<幕藩体制下の商業の発達>
[都市の発達]

A 三都の繁栄
   江戸=政治都市(100万人)、

・武家の町。武家地が7割を占める。大名屋敷は200数十。幕臣の屋敷が9000軒。 大名は上屋敷、下屋敷からなる。上屋敷は藩主やその家族、家臣の長屋や役所がある。下屋敷は広大な庭園で、畑が作られたり狩り場だったりした。
・加賀藩の場合、江戸屋敷には1700人の武士が勤務。200以上の大名がこのような役所を持っている。
江戸在住の武士の総勢は50万人。武家は消費生活者なので、彼らの生活を 支えるための人間が必要になる。町方人口が50万人。日雇などのために職人がたくさん必要。
・江戸っ子=「芝で生まれて神田で育ち」。親子三代が下町で育ち、水道の水で産湯を遣った者。

      関東は未開発 ∴大坂に依存

関東 は未開発であるため、100万人分の食料をまかなうことができない。よそから米を運び込まなくてはならない。

   大 坂=商業都市(40万人)、天下の台所

瀬戸 内海への交通の要衝であり、日本海側の物資が集積する。全国大名の蔵屋敷が100前後も並ぶ。そのために商人の町として発達してゆく。
・運河が四通八通していて、八百八橋と言われる。

   京 都=宗教・工芸都市(40万人)

・宗教都市であり、参拝客も多い。実際には室町以降の工芸品生産地であり、西陣織に代 表される工業都市としての性格も持つ。

B 城 下町の発達

・江戸時代は地方分権がされていた時代。日本全国に大名の数だけの城下町が形成される 理屈。石高の多い大名ほど、それに応じた家臣を城下町に居住させるため、それを支える町人の住む大きな城下町が形成される。

Q1 大きな城下町としてはどこが考えられるか?

A1 石高に応じて家来がたくさんいるので、100万石の金沢や62万石の名古屋は大きい。鹿児島は外城制をとったため、城下町自体は小さい。

   cf)金沢、名古屋(10万人)

・名古屋は義直の城下町。人口は10万人。金沢と並ぶ大都市。
・名古屋城の南に本町通りが南北を貫き、この両側に99町の碁盤割を作って商業地とする=上町。大須近辺と東区一帯は寺町、高級武家町は中区の北、低級武 家町は東区一帯。庶民の町は西区=下町。
・「なも」を使う上町と「えも」を使う下町の差。
・町作りの最初に堀川を作る。これを使って築城に必要な物資を搬入した。水道が必要となり、守山区から御用水を引いて幅下の堀に入れる。この水を城下に配 水。下水は堀川に落とす。

[商業の発達]
A 商品流通ルート
   蔵物=大名の商品(年貢米、専売品)、
蔵屋敷大消費地)で保管・販売

・近世初めの商品は、蔵物という大名が年貢として集めた物が中心。 物で持っていても仕方ないので売却する必要がある。城下町で販売しても、小さな町では売り切れない。1万石で235人の家臣の規定。その家族や家来を合わ せても、1万石の大名だったらせいぜい1500人くらいの武士が消費生活者としているだけ。年貢で4000石集めても、これだけ食べきることはできない。大人口を持つ都市である大坂か江戸に持って行って売るしかない。

   蔵 役人蔵元販売、掛屋=送金)が扱う

運ん だ先では藩の役人が相場を見て売却した。これを蔵役人という。実際には商売については専門家にやらせた方がよいので、町人に請け負わせるようになる
物を扱う者と金を扱う者は分かれていた。蔵元と掛屋。後に は兼務するようになり、大きな力を持つ。大坂の鴻池が著名。
・大名と手を結んだのは特権を持つ御用商人。江戸中期から大名の財政事情が悪くなると力を失ってゆく。名古屋などでも茶屋に代わって伊藤屋が力を伸ばす。

