13 幕藩体制の安定と産業の発達<文治政治への転換>

 江戸幕府は、その軍事力を背景に武断政治で大名を統制した。このため、相次ぐ改易によって大量の牢人が出現し、治安対策が大きな問題となってきた。 1651年に起きた(1)事件は、軍学者の(2)が牢人を結集して幕府転覆を企てたもので、幕府は武断政治を見直し、文治政治への転換を図ることになる。 文治政治は(3)の大義名分論に基づき、徳川支配の正当性と将軍の権威を強調し、封建的身分秩序の定着を目指したものであった。
 4代将軍となった(4)は、会津藩主の(5)の補佐を受け、家系断絶による改易を減らすために危篤後に養子を迎える(6)を緩和し、人質や殉死など、戦 国時代からの殺伐とした習慣を禁じた。
 続く5代将軍の(7)は、大老(8)の補佐を受け、儒学を興隆し学問を奨励するなど、本格的な文治政治への舵取りをおこなっている。それまでの儒学は、 臨済宗僧侶のたしなみとして学ばれていたが、家康に仕えた林羅山の孫(9)を還俗させて(10)に任じ、初めて儒学を仏教から独立させた。また、孔子を祀 る(11)を建立している。また、和歌の研究のための(12)を設立して(13)を任じ、暦の研究のための(14)を置いて(15)を用いている。しか し、(8)の暗殺後は将軍親政となり、側用人(16)が台頭することになる。この中で、継嗣に恵まれなかった(7)は迷信に基づく極端な動物愛護令である (17)を出し、護国寺などの寺院建立に多大な出費を重ねて社会の混乱を招いた。
 この時期、鉱山の産出量が減少したり、(18)によって江戸市街が焼失して再建費用がかさんだこともあり、幕府財政は逼迫するようになってきた。しか し、財政難の最大の理由は、文治政治への転換で武士の都市生活が向上し、一方的に支出が拡大したことにあった。幕府は勘定奉行配下の役職として(19)を 新設して(20)を任じ、財政再建にあたらせた。(20)は、従来の慶長小判に対し、低品位の(21)を大量発行し、出目を稼ぐ方策を打ち出したが、結果 として物価の高騰を招き、幕府財政を抜本的に立て直すことはできなかった。
 (7)は継嗣のないまま死去し、6代将軍には甥の(22)が就任した。彼と7代将軍(23)の二代に渡り、侍講として仕えた儒学者が(24)であり、文 治政治の最盛期を築くことになった。この時期の政治を(25)と呼んでいる。将軍権威の高揚のため、儀礼や典礼の整備が図られる一方、名分論の立場から (26)の待遇を簡素化し、将軍呼称をそれまでの「日本国大君」から「(27)」へと改めさせている。また、名分論に基づけば朝廷を敬うことは不可欠であ り、新たに親王が継承する宮家として(28)を設置している。経済政策としては、物価の安定のために高品位の(29)を発行したが、貨幣の退蔵を招いて混 乱を招くこととなった。(24)は金銀の国外流出を防ぐため、(30)を出し、長崎貿易を制限する措置をとっている。
 忠孝を強調する文治政治は社会の安定に寄与したが、(31)事件では敵討ちと将軍裁決という異なる道徳律が衝突し、早くもその限界が示されている。

<解答>
(1)慶安 (2)由井正雪 (3)儒学(朱子学) (4)徳川家綱 (5)保科正之 (6)末期養子(7)徳川綱吉 (8)堀田正俊 (9)林信篤  (10)大学頭 (11)湯島聖堂 (12)歌学方 (13)北村季吟 (14)天文方 (15)渋川春海 (16)柳沢吉保 (17)生類憐みの令  (18)明暦の大火 (19)勘定吟味役 (20)荻原重秀 (21)元禄小判 (22)徳川家宣 (23)徳川家継 (24)新井白石 (25)正徳の 治 (26)朝鮮通信使 (27)日本国王 (28)閑院宮家 (29)正徳小判 (30)正徳新令 (31)赤穂


