11 天下統一と幕藩体制の萌芽 <鉄砲とキリスト教の伝 来>

 15世紀後半、ヨーロッパの絶対主義国家は香料を求めて新航路を開拓し、アジアに進出するようになった。ポルトガルの(1)は喜望峰を経由してインドに 至り、中国に進出して1557年には(2)を居留地に定めている。また、イスパニアは(3)がアメリカに到達した後、西廻りでアジアに進出し、1571年 にはフィリピンに植民市の(4)を建設している。こうして、日本近海にはヨーロッパ諸国が出没するようになっていたのであり、(5)年、ポルトガル人が (6)に漂着する。この時、ポルトガル人がもたらしたのが鉄砲であった。島主の(7)が入手し、以後、その製法を解明し、(8)などで国産化が進められ た。鉄砲の登場により、戦法は従来の騎兵中心から歩兵の鉄砲隊中心に変わり、高い石垣と銃眼を備えた城の建設が促された。鉄砲は戦乱を制するために急速に 普及し、全国統一の時期を促進することになる。もっとも、高価な鉄砲を揃えることができたのは、富国策を成功させ、大きな経済力を有した戦国大名に限られ ていた。
 東洋に進出してきたヨーロッパ諸国との間でおこなわれた貿易が(9)である。日明貿易途絶の隙をついた仲介貿易がその特徴で、主力輸入品は中国産の (10)などであり、これに初期は鉄砲が加わっていた。また、硝石のない日本では生産できないと思われていた火薬の輸入も欠かせなかった。これに対し、日 本からは(11)が輸出された。
 ヨーロッパ船は(12)などに入港して貿易をおこなったが、ポルトガルもイスパニアも旧教国であり、貿易とキリスト教布教を一体のものとし、多くの宣教 師が活動した。ヨーロッパでは宗教改革の進行で新教国が力を強め、旧教国はアジアでの布教に活路を見出していた。初期に日本で宣教活動をおこなったのは (13)という宣教師会で、(14)年に(15)が(16)に来航している。彼はその後、都での布教を目指したが失敗し、大内氏の城下町(17)で布教を している。以後、堺を自由都市と評した(18)、織田信長に接近して「日本史」を著わした(19)、活版印刷術をもたらして九州でキリシタン版書物を発行 した(20)などが来日している。
 旧教国の商人は布教と引替えに貿易をおこなったため、その利潤を念頭に置き、キリスト教に入信した大名もあった。彼らのことを(21)と呼ぶ。長崎を教 会領として寄進した(22)、豊後府内の(23)、肥前の(24)の3人は有名で、彼らはローマ法王のもとに4人の少年たちを使節として派遣している。こ れを(25)と呼んでいる。
 この時代、キリスト教は仏教の一派であると理解され、一向一揆などとの対抗上、戦国大名の中にはキリスト教の布教を認める者も多かった。教会として (26)が建てられた他、神父養成のための(27)が府内に設置され、小神学校である(28)が各所に設けられている。この時期、キリスト教の信者はあら ゆる階層に数十万人規模に拡大していたとされ、神を絶対視するその教義は、やがては世俗の支配者たちにとって厄介なものとなっていった。

<解答>
(1)バスコ・ダ・ガマ (2)マカオ (3)コロンブス (4)マニラ (5)1543 (6)種子島(7)種子島時尭 (8)紀伊根来、近江国友、堺  (9)南蛮貿易 (10)生糸、絹織物 (11)銀 (12)長崎、平戸、府内 (13)イエズス会(耶蘇会) (14)1549 (15)フランシス コ・ザビエル (16)鹿児島 (17)山口 (18)ガスパル・ビレラ (19)ルイス・フロイス (20)アレッサンドロ・ワリニャーニ (21)キ リシタン大名 (22)大村純忠 (23)大友義鎮 (24)有馬晴信 (25)天正遣欧使節 (26)南蛮寺 (27)コレジオ (28)セミナリオ


