<鎖国の完成>
[鎖国の目的]
A 貿易統制
   貿易の拡大→自然経済に基づく封建社会動揺、貿易商(西国大名)の富裕化

・西国大名では島津、松浦、加藤、鍋島などに朱印状を出して貿易を許可してい た。これ らが富裕化するのはまずい

   ∴幕 府による貿易独占必要

鎖国 は貿易をしないのではなく、幕府だけがおこなうという政策である。
・幕府が九州長崎、畿内諸都市を完全に掌握するためには、海外渡航を禁止するのが一番よい。

B キ リスト教禁教

・家康は貿易優先でキリシタン黙認。ルソンとの往来が激しくなり、フランシス コ会、ド ミニコ会、アウグスチノ会などの宣教師も布教に来る。

   キリスト教発展への不安 cf)信者数70万人

・1610年には、信者は蝦夷地を除いて70万人。大奥の女中にも信者が現れ る。
・新教国は布教する旧教国を中傷していた。キリスト教は侵略的植民地政策の手先、在来の神仏の敵、処刑した罪人を聖者としてあがめ日本の法秩 序を守らな い。
・実際には、キリスト教禁教徹底を図ることで国内人民統制が容易におこなわれると考えたとする説がある。スケープゴートを作るのである。

   =禁教令(直轄領1612、全国1613)
    改宗強制、宣教師・信者の国外追放 ex)高山右近

・幕府は禁教令を出し、教会の取り壊しや宣教師、信者の国外追放を決めた。信 者は俵詰 めにして山積みにしておく。転宗したものは「転んだ」として解放し、そうでなければ焼き殺したりした。
キリシタン大名の高山右近もマニラに追放とな る。老朽船で 水漏れするような状況。マニラで大歓迎されるが40日後に死亡。

   but宣教師の潜入続く cf)長崎大殉教 →ヨーロッパ 人の隔離 必要

・1616年、家康が死ぬと殉教覚悟の宣教師が密入国。1622年、長崎大殉教となる。宣教師をかくまった者やその家族、女性12人を含む 55人が捕まる。80歳の老婆から3〜5歳の子供5人までいて、25人は火刑でじわじわ炙る。30人は打ち首。記念品を残さないため、砂も残 さず全てを焼 き尽くした。
・しかし、この大殉教の後、余計に宣教師がやってくるようになる。殉教すれば聖人になれるのである。幕府も徹底的に取り締まるようになり、い たるところで 火責め、水責め、逆さ吊し、焼け火箸、手足切断などの拷問で棄教を迫る。こんなことを繰り返してもらちがあかない。宣教師が布教できなくするにはヨーロッパ人を隔離するしかない

[鎖国の過程]
A 貿易国の制限

・1609年、西国大名に対して大船保有を禁止し、500石以上のものを差し 出させ た。

 1 外国船寄航地制限(1616)=平戸、長崎のみ

1616 年、秀忠は外国船の寄港地を平戸、長崎に限定し、ヨーロッパ人が他の地で商売をすることも禁止した。

 2 イギリス平戸商館閉鎖(1623)=撤退

1623 年、イギリスは貿易で儲からない日本を諦めて商館閉鎖。

 3 イスパニアとの断交(1624)=貿易量わずか

1624 年、貿易量のわずかだったイスパニアと断交。

B 鎖国令

・1633年から1639年まで、海外貿易とキリスト教禁令を網羅した法令と して出さ れたのが鎖国令。

 1 奉書船以外の渡航禁止(1633)

・1631年、奉書船の制度を導入し、朱 印状の他に老中奉書がないと海外渡航ができないこととした。朱印状は 将軍や長崎奉行の個人的意志で出されていたため、これを老中を頂点とする幕府官僚が統制するために設けたもの。

    朱印状、老中奉書による二重の許可制
     cf)5年以上の海外在住者の帰国禁止

1633 年、奉書船以外の渡航を禁止し、バテレンを取締、糸割符制度を適用することなどを示す。5年以上の海外居住者が帰国したら死罪。

Q1 どうして5年以上 海外居住者は警戒されたのか?

