13 幕藩体制の安定と産業の発達
<文治政治への転換>
[家綱・綱吉の政治]
A 武断政治の限界
   軍事力を背景とした大名統制

・言うことを聞かない大名は片っ端から取りつぶしてゆく。幕府の軍事力を背景に力でね じ伏せる政治を展開。
・1600〜1640年の改易数は198大名。

Q1 武断政治の問題は何か?

A1 主君がクビになれば家来も路頭に迷う。毎年5000〜8000人の浪人が出現していたとされる。

   →改易で多数の牢人出現

浪人 は失業者であるが身分は武士。武力も持っているので危険分子。これに対しては取り締まる方向であり失業対策はしてこなかった。町屋でも保証 人がないと家が借りられない。武家宅に寄宿することは禁止。
・戦乱があれば活躍できるため、島原の乱では一揆側にも幕府側にも浪人があふれた。
・浪人は大名に雇ってもらいたくて職探し。町奉行の石谷貞清は、在職9年間で700人の浪人の職を見つけ、退職後13年間で300人の浪人を就職させたと いうが、焼け石に水。

  =慶 安事件(1651) 由井正雪による反幕府牢人の結集、幕府転覆未遂

・1651年、家光は48歳で死ぬ。長男の家綱は11歳。家光の弟で会津藩主の保科正 之が補佐をすることになった。この7月に慶安事件が起きる。
・浪人は就職するため、武術や軍学を身につけようとする。由井正雪は軍学者 で浪人に講義をしていた。
・正雪は浪人を使えば幕府が倒せるとした。大風の日に火薬庫 に火をかけ、各地に放火。登城する老中を鉄砲で撃ち、江戸城を乗っ取る。指揮は槍の名手の丸橋忠弥。駿府でも事を起こし、久能山の金銀を軍資金として奪 う。正雪が指揮。大坂でも挙兵し、全国の浪人を集めて幕府を打倒しようとするもの。
・正雪は駿府に向かうが、7月23日夜、老中松平信綱のところに丸橋謀反の訴え。忠弥が秘密を漏らしたものとされる。借金取りが来て、いつまで待てば大金 が入ると言ったという話もある。
・火事だと叫んで丸橋が出てきたところを逮捕し、駿府の正雪は梅屋に投宿していたところを踏み込まれる。乗り物に乗って出るから待てと言い、中で自害。
・事件後、江戸の浪人を所払いしようという意見も出る。これに対し、地方に散らばれば就職の口もなくなり、山賊などになる可能性もあるので避けるべきとい う意見が出て取りやめとなる。その翌日、幕府は末期養子の禁をゆるめる。
・軍学者の正雪が、こんなことで幕府を倒せると思っていたとは考えられない。浪人の苦境を訴えるデモンストレーションだったとすれば、立派である。この事件をきっかけとして幕府の政策が変わっている。

Q2 力でねじ伏せる政策がダメだとすれば、どうやって大名を統制するのか?

A2 怖いから主人の言うことを聞くのではなく、主人のために命を捨てるのが家来であると思い込ませればよい。主君がどんなに馬鹿でも、そのために力を尽 くすのが家来であると思いこませれば、力でねじ伏せなくても大丈夫。

Q3 どうすれば思い込ませられるのか?。

A3 うってつけの学問が儒学だった。文治政治は儒学振興政策である。

B 文 治政治への転換
   武力に代わり、儒学により社会秩序維持
   徳川支配の正当化、将軍権威の強調、封建制身分秩序の定着

・儒学の名分論では主君と家臣は天と地の関係。天は天の役目、地は地の役目をすること で世の中は成り立つ。逆転しようとすれば世の中はひっくり返ってしまう。
・農民にもこれを説き、社会の安定を図った。儒学は幕府推薦の御用学問にな る。君臣の別、長幼の序、忠や孝という概念を徹底。
・主人のために尽くした者は表彰される。烈女の綱は14〜15歳の時に子守奉公に出る。赤ん坊を負ぶっているところに狼が出て喰われそうになる。赤ん坊を 守って自分は喰われたが、子供は無事。子供をほかって逃げれば助かったものを命を懸けて守ったということで表彰される。
・親孝行者も表彰される。親孝行の正助は、雨上がりに外に出ようとした。母親がぬかるんでいるから下駄を履いて行けと言うのでその通りにしようとすると、 父親はもう乾いたから草履でよいという。母の言うことを聞けば父に不孝となり、父の言うことを聞けば母に不孝となる。正助は片足に下駄、片足に草履で出て いった。親孝行だとして表彰される。
愚直なまでに目上の者に仕える人間が増えれば、幕府は安泰となる。

