<江戸初期の外交>
[対外貿易の拡大]

   貿易利潤の重視、友好的
A 新教国との貿易
   オランダ、イギリスの東洋進出(東インド会社設立 英 1600、蘭1602)

・オランダはイスパニアの属領として支配されていたが、プロテスタントを国教として商 工業で力を持つようになる。1581年、武力抗争で独立し、1602年にオ ランダ東インド会社を作ってジャワのバタビアに進出していた。
イギリスもスペインの無敵艦隊を破って海上進出。1600年に東インド会 社作る。

    →リーフデ号の漂着(1600)

・1600年、豊後にオランダ船リーフデ号が漂着する。1598年6月、5隻の船を ロッテルダムの商社が東洋に派遣。嵐でインド洋に入れず、マゼラン海峡を経て太平洋廻りをする。途中でリーフデ号1隻だけになり、乗員110人のうちで生 き残りは24人。歩けたのは数人であった。

      ウィリアム・アダムス(英)、ヤン・ヨーステン(蘭)の外交 顧問登用(紅毛人)

・家康は漂着の知らせを聞いて代表を招く。航海長のウィリアム・アダムズが来てポルト ガル語通訳を仲立ちに面談した。アダムスは世界情勢を知らせる。
・ポルトガル、イスパニアは強敵プロテスタント国の来日を憎んで家康に対し、「盗賊だから死刑にしてくれ」と要請するが、家康は競争相手を増やした方が好 都合と判断。アダムスとヨーステンを外交顧問として用いる。南蛮人に対して 紅毛人と呼ばれる。
・アダムズは日本婦人と結婚して三浦に250石の領地をもらう。三浦按針。
・ヤン・ヨーステンは高級船員。家康の信任を得て八重洲に家を持つ。

     cf)平戸商館開設

オラ ンダは1609年、平戸に商館建設。イギリスは1613年に平戸に商館建設。

    =旧・新教国の競合

・貿易の主導権を巡って対立する。オランダ船は1629〜35年にかけ、150隻のポ ルトガル船を撃沈または拿捕した。オランダは商売もうまく、イギリスは貿易不振となる。

     cf)ノビスパンとの通交=太平洋航路によるイスパニアとの貿易企図
Q1 ノビスパンはNova Espanaである。どこか?

A1 メキシコ。

      (田中勝介1610−家康、

・家康は貿易拡大を考えていたので、太平洋経由での新大陸やイスパニアとの通商にも興 味を持つ。1610年、メキシコに向かうルソン提督のドン・ロドリゴに頼んで商人の田中勝介(しょうすけ・勝助でもよい)を同行させる。

        支倉常長1613−伊達氏の派遣)
Q2 どうして伊達氏が使節を出したのか?

A2 東北の大名であり、九州ばかりに来る貿易船を呼びたかった。太平洋航路が開かれれば可能性がある。

・日本布教に後れをとったフランシスコ会の宣教師ルイス・ソテロは伊達政宗に接近、ノ ビスパンとの貿易を勧める。
・1613年、支倉常長が仙台湾石巻の月の浦を出港。幕府船大工が建 設した黒船。南蛮人40人が乗り組んでメキシコのアカプルコに着く。その後、イスパニアに行く。常長はここで洗礼を受けてドン・フランシスコとなる。ソテ ロは日本への宣教師派遣をイスパニア政府に上申。
・常長はローマ法王に謁見。しかし、日本ではキリスト教への弾圧が始まっていて、宣教師派遣などは見合わせることになる。
・常長は1620年に帰国するが、この時にはキリスト教禁教は徹底していた。支倉常長を慶長遣欧使節と呼ぶ

※貿易統制の開始
   糸割符制度(1604)

生糸 はマカオからポルトガル商人が搬入。貿易品の主力。生糸の貿易高は80%。
糸割符制度は、従来、日本で生糸が高額で取り引きされ、ポ ルトガル商人が大儲けをしていたため、統制のために導入されたとされてきた。しかし、実際には、関ヶ原戦後の混乱と飢饉で、1603年搬入の生糸に買い手 がつかず、幕府が斡旋して商人に購入させ、翌年も大量の生糸を持ち込んだために幕府が一括購入したのが始まりと見られる。

