<幕藩体制下の農民と身分制度>
[農村の機構]
郷村の発達(室町期)=自治組織→自治権と引替に支配単位として利用
・村の規模は50〜100戸。17世紀末に6万の村があった。総石高を2500万石と
すれば1村平均で400石。人口400人というのが平均的な姿。
・室町以降、郷村は自然発生的に成立した農民の自治組織であるため、そのための組織が作られる。自治に参加できる者の中心は本百姓。
A 自
治組織としての村
1 農民の構成
本百姓=基盤、田畑を持ち、検地帳に記載 ∴年貢負
担
・理想
の本百姓は1町10石の土地を持ち、5人家族くらいの者。これ以上の土地だと家
族で耕せない。小家族で農業をして年貢の払える者が本百姓。
水
呑百姓=小作人、年貢負担なし
名子・被官=本百姓に隷属、年貢負担なし
Q1 別表の近世の昭和区の村の人口構成を見ると、前半よりも後半で戸数が増
え、一軒の家族数は減っている。何を意味するのか?
A1 前半は寄留していた家族が多いが、後半は独立して一戸を構えたと考えられる。
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・生産性の低いところでは、大家族制度がとられていた。白川郷では、結婚できるのは長
男だけで、次男以下はオジとして厄介になっていた。子供はできるので、女の方で引き取っていた。
2 村の自治
村方三役の選出
・村方三役は自治のための役職。お上の命令を伝えて年貢を割り当て、土木工事を指揮し
たり治安維持の責任者となった。世襲、協議、選挙で選ばれる。
名主(庄屋)=村政総括
組頭=名主の補佐
百姓代=名主、組頭の監視
・名主と組頭は上層農民が務めるので、一般代表は百姓代となる。階層ごとに代表を出し
て不正を防止する優れた組織である。
→自治実施 ex)村掟、寄合、入会地、祭礼(若者組)
cf)秩序を乱す者=村八分
Q2 仲間はずれにすることを名古屋弁では何と言うのか?
A2 ハバである。
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・村八分は元服、婚礼、葬式、建築、火事・病気・水害・旅行・出産・年忌の10の付き
合いのうち、葬式と火事を除いて付き合わないところから出たという説。「はぶく」から出たという説もある。ハチベ、ハバは同じ語源。
・いずれにしてもムラ付き合いをしてもらえないとムラでは生きてゆけない。
B 支配単位としての村
村請制度=村の責任で年貢納入
cf)五人組制度=年貢、治安の連帯責任
・「年貢割付」が村に送られてくる。病気や不作で払えないような農民もいるので、村役
人がどの家にどれだけを割り付けるかを協議する。出せない家の分は五人組が
穴埋めをしてやることになる。組頭が年貢を集めて名主の家に持ってこさせる。河
岸などの指定場所に持参。数量を点検して「年貢皆済目録」を出す。
[農民支配]
A 農民の負担
1 本途物成(本年貢)
田畑屋敷への課税(検見による査定
・検地は伊奈忠次や大久保長安が実施。10人くらいの検地奉行がやってくる。竿や縄を
持参。案内人に案内をさせて巡視し、田畑の良否をみて標準的な田畑を坪刈りさせる。これで石盛を決定。一つの村を一週間から半月で検地してゆく。正確には
計らず、多少は目こぼしをしてやり、縄心といった。検地帳には田畑一筆ごとの名請人、面積、等級が記される。
・以後は、毎年収穫前に検見役人が来て坪刈りをして収穫量を査定する。これ
に応じて年貢をとる。
Q3 検見取りの欠点は何か?