 1 4 代将軍家綱の政治(補佐=保科正之)

・家綱は11歳で将軍となったため、実際には自分では政治をしていない。病弱であり無 理は言わない性格。
・大老や老中による合議体制でまわす。江戸時代を通じ、これだけの合議体制は少なかった。たいていは将軍が前面に出るか、少数の有力者の合議で動いてい た。

    改易の緩和=末期養子の禁緩和(危篤後の養子認め家系断絶減らす)

・跡継がなくて改易となる大名が多かった。57家、400万石。1万石で235人の家 臣というのが規定なので、これだけで9万人を超える浪人を生んでいた。

Q4 跡継ぎがない時はどうするのか?

A4 跡継がないときは養子をとればよい。

・この時は幕府の許可が必要となる。実子ができるかも知れないので、なるべく養子を取 るのは先延ばししたい。そのうちに死にそうになったとき、慌てて養子を迎え るのが末期養子。しかし、本人は死にそうなので、正式な遺言に基づくものかどうかがわからない。幕府は禁止していた
・緩和により、50歳以下の者には末期養子を認めた

    殉死・

忠臣 は二君に仕えないという教えがあったため、殉死が生じる。名のある大名が死ぬと、家臣が後追い自殺をするのが流行。その数が多いと、名君と 言われた。
・定光寺にも義直に殉じた家臣の墓が建てられている。
・義腹=君臣の義を重んじて純真に殉死するもの。論腹=あいつが死ぬなら自分もというもの。商腹=自分が自殺すれば子孫が出世できるだろうというもの。
・馬鹿らしい習慣だとして、1663年、殉死を禁止。その後 も宇都宮藩で殉死があったので、幕府はその子を斬罪にし、藩の領地も削減した。以後はほとんどなくなる。

    人質の禁

・1665年、幕府は諸大名が出していた証人=人質を廃止。
殉死の禁と人質の禁が二大美事とされる。

 2 5 代将軍綱吉の政治(補佐=堀田正俊)

・保科正之がいなくなってから、大老の酒井忠清の専制体制となる。
・1680年、家綱は跡継がいないままで40歳で死亡。酒井は次の将軍を有栖川宮家から迎えることを提案した。鎌倉幕府と同じく、将軍は飾り物でよいと考 えた。
・老中の堀田正俊や水戸光圀は家綱の弟(家光の4男)の館林城主・綱吉を迎えるべきだと主張。
・家綱とは違って自分で政治を動かす。酒井忠清を免職し、堀田正俊を重く用 いる。大名でも過ちがあればすぐに閉門にする果断さ。正俊は大老となる。

    儒学興隆

・儒学が好きで家来たちに講義をした。7年間で240回の講義をおこなっている。家来 にとっては迷惑。

Q5 儒学は、日本ではどういう者が最初に学び始めたのか?

A5 五山の僧である。したがって、儒学は仏教の一部であり、儒学者は僧侶だった。

儒学 は家康の時、林羅山が奉公して盛んとなった。家綱に至るまで、侍講として朱子学を講じる。羅山は法印位を持つ僧侶の扱いで、儒学者としては 独立していない。

     ex)湯島聖堂建立、林信篤大学頭任命

・綱吉の時は羅山の孫の信篤の時代。上野忍ヶ丘に屋敷をもらっていたが、その孔子堂が 小さかったため、綱吉は神田湯島に移して湯島聖堂とする
・聖堂には林家の附属学問所があった。聖堂は官立となり、学問所も公的なも のになる。信篤を還俗させて大学頭(かみ)に任じ、仏教と儒教を分離した。大学頭は林家が代々世襲する。

