11 天下統一と幕藩体制の萌芽
<鉄砲とキリスト教の伝来>
[ヨーロッパ人との接触]
西欧絶対主義国家の東洋進出
・エルドラド(黄金郷)が海の彼方にある。黄金の国ジパングのイメージ。「東方見聞
録」=黄金で屋根を葺いた宮殿。
Q1 実際にはあるかどうかわからない金よりも、確実な物を取りにきている。何か?。
A1 東南アジアの香料を直接ヨーロッパに持ってくることで利益をあげたい。アラビア商人経由だと高くなる。胡椒は同じ目方の金と取り引きされる。
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(香料貿易)
Q2 どうして香料が高価だったのか?。
A2 ヨーロッパの主食は肉である。防腐のためには胡椒は欠かせない。腐りかけのものを食べるときも胡椒があればごまかせる。
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・麦のパンは肉の添え物に過ぎない。冷蔵庫のない時期、牛でも羊でも屠殺すれば、1ヶ
月も2ヶ月も食べ続ける必要がある。途中で腐ってしまうため、ハムやソーセージなどに加工する技法が発達した。
1 ポルトガル
バスコダ・ガマの新航路開拓→ゴア、マラッカへ
・アラビア商人経由でなく、直接買い付けに行く道を探す。ポルトガルのエンリケ航海王
は100トンの帆船を作らせてアフリカ西部沿岸を南下させた。喜望峰に到達し、その向こうにインド洋が開けていることを発見する。1488年。
・ガマは1497年7月8日、リスボンを出発し、喜望峰をまわって1498
年5月20日にカリカットに到着する。アラビア船が多数寄航していた。サモンドリン王への朝貢物は木綿と帽子、洗面器であった。王は宝石の
服を着て金のツボに唾を吐いて大笑いする。香料を仕入れてリスボンに帰ると60倍で売れた。
・ポルトガルは大量の香料を直接買い付けた。ベネチアに代わってリスボンが香料市場として繁栄する。1510年、ゴアを奪い、マラッカを占領している。1518年にはセイ
ロンに要塞を作る。
マカオへの居留(1557)
・1513年には中国と通商関係を開き、1557年にはマカオに居留するようになる。
2 イ
スパニア(スペイン)
コロンブスのアメリカ到達→西回りでアジアへ
・ポルトガルがインド航路の開拓に一生懸命な頃、イスパニアは西廻りで東洋に行くことを考える。コロンブスはトスカネリ
の地図を信じて西廻りで東洋に行けると主張。
・スペイン女王イサベルの協力によって1492年に出港。当時、大西洋の彼方には怪物が住むと考えられていたため、アメリカに近づくと乗員が反乱を起こ
す。鎮圧しながら進むのでジクザグコースを取り、10月12日、コロンブス
はサンサルバドルに到着。ここをインドの一部と考え、大量の金があると報告する。実際には何もなく、ペテン師とされる。
マニラの建設(1571)
・やがて、アメリカは新大陸と確認される。マゼランは西廻りで東洋を目指す。1519
年9月20日、出港。アメリカの南を回ればインドに続く海があると考えて南下する。1520年11月29日、マゼラン海峡を通過。パタゴニアの氷河地帯を
通過し、やっと大きな海に抜ける。ほっとして太平洋と命名。1521年3月、マリアナに到着。食糧が尽きて船具を水に漬けて食べ、ネズミも売買される。
フィリピンセブ島に到着。マゼランは占領を試みて土人と戦って死ぬ。その後、モルッカ諸島に到着してポルトガル船と遭い、地球が丸いことを証明。1522
年9月6日、スペインに帰り、世界一周を成し遂げる。
Q3 毎日欠かさず航海日誌をつけていたが一日早まっていた。どうしてか?。
A3 日付変更線を超えたからであり、これが世界一周の証でもあった。
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・1571
