<室町文化>

・室町文化の特徴は公家文化と武家文化の融合にある。鎌倉文化は武士がスポンサーとなって 公家文化を維持していた。室町時代になると、武家の文化的素養が高まり、独 自の文化を持つようになる。それが禅宗文化である。
・前期の北山文化の時期には、公家文化と武家文化は融合していない。東山文 化の時代に融合して新しいものを作っている。象徴的なのは金閣と銀閣である。

(1)禅宗文化
  臨済宗の幕府保護

・禅宗文化の成立は、幕府の保護による。

  五 山の制(京都・鎌倉)・十刹の制
    ex)南禅寺、天竜寺
  禅僧の輩出
    ex)夢窓疎石、春屋妙葩、義堂周信、絶海中津

五山 の制は南宋の官寺制度を模倣したもの。鎌倉幕府は建長寺を第1位にして制度化していたらしい。建武政権、室町幕府がこれを踏襲。寺はその都 度入れ替えられた。鎌倉五山と京都五山ができる。
・室町幕府は南禅寺を五山の上に置き、天竜寺は五山第1位。 後醍醐天皇の菩提を弔うために尊氏が建てた。幕府保護の官寺だったが応仁の乱で焼失。
・夢窓疎石は尊氏が帰依した僧で、国師号を受ける。
・春屋妙葩、義堂周信、絶海中津は義満が帰依したもの。

【建築
<北山文化>
  鹿苑寺金閣(寝殿造と禅宗様式の折衷)

・金閣は1 階が寝殿造(蔀戸の使用)、3階は禅宗様式。 公家の文化と武家文化の積み重ねに過ぎない。
・金箔を張った成金趣味。大きな寺の中の観音堂として建てられた。足利義持は父親の業績をことごとく否定し、金閣だけを残して他の建物を破壊している。
・1950年、放火によって焼失し、現在のものは1955年に再建されたもの。

<東山文化>
  慈照寺銀閣(禅宗様と書院造の折衷)

・銀閣は禅 宗様と書院造の折衷。書院造は公家のものではなく、新たに創製されたもの。

   cf)東求堂同仁斎(初期の書院造)

・東求堂同仁斎は畳の敷き詰め、障子、付書院、違い棚。日本風の建築が完成している。
・畳はもともとは寝台として成立した。室町初期には部屋の周囲にだけ畳を敷いて座る場所としていた。東山文化の時代は畳を敷き詰めている。

Q1 付書院は何をするものか?。方角はどちらか?。

A1 書院では書き物をした。北向きにして直射日光を避ける。棚には唐物を飾った。唐物礼賛趣味の場。

  枯 山水
   cf)大徳寺大仙院、竜安寺

・北山文化と東山文化の差は庭の違いにもみられる。鹿苑寺は浄土の庭。平等院に見られたものの継続。公家の文化。九山八海 石。金閣から見ると浄土に浮かんでいるように見える。
慈照寺は枯山水の庭も持つ。枯山水は自然の情景を石と砂で示す。禅宗の精 神性を取り入れたもの。
・大仙院の庭は川が山から海に流れてゆく様を移したもの。竜安寺の石庭は虎の子渡しか海の情景か。
・大徳寺は一休が再興したことで知られる。

Q2 一休は何で有名なのか?。

A2 頓知のかわいい小坊主のイメージ。

・実際には一休は女郎買いにも出かけ、肉食飲酒の不良老人。78歳で盲目の美女の森女 と同棲する。その性生活を「狂雲集」に残す。88歳まで楽しく暮らしたが、表面は立派でも裏で戒律を乱している僧たちに対しての啓発といわれる。

【絵画】
<北山文化>
 水墨画の伝来(明兆、如拙、周文)cf)瓢鮎図

・水墨画が禅宗の僧によって中国からもたらされる。日本でも禅僧を水墨画を描いた。明 兆も東福寺の僧。如拙は相国寺の僧で「瓢鮎図」を描いた。弟子に周文がいる。
・瓢鮎図は公案の一つ。禅問答を描いている。

Q3 瓢箪で鯰を捕るにはどうすればよいか?

A3 「瓢箪は鯰にして鯰は瓢箪。両者はここに一つ」というのが答の一つ。「油を塗るともっとよくとれる」という答もある。

<東山文化>
 水墨画の大成(雪舟「山水長巻」)

・禅味たっぷりの水墨画が、東山期には山水を描くようになる。空気遠近法の導入。
雪舟は岡山の出身。小坊主で寺に預けられ、絵ばかりを描い ていて怒られる。柱に縛り付けられ、泣いた涙でネズミを描いたらそれが紐をかじり切ってくれたという。応仁の乱後、山口で活躍。文化の地方伝播の現れ。

 大和絵(狩野正信、元信=狩野派、土佐光信)