    学問奨励 ex)歌学方(北村季吟)、天文方(渋川春海)設置

・碁で仕えた安井家の安井算哲は子供の頃から天文学に興味。12,3歳で竹筒で北極星を観測 し、わずかに日周運動をしているのを発見。天文方に任じる。
天文方の仕事は暦の管理が大切。旧暦は太陽の動きをもとに 正月を決め、ひと月は月の満ち欠けで決める太陰太陽暦。1年は365日だが、新月から新月は29.5日なので、年間に10日ほどの誤差が出る。ほかってお くと、1年が短いから秋のうちに正月が来てしまう。そのため、17年間に5回の閏月を作って1年を13カ月にして調整する。この時、大の月30日にする か、小の月29日にするかで日にちを調整。
・当時の暦は唐の宣明暦を使用。862年に採用したもので 800年余りそのまま用いていた。太陽の運行では、1年は365.2425日。これを365.2446日と計算していたため、800年間のうちに実際の太 陽の動きに対して2日のずれが生じてきていた。月食があるはずの日になかったりする。
・算哲は幕府に迫って新暦の必要を訴え、元の授時暦をもとに貞享暦を作る。 1年は365.2417日。幕府は天文方を設置して算哲を雇い、以後、暦も幕府管理となった。算哲は祖先の氏に戻って渋川春海とする。

    but堀田の死後、側用人・柳沢吉保台頭

・正俊は1683年、江戸城内で若年寄の稲葉正休によって暗殺される。淀川改修工事で 意見が合わなかったためという。
・この後、綱吉は大老を置かず、親政をおこなう。老中御用部 屋と将軍のいるところは近かったが、安全を考えて御用部屋を移した。このため、将軍と老中との連絡役が必要となった。これが側用人。
・抜擢された柳沢吉保は館林時代から綱吉に仕えていたもの。 元は160石に過ぎなかったが加増されて川越7万2千石の大名になり、その後は甲府15万石。言いなりになっていた人。太宰春台は、綱吉は男色で、吉保は その対象だったという説を述べている。
・綱吉は気まぐれ的に気に入った者を登用し、疳に障るとクビにする。諫める者がいなかった。改易数も綱吉時代にはまた増えている。

   社会の不満と財政難を招く
    =生類憐みの令、

・綱吉の母は京都の町家の娘でお玉といった。これが玉の輿に乗って綱吉を生んでいる。 お玉がいいところに嫁に行くと予言したのが隆光で、お玉が帰依していた。
・綱吉の長男は5歳で死ぬ。以後は子供ができない。隆光によれば、子がないのは前世で殺生をした報い。戌年生まれなので犬を大事にすれば跡継ができるとし た。
・1685年、綱吉の前に犬が出ても構わないとしたのを初めとして、だんだん厳しくなる。生類憐れみの令という。病気の生類を捨てることを禁じ、食料のために魚 鳥、亀、貝を売ることを禁止。犬を登録していなくなったら徹底的に探せ。
・小姓の中には蚊を叩いて流罪となった者も出る。只越甚太夫は5歳になる子がいて病気となり、燕を食べさせるとよいとして吹き矢でとったところ、親子とも 斬首された。
・下水は道にまかない。ボウフラを踏みつぶすとかわいそう。犬が病気になると犬医者に連れてゆく。犬を飼っていると面倒なので野良犬が増える。食いついて も黙ってないといけないため、幕府は1695年、四ッ谷、大久保、中野の3カ所に犬小屋を建てて野犬を収容。中野は16万坪あり、4万2千頭を収容。 290棟の建物が並び、一日に米2合の餌。その後に増えて8万匹になり、年間の費用が9万8千両。費用は江戸町人から出させる。死ぬまで継続。それでも跡 継は生まれない。