A3 検見役人の買収がおこなわれるし、豊凶によって税収が上下する。
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→定免による一率化)
・定免
法は数年間の収穫高を平均し、その線で年貢をとる。普通は、定免を実施する前に
徹底的に検見をおこなって税収を上げておき、それを平均にしてしまうので年
貢増徴の方法の一つでもあった。幕府は定免導入により、65万石の年貢を76万
石に増やしている。
石高の4〜5割(四公六民)→米納
・本年
貢の場合、田は米で、畑と屋敷は金で払った。武士は完全な消費階級なので、自分
たちが食べる米を年貢でとった方がよい。金で納めさせると、それでまた米を買う必要が出てくるので、商人に利ざやを稼がれることになる。余
れば自分たちで米を換金する。米遣い経済。全国的にもっ
とも安定していた商品は米なので、必ず売れる。
2 小
物成
土地の用益に課税 ex)山年貢、川手
・小物
成は山や川、海の収益に対する税。尾張藩では藩の山林の下草を刈らせることで下刈年貢代をとり、堤防に
生える柳を切らせることで柳代銀をとる。尾張藩は銀遣い経済。
cf)高掛物(付加税)、
・高掛
物として、尾張藩では鷹犬餌代米、夫銀、堤銀をとる。村高に応じて掛けている。
夫銀は本来は労力負担だったものを銀で納めさせたもの。堤銀は堤防工事にかり出すかわりに徴収したもの。
国役(土木工事など)、
・国役は
大規模土木工事のための費用。庄内川が切れそうになったときは小田井の人が自
分の側の堤防を切りに行かされた。堤防を切りたくはないので働いている振りをして怠けている。そういう者を小田井人足と呼ぶ言葉ができた。
伝馬役・助郷役(宿場への人馬提供)
・伝馬
役は宿場居住者の労役負担。東海道で100人、馬100匹。屋敷間口に応じて負
担義務を課された。
・助郷はこの伝馬役だけでは足りない場合に周辺農民に対して課した労役。
参勤の時期に宿場に対して人馬を提供する。宮宿の場合は20か村。戸部、山崎、高
田、御器所、井戸田。北井戸田、本願寺、石仏、古渡、露橋、五女子、二女子、牛立、四女子、中野、長良、荒子、丸米野、米野村で、南区、瑞穂区、昭和区、
中区、中川区、中村区の村におよぶ。
・二川の場合、もともとは25か村だったが、幕末になって交通量が増大して渥美郡、設楽郡、幡豆郡、碧海郡にも拡大され、236か村となった。中には紀州
の村も含まれ、絶対に通えない場所。助郷の課役に対しては農民はもっとも強
硬に抵抗している。
※重い負担→一揆の原因
・年貢率は階層が違っても一定であり累進課税でない。したがって、一定以上の農民は余
剰を蓄えることができるが、
以下であれば没落が進み、小作に出ざるをえなくなる。年貢割付の際、下の階
級の者は年貢率を少なくしてもらわないと割が合わない。このため、村方騒動が起きることになる。
B 法
令による統制
1 田畑永代売買禁止令(1643)
・1634年頃から不作が始まり、1642年にピークを迎えていた。寛永の飢饉とい
う。これは島原の乱の原因にもなっていった。飢饉で没落する農民が出始めた
ため、小農の保護のために出したものだった。
・江戸時代の初期においては、実際には土地を買っても耕す労働力に事欠くため、儲からなかった。したがって、ほとんど売買はなかったらしい。
・元禄の頃から土地の生産力が上がり、土地を買った者が売った者を小作として使用して中間搾取ができるようになった。これによって適用され始める。
Q4 中間搾取がおこなわれるということは、幕府財政にとってはどのよ
うなデメリットをもたらすのか?
A4 上手にとれば幕府のもとに集まったはずの年貢を横取りされることになる。
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富農の土地兼併、貧農の没落防止
・罰則は厳しく、売り主は追放。買い主は入牢。土地は没収。
・しかし、抜け道として質入れして流してしまうことがおこなわれた。
2 田
畑勝手作の禁(1643)
・1643年。寛永の飢饉を受けて米を確保するため、田での木綿作、田畑での油菜作を
禁止。その後、本田畑に五穀以外のものを植え付けることを禁止する。
本年貢確保、商品作物栽培による農村への貨幣経済の流入防止
・基本
的には米不足だったので、本年貢をとるためにも米を作らせたかった。
・商品作物栽培をすると貨幣経済が農村に流入する。農民がお金を使うようになると封建制は崩れるのが原則である。
3 分
地制限令(1673)
Q5 分地制限が出された理由は何か?