狩野 正信は周文のあとを受けて足利将軍家の御用絵師になった。小栗宗湛が死んでから認められ、義政の東山殿の襖絵などを描いた。
狩野元信は狩野派の大成者で、禅宗的な水墨画の要素を捨て て大和絵の技法を入れた。これが新興の武家の共感を得た。

   cf)金工(後藤祐乗)

・足利義政に仕え、元信の下絵で高肉彫を創案した。刀の鍔や金具を作る。

【学問】
  五 山文学
   五山の禅僧による(朱子学、漢文)cf)五山版の出版

・禅の坊主は学問もおこなう。五山の僧侶による五山文学、朱子学の紹介。

  朱 子学

・朱子学は南宋の朱子が儒学の教えを解釈したもの。大義名分論が特徴である。臨済宗の僧侶たちの教養として学ばれた。

   桂庵玄樹(薩南学派、薩摩)南村梅軒(南学、土佐)

桂庵 玄樹は臨済宗の僧で、明に渡って朱子学を学ぶ。応仁の乱の戦火を逃れて各地を渡り歩き、島津氏に招かれて薩摩に落ち着いて薩南学派の祖となる。
南村梅軒は大内氏の家臣とされ、土佐に行って兵法や四書を講じたとされる。南学の祖。

    cf)足利学校

足利 学校は上杉憲実が円覚寺の僧を招いて再興したという。中世唯一の学校施設で、「坂東の大学」と称された。上杉氏、北条氏、徳川氏に保護され、旧金沢 文庫の書籍を伝える。

(2)庶民文化からの芸能の成立
<北山文化>

・土俗的なものが洗練され、一つの美学に到達する。これは芸術創造のパターン。しかし、洗練されてゆくといろいろなルールができ、それで権威づけられる。 ルールを作っているうちはそれも面白いが、だんだんとがんじがらめになってつまらなくなる。そうすると次の芸術が作られることになる。

  能楽(猿楽の能)

能楽 は猿楽が元。散楽を始めとする滑稽な物まね芸。宮廷の余興や寺社の祭礼でおこなわれてきた。鎌倉時代に歌舞や演劇の要素が入り、猿楽の能に なる。

   田楽などから発展 cf)大和四座(興福寺が本所)=金剛、金春、宝生、観世
   観阿弥・世阿弥が大成 cf)「花伝書」「申楽談義」

・寺社の行事で演じられるため、その元で座を結成していた。
観阿弥、世阿弥の親子は、猿楽の能に田楽(田植えの時に豊 作を祈って踊ったもの)などをミックスして能楽に仕立てた。
・世阿弥は12歳でデビューした美少年。17歳の義満に惚れられ、その同朋衆となって可愛がられる。当時56歳の二条良基と取り合う。義満の死後は佐渡に 流された。
・現行の能のほとんどは世阿弥の作。「花伝書」は、日本人の著した芸能書の最高傑作とされる。
・能の美学は「幽玄」であり、「花」がその見本。美しく柔らかいもの。はかないもの。「秘すれば花」であり、花は隠すところに美しさがある。
公家の雅楽に対し、能は武家の式楽となる。武家文化が公家文化を消化して ゆく事例の一つと捉えられる。

  狂 言

・滑稽な物まね芸は猿楽の狂言となって残る。

  連歌(和歌の上・下の句を交互に詠む)

惣の 発生により、団らん的な文化が生まれる。連歌と茶の湯が代表。

Q3 連歌はどうやって詠むのか?。何を期待しているのか。

A3 和歌の上の句と下の句を2人で掛け合いで詠むもので鎌倉時代に発生した。上と下の意味が通る歌にしないといけない。一種の即興の遊びとしてスタート したもので、寄合でおこなわれる。

・3人でやると鎖連歌になる。2句目は1句目の下の句に使われた言葉に関係するものを 持ってくる。
・雪ながらやまもとかすむ夕べかな→行く水とおく梅におう里(雪=行く)→川風に一むら柳春見えて(梅=春)→舟さす音もしるき明け方(川=舟)→月やな お露わたる夜に残るらん(明け方=月)→霜おく野原秋は暮れけり(露=霜)。いつの間には春の歌が秋へと変わっている。偶然の展開がおもしろい。
惣の寄合などでおこなわれ、庶民の楽しみとなる。

    「莵玖波集」(二条良基)

連歌 は南北朝期に二条良基が形式を整えた「莵玖波集」は准勅 撰。これによって和歌と並ぶ地位を占める。百韻を基本とする。「応 安新式」で規則を作る。

<東山文化>
  連歌(連歌師が文化を伝える)