<幕藩体制下の農業・諸産業の発達>

 江戸時代は幕府の小農独立政策もあり、耕地面積の拡大が図られた時期である。土木技術の進歩は大規模な開発を可能とし、新たに耕地を開く(1)が各地で 展開した。この結果、18世紀初頭には全国で(2)町歩の耕地が確保され、100年間でほぼ倍増している。この時期に開かれたのは大河川流域の低湿地や洪 積台地上であったが、その形態には村人がおこなう(3)、幕府や藩がおこなう(4)や藩営新田、町人がおこなう(5)などの区別があった。
 一方、(1)の進行は肥料を採取する入会山野の減少をもたらした。このため、(6,7)など(8)と呼ばれる即効性の購入肥料を投入する必要性が強ま り、生産性が高められた。また、進んだ農具も開発され、深耕可能な(9)、水車よりも簡便な灌漑設備である(10)、扱き箸に代わる脱穀具である (11)、風選の道具である(12)、しいなを選別する(13)などが登場し、生産の効率が著しく高まった。さらに農業技術の普及のために農書が出版され た。近世初期に(14)が著わした「(15)」では五穀の栽培を中心に論じ、(8)に頼らず除草の徹底を勧め、後期に(16)が著わした「(17)」で は、商品作物栽培の技術を紹介している。商品作物としては、四木と称された(18~21)、三草と称された(22~24)の他、衣料革命・燈火革命をもた らした(25,26)の栽培が盛んとなった。この中で、(27)の藍、(28)の紅花など、藩の国産奨励策で特産地も形成されている。
 しかし、このような農業技術の進歩は全ての農民に恩恵をもたらしたわけではなかった。商品作物栽培には大量の(8)の投入が欠かせず、相場にも左右され るところから、投資に対して十分な儲けを獲得できた者と失敗した者との格差が激しかった。こうして、自給的な農村に投機的な農業生産がもたらされること で、貧富の差が拡大するようになったのであり、それはやがて富農による土地兼併、貧農の没落という階層差に発展するのである。
 (8)の大量投入を可能にしたのは漁業技術の進歩であった。網を用いたいわゆる(29)が全国に普及し、九十九里浜などでは(30)で鰯を大量に漁獲 し、これを(6)に加工している。また、加工技術の進歩によって漁場も拡大し、特に(31)では、商人が請負った「場所」でアイヌなどの労働力を使った漁 場経営がおこなわれ、中国向け輸出品の(32)や(8)として上方に送られた(33)などが生産された。土佐で獲られた鰹も長期保存可能な鰹節にされて出 荷されている。
 鉱業は(34,35)の金山や(36,37)の銀山が栄えていたが、元禄期から鉱脈の枯渇が進んだ。このため、代わって銅山の開発が進められ、 (38,39)などが重要となった。
 手工業では、17世紀には農間余業としておこなわれる(40)が主流であったが、18世紀には問屋資本が原料や道具を供給し、内職で農家に生産を委託す る(41)が始まった。ここでは収益の大半を問屋が獲得することになり、農業労働力に対する商業資本の収奪が開始されることになる。

<解答>
(1)新田開発 (2)300万 (3)村請新田 (4)代官見立新田 (5)町人請負新田 (6)干鰯(7)油粕 (8)金肥 (9)備中鍬 (10) 踏車 (11)千歯こき (12)唐箕 (13)千石とおし(14)宮崎安貞 (15)農業全書 (16)大蔵永常 (17)広益国産考 (18~21) 茶、桑、楮、漆 (22~24)麻、藍、紅花 (25)木綿 (26)菜種 (27)阿波 (28)出羽 (29)上方漁法 (30)地引網 (31)蝦 夷地 (32)俵物 (33)ニシン粕 (34,35)佐渡、伊豆 (36,37)生野、石見 (38,39)別子、阿仁 (40)農村家内工業  (41)問屋制家内工業


