人政治が復活することになる。10代将軍となった (1)は親政をおこなわず、紀伊徳川家の足軽の出であった(2)を側用人として重用した。(2)は老中となり、その子の(3)も若年寄となって幕政の主導 権を父子で握り、一時代を築くことになった。
 農村からの収奪に限界を感じていた(2)は、成長する商業資本に目をつけ、重商主義に基づく政治を推し進めた。吉宗が初めて認めた(4)を積極的に結成 させ、製造・販売の特権を与えて(5,6)を徴収したことをはじめ、幕府専売制を拡充して(7~10)などの座を組織した。また、町人請負新田を奨励し、 利根川の三日月湖である(11,12)の干拓を推し進めさせた。もっとも、工事は完成半ばで出水によって失敗に終わっている。
 幕府が独占していた長崎貿易についても、従来の抑制策から転じて積極策をとった。今までは中国産生糸を購入して金銀を支払うのが日本の貿易であったが、 金銀の枯渇で新たに採掘が拡大した(13)の他、海産物の(14)を中国向けに輸出し、代金として日本で不足した金銀を受け取ることとした。また、 (14)の産地として重要視されていた(15)については、ロシアとの貿易をにらんで開発を進める計画も立てられた。ロシアは、18世紀には極東の開発を 進め、千島列島にその姿を現していたが、仙台藩の(16)がその状況を「(17)」に記したところから、(2)が興味を示したものといわれる。
 商品経済の発展のためには大量の貨幣の供給が必要である。金貨と銀貨は別の通貨として流通していたが、その統一も問題となっていたため、(2)は金の貨 幣単位を持った銀貨として(18)を発行した。
 重商主義政策への転換は経済活動を活性化させ、幕府の財政を強化することになった。しかし、農村は急速な貨幣経済の流入にさらされ、本百姓層の解体が急 ピッチで進むことになった。折しも起きた(19)の噴火により、1780年代は東北を中心に冷害に見舞われ、(20)が発生して貧農層を中心に多くの餓死 者が出た。農村は荒廃して向都離村が相次ぎ、一揆や打ちこわしも激発した。この中で、(2)の政治に対する批判が高まってゆく。
 (2)は身分の低いところから出世を果たしたため、幕府門閥につながる者たちには不満があった。その中心は徳川吉宗の孫でありながら、白河藩に養子に出 された(21)である。(2)は賄賂によって出世したと非難され、(3)が暗殺されて(1)が病気となったことで(2)も失脚してゆく。
 江戸時代後期は、勃興する商業資本に対し、経済力を失った大名勢力が衰退してゆく時期である。貿易を盛んにして資本の蓄積を図り、(4)を通じて商業資 本の統制を目指した(2)の政治に、商業資本と封建領主の利害を調整しつつ権力を握る絶対主義の方向性を見いだす説がある。しかし、封建制に根ざす武士や 農民にとり、その政治は急進的に過ぎたも言える。

<解答>
(1)徳川家治 (2)田沼意次 (3)田沼意知 (4)株仲間 (5,6)冥加、運上 (7~10)銅、鉄、真鍮、人参 (11,12) 手賀沼、印旛沼 (13)銅 (14)俵物 (15)蝦夷地 (16)工藤平助 (17)赤蝦夷風説考 (18)南鐐二朱銀 (19)浅間山 (20)天 明の大飢饉 (21)松平定信


<寛政の改革>

 11代将軍に就任した(1)の老中として、田沼政治を否定し、享保の改革を範とする政治改革に着手したのが(2)である。彼は徳川吉宗の孫であり、東北 の(3)藩主となっていた。天明の大飢饉で多くの藩で餓死者が出る中、(2)は廻米をおこなって領民を救い、名君とされていた。
 幕府にとって急務の政治課題は天明の大飢饉に対する手当であった。飢饉の時に大量に都市に流入した農民に旅費を支給し、帰村を奨励するために出されたの が(4)である。また、凶作に備えて米を貯蔵する(5)を大名に命じ、農村においても住民の分に応じて貯穀させる(6)、富裕者の義捐で貯穀させる(7) を設置した。都市下層民対策としては、町費を節約させて7割を非常時に備えて貯金させる(8)を実施し、飢饉による米価高騰の際には施米をする資金とさせ た。また、飢饉で江戸に流入し、浮浪者化して治安悪化の原因となっていた者たちについては、強制収容して職業指導をおこなうため、江戸湾の人口島に(9) を作っている。
 都市での打ちこわしを防ぐため、(2)は米価の引き下げ政策をがとった。しかし、これに連動して物価が下がらなかったため、給米で生活していた旗本や御 家人の家計は圧迫された。(10)からの借金に頼る者も多く、彼らを救済するために(11)が出されている。これは6年以上前の借金を帳消しにするもの で、打撃を受けることになった(10)には、救済のための資金を貸与している。
 (2)は贅沢な衣服などを禁じる(12)を出し、町人にも適用して田沼時代に緩んだ綱紀を粛正しようとした。また、私娼の取締りなど風俗の統制を進め、 遊里を舞台とした(13)と呼ばれる小説を書いていた(14)を罰している。
 一方、儒学のうち、幕府は大義名分論を柱とする(15)を奨励していたが、古学や折衷学が力を持ってきた状況を踏まえて出されたのが(16)である。こ れは、林家の私塾であった聖堂学問所を官学の(17)として保護し、ここでは(15)以外の講義を禁じたものであった。
 前時代から、蝦夷地へのロシアの接近が問題となっていたが、これに対して海防の必要性を唱えて「(18)」を著わしたのが(19)である。(2)はこれ に基づいて警備のための沿岸視察に着手したが、世間を不安にしたとして(19)を処罰している。
 寛政の改革により、社会の一時的安定がもたらされたのは確かである。しかし、緊縮財政のために景気は後退し、その保守性に対して庶民の不満が募るように なった。保守反動では幕藩体制の動揺に対する抜本的な改革とはなり得ず、(2)は自分の役割は終わったとして、やがて引退してゆく。
 この時代、諸藩でも倹約や殖産興業、文武の奨励を図る名君が輩出している。米沢織を奨励し、藩学興譲館に細井平洲を迎えた米沢藩の(20)や、秋田藩の (21)、藩学(22)を設立した熊本藩の(23)などが挙げられる。財政難克服の切り札として、専売制を導入する藩も増えた。専売品となったものとして は、佐賀藩の(24)などが挙げられるが、農民の抵抗によって専売を継続できない場合もあった。

<解答>
(1)徳川家斉 (2)松平定信 (3)白河 (4)帰農令 (5)囲米 (6)社倉 (7)義倉 (8)七分積金 (9)石川島人足寄場  (10)札差 (11)棄捐令 (12)倹約令 (13)洒落本 (14)山東京伝 (15)朱子学 (16)寛政異学の禁 (17)昌平坂学問所  (18)海国兵談 (19)林子平 (20)上杉治憲 (21)佐竹義和 (22)時習館 (23)細川重賢 (24)陶器


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