<織豊政権の成立>
[織田信長の統一]

  尾張の戦国大名=肥沃な濃尾平野を制し、京都に近い地の利

・斯波氏の守護代として尾張を統治。1466年、主家の相続争いに巻き込まれて織田家 も岩倉と清洲に分裂。信長の父の信秀は清洲の織田家の家臣だったが、守護代をしのぐようになる。
・信長の代になってからも反対勢力が多く、国内同族を討って尾張統一。

Q1 京都に近いということはどういうメリットがあるのか?。天下統一のために上洛が 必要なのはどうしてか?。

A1 尾張から急げば3日で京都に行ける。京都は文化経済の先進地であり、経済力を伸ばせるとともに将軍や天皇の権威を利用できる。

   cf)天下統一=上京が条件→将軍、天皇権威の利用、畿内先進地の 制圧

1 信長の上洛

・信長は疳が強く、乳母の乳首に噛み付いたりしていた。扱いにくいので母は弟を偏愛し て愛情不足。ぐれてパンクに走る。茶筅髷、片肌脱ぎ、火打ち袋を腰にジャラジャラ下げて友達に寄っかかって歩く。「うつけ者」という評判が立つ。
・父は可愛がるが葬儀の時には遅刻をしてきて焼香の時は香を位牌に投げつけたという。
・お守り役の平手政秀が諫めるために自害した。これにはこたえて政秀のために政秀寺を建ててやる。
・斎藤道三の娘、濃姫と結婚。道三は「うつけならこの刀で殺してこい」といって刀を授ける。娘は「この刀でお父さんを殺すことになるかも知れない」といっ て嫁ぐ。
・結婚後も奇行はおさまらない。道三は一度会いたいと思い、富田の聖徳寺で会見をセット。先回りして民家の中で見るとうつけた格好で来るのがわかる。それ でも長槍と鉄砲に着目する。うつけに会うのには略装でよいといって会見しようとすると、信長は烏帽子をつけた正装に着替えてくる。「噂通りうつけ」と家臣 がいうと、「あいつに美濃を取られるかもしれん」。
・戦争を終わらせるための戦争をするので人殺しに信念がある。情け容赦なし。比叡山焼き討ち、長島攻めなどの殺戮。御所工事の時、女性をからかった家臣を その場で斬り殺す。

    桶狭間の戦い(今川義元打倒)

・三河は国人だった松平氏の勢力が強かった。家康の祖父の清康が尾張に攻め込み、織田 と戦ったが敗死した。これを守山崩れといい、矢田から守山に渡ったところの守山城が舞台。以後、三河は織田と今川の草刈り場となり、家康は今川に人質に取 られる。
・今川氏は三河を席巻して尾張に手を伸ばす。知多郡は入手。
1560年、今川義元は京都上洛を目指して尾張攻略。2万 とも4万ともいう軍。5月18日、沓掛城に入り、明日は熱田に来る勢い。鳴海城と大高城は今川に寝返り、鷲津、丸根砦も家康らの攻撃で落城。
・この大軍に対して織田側は兵の数が少ない。軍議をおこなうが信長は途中で寝てしまう。家老たちは運の尽きという。
・夜中、信長は突然起きて全軍出陣を命じ、敦盛を舞う。「人間五十年、ひとたび生をえて滅びぬ者はいない」。
・全兵力は3000。熱田社に願文をあげる。鷺が飛び立って先導したという。信長は勝利をもたらしてくれれば熱田社に塀を寄進すると約束。勝ったので信長 塀を作っている。
・信長は大高攻めに1000を割き、残りで中島砦に入る。義元は沓掛を出て田楽が窪で休憩中。酒を持ってこさせたりした。大軍が細長くなる。信長は北の丘 陵にあがって義元本陣に近づく。梅雨の豪雨となって気づかれずに接近。雨が上がったときには眼下に義元の本陣。首を取る。
桶狭間の戦いで今川を倒した信長は、人質から解放されて三河岡崎に入った 家康との間に清洲会盟を結んで東を安定させる。家康は以後、東に向かうことになる。この約束は信長が死ぬまで続いた。

    →美濃入国(斎藤氏滅亡)