A1 キリスト教徒になっている可能性が高い。

 2 全面渡航禁止(1635)
    cf)海外日本人の帰国禁止

・朱印船貿易家がバテレンを入国させようとしたとして、1635年、日本人の海外渡航全面禁止に踏み切る。

 3 ポルトガル商人の隔離(1636)(長崎出島)

長崎 に出島を作り始め、1636年、ポルトガル人を移住させる。ポルトガル人の子孫は残留させないとして、ポルトガル人や混血 児280人をマカ オに追放した。
・これで幕府は鎖国を完成させたと考えていた。しかし、島原の乱が起きたことで状況が変わった。

C 島 原の乱(1637)
   領主の圧政(重税、キリシタン弾圧)に対する農民一揆

島原 では藩主・松倉重政とその子の重治、天草では唐津藩主・寺沢堅高が圧政をおこなっていた。
・天草の表高は4万2000石だが、実際にはその半分しかとれない。松倉氏も新興大名のため、徳川に気に入られるために10万石の軍役負担を 申し出る。4 万3000万石のところを表高10万石になる。いずれも無理をしていた。
・もともとが有馬、小西のキリシタン大名の支配地でキリスト教 徒が多かった。 禁教を徹底しないと幕府ににらまれるため弾圧。島原では転ばないものは雲仙の火口に投げ込む。水責めや蓑踊り。
・1634年からの飢饉で餓死者が出るが年貢はそのまま。

   天草四郎時貞、有馬、小西の牢人の指導 3万7千人参加

・宣教師ママコスの予言「25年目に16歳の天童が出現。その時期、日本は滅 び、キリ スト教徒だけが生き残る」。1637年には秋に桜が咲いたり空が赤くなったりしたので、予言の時期とされた。
・小西の浪人、益田甚兵衛の子に四郎時貞がいて天童とされる。鳩を手から出したり海の上を歩いたりしたという。
・妊婦が水責めの拷問に遭って死亡したことが引き金で、10月25日、農民が一揆を起こして島原城を襲撃した。天草にも飛び火して富岡城を包 囲。武家諸法 度で幕府の命がないうちは動くなと定められているため、周辺大名は傍観するだけだった。
・幕府は細川、鍋島に兵を出させ、板倉重昌を派遣。一揆側は3 万7千が天草 四郎時貞を指導者として原城に立てこもり、有馬、小西の浪人が多数加わる。
・12月8日から原城攻撃。三方が海で攻めにくい。兵が功を争って板倉の言うことを聞かず、攻撃は失敗。幕府は老中松平信綱派遣を決定する。 板倉は松平到 着までに陥落させようとして城壁をよじ登り、撃たれて戦死。

   →幕府の苦戦、松平信綱により鎮圧

・松平は1月4日到着。黒田などにも兵を出させて包囲軍は12万となる。オラ ンダ船か ら砲撃させたりトンネルを掘って攻めようとするが勘づかれて失敗。兵粮攻めとする。
・2月21日、食糧を奪いに来た農民をつかまえて腹を割き、海草や麦の葉しか出てこなかったのを見て食糧が尽きたことを確認。28日、総攻 撃。一揆側は全滅して3万7千が死ぬ。この地域 の全人口の半分が死んだ計算 になる。
・松倉、寺沢は改易され、特に重治は斬首される。

※ 近世 最大の一揆、キリスト教徒の団結力確認=鎖国の徹底必要

・島原の乱は領主の圧政に対する農民一揆である。しかし、参加者や期間の点か ら見て近 世最大の規模であり、それだけの団結力を生んだ裏には宗教的な結束を幕府は感じた。鎖国政策の徹底が必要となったのである。

D 鎖 国の完成
 1 ポルトガル人の来航禁止(1639)

1639 年、最後の鎖国令でポルトガル船の来航が禁止される。
・マカオでは使節を派遣して貿易再開を求めたが、日本は使節と乗員61人を切って首をさらし、残り13人をマカオに追い返して以後来ないよう に厳命する。

 2 オ ランダ人の隔離(1641)(長崎出島)

オラ ンダに対しても平戸商館を閉鎖し、出島に移す。商館の倉庫に「1639」の西暦が掲げられるのを見て、キリスト生誕を掲げ るのは不逞とし た。
・出島は4000坪ほどの小さな島。扇形だが真四角にすると100メートル四方くらい。役人、商人、遊女以外は入れない。65棟の建物。花畑 や家畜飼育場 もある。カピタン(商館長)以下20人くらいの定員。

※鎖国の意義

  幕藩体制の維持、日本独自の文化発展
  but日本人の海外発展閉ざされ、社会の進歩から孤立

江戸 幕府が300年間も続いたのは、鎖国政策により国内の社会秩序が保たれたからである。外からの影響を排除できたのは政権に とっては有り難 かった。それにより、日本独自の文化も発展する ことになる。 いわゆる伝統的な日本文化は、室町期に成立し、江戸時代に完成したものである。
・一方、近世前期は多くの日本人が海外で活躍した時期であった。しかし、鎖 国政策によって海外発展の道は途絶えた。江戸の大商人は大儲けをしても海外に投資をすることができず、いたずらに浪費する だけであった。中 国人が東南アジアに華人社会を作ったのとは対照的である。何よりも、産業革命を始めとする近代化の波に乗り遅れたのは痛かった。明治になって 苦労するので ある。
・海外の日本町もすべてつぶれた。ジャガタラお春は15歳で日本を追放された人で、「日本恋しや・・・」というジャガタラ文を書いたとされ る。実際には ジャガタラからの手紙は届いていて、異国で日本人同士が助け合って生活している様が知られる。海外残留日本人の多くの遺言状も残っている。

[鎖国後の政策]
A 禁教の徹底
Q2 禁教徹底のため、 キリスト教信者を見つける方法として導入されたのは何か?

