<幕藩体制下の農業・諸産業の発達>
[農業の発達]
A 新田開発
   160万町歩(16C末)→300万町歩(18C初)
    (低湿地、洪積台地上の開発)

・一地一作人の原則を確立するには十分な耕地が必要。そうでないと小農は名主層の元か ら独立することができない。幕府は小農民自立政策として新田開発を奨励した。近 世初期は大開発の時代
・土木技術の進歩により、大河川流域や海岸の埋め立てによる新田開発が可能となった。鍬下年季といって入植者には一定期間の年貢減免措置がとられる。耕地面積は倍増。
・新田開発には官営の代官見立新田、村が中心となっておこなう村請新田、有力町人が出資しておこなう町人請負新田がある。

Q1 尾張藩の新田は海部郡低湿地に開かれてゆく。木曽川があふれると困るため、お囲い堤といって尾張側の堤防を高くした。このため、木曽川は美濃側にあふれるようになる。これを解決しようとした土木プロジェクトは何 か?

A1 薩摩藩によって実施されたお手伝い普請、宝暦治水である。木曽川、長良川、揖斐川の3つを堤防を作って分流させようとし た工事。1755年に完成した。

Q2 どうして薩摩藩にやらせたのか?

A2 経済力削減のためである。

・油島新田の締切堤と洗堰工事で40万両という莫大な経費を使ったため、工事責任者の 平田靫負は切腹。このため、美濃側の治水が安定する。

Q3 乏水地帯である犬山扇状地の新田開発を可能にしたものは何か?

A3 入鹿池の築造である。村を沈めて1633年にため池を作る。新しく春日井、丹羽郡に6800石の新田ができる。どんな罪を犯した者でもそれを免除す ることを条件に人集めをして開いた。

Q4 尾張藩の新田開発は他にはどこでおこなわれたか?

A4 伊勢湾の埋め立てである。熱田新田は藩営。茶屋新田は朱印船貿易家の茶屋家が手がけたもの。現在の港区一帯、飛島、弥富の鍋田などはいずれも埋め立 てによってできた新田である。

Q5 新田開発はよいことばかりではない。デメリットは何か?。特に、洪積台地状の原 野は今までは何に使われていたのか?

A5 本田での労働力の不足。海岸埋め立てで河水が停滞し、新たな洪水が発生する。入会地の洪積台地を開いてため池などにしたり田にすると、従来とってい た肥料がとれなくなってゆく。

新田 が開かれたことで山野が減少し、自給肥料に替わって購入肥料の使用は絶対なものになる。

B 農業技術の進歩
   肥料=金肥(購入肥料=油粕、干鰯)の使用(←入会山野減少、速効性)

金肥 は油粕、干鰯、ニシン粕など。油粕は菜種油を取った後の搾りかす。干鰯は鰯を煮て干したもので煮干しである。いずれも速効性肥料であり、効 果は大きいが、大量に施肥できるのは金持ちだけだった。

   農具=備中鍬(深耕可)、水車、踏車、千歯こき、唐臼、唐箕、千石とおし

・土を耕起することは作物の根を張らせるために欠かせない農耕技術である。牛馬耕がで きればスキが必要であるが、小農民は牛馬を持つことが難しく、結局は人力で耕作する。洪積台地は土が堅い。人力で深耕が可能な鍬が欲しい。先が割れた備中鍬が急速に普及する。
・用水は、通常は高いところで取水して低位の田を灌漑する。それができない場合、揚水するには常置であれば水車を用いる。臨時に揚水が必要な場合、中国伝 来の竜骨車を用いていた。長いものを作れば高くあげられるが、日本では1メートルもあげれば十分であり、よく壊れた竜骨車に替わって踏車を使う。使い終わったら別のところに持って行くことが可能。
・脱穀具としては元は扱箸で挟んで籾をとっていた。これは夫を失った後家さんの小遣い稼ぎだった。元禄の頃に千歯扱が登場。扱箸の2〜3倍の能率で、これによって後家の小遣い稼ぎ ができなくなって後家倒しと言われた。
・調製はカラ竿で打って穂から籾を外し、唐臼で籾を摺って籾 殻を除く。その後、箕でゴミと選別する。唐箕は享保の頃に登場。千石とおしは 米粒の大小を選別し、シイナを選り分けるもの。

   農書=「農業全書」(宮崎安貞)、「広益国産考」(大蔵永常)

「農 業全書」は明の「農政全書」を元として宮崎安貞が 1697年に刊行。全10巻。五穀の栽培が中心。金費をたくさん使えばよくとれるが、それでは赤字になるとし、施肥よりも耕耘や除草の技術を中心に記述している。
1町という狭い土地に徹底的に労力をかけ、深耕と除草で土地生産性を高め るのが日本の農業。欧米人の目から見ると、農地=farmではなく園地=gardenだとされる。
大蔵永常の「広益国産考」は江戸時代後期のもので 1842〜刊行。商品経済の発展に対応し、米だけでは儲からないし、虫害や干ばつがくると単作では危ない。商品作物をいろいろ組み合わせた多角経営を勧める。

Q6 農書には様々な知恵がちりばめられている。三河の農書「百姓伝記」で、屋敷内に 植えるとよいとされる果樹は何か?。その理由は?