<幕藩体制下の商業の発達>

 三都のうち(1)は政治の中心であり、多くの大名が参勤交代で訪れたところから、武士の人口が半ばを占めていた。100万人の人口を数えたが、後背地の 関東が未開発であった頃は、物資の供給を(2)に依存していた。(2)は「天下の台所」と称される商業都市、(3)は宗教・工芸都市としての色彩を帯びて いた。
 年貢米や専売品など大名の商品を(4)と呼び、大消費地で売りさばく必要から(1)や(2)の(5)に保管され、(6)が販売し、(7)が代金を管理し て国元に送った。これらの仕事は武士が担当したため(8)と総称されたが、後には御用商人が請負うようになる。一方、民間の品は(9)と呼ばれて(10) が扱っていた。重い荷物は船舶輸送に依存するため、西国や北陸・奥羽の物資は(11)航路によって(2)に運ばれ、ここから上方の市場に流れていった。こ の航路に就航し、北国と上方の流通を支えた船を(12)と称している。一方、関東や東北の物資は(13)航路と利根川の水運によって(1)に集積された。 全国の物資の過半は(2)に集まっていたことになり、上方での余剰は(1)に出荷されることになる。この荷積みを担当したのが(14)と呼ばれる組合で、 荷受けは(15)が担当した。上方と(1)を結んだ航路が(16)である。一方、天領の米は浅草御蔵に集積され、旗本や御家人に支給された。彼らは必要に 応じて(17)で換金し、残りを飯米としていた。なお、(7)や(17)は武士の物資を扱ったことから、それらを担保にして金融もおこなうようになった。
 当初、幕府は楽市楽座の政策の流れを汲み、特権的な組合の結成を禁じていた。しかし、やがては経済統制の必要から認可するようになり、この組織を (18)と呼んだ。(14,15)はその例であり、(19,20)という一種の税を幕府に納めていた。
 貨幣制度は三貨制と称され、金銀銭の異なった貨幣が流通していた。金貨は小判などの定位貨幣で(1)を中心に使われ、銀貨は(21,22)などの目方が 一様ではない(23)であり、(2)を中心に流通した。銭貨は庶民の通貨であった。それぞれ幕府支配の座で鋳造されたが、異なる流通地域間では両替が必要 となり、(24)がこれに従事した。(1)の(25)、(2)の(26)はその代表である。(25)はもともとは呉服商を営んでいたもので、勃興する庶民 を相手に「(27)」と呼ばれる商法で巨利を成した。一方、大名は年貢米などを担保に手形を発行し、これが貨幣の一種として流通した。(28)と称される 紙幣がこれで、乱発されてインフレを招く一因となった。
 (29~33)の五街道など、陸上交通網は参勤交代の便宜を図るため、幕府の道中奉行の手で整備された。途中の宿場には参勤の大名が宿泊するための (34,35)、荷物の継立てのための(36)が置かれ、庶民の宿泊施設である(37)も充実した。また、治安の維持のため(38)が設置された。一方、 水上交通では、京都の豪商(39)が富士川や(40)を整備し、(41)が(11,13)航路を開いている。(16)には(42,43)と呼ばれる船が就 航し、後者は上方の酒を(1)に運んだ。

<解答>
(1)江戸 (2)大坂 (3)京都 (4)蔵物 (5)蔵屋敷 (6)蔵元 (7)掛屋 (8)蔵役人 (9)納屋物 (10)問屋商人 (11)西廻 り (12)北前船 (13)東廻り (14)二十四組問屋 (15)十組問屋 (16)南海路 (17)札差 (18)株仲間 (19,20)冥加、運 上 (21,22)丁銀、豆板銀 (23)秤量貨幣 (24)両替商 (25)越後屋 (26)鴻池屋 (27)現金掛値なし (28)藩札  (29~33)東海道、中山道、甲州道中、奥州道中、日光道中 (34,35)本陣、脇本陣 (36)問屋場 (37)旅籠 (38)関所 (39)角倉 了以 (40)保津川 (41)河村瑞賢 (42)菱垣廻船 (43)樽廻船