A2 踏み絵である。

   踏絵の励行

・踏み絵は1629年頃、長崎奉行が考えたという。長崎では正月の年中行事と なった。 キリストやマリアの画像を踏ませる。

Q3 日本人すべてをど こかの寺に登録させ、非キリシタンであることを証明させたのは 何だったか?

A3 寺請制度であった。

   寺請制度=宗門改帳作成、寺請証文による寺院の非キリシタン証明(婚 姻、移転に必要)

・その後も信者は各地で発見されている。尾張藩でも大量に見つかった信者が処 刑されて いる。その跡が大須の南の栄国寺である。
・それでも隠れキリシタンとして信者は残った。 表向きは仏教 徒だが、マリア観音などを仏壇の中に隠し持つ。しかし、宣教師が来ないため、正統なキリスト教とはだんだん離れてゆき、ミサの文句はオロショ として口伝さ れる。江戸時代を通じて生き残るが幕府は無視をする。明治になって外国人宣教師が来た時、我々はキリスト教を守ってきたと名乗りを上げたが、 キリスト教徒 は似ても似つかない民間信仰に変わっていた。
・天草や五島では現在も存在し、葬式を仏式であげた後、専門の民間宗教家を呼んでミサをする場合がある。祈祷文はラテン語がなまったものらし い。

B 長崎貿易(幕府の独占)

・幕府は長崎を直轄地に持ち、貿易を独占することになった。貿易額については 制限をし なかったので、オランダ船と中国船の生糸貿易額は鎖国後に急増し ている。

   オランダ=「オランダ風説書」提出

・オランダがアジアに開設した商館の中では、日本が稼ぎ頭。2番の台湾は日本 の半分。 輸入品は生糸。五カ所商人と商館長で生糸の値段を設定し、次に他の品物を売る。10〜30割の利益があった。
・貿易を許されているのを感謝するため、毎年3月に商館長が江戸参府をした。途中から5年に一度になるが、240年間で167回行っている。 将軍には会っ て頭を下げるだけ。次いで蘭人見物があって見世物にされ、その後は諸人が会いに来て質問攻めをする。大槻玄沢は6回も来て西洋の知識を詰め込 もうとしてい る。
・オランダは海外状況を知らせる義務があり、オランダ通事が翻訳した「オラ ンダ風説書」を幕府に提出した。そのため、幕府当局者はかなり細かく世界情勢を知っていた。ペリー来航も事前に察知するが 無策だった。

   清の建国(1636、満州族による)→明の滅亡(1644)

1644 年、明は満州族の清によって倒される。遺臣が福建に立てこもり、そのうちの鄭成功が幕府に援助を求めてきた。一時は乗り気 だったが、そのう ちに鄭はやられてしまう。
・清と日本は正式な国交を結ぶことはなかったが、異民族による征服王朝であったことから中華思想が強烈ではなく、明のような海禁政策はとらなかった。このため、長崎には貿易船が来る。生糸をもたらし、日本からは銀を持って行く。
・清の商人は自由に商売をしていたが、中にキリシタンがいたため唐人屋敷を建設して隔離した。

    =貿易量増加(金銀流出)
     ∴制限加える(1685) 清:銀6000貫、オランダ:銀3000貫

貿易 額が急増したため大量の金銀が流れ出る。1685年、清には 銀で6000貫、オランダには銀で3000貫までの貿易制限をおこなう。銀決済に替えて銅も用いる。銅は中国で銅銭となっ た。
・寛永通宝も大量に流出し、昭和初期まで南方で流通していた。かつての宋銭や明銭の地位に就いたのである。
・数量制限では効果がない。清の場合、貿易船はあっちこっちから来るため、長崎に来たら数量オーバーで追い返されることになり、仕方なく密貿 易をしてゆ く。

     →正徳新令(1715)=隻数制限で徹底 清:30 隻、オラン ダ2隻
       以後、衰退

金銀 の流出が止まらないため、新井白石は正徳新令を出して隻数で制限した。このため、長崎貿易は衰退に向かう。このため、主要 輸入品である生糸 の国産化が目指され、幕末には外国に輸出できるまでになってゆく。


目次に戻る   トッ プページに戻る

Copyright(C)2006 Makoto Hattori All Rights Reserved