<江戸時代の文化(1)>

・江戸時代の文化は前半の元禄文化と後半の化政文化に分かれる。前半は江戸の持つ経済力が 大きくなかったため、文化的にも見劣りする。このため、古くからの文化的素 地のある上方が文化の中心となる。特に豪商たちが文化の担い 手であった。
・文治政治への転換の中、儒教を中心に学問が盛んになったのも特徴の一つ。

【学問史】
A 儒 学
 1 朱子学
Q1 朱子学は幕府が保護するものだった。どうしてか?

A1 大義名分論で君臣の別を強調し、体制維持のために利用できたから。

    (大義名分論=君臣の別を強調、幕藩体制補強)

・宋の時代の朱子の学説を信奉するもの。もとは性理学であり、物事の善し悪しを見極め ることに重点を置くものだったが、その中の大義名分論だけが一人歩きして行く。君臣の別を強調する大義名分論のため、官学として保護されるが自由な発展はできない。
・鎌倉初期に伝えられて五山の僧が研究した。建武の新政の理論的支柱とされる。戦国時代に京都五山の禅僧が応仁の乱を逃れて地方に下る。薩摩、土佐で発達 し、一方、京都でも学派形成。

  a 京 学
     藤原惺窩

・京学の祖。相国寺の僧として朱子学を学ぶ。この頃は禅僧のたしなみとして儒学が学ば れていたが、これを体系化してゆく。林羅山はこの門下。

     林羅山(林家)

・もとは建仁寺の僧。家康に仕えて4代将軍の代まで侍講を務める。外交文書や法度の草案を作 る。

     林信篤、官学として保護

・4代将軍から8代将軍にまで仕える。綱吉の時に大学頭。儒学者は僧侶扱いだったが、これに反対して士籍に入 ることに成功。儒学を仏教から切り放した人物

     木下順庵(木門)侍講輩出

木下 順庵は惺窩の弟子だった松永尺五の門下。初めは前田家に仕えたが、綱吉の侍講に入る。教育者としてすぐれ、新井白石、室鳩巣、雨森芳洲を育 てる。侍講を輩出した派閥。木門十哲。

     新井白石

新井 白石は6代家宣、7第家継に仕える。

     室鳩巣

室鳩 巣は8代吉宗に仕える。白石の推挙で幕府儒官となり、吉宗の侍講。
・この他、対馬藩の儒官になった雨森芳洲が有名。征服王朝の 清に体し、朝鮮は儒教の本場であったため、雨森芳洲は自ら進んで朝鮮外交の窓口である津島に赴いた。中国語、朝鮮語に堪能で朝鮮外交に当たった。朝鮮との 友好関係樹立に心を砕いた人物として知られる。

  b 南 学

・戦国時代の地方朱子学のうち薩南学派は江戸時代には衰退。土佐の南学が命脈を保つ。

     南村梅軒−谷時中−野中兼山

・南学は戦国時代末の南村梅軒が元で土佐に根付き、土佐の谷時中が南学派の基礎を固める。野中兼山は土佐藩家老として政治に参加。

     山崎闇斎(崎門)

山崎 闇斎は土佐で谷時中に南学を学んだ後、京都に出る。保科正之に仕える。54歳で吉川神道の伝授を受け、儒教と神道の習合を唱えるようにな る。
・門人は6000人という。厳しい先生であり、「家に入ると牢に入ったようだ」「毎日叱られて死にそうだ」「目をつぶると顔が浮かんでくる」。

Q2 朱子学の立場であれば、日本のトップは誰になるのか?