<江戸時代の文化(1)>

 江戸時代の文化は前半の元禄文化と後半の化政文化に大別される。元禄時代は文治政治への転換が図られたこともあり、儒学を始めとする学問の興隆が著し かった。儒学のうち、幕府が保護したのは、(1)論を唱えて君臣の別を強調し、幕藩体制を維持するのに役立つと考えられた朱子学であった。これは南宋の朱 子が唱えた考えで、もともとは京都五山の僧らが研究していた。その結果、京都に形成された学派が(2)と呼ばれるもので、相国寺の僧・藤原惺窩が(3)に 教えを講じ、彼が家康に仕えたところからこの家系が官学の扱いを受け、林家と呼ばれた。(3)の孫の(4)は還俗して大学頭に任じられ、仏教から儒学が分 離したことにより、儒学は名実共に幕府の御用学問となってゆく。一方、木門と呼ばれた(5)の系統からは多くの侍講が輩出した。6代将軍に仕えた(6)、 8代将軍に仕えた(7)はこの系統である。対馬藩に仕え、日朝の文化交流に尽くした(8)も木門の学者であった。
 戦国時代の地方学派のうち、土佐の南学からは谷時中、野中兼山らが出た。ここで注目されるのは崎門の祖となった(9)であり、儒学と神道との習合を唱え て(10)を提唱した。朱子学の(1)論を推し進めると天皇の存在が問題となる。(9)は神の道と天皇の徳は一致すると主張し、ここから天皇を尊ぶ (11)が生まれてゆく。なお、一般に儒学を普及させた朱子学者としては、「(12)」などで子供が守るべき道徳を示した(13)がいる。
 朱子学に対し、明代の王陽明が唱えた陽明学は「(14)」と呼んで実践を重んじ、革命的な考えも含んでいた。日本では近江聖人と呼ばれ、藤樹書院を開い た(15)がこの学の祖である。体制に批判的な学派であると見なされ、池田光政の侍講となって「(16)」を著わした(17)は、参勤交代など幕政を批判 した罪で下総古河に流がされている。
 朱子や王陽明という後代の学者の説に飽き足らず、孔子や孟子の原典を重視したのが古学である。古学も御用学問の朱子学には批判的な面を持つため、「聖教 要録」を著わした(18)は赤穂に流されている。この学派を広めたのは京都で(19)という塾を開いた(20,21)父子であり、その学派は古義学派とか 堀川学派と呼ばれている。一方、幕藩体制の動揺が問題となると、その再建のための方策が古学の学者から提示された。(22)は、財政難の原因として、武士 が都市に居住して消費生活を拡大させたことを指摘し、帰農を提唱して「政談」を著わした。その弟子(23)は、貨幣経済の利用が財政再建につながるとして 専売制の強化を主張し、「(24)」を著わしている。
 歴史学では、正史である「(25)」を林家が編さんしたが、重要なのは水戸藩が編さんに着手した「(26)」であろう。水戸藩では、この中で尊王論を特 徴とする水戸学が形成され、幕末の尊王攘夷運動に影響を与えた。この他、(18)は「中朝事実」「武家事紀」を著わし、新井白石は三大史論のひとつ 「(27)」を著わして歴史を発展段階によって把握しようとした。また、「古史通」では古代史研究の方法を示している。
 一方、古典の研究も盛んとなった。それは形骸化した和歌を自由に研究する立場から始まり、戸田茂睡、下河辺長流などが煩雑化した和歌の規則を批判した。 ここから、それらの規則が整備される以前の「万葉集」が注目されるようになり、(28)が「万葉代匠記」を著わしてこの学の嚆矢となった。また、(29) は幕府歌学方に任じられている。続く(30)は、従来の古典研究が鑑賞だけに終わっていたと指摘し、儒学や仏教の影響を受ける前の古典には日本人本来の精 神が隠されていると主張した。こうして成立したのが(31)であり、次の時代に本居宣長によって大成される。
 実学の分野も発展が見られた。農学では(32)が「(33)」を著わして五穀を中心に栽培法を記し、農業の発展に寄与した。また、薬用の動植鉱物を研究 する本草学の分野では、(13)は「大和本草」を記し、(34)は「庶物類纂」を著わしている。戦国時代以来の土木工事や検地などのため、日本で独自に発 達した数学を和算と呼ぶ。吉田光由の「塵劫記」の後、(35)が円周率を発見して「(36)」を著わし、和算の到達点を示した。天文・暦学では、幕府天文 方となった(37)が授時暦をもとに(38)を作り、長期にわたる宣明暦の使用でずれた天体の運行と暦との差を正している。さらに、医学では山脇東洋の 「蔵志」が初の解剖書として世に出ている。鎖国時代の日本では、外国の事情がなかなかつかめなかったが、新井白石は密入国した宣教師シドッチを尋問し、 「(39)」をまとめた。これはヨーロッパの事情を知る本として貴重なものとなった。