<織豊政権の成立>

 織田信長は尾張の戦国大名である。肥沃な濃尾平野を領し、京都に近いという地の利を生かして天下統一に道を付けた。天下統一は上京が条件であり、それは 将軍、天皇の権威が利用できることと、畿内先進地を制圧できることによっている。信長は西上しようとする駿河遠江の(1)を(2)の戦いで討ち、(3)氏 を滅ぼして美濃に入国した。この後、岐阜を本拠とした信長は、松永久秀に殺された13代将軍義輝の弟(4)を奉じて入京を果たし、これを15代将軍とする とともに、鉄砲産地でもあった商業都市(5)を掌握することに成功した。しかし、この段階では周囲は敵対勢力ばかりであり、これらを一つずつ滅ぼしてゆく 必要があった。(6)の戦いで浅井・朝倉氏を圧倒し、次いで多くの僧兵を擁した比叡山の焼打ちをおこなっている。(4)と対立した信長は、(7)年、これ を追放して室町幕府を滅ぼす。また、伊勢長島で起きていた一向一揆を平定し、甲斐から上洛を目指した武田信玄の子(8)の軍勢を(9)の戦いで破ってい る。この戦いは鉄砲対騎兵という新旧の武器の衝突であり、多くの鉄砲を保持した信長の圧勝であった。信長が手を焼いたのは一向一揆総本山の(10)であ り、これに対しては(11)天皇の仲介で和睦にこぎ着け、大坂から立ち退かせることに成功した。
 信長は、京と岐阜の中間であり水上交通の要地であった(12)に壮大な天守閣を持つ城を築き、拠点とした。商業政策を重視し、城下発展のため(13)令 を発するとともに南蛮貿易にも力を入れた。しかし、(14)年、家臣の(15)の裏切りにより、(16)で殺害される。
 信長の跡を継いだのは、(16)が起きた際、中国攻めの最中だった秀吉である。彼は(17)の戦いで(15)を討ち、対立した信長の有力家臣(18)を (19)の戦いで破って滅ぼした。この後、(10)の跡地に(20)を築いて拠点としている。秀吉に従わない徳川家康とは(21)の戦いで争ったが、決着 がつかずに和睦となった。この後、四国・九州を平定した後、関東の(22)氏を小田原に攻めて滅ぼし、東北の(23)を帰服させて全国を統一した。また、 警戒すべき家康を関東に移封している。
 秀吉は足軽出身で古くからの家臣を持たず、朝廷の権威を最大限利用することで政権を安定させようとした。藤原氏に接近して(24)に就任し、また、律令 制最高の(25)にも就いている。譲位後は(26)と称された。また、(27)天皇の行幸のために(28)を建設し、大名を集めて天皇に忠誠を誓わせてい る。秀吉は京や大坂、堺という重要都市や鉱山を直轄とし、この他に(29)と称する直轄地を支配した。その石高は(30)に及んだ。検地などの仕事をこな した浅野長政、前田玄以、増田長盛、石田三成、長束正家は(31)と呼ばれたが、このような子飼いの家臣の数は少なく、政治組織は弱体であった。晩年には (31)の顧問として、徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元、小早川隆景の有力大名が(32)に任じられたが、実際には機能しなかった。

<解答>
(1)今川義元 (2)桶狭間 (3)斎藤 (4)足利義昭 (5)堺 (6)姉川 (7)1573 (8)武田勝頼 (9)長篠 (10)石山本願寺  (11)正親町 (12)安土 (13)楽市楽座 (14)1582
(15)明智光秀 (16)本能寺の変 (17)山崎 (18)柴田勝家 (19)賤ヶ岳 (20)大坂城
(21)小牧・長久手 (22)北条 (23)伊達政宗 (24)関白 (25)太政大臣 (26)太閤 (27)後陽成 (28)聚楽第 (29)蔵入 地 (30)220万石 (31)五奉行 (32)五大老


<豊臣秀吉の政治>

 豊臣秀吉の政治は幕藩体制のもとを築くものであった。1582年以降、実施された秀吉の検地を(1)と呼び、それまでの指出検地とは異なり、役人を派遣 して全国一律におこなった点に特徴がある。このときは度量衡の統一もおこなわれている。検地では面積の他、土地の等級が調べられた。1反あたりの標準収穫 量を(2)と呼び、これに面積をかけたものがその土地の収穫高である(3)になる。これに年貢率をかければ年貢高が算出され、(4)と称して収穫高の3分 の2が徴収されていた。なお、米を量る枡は(5)に統一されている。(1)で重要なのは実際の耕作者を年貢負担責任者としている点である。荘園制のもとで は一つの土地に対する権利が錯綜し、実際の耕作者である作人は土地を支配する名主に加地子を差し出し、名主が年貢負担責任者となっていた。名主は小領主、 作人の主人として振舞い、時には武装して地侍と称されていた。このような中間的な半武装農民は、惣の農民と結んで一揆を起こす可能性もあり、大名の側から すれば扱いにくい。そこで、名主(地侍)の立場を否定したのである。彼らは城下町に居住して家臣となるか、武器を捨てて農民となるかの二者択一を迫られ た。こうして一つの土地には一人の耕作者という(6)の制が確立する。(1)を通じ、全国の土地は(3)で示されたため、この改革を(7)とも呼んでい る。
 (8)年に出された(9)は、一揆防止のため農民に武器を捨てさせた政策である。これによって半武装農民が姿を消し、武士と農民の身分をはっきり分ける (10)が実現した。1591年には、士農商間の身分を固定する(11)が出されている。(3)制、(6)の制、(10)は、幕藩体制を支える基本理念で ある。
 秀吉はキリスト教に対して友好的であったが、九州攻略を境に対応を一変させ、(12)年に宣教師の国外退去を求める(13)を博多で出している。世俗の 支配者よりも絶対的な神を第一とする信仰に加え、キリスト教徒の団結力の強さを確認したことで、一向一揆と同様の障壁となるのを恐れたためであった。 1596年には、旧教国の日本への領土的野心が披瀝される(14)が起き、最初のキリシタン殉教事件に発展している。ただし、秀吉は南蛮貿易は保護したた め、宣教師の密入国は続いた。
 秀吉は海賊取締令を出すとともに、豪商たちが海外貿易に行く場合には(15)を発行して渡航を許可した。また、(16)など周辺諸国に入貢を要求した。 もっとも利潤のあったのは(17)との貿易であったが、朝貢以外の貿易は認めておらず、秀吉はその征服を企図するようになった。朝鮮を侵略したのは入貢と (17)征服の先導を拒否されたからである。最初の出兵は(18)年におこなわれ、(19)と呼ばれる。肥前(20)を拠点に(21,22)らが渡海し、 漢城、平壌を占領したが、朝鮮民衆の抵抗と(17)の援軍、水軍を率いた(23)の活躍で日本は劣勢となり、講和を結ぶ。しかし、秀吉の過大な要求は容れ られず、1597年には再び出兵し、これを(24)と呼んでいる。今回は当初から日本軍はふるわず、秀吉の死によって撤兵となった。二度にわたる朝鮮侵略 は多くの犠牲を生み、国内的には政権の財政を逼迫させ、大名統制力を失わせることになった。