A2 天皇である。天皇は神道の司祭者であり、ここで儒教と神道が結びつくことになる。

      垂加神道(朱子学+神道)の提唱→尊王論

垂加 神道では天地を開いた神の道と天皇の徳とは一致すると説く。尊 王・国体尊重論の傾向が強く、水戸学に影響を与えた。竹内式部もこの門下から出た。垂加神道の学んだ者たちは明治維新にも大きな役割を果た した。
・実際には、神道を無理矢理儒学と結びつけようとするためにこじつけが多い。

        cf)貝原益軒(儒学の普及)

貝原 益軒は医者であり、朱子学、陽明学を学ぶ。儒学の普及に手がけ、著書が多い。247巻。子供が守るべき道徳として「和俗童子訓」著す。
・「女大学」も貝原の著とされるが、後世の偽作という異論もある。

 2 陽明学(知行合一、実践重視)

陽明 学は明代の王陽明が展開。中国では朱子学と並ぶ二大潮流。日本では、官学ではないため異端扱いされた。
知行合一の革命思想。理と心の一致を説く。主客の対立を認 めないので主観的。朱子学が名分ははじめから備わっているものとするのに対し、陽明学では行為によって備わるとする。
・つまり、朱子学では、主君は生まれながらにして主君であり、家臣は生まれ ながらにして家臣であるが、陽明学では、君臣の別は主君が主君らしくし、家臣が家臣らしくすることで生じる。主君らしい主君でなければ、主 君として成り立たない。馬鹿な主君は主君ではないのである。これは体制を維持するのとは逆で、革命を招く恐れがある。

    中江藤樹(藤樹書院)

中江 藤樹は近江の人。初めは朱子学を学ぶが、37歳で「陽明全集」に接して転向。

    熊沢蕃山「大学或問」(池田光政侍講)

熊沢 蕃山は池田光政に仕えるが、病気のために辞職。近江の祖父の実家に行った際に中江藤樹に会って陽明学を学ぶ。ふたたび池田光政の侍講とな る。参勤交代などの政治批判をしたカドで下総古河に流される。主著の「大学 或問」は君主の天職に始まり、財政、農政の面から政治のあり方を論じる。長らく出版されず、書かれて100年後の1788年に出るが発禁処 分。

 3 古 学(孔孟の原典重視)

・朱子学や陽明学は孔子や孟子の言ったことを勝手に解釈しているもの。孔子・孟子の原典に戻るべきと主張。孔子孟子の教えを実践する実学的な 主張である点は陽明学と似ている。観念論ではなく、儒学として現実の政治課題にどう対処するかを論じた。

    山鹿素行「聖教要録」

山鹿 素行は兵学者としてスタートし、神道、歌学、仏教も学ぶ。朱子学の抽象性を批判して古学を提唱。「聖教要録」で朱子学批判をしたため、赤穂に流される。

    伊藤仁斎−東涯(古義堂、古義学派、堀川学派)

伊藤 仁斎京都に古義堂を開いて講義。全国から 3000人の門弟が集まる。朱子学は宋代の儒学者が勝手に唱えたものとし、孔子孟子の原典に聖人の本旨を求めなければいけないとした。

    荻 生徂徠「政談」

荻生 徂徠は柳沢吉保に仕えたが、吉保失脚で古文辞学派を立てる。幕藩体制の動揺を鋭く指摘し、その建て直しを主張する政治論に特徴がある。
「政談」は享保期に成立し、幕政改革のやり方を記す。どう して武士が貧乏になったかについて、武士の城下町集住が消費生活の拡大を招いたと説く。地方給人制をとり、武士は農村に帰れ。参勤交代も無駄遣いと批判。

    太 宰春台「経済録」(ケン園塾、古文辞学派)

太宰 春台は荻生の弟子。経済を道徳に先行させる独特の考え。「経 済録」では、今までは農本商末で土地を尊んで金銭を卑しんだが、貨幣経済の発展は無視できないとし、藩営専売制の導入を主張した。

B 歴史学
  「本 朝通鑑」(正史、林家)、

「本 朝通鑑」は羅山と鵞峯の2代で編纂。幕府が林家に命じて作らせたもの。神代から1611年までの編年体で、儒教的合理主義の立場で記す。

  「大日本史」(水戸藩)

「大 日本史」は 水戸光圀の命で編さん着手。1657年から始まって1906年に完成。397巻。神武天皇から後小松天皇までの歴史を記す。朱子学の立場に立ち大義名分論 で紀伝体。神功皇后を皇位から除き、大友皇子を弘文天皇とする。南朝を正統とする。これは明治の歴史学に受け入れられる。
・この編さんの課程で形成されたのが水戸学である。朱子学を 中心に国学、神道を統合したもので、前期水戸学は歴史の大義名分を求めて皇室尊崇を説いた。後期水戸学は尊王攘夷論を展開したが、討幕論に発展しなかったため、明 治維新で活躍できなかった。