年、マニラ植民市を建設。メキシコのアカプルコ経由で西廻りで来る。このように、中国やフィリピンに頻繁にヨーロッパ船が出没していたのであり、日本にやってくるのは
時間の問題だった。
※1543
年、ポルトガル人の種子島漂着
[鉄砲とキリスト教]
A 鉄
砲伝来
・1543年8月25日、シャムから寧波に向かうジャンク船が種子島に漂着する。西村織部丞が中国人の乗員・五峰と筆談をし、ポルト
ガル人を「西南蛮種の商人」と紹介される。種子島時堯に会わせる。
・ポルトガル人は常に鉄の筒を放さないので撃たせた。長さ2〜3尺(70センチ)、「奇世の珍」として2丁を買う。
種子島時堯の購入
・火薬は中国起源。元寇でも「てつはう」を使ったし明の統一の時に使われる。朝鮮では
倭寇鎮圧に用いている。日本にも中国製のものが入って堺で作られていたらしいが、ほとんど威力がなく実戦でもあまり使われず。
・ポルトガル伝来のものは火蓋を切って引き金を引き、火縄で点火。これで命中率が高くなる。
・種子島時堯は火縄銃を2丁購入し、1丁を八板清定に渡して
同じものを作れと命令。種子島は砂鉄の産地。
Q4 中空の鉄の筒を作るにはどうすればよいのか?。
A4 鋳型に流し込む鋳造ではもろい。現在は鉄棒の真ん中に錐で穴をあけている。しかし、当時は鉄に穴をあける道具がなかったため、心棒に鍛鉄を巻く方法
が採られる。
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・筒はできるが底をふさぐことができない。ここだけ鋳鉄をつけると熱で筒が曲がり、命
中率が落ちる。
Q5 どうすれば底を塞ぐことができるのか?。清定は娘を異国船の船長に嫁がせて聞き
だしたという。
A5 ネジ式である。 |
・ネジは時計回りの回転で締まる。日本のネジは左ネジにしてわざと反対にした。西洋人
に分解されないようにということだったとされる。
・鉄砲は射程が600メートル、実戦での有効射程距離は100メートル。弓は60メー
トル飛ぶが、殺傷するためには30メートルがせいぜい。もっとも、鉄砲は雨では使えないし、1分間に4発の発射がせいぜい。
=戦乱を制すため急速に普及
cf)国産鉄砲(堺、近江国友)
・紀州根来寺の関係者が種子島銃を1丁もらう。根来で生産。堺商人も八板のところに来て製法を学び、堺でも生産。1544年、幕府は鍛冶の盛んな近江国友村に対して製造を命令。1549年には、信長が500丁の大量
注文をする。
※戦法(騎兵→歩兵の鉄砲隊中心)、築城法(高い石垣と銃眼)の変化
・鉄砲が用いられるようになったことで、騎兵による突撃は効果がなくなり、歩兵に鉄砲を持たせるようになる。
・城は板壁だと打ち抜かれるので、高い石垣をめぐらせるようになり、中から
鉄砲を撃てるように銃眼をつけた。
=全
国統一時期の促進
・鉄砲
の伝来で天下統一時期は促進された。応仁の乱(1467)〜鉄砲伝来(1543)までの70年で日本は統一されなかった。しかし、伝来から
信長の統一(1573)までは30年しかかかっていない。
・信長の頃の鉄砲の割合は全武器の20%に過ぎなかった。家康の時には40%になっており、年々鉄砲が増産されていたことがわかる。
Q6 鉄砲を持つと戦いを有利に進めることができる。戦国大名が鉄砲を入手するのに欠
かせないことは何か?
A6 経済力である。 |
・鉄砲は高価であり、今の価格でゆくと6匁銃で54万円、30匁銃なら240万円。長
篠の戦いでは3000丁を使っている。30匁銃なら72億円になり、鉄砲を
用いるには経済力が必要であった。
B 南蛮貿易
ポルトガルの仲介貿易(日明貿易途絶の隙をつく)
中国産生糸、絹織物、鉄砲←→日本産銀
・中国
に拠点を持ったポルトガルによる仲介貿易がおこなわれ、生糸をもたらす。
Q7 鉄砲を撃つために欠かせないものも輸入した。何か?