<解答>
(1)太閤検地 (2)石盛 (3)石高 (4)二公一民 (5)京枡 (6)一地一作人 (7)天正の石直し (8)1588 (9)刀狩令 (10) 兵農分離 (11)身分統制令 (12)1587 (13)バテレン追放令 (14)サン・フェリペ号事件 (15)朱印状 (16)ルソン、高山国、朝 鮮 (17)明 (18)1592 (19)文禄の役 (20)名護屋 (21,22)加藤清正、小西行長 (23)李舜臣 (24)慶長の役


<安土桃山時代の文化>

 安土桃山文化は新興の大名たちによる文化である。彼らは言うならば成り上がりものであり、良く言えば豪壮で新鮮な文化、悪く言えば金持ち趣味の文化を作 り出した。彼らの政治の拠点が城郭である。城郭は、当初は砦としての機能を重視した山城であったが、戦乱が終息すると、領内統治の象徴として、交通の拠点 に近い平野の丘上に建てられるようになる。これが平山城とか平城と呼ばれるものである。このような城郭の最初のものは、織田信長が建てた(1)であろう。 琵琶湖の水上交通の利便性に加え、本拠地の岐阜、京都とのいずれにも近い地理的条件をにらみ、初めて天守をそびえさせた城であった。豊臣秀吉も城郭建築に はこだわりを見せ、石山本願寺の跡地に建てた(2)の他、京都にも邸宅として(3)を建て、後陽成天皇の行幸を仰ぐために(4)を建てている。これらの城 郭建築は現地には残っていないが、(3)の遺構は琵琶湖の竹生島にある(5)本殿に見られ、(4)の遺構は(6,7)などに残されているとされる。
 豪壮な城郭建築の内部を飾ったのは、これも大胆な構図を売りにした(8)である。金箔地に群青や緑青を用いて描いたものを(9)と呼び、(10,11) などの名手が現れた。獅子のつがいを描いた「(12)」はその代表である。水墨画でも大振りの屏風などが描かれ、(13,14)などが活躍した。雨に煙る 松林の様を描いた「(15)」などが知られる。また、庶民風俗に対しての関心も高まり、京都内外の情景と祇園祭を描いた「(16)」などが残されている。
 大名たちの社交の道具としてもてはやされたのが侘び茶である。もともとは「書院の茶」として受け入れられていたものが、(17)が「草庵の茶」を始めて 喫茶の場として(18)を考案したことで完成された。(18)は侘び寂びの趣向を凝らした狭い建物で、(17)作とされる(19)は二畳の広さである。そ の空間を広く感じさせるため床の間が設けられた。
 既成の概念に縛られない自由さの中で生み出された踊りが(20)である。出雲大社の巫女と称する(21)が始めたもので、小歌を歌って異様な風体で踊る ものであった。
 西洋の文化は、いわゆる南蛮文化として紹介され、西洋人の風俗を描いた「(22)」が残されている。宣教師の(23)は活字印刷術を日本にもたらし、島 原では(24)と呼ばれる印刷物が刊行された。これらの中には、キリスト教の教義をローマ字で日本語を表記した「(25)」などがあり、日本語の音韻の変 遷を知る上で貴重な資料となっている。
 安土桃山時代は、人々の服装の上でも後の和服に近い形が生み出されている。広袖の下に下着として着ていた(26)が上着として用いられ、その重ね着が一 般化したのはその表れである。

<解答>
(1)安土城 (2)大坂城 (3)伏見城(桃山城) (4)聚楽第 (5)都久夫須麻神社 (6,7)西本願寺飛雲閣、大徳寺唐門 (8)障壁画  (9)濃絵 (10,11)狩野永徳、狩野山楽 (12)唐獅子図屏風 (13,14)海北友松、長谷川等伯 (15)松林図屏風 (16)洛中洛外図屏 風 (17)千利休 (18)茶室 (19)妙喜庵待庵 (20)歌舞伎踊 (21)出雲阿国 (22)南蛮屏風 (23)アレッサンドロ・ワリニャーニ  (24)キリシタン版 (25)どちりな・きりしたん (26)小袖

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