   納 屋物=民間の商品、問屋が扱う

・農業生産が伸びると、大名が集めきらない商品が増える。大名と手を結んだ特権商人に 代わり、納屋物を扱って民間に販売する新興商人が力をつけてくる

 1 西国・北陸・奥羽→(西廻り航路)→大坂蔵屋敷→大坂・京都市場
    cf)北前船

・最上川下流の酒田あたりで米を集めて出港。日本海は比較的安全。能登半島沖をまわって三国、敦賀、小浜などに寄航。下関経由で瀬 戸内へ。
北前船は西廻りで蝦夷地に向かう船。千石船で上方で繊維製 品、薬品、塩、砂糖を仕入れ、4月頃に出航。港ごとに寄航して販売しながら北に向かう。蝦夷地や出羽では海産物、木材、米を買い集め、販売しながら8月頃に大坂に向かう。
・大坂と奥羽は結びついていた。

Q2 意外なものが京都、大坂の名物である。北国のものが名物になっている例は何か?

A2 大坂名物の昆布。京都のニシンそば。

 2 関東・東北→→→→(東廻り航路)→→→→→→→江戸蔵屋敷→江戸市場

北上 川下流の荒浜から銚子に至り、利根川を使って江戸に行くもの。河村瑞賢が房総廻りの航路を開くが、利根川経由の方が安全。

    (二十四組問 屋)(南海路)(十組問屋)

大坂 に集まる商品の方が多い。江戸は足りない。したがって、相場をみて必要に応じ江戸に運ぶことになる。これを運んだのが南海路。荷積みの問屋仲間が二十四組問屋。荷受けの問屋仲間が十組問屋。

 3 天領の米→→→→→→浅草御蔵→→旗本・御家人に支給→→札差で換金

札差 は旗本・御家人の米を買い取ってくれる業者。これが軒を並べたのはお蔵の前の蔵前。国技館のあったところ。

    cf)掛屋・札差は金融もおこなう

掛屋 や札差は年貢米、蔵米を担保に金を貸す。金利5割になる場合もあって儲かるが、相手が武士なので踏み倒されても泣き寝入りとなる。

B 株 仲間の結成
   問屋・仲買による同業組合(利益独占)
    禁止→認可(冥加、運上とる)

株仲 間は同業組合。新たな業者が市場に参入することを制限することがあったため、当初は座が禁止されていた。仲間という形で私的に結成される。信仰組織の名を語ることが多い。薬屋 の場合は神農講など。宗教団体なら認められる。
・元禄頃には「名前帳」を出させて追認するようになり、田沼時代からは運 上・冥加を出させて財源とした。
・冥加は一定の税率がなく、営業を認められたことの献金。運上は営業税。

     ex)二十四組問屋(荷積)、十組問屋(荷受)

荷受 けの十組問屋、荷積みの二十四組問屋は、もとは問屋仲間であったが、後には株仲間になって排他的となる。
・十組問屋は1694年に10組で発足。江戸で不足する品物を大坂に発注するが、船で 運ぶ途中でトラブル発生。一軒で船を仕立てて難破すれば損害は甚大。組合を作って共同で発注すれば効率もよく、難破の時も被害を分散できる。
・塗物店組、酒店組、紙店組などがあったが、後には様々な業種に拡大。下り酒問屋は100軒を超える問屋で組織されていた。
・二十四組問屋は江戸の十組問屋の注文を受けて大坂で商品を買い集め、これを菱垣廻船で送る。初めは10組でスタートしたが、後に拡大している。

C 貨幣制度
Q3 貴金属が貨幣として流通してゆく。代表的貴金属は何か?

A3 金銀銅である。貴金属の絶対量が少ないため、このすべてを貨幣として流通させていた。

   三 貨制=金(小判)、銀(丁銀、豆板銀、秤量貨幣)、 銭貨(一文銭)
   幕府支配の座で鋳造

金貨 は金座で鋳造され、後藤家の管轄。小判を作る。
銀貨は銀座で作り、大黒常是一家が管轄。丁銀が基本で、その補助貨幣が豆板銀。秤量貨幣。たがねで切って使ったりした。
・銭貨は慶長通宝を出して永楽銭の流通を禁止したが、銭貨の絶対数が不足した。寛永通宝を出したことで解決している。

Q4 金と銀は採掘地が異なる。そのために流通地帯も異なることになった。どうなるの か?