 元禄時代の文学では俳諧、小説、戯曲のジャンルで傑出した人物が出ている。俳諧は連歌の前句付けから発展したもので、もともとは滑稽なものをよしとして いた。初めは(40)が率いていた貞門派が力を持ったが、続く(41)は貞門派の俳諧作法を排して斬新奇抜を売りにし、談林派を創始している。このような 滑稽な俳諧に対し、侘び、寂びの文学性を持たせたのが(42)である。この俳諧を(43)と呼び、人生を旅と捉えて吟行した「(44)」は俳文の代表と なっている。当時は地方でも俳諧をたしなむ人口が拡大し、(42)のように俳諧師・点者として生活できる者が増えていた。
 小説では、室町時代の御伽草子をもとにひらがな書きの平易な絵入り読物である仮名草子が発展した。ここから世相に題材を取った(45)が発生する。この 代表的作者が(46)で、彼はつらい「憂き世」を「浮き世」と置き換え、人間の欲望などを肯定的に捉える作品を残した。「(47)」に代表される好色物の 他、才覚による商人の成功譚である「(48)」、貧しい庶民の姿を描いた「(49)」などを残している。
 戯曲では、人形劇である(50)が人気を博した。(51)はその脚本家であり、義理と人情の板挟みになる人々が登場する多くの作品が世に出された。 「(52)」など、当時は厳禁されていた心中を扱ったものに特色がある。これらは(53)の名調子で語られ、その節回しには彼の名前が付けられている。
 一方、歌舞伎踊りは出雲阿国に始まる女歌舞伎が禁じられ、続く若衆歌舞伎も取り締られたため、踊りよりもストーリーに主眼を置く野郎歌舞伎へと発展し た。このため、歌舞伎の女役は男優が女装して務めるしきたりとなっている。江戸では荒事という立ち回りを得意とした(54)、上方では恋愛描写などの和事 を得意とした(55)、女形の(56)が人気を集めた。
 建築・美術のジャンルでは、家光の時期の寛永期と、綱吉の時期の元禄期に分けてながめることができる。寛永期には対照的な建築物が造られており、その一 つが徳川家康の霊廟の(57)である。権現造と呼ばれる独特の建築様式で、安土桃山時代の建築の流れを汲んで彫刻と極彩色で覆われている。もう一つは後水 尾天皇の弟が別邸として建てた(58)であり、茶室建築から発展した(59)と呼ばれる閑雅な書院造の建物で、日本建築の到達点を示すものと言われる。
 絵画では、寛永期には狩野派の(60)が幕府に保護され、多くの障壁画を描いたが、以後の狩野派はマンネリに陥っていった。大和絵では(61,62)が 幕府に保護され、(63)が朝廷に保護されている。しかし、このような権威に連なる伝統絵画よりも、寛永期には上方の豪商をスポンサーとする新しい絵画 ジャンルが成立している点が重要である。(64)が創始した(65)がそれであり、デフォルメと独特のデザインに特色がある。金箔地に想像上の鬼神を描い た「(66)」はその代表作である。また、蒔絵や陶器のジャンルでは、京都郊外の鷹ヶ峯に芸術村を作った(67)が活躍している。
 続く元禄期には、上方の豪商に支持された芸術がさらなる発展を見せた。絵画では、(64)の影響を受けた(68)がこのジャンルを大成させている。京都 の呉服織物商出身の彼は、対象を写生するのではなく抽象化、象徴化してデザインした。独特の波紋の両側に梅を描いた「(69)」が代表作である。また、近 世初期に好まれた風俗画は、近景の一場面をクローズアップして描くように変化し、(70)と呼ばれるジャンルを確立した。(71)は江戸吉原の現実の女性 を描いた点で(70)の創始者とされ、「見返り美人図」がその代表作である。これは、後に多色刷りの版画に仕立てられるようになる。
 陶芸では、朝鮮侵略の際に連行された朝鮮の陶工が九州で磁器を焼き、有田焼が始まっていたが、(72)は独特の赤絵の作品を完成させている。この技術は 京焼に受け入れられ、(73,74)が受け継いでいる。
 大量に輸入された生糸は高級絹織物に加工されたが、これに細かい絵柄を描くために考案されたのが(75)の技法である。糊で防染して染色するこの技法は (76)によって確立されている。
 寺請制度の展開の中、仏教界は沈滞していったが、その中で明から(77)が渡来し、新たな宗派として日本に(78)をもたらした。宇治の万福寺がその本 山となった。