・信長は美濃攻略を考える。義父の道三は義理の子の義竜に殺され、その子の竜興が継 ぐ。
・北近江の浅井長政には妹の市を嫁がせて手を結び、挟み撃ちの体制。
・木曽川渡河のため、墨俣築城を計画。川を渡った先に城を築くため、作り始めるとすぐに攻められて壊される。木下藤吉郎は兵を三分して一つで守らせ、残り 2つで築城することにした。木曽川上流に筏を組んで流し、墨俣に揚陸。2〜3日で作る。城を維持するために藤吉郎は夜盗の連中を募集する。
・美濃三人衆は信長に内通したため、稲葉山城を攻略して美濃入国を果たす。
・井之口を岐阜と改名。周の文王が天下統一をしたとき、岐山によった故事にちなむもの。加納に対して楽市楽座を令する。

    →義昭(15代将軍)を奉じ入洛(1568)

・13代将軍の義輝は松永久秀に殺され、三好三人衆によって14代将軍義栄(よしひ で)が立てられる。義輝の弟の義昭は朝倉氏を頼って越前に入る。しかし、朝倉は一向一揆との戦いのため動けず。
・義昭は各地の大名に手紙を書き、京都奪還と将軍への擁立を依頼。信長にも手紙が届いた。明智光秀は越前にいて、義昭と信長の仲介をおこなう。信長は足利義昭を奉じることで入京の大義名分確保
・六角氏を討って京都に向かい、三好三人衆も逃げ出す。
・信長は尾張のうつけと評判。しかし、入京後の宴で、連歌師の紹巴が「二本手に入る今日の喜び」と扇子2本を捧げて詠むと、信長は「舞い遊ぶ、千代万世の 扇にて」と上の句をつけて貴族たちを驚かせる。
・義昭は将軍となり、3つ年下の信長を「御父」と敬い、副将軍、管領にするというが信長は拒否。所領も求めず、堺、大津、草津に代官を置くことだけを求め る。

Q2 どうして副将軍を拒否したのか?。

A2 将軍の家来ではないということを主張したのである。

堺に は2万貫の矢銭を要求。堺は拒否。三好三人衆と結んだため信長は焼き払い、皆殺しを宣言。屈服させる。

2 敵対勢力の打倒

・傀儡となった義昭は信長と対立。反対勢力を組織しようとした。信長は対義昭5箇条覚 書を出し、勝手に動くなと厳命。
・京都に一番近い怖い勢力の朝倉義景打倒を考える。浅井は同盟関係にあるので期待するが、浅井と朝倉は古い親戚であり、長政は信長を裏切ることにする。
・信長は朝倉を攻略。その最中に市から飛脚が来る。陣中のお菓子にといって両端を縛った袋の中に小豆を入れてよこす。袋のネズミであり、挟み撃ちを知らせ たもの。信長は京都に脱出する。岐阜に戻ろうとするが六角氏に立ちふさがれ、千草越えをするが鉄砲で狙撃され、小袖を貫く。信長最大のピンチとされ、恨み を持つ。この犯人は鋸挽きにされている。

    姉川の戦い(浅井・朝倉氏打倒)

・家康と同盟、浅井・朝倉連合軍を攻撃。姉川の戦いで勝つ。信長は3万5千の軍で浅井 を叩き、家康は5千で1万5千の朝倉と戦う。家康は信長に恩を売る。

     →比叡山焼き討ち

・1571年、信長包囲網を作る比叡山を焼き討ち。僧俗4000人を殺す。高僧、美女、小僧なども含め て生け捕りにし、命乞いを無視してほとんど首を刎ねる。
・この間、武田信玄は義昭の求めに応じて上洛。2万7千で飯田経由で浜松をつく。家康が守るが手勢が少ない。信玄は浜松を素通りして三河に向かう動き。家 康はそのまま見過ごすこともできたが、それでは信長との同盟関係にひびが入ると考えた。3千で討って出て大敗。家康も命からがら逃げ帰る。三方原の戦いと いう。この時の様子を絵に描かせ、後の戒めにした。
・信玄は向かうところ敵なしの勢いだったが病気となり53歳で陣中に没。信濃経由で引き返す。胃ガンとされる。

     →義昭追放(室町幕府滅亡 1573)

・義昭は信玄の大勝を聞いて包囲網を築くが、信玄の死によって失敗。反対に信長に攻め られる。将軍が追放されて室町幕府は滅び、天正と改元され る。
・1573年8月、信長は浅井・朝倉を攻撃。一乗谷を焼いて 朝倉を滅ぼし、次に浅井の小谷城攻略。市は3人の子とともに柴田勝家によって救出される。朝倉と浅井の首が届けられ、後には頭骨を箔ダミにして茶碗として 使ったという。