A4 金は佐渡や伊豆、銀は生野や但馬で産出される。江戸は金遣い、大坂は銀遣いとなる。

・一般庶民は金や銀だと価値がありすぎる。金なら1グラムで2000円もする。小さな 買い物は銭でしていた。

Q5 異なった貨幣が流通することで起きる不都合は何か?

A5 国内でドルとフランが使われているようなもの。交換のレートを定めなければならない。

   ∴両替商必要(預金、貸付おこなう)

・金1両=銀60匁=銭4貫が公定。しかし、実際には円ドル相場と同じで、流通量と需 要供給によって変動した。毎回相場が立つので両替商が必要と なった。

      ex)鴻池屋、越後屋

・大坂一の大商人とされるのは鴻池屋で、鴻池善右衛門の先祖は清酒の製法を発明して有名。江戸に販路 を拡大。海運、大名貸し、両替商として成長。32藩と取引をして金融で儲ける。明治になって鴻池銀行を設立し、三和銀行の母体となる。
・三井高利は松坂商人。越後屋呉服店を開業した。それまでの 商取引は、大名屋敷を回って商品を見せて注文を取る訪問販売。買ったものは節季払いだった。全ての品物がボーナス一括払いのクレジット販売されていたよう なもの。

Q6 節季払いは安いのか高いのか?

A6 踏み倒されることへの保証料を価格に転嫁して高く設定していた。

・越後屋は西陣織を仕入れて現金でないと売らないことにした。販売は店売りが中心。新 しく力を持ってきた庶民相手の商売に切り替えた。その代わり掛け値なしで安く販売。「現金掛値なし」の引き札をばらまく。また、どんなに小さな端切れでも 売るようにし、店の中には仕立屋も置き、反物はすぐに着物に仕立てた。この新商法が当たって8万両の遺産を残す。三越の前身。

    cf)藩札=諸藩発行紙幣 but乱発で経済混乱

藩札 は領内限りの流通。専売品買い入れのために発行し、年貢が取れて幕府貨幣が手に入れば、それと交換して解消しようとしたのがもともとの形。 幕府貨幣との兌換が原則なので幕府貨幣の所有量以上には発行できないはず。
・実際には一種の金券として大量に発行されたため、兌換がで きないようになり、金1分としてあってもそれだけの価値は持たず、インフレ を招く

[交通の発達]
A 陸上交通
   五 街道の整備(東海道、中山道、甲州、奥州、日光道中)

・江戸参勤のための街道。五街道の整備は幕府の道中奉行の手により、橋が壊れたら幕府の手で掛け 替える。

   宿場(本陣、脇本陣、問屋場、旅篭)、

宿場は 大名が参勤交代をするために宿る場所として整備された。

Q7 大名が泊まる設備を本陣というのはなぜか?

A7 江戸への参勤は軍務に就きに行くからである。ここがいっぱいの時には脇本陣に行く。

・公用の品は問屋場で継立されてゆく。東海道は馬100匹、人足100人。中山道は 50ずつ。他の三街道は25ずつ。

   関所の設置

関所 は箱根、新居、碓氷、木曽福島が重要。入鉄砲に出女を監視。治安維持のための施設になった。

Q8 江戸幕府は大井川、安倍川などに橋を架けなかった。なぜか?

A8 戦略上の理由からである。

・比較的浅く、徒歩で渡ることが可能な河川。深みにはまると溺れるので、川越人足に担 がれて渡った。増水して脇以上だと渡れない。水かさによって渡し賃が異なる。大名は篭ごと24人で輦台渡し。
・実際には、橋を架けようとしたところ、川越人足たちが失業するとして反対したのである。

   脇街道の発達

・名古屋は交通の要衝。鳴海から熱田に東海道が通り、熱田から分岐して名古屋城下に入 る。メインルートは本町筋。京町のところで美濃路が分岐し、五条橋で堀川を渡って枇杷島に抜けて岐阜に向かう。
・下街道は大曽根を経由して春日井鳥居松から内津峠を越え、中山道に合流するもの。

B 水上交通
 1 河川の整備=角倉了以による ex)富士川、保津川、高瀬川

・河川交通はたいへん発達。ダムがないので上流まで航行可能。木材についても筏流しで 落とす。
・角倉了以は朱印船貿易のかたわらで河川を整備。富士川を船 が通れるようにする。京都に物資を運ぶために保津川を開き、 鴨川の水を引いて伏見に至る高瀬川を作る。

Q9 運河も大切である。名古屋城築造の際に掘られた運河は何か?