A6 そのままでは食べられない渋柿を植えろとしている。柿渋をとって利用するためである。これは防水、防水の薬になる。渋団扇はこれを塗ったもの。干せ ば食用にもなり、保存がきく。

Q7 便所は屋敷内のどこに作るのがよいとしているか?。その理由は?

A7 便所は南東の日当たりのよいところに作れ。肥が早く腐るようにする。

・馬小屋にはあっちこっちに飼い葉桶を下げておく。歩かせて厩肥を踏ませる。
肥料確保がもっとも大切であった。戦前の尾張でも藁灰は灰 屋に入れてとっておく。風呂水も肥料になる。みんなでもらい風呂をしたし、風呂の中で体を洗った。垢が底に溜って箸が立つほどだったという。生ゴミも無駄 にしないで溜めに入れる。肥は町人のものが最上なので、野菜などを持って行って交換してくる。農民の縄張りができていた。

C 商 品作物栽培
   四木三草

四木 =茶、楮、漆、桑。三草=麻、藍、紅花。他には煙草、菜種、木綿など。

   木綿、菜種栽培の普及

・従来の衣料は麻。麻糸を取るには宿根を育てる。一番芽を5月に焼き、出てきた茎を7 月に刈る。すぐに水に漬けて皮をむく。これが苧。苧を煮て爪で細かく裂き、湿っている間に撚りつないでゆく。1反分の糸を作るのに40〜100日かかる。 これを織るのに40日。合計2〜4カ月かかるため、1年に3人分の衣料を作ることができるかどうか。麻織物は大量生産できない点で貴重品だったのである。
・しかし麻は強い。引っ張り強度は麻はkg/平方ミリあたり120で、木綿は50である。丈夫だがなかなか作れないので戦国時代の人は一般的には着た切り 雀だった。
木綿は麻に比べれば簡単に糸や織物になる。1反分の糸を引 くのに2日。これを織るのに2日。栽培する場合は大量の金肥が必要。米の2倍。だが、1反の土地で36反分の木綿がとれる。
江戸時代には衣料革命が起きたと言ってよい。化学繊維の登 場に匹敵する革命。大坂には、毎年、120万反の木綿ものが集まる。それだけ大量に流通し、着物の数が増えていった。
・綿の実は産業廃棄物。しかし、これを絞ると油がとれる。これにより、胡麻油に代わって綿実油が行灯の燃料になる。胡麻油に比べて安価のため、庶民にも普及してゆく。
・菜種の栽培も盛んとなり、これでも油がとれる。水車動力で油を搾る。
油が普及することで、夜なべ仕事が可能になる。これにより、機織りや裁縫 などの内職ができるのであり、手工業の発達につながる。

   藩による特産地形成 ex)藍(阿波)、紅花(出羽)

は 低湿地でできる。吉野川の低湿地で栽培されたのが阿波藍。藩政初期から阿波 の特産物とした。17世紀半ばには藩外に輸出。藩専売。
紅花は花を干して染料としたもの。出羽の最上紅花は京都市場を独占。3〜6月にかけて栽培。花弁を干して 最上川を下し、船で敦賀・琵琶湖経由で運ぶ。

※農業 の発達は農村への貨幣経済流入をもたらす→貧富差生じ階層分解招く

商品 作物、購入肥料、新農具は貨幣経済を農村に流入させる
・大量金肥を施して高収入を得るものと、それができない階層とに分離してゆく。また、商品作物栽培は博打のようなところがある。売るために作るのであるか ら、高く売れればよいが、みんながそれを作って値崩れすれば肥料代の元が取れない。失敗する可能性もあるのである。成功した者と失敗した者、勝ち組と負け組に分かれることになる。

[諸産業の発達]
A 漁業
   上方漁法(網漁)の普及 ex)九十九里の地引網(鰯 漁→干鰯)網(藁→麻)

網漁 である上方漁法が普及する。藁製の網から麻に替わり、小魚を 捕ることが可能になってゆく

Q8 大量に採れた鰯は食べるのではない。どうしたのか?