     →長嶋一向一揆平定

・1574年7〜10月、長島一向一揆を攻略。降伏も聞かず2万人を殺害。

     →長篠の戦い(武田勝頼敗走)

・1575年、武田勝頼は父の意志を継いで西上。飯田から南下して家康方の長篠城を包 囲。信長は岡崎まで来ている。城内から鳥居強右衛門が脱出して信長に来援を乞い、城内に戻るときに捕まる。「信長は来ない。籠城は無駄」と言え、と迫られ るが、「信長は来るべし。固く守れ」と叫んで逆さ磔となる。
・5月18日、長篠の戦い。勝頼は2万で決戦に臨む。鉄砲は 射程が100メートル。次の弾を撃つのに15秒かかる。15秒あれば、騎馬隊なら突撃できる。信長は3000丁の鉄砲隊を3隊に分けて交互に発射させる。 5秒間隔となり、馬防柵も作ったために騎馬隊の突進をくい止める。勝頼は大 敗し、再起不能。
・1582年3月、信長・家康連合軍に攻められ、天目山の戦いで敗れて武田 氏は滅亡。

     →石山本願寺鎮圧

石山 本願寺攻略は進まず。1580年、正親町天皇の仲介で和睦。 顕如が石山を退くかわり、門徒には手出しをしないとした。本願寺も戦いに疲れ、法流を根絶やしにされるより和睦を選んだ。
・1581年は信長が近畿の敵を討ち果たし、ひとまず落ちついた年。2月28日、京都馬揃えをおこなう。軍事パレード。
・500石取りの山内一豊が名馬を引く。妻が黄金10両を鏡箱から出して買わせたもの。馬が信長の目に留まり、ああいう名馬を持つものはよい武将として、 以後、山内は重く用いられて後には土佐の大名となった。「内助の功」=山内一豊の妻とされる。

※安土 城拠点に勢力拡大=商業政策の重視

・長篠の戦いの後、安土城を築く。七重の天主をあげる。「天主」は天下を意識した言葉とし て重要。後に「天守」と書く。

    ex)楽市・楽座令、関所撤廃、堺の掌握、南蛮貿易(キリスト教 保護)
  but明智光秀により本能寺の変で殺害(1582)

・1581年6月から中国攻め開始。鳥取城を包囲。商船を入港させて米を買い占める。 米価が高騰し、鳥取城でも蓄米を売りに出す。この後、包囲。鳥取城内は飢餓地獄となり、吉川経家は家来の命乞いをして自殺。10月25日、鳥取城落城。
・1582年5月7日からは備中高松城の水攻めに入る。堤防を作って川をせき止めて水浸し。梅雨時で水が増えて水没。毛利は全軍をあげて救援に向かうとい う報が入り、明智光秀に出陣を命じる。
・この時、信長の盟友、家康が安土城でもてなされている。
・光秀は5月26日、丹波亀山城に入って出陣の準備。29日には信長も京都に入って兵を指揮する予定。
・出陣前、光秀は連歌の会を催す。「ときは今、あめが下知る五月かな」。
・6月1日、京都経由で中国に向かうと見せ、明智光秀は本能寺攻撃。 夜明け方、1万3千の鬨の声に囲まれる。明智の旗を見て「是非に及ばず」といって弓か長刀で戦うが槍で突かれて負傷。御殿に火をかけて中で自刃。長男信忠 も二条御所に攻められて26歳で死ぬ。光秀は安土に入って財宝を分捕る。
・光秀の謀反=家康の饗応役だったが魚を腐らせて信長に人前で殴られる。義昭との仲介役として信長に接近したが、義昭追放で用済み。

[豊臣 秀吉の統一]
  信長の家臣、足軽から台頭

・秀吉は中村の百姓の子で、父は7歳で死ぬ。母が再婚していづらくなり、15歳で家 出。銭1000貫をもらい、これを木綿針に替えて行商しながら東に行く。今川の家臣、松下加兵衛に仕えて可愛がられるが、他の家来にねたまれて辞める。松 下の恩は忘れず、後には1万6000石の大名に取り立ててやる。18歳で信長の草履取りになる。
・機転が利くとして信長に用いられる。冬に草履を出させたところ温かい。踏んでいたなと怒られると着物の前を開けて草履の泥がついているのを見せたとい う。