  「中朝事実」「武家事紀」(山鹿素行)

・「中朝事実」は日本の皇統を明らかにし、古代の政治理想の実現を説明しようとする。
・「武家事記」は武家政治の歴史を説き、その正当性を解く。

  「読史余論」「古史通」(新井白石)

「読 史余論」は白石が家宣におこなった日本史の講義案。摂関制の成立から秀吉の天下統一までを14の段階に分け、武家政治がどのように展開して きたかを説明する。江戸幕府の正統性を主張するが、歴史を発展段階によって把握しようとする点で、単なる事実を連ねたものとは違う。
・「古史通」は古代史研究の方法を提示したもの。比較研究と史料選択が大切と説く。

C 古典研究

・古典研究は歌学から始まった。和歌の作法を研究し、どういう歌がよいかを明らかにす る。
・和歌は中世に形骸化し、古今伝授などで固定され、さまざまな約束事ができていた。制の言葉は、例えば「ほのぼのと」は初句に使ってはいけないというも の。人麻呂の歌に「ほのぼのと明石の浦の朝霧に、鳥が暮れゆく舟をしぞ思う」があり、これに敬意を払えとした。近世の研究者はこれを批判。戸田茂睡、下河 辺長流など。

    戸田茂睡、下河辺長流、契沖「万葉代匠記」、北村季吟

「万 葉代匠記」は契沖によるもの。「万葉集」20巻全ての歌を精密に注解。万葉研究の最高文献。契沖は真言宗の僧で、水戸光圀の依頼で著したも の。
北村季吟は幕府歌学方。古典研究の第一人者。「源氏物語湖 月抄」で「源氏物語」を注釈。芭蕉はこの門下。

    →荷田春満(国学の成立)

荷田 春満は「万葉集」「古事記」「日本書紀」研究の途を開いた人物。国学の四大人の一人。従来の古典研究はその作品の鑑賞だけで終わってい た。しかし、儒学の中の古学派の影響(孔子孟子の原典の中に儒学の教えの神髄がある)から、日本人の精神の神髄は、儒学や仏教が入ってくる以前の古典の中に隠されていると主張し た。これが国学となる。

D 農学・本草学(博物学)
   宮崎安貞「農業全書」

「農 業全書」は宮崎安貞の著。五穀、四木三草の栽培方法を記す。施肥よりも深耕を勧める。

   貝原益軒「大和本草」

本草 学は動物、植物、鉱物を研究し、薬用について研究する学問。博物学的な色彩も持つ。
・「大和本草」は1362種のものについて、名称、起源、形状、生産、効用を論じる。薬草中心の本草学を博物学に発展させたもの。16巻。

   稲生若水「庶物類纂」

・「庶物類簒」は1000巻。前田綱紀の保護のもとに稲生若水が中心となって編纂。 362巻で若水が死ぬ。残りは吉宗の命で編さんが続けられて1000巻になる。本草学の大作。

E 数学(和算)
   吉田光由「塵劫記」

「塵 劫記」は日本で二番目の算術書。一番目は「割算書」で1622年に出ている。これは平安時代以来の数学の集大成。「塵劫記」では、実用的な 例題として利子計算、検地と課税、米の売買利益などをネタにする。初歩の計算指導書だが、平方根、等差級数の問題もある。
・室町時代に中国から算盤が入ってきて、江戸時代に「塵劫記」によって普及した。
・「塵劫記」の問題例にはこんなものがある。「円形の土地を2900坪、2500坪、2500坪に分けて相続させたい。それぞれの周囲はどれだけか」。