   ポルトガル船搬入生糸の自由売買禁止
   五カ所商人(京都、堺、長崎、江戸、大坂)が糸割符仲間結成
    =生糸価格決定し一括購入

・ポルトガル搬入生糸は長崎奉行立ち会いで京、長崎、堺の商人が適当な値段を付けて一括購入。 これを100、100、120の割合で分配した。のちに江戸、大坂が入り、50、30の割合で分けている。
・貿易統制の先駆であり、これでポルトガルは運び賃を稼ぐだけになってしまった。

B 日 本人の海外進出(朱印船貿易)
Q3 一番貿易をしたい相手はどこか?

A3 中国である。しかし、朝貢以外はできない。

Q4 中国生糸を入手するにはどうするのか?

A4 朝貢をしている国に出かけて買ってくるのがよい。

・明は海禁政策をとっていたが、密貿易船が網の目をくぐってベトナム方面に出てゆく。 これが日本船に生糸を売りつけていた。

   出会貿易の進展 ∵明の海禁政策→ルソン、安南で出会って貿易
   朱印状の交付(渡航許可、倭寇でない証明)

朱印 状は幕府重臣の取りなしで入手可能。「自日本到○○船也」と記し、一回限り通用。合計350〜360通が出され、100人以上の者に許可さ れている。
・朱印船はかなり大きい。普通は長さ36メートル、幅10メートルの300トンくらいのものが多かった。千石船は100トン積み。
・台湾まで15日、ルソンへ20日、トンキンへ30日かかる。

     ex)末次平蔵、
末次 平蔵は長崎の代官をしていた人。博多豪商の末次氏の子孫。末次船といい、絵馬が清水寺に納められる。

       角倉了以、
角倉 了以はもとは京都の土倉だった者。秀吉によって朱印状を出され、安南、東京へ定期船を出す。1626年、シャムに行った角倉了以の船には水 夫70人、商人300人が乗り込む。7〜800トンの船でパイロットはヨーロッパ人だった。

       茶屋四郎次郎、
茶屋 四郎次郎は京都の豪商で糸割符商人だったもの。将軍家の呉服商をしていた。尾張藩にも出入りしていた。安南、交趾に朱印船を送る。

       末吉孫左衛門、
末吉 孫左衛門は大坂の豪商でルソン、東京に朱印船を出した。

       西国大名
・島津、鍋島、松浦氏など。

   交易品(輸出:銀、輸入:生糸)

輸入 は生糸、輸出は銀という構造は変わりがない。
・朱印船は毎年10〜15隻、合計300数十隻が渡っていた。年に1万5000貫くらいの銀を持ち出し、これはポルトガル船が日本に来て持ち出すのと同じ くらいの量である。中国船も同額を日本から持ち出していたらしい。日本から 出ていった銀は世界の生産量の3〜4割を占める。多くの国が日本貿易を目指した理由はここにある。

   =日本町の形成(貿易基地)
     ex)交趾(フェフォ、ツーラン)、カンボジア(プノンペン、ピニヤ ルー)、
        ルソン(ディラオ、サンミゲル)、シャム(アユタヤ)


日本 町は日本人が集まって住む町である。の規模はマニラで3000人、アユタヤで1500人。普通は200〜300人規模。総勢で5000人く らいが海外生活をしていた。
・チョンマゲ、着物で畳敷きの家に住む。北風が吹いてくると日本からの風だといって懐 かしがり、弁当を持って高いところに上がって食べたりしていた。
・アンコールワットには、当時の日本人観光客の落書きが残る。
・鎖国実施後、帰国できなくなり、現地の人と雑婚し、衰退してゆく。

Q5 この時期、多くの武士が外国に渡っている。どうしてか?