1 信 長の後継の地位獲得

・信長の一の家臣は柴田勝家。この時は北陸で上杉景勝と大戦中で、本能寺の変の報を聞 いても動けず。
・家康は堺見物中。変を聞いて本能寺で後追い自殺するというが、本多忠勝が弔い合戦を奨める。伊賀越えで三河に戻る。途中一揆が起こるが、伊賀者を使って 切り抜ける。
・光秀は小早川隆景に手紙を出し、義昭の命で逆臣の信長を討ったので味方するよう求める。使者は6月3日、備中高松で秀吉に捕まって首を刎ねられ、手紙は 届かず。秀吉は信長の死を知る。
・秀吉は信長の死を知られないようにし、安国寺恵瓊を使者に立て、「もうすぐ信長の大軍が来る。清水宗治が切腹すれば兵の命を助ける」といって和睦を申し 出る。6月4日、清水は小舟を浮かべて腹を切り、秀吉は見届けてすぐに兵をまとめる。この日の夕方、毛利方に本能寺の変の知らせが届き、秀吉に騙されたこ とに気づく。
・秀吉は6日には姫路に到着。軍備を整えて京都に入る勢い。
・光秀は味方になるよう、各地の大名に声をかけるがなびいて来ず。娘婿の細川忠興に味方に付くように言うが、忠興は出家。妻をよそに移す。10日、洞ヶ峠 で奈良の筒井順慶の到着を待つが、待ちぼうけ。大坂攻撃の機を失う。

   山崎の戦い(光秀滅亡)

Q3 決戦のことを「戦いの○○○」という。何か?

A3 天王山である。山崎の戦いでは天王山を先にとった方が勝つとされた。

・秀吉が山崎に入ると、光秀は慌てて天王山を取ろうとするが先を越される。秀吉軍4 万、明智軍1万6千。山崎の戦いで明智軍は総崩れとなって近 江に敗走。光秀は小栗栖で土民に殺される。「三日天下」。
・柴田勝家が信長の後継者を決める清洲会議を召集した。次男の信雄、三男の信孝が意欲を見せ、勝家は信孝を主張するが、秀吉は信忠の長男・三法師を推し た。信孝がその後見となることで決着し、勝家は市と再婚することになって織田一門に入った。

    →賤ヶ岳の戦い(柴田勝家滅亡)

・勝家と秀吉は対立が深まる。賤ヶ岳の戦いで激突。福島正則、加藤清正など、秀吉近習の七本槍の活躍 で秀吉が勝つ。
・勝家を北の庄城に攻略。勝家は市を逃がそうとするが拒否。3人の娘は秀吉の元に送られる。信孝も内海で自害させる。

※大坂城を拠点とする

・大坂築城。フロイスは黄金の寝室に200人の夫人と記す。市の3人娘の長女、茶々は 側室になって翌年には鶴松を産む。

2 天 下統一
   小牧・長久手の戦い(徳川家康と和睦)

・信雄は秀吉と対立し、武田滅亡後の甲州経営にあたっていた家康と結ぶ。家康は長宗我 部元親などに誘いをかけて秀吉包囲網を作る。
・秀吉は犬山城を占拠して楽田に陣を敷き、家康は小牧山に陣を敷く。対峙したまま時間が経つ。
・池田恒興は別隊で岡崎をつこうと提案。秀吉は難色を示したが強行する。長久手経由で進発。岩崎城から鉄砲を撃たれて怒り、城攻めを開始。素通りして岡崎 を攻略すべきだった。城攻めに手間取り、家康の来援軍が到着。池田は戦死。
・ふたたび小牧と楽田で対峙。秀吉は信雄と家康を離反させることを考えて信雄の本拠の伊勢長島を攻略。単独で講和を結んだ。小牧・長久手の戦いで家康を叩きつぶせなかったことが、秀吉にとっては 命取りになる。
・秀吉は家康を上洛させて臣下にしたいと考える。別のところに嫁いでいた妹の旭を離縁させ、家康に嫁がせる。それでも上洛しないので母親を人質として三河 に送る。これに対し家康は上洛し、臣下の礼を取る。