A7 火薬である。 |
・鉄砲を撃つのに使う黒色火薬は硫黄と木炭、硝石を混ぜる。重要なのは硝石(硝酸カリ
ウム)で、黒色火薬の成分の70%を占める。日本にはないとされたので輸入した。
・後に、硝石は古い家の台所や馬小屋付近の土間の土に含まれることがわかり、江戸時代には動物の糞と土、石灰を混ぜて培養した。
=平戸、府内、長崎への入港
but旧教の失地回復策により、貿易とキリスト教布教の一体化(商
人と宣教師の結合)
・ポルトガルは旧教国。免罪符を発行して儲けるなど、教会の腐敗が進行。1517年、
ルターが95条意見書を出し、1541年からはカルビンの改革。商工業者の多いスペイン領オランダなどは新教徒が増えて、1581年には独立の動きが出
る。
・ヨーロッパにおける旧教の低迷を東洋で補うことが、ポルトガルの国益にも
つながると判断される。
C キリスト教の拡大
1 イ
エズス会(耶蘇会)の活動
・イエ
ズス会は1534年、モンマルトルの丘で7人の有志によって作られる。ポルトガル国王のインド布教の提案を受けて伝道に来る。
フ
ランシスコ・ザビエル(スペイン人)の鹿児島来航(1549)
・1549
年8月15日、イエズス会宣教師ザビエルが鹿児島に来日。薩摩武士アンジローが殺人を犯してマラッカに潜行。ザビエルが会って日本の話を聞
く。ポルトガル語ができたため、意志の疎通が図れた。「日本人はもっとも知識欲に富んだもの」。聡明そうなので日本での布教を考える。
・島津貴久は南蛮貿易の利を考えて布教を許可した。しかし貿易船が来ないことから布教を禁止。ザビエルは京都に出て将軍に布教許可を得ようとする。京都に
出るが戦乱で荒廃しており、山口で布教し、次いで府内に行っ
た。
以後、ガスパル・ビレラ、ルイス・フロイス、アレッサンドロ・ワリニャーニ
・ビレ
ラはイエズス会の生みの親。京都で大道説教をして笑い者になって迫害された。三好長慶の目にとまって堺で布教し、堺を自由都市として評価した人物。
・フロイスは信長と会って1時間以上にわたり質問攻めされ
る。信長が布教を公認し、京都に南蛮寺建設を許可する。信徒2万が集まる。「日
本史」を著し、当時の日本の状況を知る好史料となっている。フロイスは信長を唯物論者と評価した。
・ワリニャーニはイタリア人で、長崎で布教して活字印刷術を伝える。これで聖書などを印刷している。
→平戸、博多、山口、長崎での布教
2 キ
リシタン大名の出現
布教と代償に貿易=入信による貿易利益の獲得
ex)大村純忠、大友義鎮、有馬晴信
・大村
純忠は最初に洗礼を受けた者。1580年、長崎をイエズス会
に寄進。「日本のマカオにしたい」といった。
・大友義鎮は49歳で洗礼を受け、反対する妻を離婚した。ド
ン・フランシスコと称する。
・有馬晴信は最初のセミナリオを建てた。遣欧使節の4少年は
ここの出身。
→キリスト教の保護政策 ex)南蛮寺、コレジオ、セミナリオ
の建設
・南蛮
寺は仏寺を利用したもの。1552年の山口大道寺が最初。1560年にビレラが京都に作る。1588年、秀吉の禁圧で破壊される。
・コレジオは府内に建設。神父養成のため、哲学、神学を教える。神父はPadreが訛ってバテレ
ンと呼ばれるが、日本人でバテレンになった者はいない。修道士はイルマン呼び、これはたくさんいる。
・セミナリオは小神学校。ワリニャーニが有馬と安土に建て
る。ラテン語、音楽を教えて儀式をするための聖職者を養成し
たもの。
cf)天正遣欧使節の派遣
・1582
年、大村、大友、有馬の3大名がワリニャーニの勧めで派遣した。千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン、伊東マンショ。13〜14歳。
・ゴア経由でリスボンに行く。1585年、グレゴリオ3世に会い、ローマ市民権を与えられる。1590年に帰国したときは秀吉の禁令が出ている。
・マンショは病死。原マルチノは語学ができ、ラテン語で演説をしたりしていた。秀吉に仕えて通訳や出版に従事したがマカオに追放される。千々石ミゲルはイ
ルマンになったが、改宗して大名に仕えた。中浦ジュリアンは布教して刑死。
※あらゆる階層に数10万人の信者獲得
・病気治しをおこなって民衆の心をつかむ。仏教の一派と考えられる。1598年、30
万人の信者を獲得したと報告。その後増えて60万人ともいうが、過大に報告していることもある。
・人口を考えると50人に一人はキリスト教信者になる。
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