   関孝和「発微算法」

「発 微算法」は関孝和が著わした。和算の到達点を示したもの。円周率の発見、円の面積の求め方などを示す。72次方程式なども記載。微分の考え 方がないと円の面積は求められない。ニュートンやライプニッツに匹敵するものとされる。
・日本の和算は実学としてよりも遊びに流れてゆく。問題を作っては寺社に奉納する算額が各地に残っている。漢数字を用いていたのでは位取りがたいへんで、 西洋の数学に後れをとることになる。

F 天文・暦学
   渋川春海(貞享暦の制定)

・碁で仕えた安井家の算哲は子供の頃から天文学に興味。12,3歳で竹筒で北極星を観 測し、わずかに日周運動をしているのを発見。
・天文方の仕事は暦の管理が大切。旧暦は太陽の動きをもとに正月を決め、ひと月は月の満ち欠けで決める太陰太陽暦。1年は365日だが、新月から新月は 29.5日なので、年間に10日ほどの誤差が出る。ほかっておくと、1年が短いから秋のうちに正月が来てしまう。そのため、17年間に5回の閏月を作って 1年を13カ月にして調整する。この時、大の月30日にするか、小の月29日にするかで日にちを調整。
・当時の暦は唐の宣明暦を使用。862年に採用したもので800年余りそのまま用いていた。太陽の運行では、1年は365.2425日。これを 365.2446日と計算していたため、800年間のうちに実際の太陽の動きに対して2日のずれが生じてきていた。月食があるはずの日になかったりする。
・算哲は幕府に迫って新暦の必要を訴え、元の授時暦をもとに貞享暦を作る。1年は365.2417日。幕府は天文方を設置して算哲を雇い、以後、暦も幕府 管理となった。算哲は祖先の氏に戻って渋川春海とする。

G 医学
   山脇東洋「蔵志」

・医学で伝統的なのは中国伝来の漢方。
山脇東洋は人体内部の仕組みに興味を持ち、カワウソの解剖 をしたりした。1754年、京都で刑死者の腑分けに立ち合い、これをもとに「蔵志」を著す。

H 西洋の事情
   新井白石「采覧異言」「西洋紀聞」(シドッチの尋問)

・イタリア人のシドチがローマ法王の命で日本に密入国。チョンマゲを結って日本人に化 け、屋久島に来る。木こりに助けられ、日本語で話しかけるが全く通じない。長崎に送られ、ラテン語のできるオランダ人を仲介役に尋問。江戸に送られて白石 が尋問続ける。
・1年間の幽閉で立てない状況。白石は衣服食料をあてがい、何度か話すうちに通訳なしで意思が通じるようになる。
・本国送還、禁錮、死罪の3つの選択のうちで真ん中をとる。シドチは白石を500年に一度の人物と評価。
・これをまとめたのが「西洋紀聞」。世界地理やキリスト教の ことを記してあったため、極秘に伝えられるが、後には広く普及し、鎖国下で外国のことを知る書となる。
「采覧異言」はシドチの尋問内容に中国の地理書の知識を混 ぜて記した世界地理の本。

【文学史】
A 俳諧

・俳諧は連歌の上の句が独立したもので、滑稽なのが特徴。「盗人を捕らえてみれば我が 子かな」。

   貞門派(松永貞徳)

松永 貞徳は和歌は細川幽斎、連歌は里村紹巴に習う。秀吉にも仕えるが、俳諧は年をとってから始めた。中心人物になり、北村季吟などを門下に持 つ。俗語、漢語を用い、洒落や滑稽を柱とする貞門派を作る。

   →談林派(西山宗因)