<解答>
(1)大義名分 (2)京学 (3)林羅山 (4)林信篤 (5)木下順庵 (6)新井白石 (7)室鳩巣 (8)雨森芳洲 (9)山崎闇斎 (10)垂 加神道 (11)尊王論 (12)和俗童子訓 (13)貝原益軒 (14)知行合一 (15)中江藤樹 (16)大学或闘 (17)熊沢蕃山 (18)山 鹿素行 (19)古義堂 (20,21)伊藤仁斎、伊藤東涯 (22)荻生徂徠 (23)太宰春台 (24)経済録 (25)本朝通鑑 (26)大日本史  (27)読史余論 (28)契沖 (29)北村季吟 (30)荷田春満 (31)国学 (32)宮崎安貞 (33)農業全書 (34)稲生若水  (35)関孝和 (36)発微算法 (37)渋川春海 (38)貞享暦 (39)西洋紀聞 (40)松永貞徳 (41)西山宗因 (42)松尾芭蕉  (43)蕉風 (44)奥の細道 (45)浮世草子 (46)井原西鶴 (47)好色一代男 (48)日本永代蔵 (49)世間胸算用 (50)浄瑠璃  (51)近松門左衛門 (52)曾根崎心中 (53)竹本義太夫 (54)市川団十郎 (55)坂田藤十郎 (56)芳沢あやめ (57)日光東照宮  (58)桂離宮 (59)数寄屋造 (60)狩野探幽 (61,62)住吉如慶、具慶 (63)土佐光起 (64)装飾画 (65)俵屋宗達 (66)風 神雷神図屏風 (67)本阿弥光悦 (68)尾崎光琳 (69)紅梅白梅図屏風 (70)浮世絵 (71)菱川師宣 (72)酒井田柿右衛門  (73,74)野々村仁清、尾崎乾山 (75)友禅染 (76)宮崎友禅 (77)隠元 (78)黄檗宗

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