     寺院造立

護国 寺は綱吉が生まれたとき、将来は将軍になる予言した亮賢を住職とした。護持院は亮賢の勧めで迎えた隆光を住職とし、いずれも祈祷をさせる。
・他にも寺領を寄付したり造営したりで金を使う。

       cf)赤穂事件

・儒学を盛んにしたい幕府にとって、面倒な事件が発生。
・吉良上野介が浅野内匠頭に松の廊下で伐られる。吉良家は足利時代からの名門で、朝廷のもてなしなど儀式を主催する係。三河吉良に4000石の領地。61 歳で、この時は京都から来る勅使もてなしのために活動。浅野は播州赤穂5万石で、もてなしの手伝いに来ていたが、田舎侍と罵られたのがしゃくに障って伐っ たものらしい。吉良は3カ所伐られたが、浅野はすぐに取り押さえられたため、命は無事。
・吉良は手出しをしなかったのでお構いなし。浅野は切腹。喧嘩両成敗の原則からいけば、浅野だけ切腹というのは問題がある。
・取りつぶしになったので赤穂城は明け渡し命令。家臣はどうしたらよいか。主君に忠誠を誓うのが家臣。儒学の教えに従えば、(1)主君の後を追って殉死す る。(2)主君の敵を討つために明け渡しを求めてきた兵と戦う。(3)幕府の言うことに従うのが教えにかなうとすれば黙って明け渡す。このうちいずれも成 り立つ。城代家老の大石内蔵助を中心に相談したが、明け渡すことにした。このため、だらしないと評判が立つ。
・大石は敵討ちを考える。敵討ちは江戸時代では禁止されていない。敵討ちを考えた同志が集まり、扇子売りに化けて本所の吉良邸の中を偵察する。侍が50 人、雑兵が150人もいる。
・12月14日の夜、討ち入りを計画。46人で明け方に決行。47士というが、そのうちの一人は決行直前に逃げてしまった。2時間戦うが吉良は逃げる。炭 小屋に隠れているところを見つけられて討たれる。
・一行は高輪泉岳寺に入って処分を待つ。

Q6 主人の敵討ちをしたのだから、家臣としては役目を果たした。室鳩巣は前代未聞の 忠義だとして賞賛している。しかし、赤穂義士は切腹を命じられている。どうしてか?

A7 荻生徂徠は「綱吉の裁定が気に入らないから敵討ちをしたとも考えられる。義ではあるが私である。殿中で刃傷をすれば罰せられて当然。幕府の許可も取 らずに勝手に騒動を起こしたのはけしからん」とし、武士らしく切腹となった。

・儒学を盛んにして忠孝を重んじると言ったのに、忠臣を切腹させたのはおかしいという 批判が庶民から出る。「忠臣蔵」の創作になった。一連の事件を赤穂事件と 呼ぶ。

[財政の破綻]
  鉱山産出量減少、

・佐渡金山の産出量は年間4〜500万両。これがほとんど枯渇してしまう。
・銀は5〜6000貫あったものが10分の1になる。

  明暦の大火

・1657年、明暦の大火。江戸の町の3分の2が焼ける。10万人が死亡して江戸城も 焼ける。
・振袖火事の異名。ある家の娘が死に、着ていた紫縮緬の振袖が古着屋に流れる。これを買った娘が死に、またそれを買った娘が死んだ。3家の親が相談して本 妙寺で振袖を供養して焼くことにした。本堂前で焼却中、振袖が風で舞い上がって本堂屋根につき、出火したという。
・火災後、江戸の町を再建。寺社を郊外に移し、大名屋敷も江戸城から離す。火除け地として広小路を作る。本丸再建だけでも100万両近い出費。
・江戸城天主にしまってあった400万両近い財産に手を着けざるを得なくなる。

Q7 財政難の理由は別のところにある。何か?

A7 文治政治に転換し、贅沢しなければならなくなったのである。

  文 治政治への転換で都市生活向上、支出拡大

・文治政治は武力でなく権威によって従える。そのためには刀も単に切れるものではな く、蒔絵などで飾りを施したりして見栄えをよくすることが肝心。文治政治は 金がかかる
・今でも同じ。例えば時計は時刻がわかればよい。100均でも売っている。しかし、ロレックスの時計なんかをしている人を見ると、金持ちだなと思ってしま う。持ち物で権威を示すのである。
・武士の体面を保たなくてはならない。

Q8 体面を保つのに必要なのは何か?。無理して体面を保つ武士を表した言葉は何か?