西山 宗因は貞徳が決めた俳諧作法を排し、斬新奇抜を売りにした。談林派を作る。軽口俳諧。門下には井原西鶴。

   →蕉風松尾芭蕉、わび、さび)「奥の細道」

松尾 芭蕉は伊賀上野の出身。藤堂良精に仕えて近習となり、貞門、談林の両方の俳諧を学ぶ。主人が死去したので江戸に出る。深川芭蕉庵に住む。
滑稽なだけの俳諧に侘び、寂びの文学性を持たせ、蕉風という境地を作った。 名古屋で俳諧の興業をし、ここで吟じた「枯れ枝に烏の止まりける秋の暮れ」が蕉風を確立した作品だとされる。「冬の日」に記録。
・人気が出てきたため、俳諧の点者として生活できてゆく。全国至るところに門人ができ、招かれる。旅に明け暮れることとなり、これが人生=孤独という境地 となっていった。名古屋では鳴海の豪商・下郷家が芭蕉のパトロンであり、最初に建てられた芭蕉の句碑として千鳥塚が残っている。有松の細根山には下郷家の 別荘があり、ここには芭蕉も訪れたとか。
・46歳で「奥の細道」の旅に出る。当時の旅は命がけの側面 も確かにあったが、芭蕉は大げさ。実際には先々で門人のもてなしを受けている。「奥の細道」の旅の後、京都で生活。一度は江戸に帰るが、長崎に行く途中、 大坂で病気となって死ぬ。

B 小説
   御伽草子→仮名草子

・室町時代の御伽草子は仮名草子に進化する。これは平仮名で書かれたもので、女子供 の読み物。絵入り物語。ここから浮世草子が発生してくる。

   →浮世草子

・浮世草子は「好色一代男」が先駆け。

   井 原西鶴

井原 西鶴は最初は談林派の俳諧師だった。奇抜なことを売りにしていたため、一日にどれだけ俳句が詠めるかに挑戦し、一日で23500句を作る。 できるそばから印を付けていったもので4秒で一句を作っている。しかし、芭蕉ほどには人気が出ない。40歳で浮世草子に転向した。
・浮世は本来は「憂き世」と書き、生きづらい世の中、苦しい世の中の意味である。しかし、西鶴は生き方次第では「浮き世」になるとし、人間の欲望などを肯定的に捉えた点が従来にはな い視点だった。

    「好色一代男」

「好 色一代男」は 色欲を肯定的に描いて笑い飛ばすもの。主人公は世之介。7歳で腰元に恋をする。11歳から遊廓通い。19歳で勘当。諸国放浪し好色にふける。34歳で父が 死んで遺産を手にし、諸国の遊廓を尋ね歩く色道修行を始める。60歳で女だらけの島の「女護ヶ島」に「好色丸」に乗って船出して行方不明となる。1年1話 の話で54話は「源氏物語」に因んだもの。一生の間に接した女性は3742人、男は725人。伏せておきたい色欲の話をあっけらかんと書いている。好色物 では他に「好色一代女」など。

    「日本永代蔵」

・金欲も肯定してゆく。「日本永代蔵」は町人物と呼ばれるもので30話からなる。金欲に溺れる 商人の話で、才覚一つでのし上がった例も取り扱う。現金掛け値なしで成功した三井。大工の落とした木クズを拾って箸にして売って材木問屋になった箸屋甚兵 衛の話など。

    「世間胸算用」

・一方では貧しい庶民の姿も描いている。「世間胸算用」は20話の作品。「大晦日は値千金」には、借金取りから 逃げようとする庶民の姿を描く。
・西鶴は人間生活を明るく肯定的に描く。大阪のお笑いや吉本新喜劇路線の元と言える。

C 戯曲
   近 松門左衛門
    「曽根崎心中」

・西鶴に対し、人間が生きてゆくことはやっぱりつらいという観点で作品を残したのが近松門左衛門。武士の子だが文学好きで浄瑠璃の脚本を書くようになる。 坂田藤十郎のために歌舞伎の脚本を書いて成功し、竹本義太夫のために新作浄瑠璃を書く。義理人情のしがらみを描く
「曽根崎心中(お初徳兵衛)」が代表作。醤油屋の手代・徳 兵衛は、天満屋の遊女・お初になじんでいた。友達の九平次の頼みで主人から金を借りてやったあと、主人からその姪との結婚話が持ち込まれる。お初が好きな 徳兵衛はこれを断ったため、借金の一括返済を求められて家を出される。金を返してくれと九平次のところに行くが、白を切られたため困り果てる。この世で一 緒になれないならと、お初と一緒に曾根崎天神の森で心中をする。
・実際にあった事件に取材したもので、近松は心中事件が起きるとすぐに調べて脚本化して上演している。お昼のワイドショーの再現フィルムみたいなものであ る。