A5 分割相続の繰り返しで零細農になり、共倒れすることを防ぐのである。
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分割相続による経営の零細化防止(1町10石未満は禁止)
・分割
した結果、名主20石、一般農民10石以上の田畑がなければ分地を禁止。
4 慶
安の御触書(1649)
生活全般の規定
・1649年。単婚小家族からなる農民を想定して出す。それまで、土豪的大地主のもと
に隷属していた百姓(名子や被官)を、幕府は自立させる方向で政策を実施してきた。新田開発を奨励して小農民を引っ張ってきたのもその表れ。
・農民に直接、事細かに農業や生活の基本を説く。愚民思想の
表れである。朝早く起きて草を刈れ、屋敷周りに竹木を植えて下葉を燃料にしろ、便所を大きく作って肥を溜めろ、夫婦二人で十
分な肥が溜められなければゴミを集めろ、美人でも遊び好きな女房は離婚しろなど。
・利息の大きさを説明。年貢不足で米2俵を借りて5割の利息を付けて返すとした場合、複利で5年据え置けば元利で15俵、10年だと115俵になる。米2
俵の不足がこれだけの差になると説き、借金をするなという。「年貢さえ済ませば百姓は気楽」。
※本百
姓の維持(年貢確保)を目的とする cf)百姓は死なぬよう、生きぬよう
・農民
はみんなが同じような経済状態であった方が支配しやすい。その中に金持ちが登場
して貧乏な農民を支配するようなことが起きてくると、貧農が反乱を起こすし、本来は幕府に納められる成果物を富農が横取りすることになる。
・「百姓は財の余らぬよう、不足なきよう納めるのが道」(本
多正信「本佐録」)
・「東照宮上意に百姓は死なぬよう、生きぬよう」(「昇平夜
話」)
[身分制
度の確立]
社会秩序の固定で支配強化(身分世襲)
A 士農工商
武士(10%)=苗字帯刀、切捨御免
・切捨御免は農民などが武士に非礼を働いた時に切り捨ててもよいとしたもの。無制限で
はなく、事後に取調べがあり、正当な理由がなければ罰せられた。
農
民(80%)=租税負担
工・商人(町人)(7%)=都市集住、地主・家持の支
配、幕府の統制弱い
・町人というのは厳密には家持=地主の人たち。町の運営資金として町入用を負担する。
彼らが町年寄などとなって町の自治をおこなった。
・同じ業種で集住させる。名古屋の場合は京町に薬屋、鍋屋町は鋳物業。通りに面したところに鰻の寝床で店を作り、真ん中の余ったところに長屋を建ててゆ
く。
・流入民が増えると家持が借家を建てて貸すようになってゆく。その管理人が家守であって大家さん。
・借家人は町政に参加できないが家賃だけで町入用も払わない。町人には年貢
負担義務がないので農村からの流入者は増えてゆく。
Q6 四民の下の階級は何か?
A6 えた、非人と呼ばれて差別をされた人たちがいた。
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賤民(えた・非人)=四民の下、差別により幕府支配容易とする
・戦国
時代に焼け出されたりして土地を持たない没落民は、太閤検地実施の裏でその地位
が固定されてゆく。戦国時代の大建設時代には、彼らは城下町建設の日雇い労働者として雇用され、建設後は城下町の周囲に居住させられて雑用、皮革業などに
従事した。皮細工をしたものをエタという。
・幕府はエタを差別的地域に移住させてエタ部落を作って差別を固定してゆ
く。
・非人は没落者の中で漂泊した者。物乞い、芸人として生活をしていった。
非人は心中失敗などでその身分に落とされた者もいたが、これは足洗いができた。
1720年に結髪禁止となり、一目で分かるようにされる。
・農民よりも下の身分を作ることで、農民を納得させて支配を容易にする狙い
があったとされる。エタ・非人は差別されたが、経済的には豊かだった面もある。
エタは皮革加工業を独占していたし、非人の中には歌舞伎の千両役者も出る。
・明治になって解放令が出たとき、エタは28万人、非人は2万人とされる。
B 家制度
家長による家族統制
・家制
度は個人よりも家の存続を重視する制度である。家が絶えてしまっては農地が存続されず、年貢がとれなくなってしまう。家のために個人が犠牲
になるのは当然という考えが出てくる。
・嫁入り婚のもとでは、女性は家を存続させるために子供を産む道具である。女の子は嫁に出すのでその家の存続には関わらないし、よそからもらった嫁も家の
存続のために役立たなければ追い出すしかない。このため、長男の単独相続で家を維持するために親の言うなりの結婚がまかり通り、「女三従の教え」が説かれた。女性の権利は低く、夫が横暴でも妻からの
離婚はできない。夫は妻が気に入らなければ「我等勝手につき」の三行半の離縁状で一方的に離婚したとされる。
・こういう制度が今の日本にも残り、墓石には「○○家先祖代々の墓」と刻まれ、結婚式には「○○家・○○家式場」と記される。
・しかし、江戸時代の場合、実際には建前という説が強い。江戸時代の農業は女性の労働によって支えられていたのであり、女性を不当に差別する制度が機能し
たとは思えない。墓石で「先祖代々」墓が登場するのは明治以降であり、明治
の民法によって建前の家制度が法的拘束力を持って作られたのが家制度である。その証拠として、江戸時代の墓は個人墓か夫婦墓であり、家の観
念は薄い。
・三行半にしても実際にはこれがないと再婚できないため、不倫に走った妻が請求したというものもある。結婚については恋愛結婚が主で、子供がいない間の離
婚は比較的自由だった。
・なお、夫が離婚を承知しない場合、縁切寺である鎌倉東慶寺などに駆け込めば離婚仲裁をしてくれた。秀頼の娘にゆかりの尼寺で、ここに駆け込んで3年過ご
せば離婚できた。
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