A8 召使いも雇わなくてはならないし他の武士との交際費も馬鹿にならない。自分の生活費を切り詰めて召使いを雇って遊ばせておき、食うものも食わずに中 元や歳暮を贈っていたのである。「武士はくわねど高楊枝」。

・綱吉はよく大名の屋敷にお成りに行く。行く方も迎える方も権威を示す場。下賜品を 持って行き、大名は献上品を出す。加賀藩がお成りを受け時はお成り御殿を造る。20万人の大工手間を要して48棟の御殿を建て、料理は1万人分。20万両 の金をかけたが御殿は2年後に焼失。借金返済に10数年かかる。
財政難は構造的な問題であり、解決は難しい。

   →勘定吟味役(後、勘定奉行)荻原重秀の登用

勘定 吟味役の荻原重秀は、銀を混入した小判の発行を建議。

   貨幣改鋳(低品位で大量発行)
     ex)元禄小判(金57%、cf)慶長小判84%)

・慶長小判は金の含有率が84%あり、たいへん優秀だった。仮に銀を混ぜて42%のも のを作れば、2りょうとなり、1両分が幕府の儲けとなる。これを出目という。実際には金57%の元禄小判を出した
・低品位の金貨は1390万両、銀貨は40万貫を出す。旧貨と引き替えさせたが、実際には旧貨は死蔵されてゆく。
・幕府は出目を得て儲かる。500万両の儲け。

Q9 低品位貨幣を出すと物価はどうなるのか?

A9 低品位貨幣では同額面では売りたくないため物価が上がる。

     →物価上昇

[正徳の 治]
  家宣、家継の侍講・新井白石の政治

・1708年、綱吉は子供が生まれないまま麻疹で死ぬ。後継者の家宣は綱重の子供(家光の孫、綱吉の 甥)。臨終の場に家宣は呼ばれ、生類憐れみの令を100年守ることを遺言される。
・家宣は自己主張はしないが名君の一人とされる。家宣は綱吉の遺体が棺に納められないうちに憐れみの令の撤廃を決める。8831人を大赦。大老の柳沢吉保はクビに なる。
新井白石を侍講として学ぶ。講義は毎日、19年間。平凡だ が学問好きだった。
・白石の父は上総の土屋家に仕えた武士。白石に対し、「男子は、ただ耐えることを習うべき。それには一番耐え難いことから始めることだ」。8歳の時から一 日4000字を書くことを義務づける。
・父はお家騒動に巻き込まれて浪人となった。母も死んで学費が出せなくなる。河村瑞賢が孫娘を嫁がせる替わりに3000両の学費を出してやろうと提案。白 石は拒否した。「小さな蛇に傷を付けた。大蛇になったときに見ると、その傷は大きくなっていた」。
木下順庵門下になる。林家の官学に対して木門は私学。加賀 前田家から侍講の募集があったときに順庵が推薦してくれた。しかし、白石は断って加賀出身で老母を抱えた岡島石梁を推薦した。
・甲府の家宣から侍講の口が掛かり、37歳で就職。家宣が将軍になると江戸についてくる。
・綱吉に信任されていた林信篤と対立。夫を父親に殺された娘が訴える。父の罪は当然だが、父を娘が訴えたのは親不孝なので、これも罪になるのではないかと いう議論。信篤は「夫の替わりはいるが父の替わりはいない」として娘にも罪があるとした。白石は「女三従」の教えを持ち出し、娘は嫁げば夫に従うのだか ら、父を訴えたのは当然と言う。

A 文治政治の推進

儒学 者の新井白石が政治をおこなう。典型的な文治政治になる。

   儀礼・典礼の整備
   朝鮮通信使の待遇簡素化=将軍権威高揚
   (「日本国王」の呼称←「日本国大君」)