    「心中天網島」

・「心中天網島」も心中ものの作品。紙屋の治兵衛は遊女の小春と3年越しの仲で、とも に死ぬ約束をしていた。突然に小春が愛想付かして治兵衛の恋仇の太兵衛に身請けされることになる。これは治兵衛の妻のおさんの頼みによるもの。おさんはこ のことを夫に打ち明ける。治兵衛は小春を連れ出して大坂の橋を走り渡り、網島の大長寺で心中する。

    「国姓爺合戦」

「国 姓爺合戦」は17カ月連続公演の記録を持つ時代物。明末期、清の圧迫をはねのけようとした鄭成功の史実を脚色し、日本人を母に持つ和藤内が 活躍する話。

   →浄瑠璃(竹本義太夫)

初め は語り物であり、「浄瑠璃姫物語」が好評だったため、これを浄 瑠璃と呼んでいた。三味線と操り人形と結びついて人形浄瑠璃 になる。
語りの名手が竹本義太夫だったことから、浄瑠璃の語りのこ とを義太夫節という。

   歌舞伎・市川団十郎(荒事)、坂田藤十郎(和事)、芳沢あやめ(女 形)

歌舞 伎は出雲阿国が京都で「かぶき踊り」を興行したのが始まりである。もとは異様な格好での踊りだった。これを真似て諸国の遊女が女歌舞伎を始める。踊り手は若い女性で、結構エロチックなもの。踊り手 たちが売春を始めたので、1629年、禁止となる。
・女がだめならと若衆歌舞伎が始まる。美少年の集団が美貌を 武器にして踊るもの。しかし、美少年が男色に利用されたために1652年に禁止。
野郎歌舞伎は成人男性の踊りだが、ストーリーを展開しない と見てもらえない。浄瑠璃の演出を取り入れる。女優が使えないため、女形の芸が登場した。
市川団十郎は屋号が成田屋。江戸歌舞伎第一の名優で現代に も続く名跡。荒事という立ち回りなどを主体とした豪快な演出。 隈取りをつけたりするもの。歌舞伎十八番は市川団十郎の当たり芸を並べたもの。「勧進帳」を創始。
坂田藤十郎は上方の役者で世話物を得意として和事に光る。色男がなよなよと恋愛描写をするもの。 2代目以降はすたれる。
芳沢あやめは上方歌舞伎で4代続いた名跡。初代は傾城もの が得意の若女形。

【建築・美術史−寛永期】
A 建築
   日 光東照宮(霊廟建築)

日光 東照宮は1617年創建。家康の霊廟で権現造と いう。安土桃山文化の伝統をひいて彩色、彫刻で飾り立てる。陽明門は「日暮らしの門」と呼ばれ、一日みていても飽きないとか。
・ドイツの建築家ブルーノタウトは、東照宮を「建築の欠如」「専制者芸術の極致」といって批判。要するに趣味が悪いのである。

   桂離宮(数寄屋造)

・これに対し、ブルーノタウトが絶賛したのが桂離宮。後陽成天皇の弟の別荘で数寄屋造。小堀遠州の庭。日本建築の到達点を示すものとされる。

B 絵画
   (幕府保護)狩野探幽、住吉如慶・具慶
   (朝廷保護)土佐光起

狩野 派は幕府に保護され、領地の世襲が約束された。江戸、京都、日光の城郭と社寺に筆を振るった。しかし、狩野探幽以後はマンネリとなる。
住吉派は幕府に保護された絵師。朝廷は土佐派を保護した。

   装飾画
    俵屋宗達「風神雷神図屏風」

・マンネリになる中、京都の豪商に保護された俵屋宗達が登場する。宗達は西陣の織屋とか扇屋とか言われる人。「風神雷神図屏風」が出色。金地に緑青や群青で描いたもので、装飾画というデフォルメと独特のデザインに特色のある独自のジャンルを 作る。
・宗達の技法は光琳に受け継がれる。二人とも織物商であり、織物や衣装のデザインを技としていた。これを絵画に応用したものなので、写実よりも抽象化、象 徴化ということを柱にしている。