A5 関ヶ原の戦い、大坂の陣の結果、大量の浪人が生み出される。彼らは南方に出かけ、傭兵となる事例が多かった。

・オランダのバタビア総督府は大量の日本人傭兵を持つ。タイには800人の日本人部隊 があった。

    cf)山田長政の活躍

山田 長政は静岡の人で、27歳の時に喧嘩をして人を殺し、日本脱出。ソンタム王に用いられ、王の死後、15歳の王子を立てて王位継承争いに勝 つ。これでリゴール太守となる。摂政のオヤ・カラホムは王位をねらう。長政は隣国のパタニと交戦中、ケガをして、毒を塗られて死ぬ。

[朝鮮と琉球]
・秀吉の朝鮮出兵で関係途絶。

Q6 朝鮮との断交で大きな打撃を受けるのは誰か?

A6 対馬宗氏には死活問題。謝罪をする家康の国書を偽造して国交開設を求める。

幕府 は日明関係の復活を目指し、対馬宗氏を仲立ちに朝鮮と修好した。朝鮮に明との修好斡旋を期待したが、半属国であるため明の顔色をうかがって いて実行されなかった。

A 朝 鮮との国交回復(己酉約条)1609
   宗氏(対馬)による、年20隻の貿易船、通信使来日

己酉 約条を締結して毎年20隻の貿易船を出す。表向き、またもや対馬は朝鮮の朝貢国となる。釜山に倭館を置き、600人くらいが住んでいた。
徳川将軍と朝鮮国王は対等の立場で国交を開く。1607年 から将軍の代替わりごとに就任慶賀のために12回の通信使が来日し た。400人くらいで、これに宗氏は800人の護衛を付けるなど、日本では丁重にもてなす。
・通信使来日で、朝鮮の進んだ儒学者と日本の儒学者が交流する。門前市をなす状況だった。
・朝鮮貿易ではイモが日本からもたらされ、飢饉を救ったこともあった。

B 琉 球の侵略と薩摩による支配

・琉球に対しては秀吉の朝鮮出兵の時に、7000人分の兵粮米の割当てがされた。琉球 は宗主国の明に遠慮をして半分を提供。あとは薩摩から借りることとした。
・薩摩は朝鮮出兵や関ヶ原の戦いで戦費がかさみ、財政再建のためにも大島割譲を必要とするようになる。琉球に対する武力行使を幕府に許可される。

   島津家久による、

幕府 は琉球を通じた日明貿易復活を考えていたため、これを許可し、1609年、薩摩藩の島津家久は3000人の兵で琉球に出兵。3月25日、運天に上 陸。鉄砲を使って制圧し、4月3日、首里に迫る。5日、尚寧を生け捕りにして連行。
掟15条を出し、一度滅びた国が薩摩の特別の計らいで復活できたと定め る。奄美を薩摩領とする。
・琉球の検地を実施。石高8万3000石とするが、実際は5万石弱。このうち、薩摩には毎年9000石の年貢を納めさせる。琉球王府の収入の3割。後 には年貢として砂糖を出させている。年貢を納めるため、王府は徴税を徹底する。これは離島に行くにつれて厳しくなる。
・宮古島の人頭税石は高さ135センチ。海岸にあり、背丈がこれを超えると税がかかる。小学校2年生程度。
・与那国島では人口増加させられない。妊婦はクブラ堀を跳ばして流産させる。150センチほどの割れ目。トング田に入れる者だけがシマで食糧が得られる。 夜中に集合させ、中に入れなかったものは島流しにしたと伝える。

   日中両属、中継貿易基地

・琉球を通じ、明との貿易を斡旋させようとしたが、明は尚寧が帰国すれば従来の朝貢を許すとしただけだった。このため、琉球をトンネルに しての対明貿易が計画された。そのためには琉球は異国でなければならなかった。

   慶賀使、謝恩使の派遣

琉球 は国王の代替わりごとに謝恩使を江戸に派遣。将軍の代替わりごとに慶賀使を派遣。異国風に装わせる。
・100人が300日かけて江戸に行く。
・琉球経由の中国貿易は明が滅びて清の時代になるとうまみがなくなる。清は朝貢にこだわらず、長崎に貿易船を出したからである。琉球は清の冊封を受け、清 に朝貢していたが、持って行く品物は日本から硫黄などを入手し、貿易量もたいしたことはなかった。


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