    →四国・九州平定

・長宗我部元親が土佐から起きて四国を統一。光秀とつながっていた関係で秀吉としては 放っておけないので攻略する。土佐を安堵して三国を差し出す条件で降伏する。
・九州は大友義鎮、竜造寺隆信、島津義久で三つ巴で、毛利と手を結んだり秀吉と結んだりして離合集散を繰り返していた。竜造寺は衰え、大友対島津の構図と なる。島津は大友を攻略し、大友は秀吉に援軍を乞った。
・1586年、25万、馬2万頭で九州攻略。毛利は秀吉に従う。大軍を前に島津義久は降伏を決意し、出家して謹慎。秀吉はこれを認めて薩摩、大隅について は安堵する。これで四国と九州の平定が完成する。

    →小田原攻略(北条氏滅亡)

・北条は秀吉と敵対することなく関東をせしめようとしていた。秀吉は氏政の上洛を促す が、北条はそれと引替に上野に拠点を確保しようと取引。秀吉は怒って小田原攻めを計画。
・北条は小田原籠城を決意して奥州の伊達政宗に応援を求める。伊達は会津の芦名氏と交戦中で援助は不可能。
・小田原は完璧な籠城体制を布いたが、秀吉は石垣山に城を作って長期戦の構え。妻子を呼んだり商人が出入りすることを許可し、利休を招いて茶会を開いたり して長期戦を楽しむ。
・北条方は「小田原評定」を繰り返すが、3カ月の籠城の末、降伏。北条氏は つぶされて領地は論功行賞で分けられる。家康に対し、三河、 遠江、駿河、信濃、甲斐を没収し、新しく関八州を与える。

Q4 家康に関東を与えた意図は何か?

A4 家康を関東に追いやる算段。

・東北のほとんどは伊達が押さえていた。伊達は秀吉と対立していたが、秀吉の力を恐れ て小田原攻めにわざと遅れて着陣。秀吉は遅れたことを責めるが政宗の弁明が通る。秀吉は自ら小田原攻めの方法を説明。政宗と意見交換をして人物の優れてい ることを知ったという。

※朝廷権威を利用して政権安定

政権 確立期には政権に対して権威を与えてくれるものが必要となる。日本の場合は天皇であり公家。政権を飾るものであるが、公家文化へのあこがれ が根底にある。
・1588年、後陽成天皇を聚楽第に行幸させる。諸大名に対して禁裏御料に対しては無道のおこないがないこと、および秀吉の命に背かないことを誓わせる。天皇権威を利用して秀吉権力を誇示する目的。

Q5 権威を保つために就任したい役職は何か?。その役に就くための条件は何か?。

A5 ポストは家柄によって決まっていた。征夷大将軍なら源氏、太政大臣なら平氏、摂政関白なら藤原氏である。

・信長は平氏を名乗り、太政大臣を目指した。

Q6 どうして太政大臣を選んだのか?。

A6 今まで、平清盛、源頼朝、北条氏(平氏)、足利氏(源氏)と政権が移ってきた。源平交替思想によって、源氏の足利の次は平氏がよかった。

・秀吉は氏を持たないので何にでもなれる。義昭の養子になって源氏を手に入れ、征夷大 将軍を目指そうとする。しかし、義昭は信長と敵対していたので好ましくない。したがって、藤原氏の独占物の関白になるため、近衛家の養子となって藤原を名 乗ることにした。
・1585年、秀吉は関白となる。しかし、藤原姓を与えるこ とについて異論が続出し、源平藤橘に加える新しい姓として豊臣を贈る。1586年、秀吉は太政大臣となった。

  関 白・太政大臣就任(譲位後、太閤)
  重要都市、鉱山の直轄化、直轄地220万石

・直轄地は蔵入地という。畿内周辺に集中。佐渡や石見などの鉱山を独占。桃山文化が黄 金の文化とされるのは、これらの鉱山からの採掘量が飛躍的に増大したことによる。

  五 奉行、五大老による合議制  but政治組織は弱体

・秀吉はもともとが身分が低いので、子飼いの家臣がいない。政治組織を整備できなかっ た。
五奉行は浅野長政(夫人がネネの妹。筆頭)、前田玄以(三 法師を連れだした功労者、京都所司代で裁判担当)、増田長盛、石田三成、長束正家(算数に明るい)。長政、三成、長盛の3人は秀吉子飼い。三成が一番年 上。
秀吉の晩年、五大老が五奉行の顧問として設置される。 1591年、徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元、小早川隆景の5人を天下大老とする。後に隆景が死に、上杉景勝が加わる。秀吉死後は、利家が秀頼の後見、家康が政務を執り、五奉行は無視される。

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