C 蒔絵・陶器
   本阿弥光悦

本阿 弥光悦は刀の目利きの家柄。茶の湯、漆器、蒔絵、陶芸など、あらゆる芸術に優れた力を発揮した。その師匠が大坂方についたため、家康ににら まれ、京都鷹が峰に住む。ここに工芸者による芸術村を作る。22年間、作品作り。

【建築・美術史−元禄期】
A 絵画
   尾 形光琳「紅白梅図屏風」「燕子花図屏風」

尾形 光琳は京都の呉服・織物商である雁金屋の出身。大和絵が伝統的に扱ってきた花鳥風月を新しいデザインで描く。写生ではなく、それを抽象化、 象徴化してデザインした。
「紅梅白梅図屏風」は若い紅梅と年取った白梅。それぞれ輪 郭を描かないで墨をたらし込んでいる。真ん中の流れは完全にデザイン化される。「光琳波」という。光琳は宗達の影響を受け、「紅白梅図屏風」も「風神雷神 図屏風」と構図が同じである。宗達作品の模写も多く残している。
・光琳は「伊勢物語」のファン。「燕子花屏風」では八橋を描いていないが、それを示している。金地に花と茎を描いただけのもの。一定のリズムで描かれてい る。

   菱 川師宣(浮世絵)「見返り美人図」

・近世初期には風俗画が好んで描かれた。もともとは町人の歌舞遊楽の様子を描いたも の。屏風に描いたもの。たくさんの人物を描き込んで背景も描く。
・江戸時代になると近景の一場面をクローズアップし、小さな屏風に描くようになる。ブロマイド化してゆく。これが浮世絵
菱川師宣は江戸吉原の女性を描く。墨一色で版画の絵本仕立 てとした。現実世界、実在人物を描いたという点で「浮世絵」の創始者となる。
・「見返り美人図」は肉筆浮世絵。美人が歩きながら後ろを振り返った図。江戸時代の人々がこだわった着物を徹底的に描き込んでいる。

    →多色刷り版画化(一般に普及)

B 工芸
   酒井田柿右衛門(有田焼)野々村仁清(京焼)尾形乾山(京焼)

・秀吉の朝鮮侵略で九州に朝鮮の陶工が連行されてくる。1616年、李参平が有田で最 初に磁器を焼いたのが日本の磁器の始まりで、有田焼という。
・陶器はガイロ目などという陶土で1050度で焼く。これだと素焼きで水が漏るため、上薬を塗る。叩くとボクボクという。少し厚手。磁器はカオリンが入 り、1300度で焼く。高温のため、叩くとチンチンという。薄いものができる。
・有田焼には明末の赤絵の伝統による古伊万里、酒井田柿右衛門が 考案した日本的な赤絵、鍋島藩の窯で焼いた色鍋島の3種類。
・柿右衛門はもとは陶器を焼いていたが、染め付け白磁の技法を会得。これを改良して赤絵を作る。柿の色を出したくて上薬を工夫。焼くと思ったような色にな らない。柿の蓋ものを作って藩主に献上し、柿右衛門の名をもらう。
・京焼きは柿右衛門の技術を京都で受け入れて焼く。野々村仁清が 完成。尾形乾山が受け継ぐ。後に清水焼となる。

   宮崎友禅(友禅染)

・細かい絵柄を着物に描いたのが友禅染。 染めたくないところに糊を置き、染料につけて染める。一色染めると糊を落し、また次の色の部分を残して糊を置く。これを色の数だけ繰り返すことになる。袖 と身頃で連続する絵柄であれば、最初に着物に仕立てて絵柄を描き、これをほどいてから染めてゆき、できた反物をまた縫い合わせる。宮崎友禅が創始したものである。

【宗教史】
  隠元(黄檗宗)の渡来

黄檗 宗は明の隠元が伝えた禅宗の一派で、万福寺が本山。全て中国風のしきたり。隠元は1654年に来日し、家綱に会う。後水尾天皇の保護を受け て万福寺を建てる。上層階級に受容される。


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