A9 堀川である。これで大量の物資が名古屋に運ばれた。

・瀬戸電は、初めは堀川止まりだった。陶器を堀川で搬出し、燃料の石炭を堀川で上げて いた。

 2 海上輸送=
Q10 幕府は500石以上の大船は建造禁止にしていた。どうしてか?

A10 鎖国のためである。

・外洋航海の船は禁止される。後に商船に限って1000石船が認められる。それでも竜 骨禁止、帆柱は1本。

    南海路(菱垣・樽廻船)

・千石船は底が平たいために安定性に欠け、年間1000件の遭難があったとされる。遠 州灘、熊野灘での遭難が多く、一度流されるとアリューシャン方面にまで流される。
菱垣廻船は船の横に板を菱形に組んだ模様をあしらったもの。北前船などには見られない豪華な意匠だった。大坂北浜の泉屋が江戸積廻船問屋を作って開設。積み荷に12日かかる。大坂・江戸間は10〜20日かかったので最大1ヶ月が所用日数。
・菱垣廻船の船は弁財船と呼ばれる形式で、瀬戸内で発達したもの。優秀なので日本中に広がった。大阪の海洋博物館に展示されている復元されたものは全長が30メートル、幅が8メートルほど。帆柱の高さは30メートル近くあり、これを収納する建物は4階建てのビルに匹敵する。
・帆走する場合は後ろ斜めからの風を受けた時がもっとも速度が出る。7ノット=13キロで走り、帆船としてはまずまず。四角の一枚帆だが、向かい風でも70度の角度までは切り上がることができた。
・舵は9メートルもの大きさのものが取り付けられている。大きくすることで横風を受けた時に横滑りしないようしていた。また、港に入るときは引き上げて浅瀬でも着岸ができる。しかし、そのために舵の周囲は大きな空間が作られていて構造的にもろかった。外洋に出て時化たときは壊れてしまう。難船する時は舵が壊され、転覆を避けるために帆柱を切るため、あとはただの箱になって漂流していってしまう。あくまでも沿岸航行用の船なのである。
・積荷を船底に積むとその上に板をかぶせて甲板とする。操舵室の部分が居住スペースであり、ここには炊事場や神棚も設けられた。乗員は12人である。
・千石船なので150トンの積荷が積めた。船底に竹の簀を敷いてここに重いものを積み、上の方は軽いものである。
樽廻船は酒や酢に限定して運んでいた。放り込めばよいので 積み荷は2〜3日。船も小規模で速度が速く、最短記録は58時間。灘の酒を江戸に運ぶ。「下り酒」。上等のものを運ぶ。

Q11 上等でない酒は何か?

A11 下らない酒である。

・江戸時代後期には尾州廻船が台頭。内海船や佐久島廻船。知多は酒造が盛んとなり、中 国酒として江戸に送られる。酒粕を利用して酢も作られる。

Q12 この酢を使って江戸で登場した食べ物は何か?

A12 握り鮨である。

・鮨はもともとは生魚をご飯に漬けて保存が利くようにしたもの。ご飯が発酵して長持ち する。琵琶湖の鮒寿司がこれ。
・作るのに時間がかかるため、酢をご飯に混ぜて作るようにした。半田の酢がなければ鮨文化は生まれなかった。

    東 西廻り航路(河村瑞賢の整備)

河村 瑞賢は伊勢商人。才覚で材木商になり、明暦の大火で大儲けをする。幕府の命で東・西廻航路を開く。


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