儀礼 や典礼を重々しくおこなうと、主人である将軍の権威は上がる。この発想で朝鮮通信使の待遇を悪くした。
・朝鮮通信使は莫大な費用をかけて下にも置かないもてなしをしていた。6隻の船で瀬戸内経由で大坂に上陸。ここから陸路15〜16日。近江では朝鮮人街道 が作られる。並木を植えて砂を多く撒いたよい道。2000人の行列、正使の輿は30人で担ぐ。往復では5〜8カ月かかり、幕府は5万両の金を使った。1両 1石とすれば、桑名藩など10万石の大名の年収に匹敵する金額。そこまで金をかける必要があるのか。
・将軍は天皇によって任命されている。しかし、全国の主権者。国書は「日本 国大君殿下」宛に「朝鮮国王」名で来る。日本側は「日本国源某」で返しているので釣り合わない。「日本国王」と改めさせた。
・煙草盆なども簡略にしたため、朝鮮側が扱いが急に悪くなったとして不満。費用は60%をカットできた。

   閑院宮家の創設=朝廷への礼節

Q10 どうして朝廷を大事にしようとしたのか?

A10 朝廷は幕府の権威の源泉だからである。

・宮家は伏見、有栖川、京極だけ。皇子の継ぐべき家がないときは出家。徳川の方は御三 家以外でもどこかの大名にしてもらっている。
・東山天皇の皇子のために閑院宮家を設けた。

B 経済政策
 1 物価の安定

家宣 が死んで家継が就任。
・元禄小判の問題は物価上昇を招いた点だった。しかし、幕府財政は荻原重秀にしかわからず、クビにできなかった。「徳ある者は才がない。徳のない重秀を雇 うのは残念」と言うが、白石にも策がなかった。
・1712年、白石は重秀の些細な罪を弾劾してクビにすることに成功。クビにしなければ殿中で差し違えるとまで言っている。

Q11 物価を下げるにはどうするのか?

A11 逆の発想なら高品位貨幣を発行することである。

     =高品位貨幣の発行 ex)正徳小判

・貨幣改鋳を計画。旧貨の信用は落ちて物価はいっそうに上昇。米の値段は倍。
1714年に金84%の正徳小判を発行。

       but貨幣退蔵招き通貨量減少して混乱

Q12 良貨を出したが物価は下がらない。どうしてか?

A12 高品位だと死蔵されて流通しない。「悪貨は良貨を駆逐する」。

経済は余計に混乱。荻生は病気を治すのに劇薬を用いて失敗 したという。
・元禄時代は経済が活性化し、大量の貨幣が必要。重秀が貨幣改悪で大量に貨幣を発行したのはある面で理にかなっていたと評価する考えもある。ただ、重秀に その考えがあったわけではなく、無節操に実施しただけ。

 2 長 崎貿易での金銀流出防止正徳新令(1715、 海舶互市新例、長崎新令)

・白石によれば1600年以降、100年足らずの間に金の4分の1,銀の4分の3が海外に流出。それで 生糸を買っていた。「金銀は国の骨格」とし、皮である生糸を買って浪費したと批判した。

    貿易量制限

正徳 新令を出し、隻数制限を実施して徹底させた。
・この頃、イタリア人のシドチがローマ法王の命で日本に密入国。チョンマゲを結って日本人に化け、屋久島に来る。木こりに助けられ、日本語で話しかけるが 全く通じない。長崎に送られ、ラテン語のできるオランダ人を仲介役に尋問。江戸に送られて白石が尋問続ける。
・1年間の幽閉で立てない状況。白石は衣服食料をあてがい、何度か話すうちに通訳なしで意思が通じるようになる。
・本国送還、禁錮、死罪の3つの選択のうちで真ん中をとる。シドチは白石を500年に一度の人物と評価している。
「西洋紀聞」はシドチ尋問記録。世界地理、天主教のことに ついて記してあるため読むことが禁じられる。そういうものがあることが知れて一部の者が読み、鎖国下で海外事情がわかるものとして重宝される。

    cf)諸藩の文治政治家
     =保科正之(会津)、徳川光圀(水戸)、池田光政(岡山)、前田綱紀(金沢)

・この時代の名君は、文治政治の路線で儒学を振興した人たち。保科=山崎闇斎を招く。 池田=熊沢蕃山登用し、藩学花畠教場、郷学の閑谷学校を作る。徳川=彰考館を作り「大日本史」編さん着手。前田=木下順庵招く。

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