A8 鰯は干鰯に加工される。

九十 九里や渥美半島でイワシを地引網でとった。渥美の場合、イワシの群を見つけて網を掛けにゆく。魚群を見張るのがホウベ師で、夜でも見えるの で色盲の人がよいという。4キロ沖合まで船で乗り付けて網を掛け、ロクロで巻き取る。煮て煮干しに加工。三河木綿の肥料となったという。

   漁場の拡大 ex)蝦夷地の俵物・ニシン粕、

蝦夷 地の俵物はフカの鰭、イリコ、干し鮑などの乾燥品。中華料理の原料として輸出された。ニシンはそのまま市場に送ると腐ってしまうため、煮て 油をとって乾燥させ、ニシン粕とする。これは肥料として使われた。

Q9 ニシンの卵は何か?。おせち料理に欠かせない海のものは何か?。

A9 数の子である。おせちには田作り、昆布巻が欠かせない。昆布巻の芯は身欠きニシンである。

・おせち料理は保存ができる乾燥食品を使った料理である。農民がこれらを工夫をして創 出したものとも言える。ニシン粕には数の子が含まれているし、干鰯からは田作りが作られる。肥料を食べているのがおせち料理である。

Q10 土佐の有名な漁獲物は何か?。遠隔地の漁場で獲れたものは、市場に運ぶ途中で 腐ってしまう。土佐の鰹はどうやって保存にきくようにしたのか?。

A10 鰹である。これは鰹節に加工した。

   土佐の鰹節、鯨

・蝦夷地や土佐など市場から遠いところでの漁獲物は、加工技術が伴わなければ流通しな い。土佐の鰹は鰹節になる。何年でも持つ保存食であり、船乗 りがいざという時のために持参したという。

Q11 鯨も食べるのではなく、油を利用して農業の発展に寄与した。何に使ったのか?

A11 田に鯨油を撒いた後、稲を竹竿などで払い、ニカメイチュウを水面に落として窒息させる。あるいは鯨油を燃やして誘蛾灯にする。

B 鉱業  金銀山(佐渡、伊豆、生野、石見)→銅山(別子、阿仁)

金銀 山が枯渇したため、これに代わって銅山の開発が進んだ。18世紀には5400トンを産出し、そのうちの4800トンは清やオランダに輸出 し、世界有数の銅輸出国だった。

C 手工業
   農村家内工業(17C)=農間余業

初め は農間余業で織物などを生産していた。農村家内工業と いう。自分で作って自分で売りに行く。「鶴の恩返し」の話がこれに当てはまる。

   →問屋制家内工業(18C)=問屋による原料・道具の提供、内職で生産

・手工業をするには原料代や道具代などの元手がかかる。やりたくてもお金がないと始め られない。ここに問屋が登場して原料や道具を用意してくれ、 農民は家で働くだけで収入を得ることができるようになる。これが問屋制家内 工業であり、内職による生産が開始する。

     ex)織物、製紙

・愛知県の場合では綿織物が問屋制家内工業で生産される。そのためには綿を地元で作っ ていることが欠かせない。三河木綿の場合、安城村では畑の半分は木綿栽培に充てていた。これを使って農家のおかみさんが機織りをして、近くの花園村(豊田 市)の買い継ぎ問屋に出した。毎年2〜3万反の木綿を買い集めて江戸に送っていたという。
・綿は乏水地帯でもよく取れる。岩倉付近の島畑地帯でも綿作がおこなわれ、尾西で縞木綿に織られる。
・問屋は綿を買って糸に加工させ、これを別の農家で織物に織らせ、それを集めて販売していた。出機と呼ばれる内職による生産である。
・知多半島にも綿畑がたくさんできたが、縞織のような複雑なものは織られず白木綿にされた。これだと高く売れない。有松絞りは白木綿に絞ったもので高級 品。一時は知多郡、愛知郡の農家の婦女10万人が絞りの内職をするほどだった。問屋から買い上げて藩の専売品となる。

※農業労働力への商業資本の収奪始ま る

・問屋がからんでくると、彼らはものを動かすだけで金を儲けるようになる。一方の内職 は儲からない。15年ほど前、有松絞りのハンカチは、1枚500円。絞り作業の工賃は1枚100円。難しいものは、1枚くくるのに1時間近くかかる。
・そのうちに内職をしている側では問屋から前金で労賃をもらい、働いて返す形が出てくる。利息分が上乗せされるのであり、商業資本が農民を搾取する結果となる。


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