・連歌は賭事となり、連歌師について習う場合も出てくる。連歌師は諸国を廻り、これで 中央の文化を地方に伝える。

    正 風連歌=飯尾宗祇「新撰莵玖波集」「水無瀬三吟百韻」

正風 連歌は幽玄、閑寂を重視する。「つくばねの道」として「しきしまの道」に対抗。芸術性が高くなり、規則がいろいろ作られるとつまらなくな る。

    俳 諧連歌=山崎宗鑑「犬筑波集」

俳諧 連歌=奇抜、滑稽を追求。規則にとらわれない。

Q4 例えば、「切りたくもあり切りたくもなし」に前句をつけるとすればどんなものが よいか?。

A4 一例として「盗人を捕らえてみれば我が子かな」がつく。

  庶民文学
   「御伽草子」(短編読物)「閑吟集」(小歌など歌謡集)

「御 伽草子」は、もともと江戸時代に大坂の本屋が出した23編の叢書を「御伽文庫」と名付けたところからついた。室町時代以降の同類の短編もの 300編をこう呼んだ。作者は不明。浦島太郎などの民間の伝承をまとめたもの。
「閑吟集」は310編。自由律の民間の歌謡である小歌を集 めたもの。

  庶民教育
   「庭訓往来」(教科書)「節用集」(辞書)

・庶民が文学に接することができる背景には教育の普及が欠かせない。
「庭訓往来」は往来ものという手紙文で文字を教えたもの。 年間の手紙と返事を手本として武士や庶民が日常生活に必要な用語を網羅している。
「節用集」は日常生活に必要な用語をいろは順に並べ、他に は天地、時節、草木など14,5の部門の言葉を網羅。

  茶 道(←闘茶)
    侘び茶=村田珠光→武野招鴎→千利休

・座禅の際の眠気覚ましの薬用として入る。
賭事としての闘茶の成立。4種類のお茶から栂尾の本茶を当 てる。10回やって何回当たるかで勝負。
・賭けをするための茶寄合も開かれ、一服一銭の立ち売りも出る。惣では、一服の茶を廻し飲みすることで結束を図った。
侘び茶の登場。禅の精神を取り入れ、静かに渋い茶を飲むことに美学を感じ るようになる。村田珠光は一休の弟子。

  華道 池坊専慶

・生け花は茶を飲む部屋を飾ったところから始まる。

(3)室町文化のその他の動き
 鎌倉新仏教の普及
  浄土真宗
    蓮如の活動で勢力拡大(御文の利用、講組織)
     cf)吉崎御坊、石山本願寺→一向一揆の発生
  日蓮宗
    日親の活動法華一揆の発生

日親は 義教に諫言をして投獄される。拷問されて鍋かぶりの日親と言われる。京都の 商工業者を中心に法華一揆を結成。町衆の宗教となる。伝統的に日蓮宗は町衆に受け入れられる。
・一向一揆に対抗させるため、細川氏が法華一揆に山科本願寺攻撃をさせる。

     延暦寺と対立=天文法華の乱で衰退

・延暦寺の僧が説法していたのを妨害。怒った延暦寺は6万人で京都21か寺の日蓮宗寺 院を攻撃。天文法華の乱という。以後、洛中では日蓮宗は禁止 となる。

 唯一神道
  吉田兼倶の反本地垂迹説

・吉田神社の神官の吉田兼倶が唱える。本地垂迹説の両部神道に対し、唯一の神とその道を守 ることを主張。神道に密教の加持祈祷をミックスさせたマジカルなものとなる。

 歴史書
  「神皇正統記」(北畠親房)南朝方歴史書

・神代からの天皇の事績を記し、南朝が正統であることを説いている。東国武士を結集し ようとしたもの。

  「梅松論」北朝方歴史書

・鎌倉幕府の治績から南北朝の内乱、足利尊氏の政権掌握までを尊氏の側から史実に忠実 に書いている。

  「増鏡」

・二条良基の著ではないかと言われている。源平の合戦の始まった1180年から 1333年に後醍醐天皇が隠岐から京都に戻るまでの間の公武関係を公家側から記述している。「大鏡」「今鏡」「水鏡」とともに四鏡という。

     cf)「太平記」

「太 平記」は南朝に縁の深い僧の手になるもの。40巻の軍記物で、1371年頃には成立していたらしい。正中の変から南北朝の内乱までを記す。
・室町時代には物語僧に朗読され、太平記読みという。

 有職故実(公家儀式の研究)
<北山文化>
  「職源抄」(北畠親房)「建武年中行事」(後醍醐天皇)

・有職は官位昇進の順序や年中行事など、公家世界の先例に関する知識のこと。これを 知っている人が有識者である。
・九条流、小野宮流、西宮流があった。後には武家にも有職が重んじられ、伊勢流、小笠原流が成立する。

<東山文化>
  
一条兼良(cf)「樵談治要」)

一条 兼良は有職故実の大家だが、「樵談治要」を著 わし、年少の9代将軍義尚に対して政治の意見を述べている。この中で、足軽は禁止すべきといったりしている。
・有職故実は、室町時代後期の戦乱の時代になると、経済的に逼迫した公家たちの金稼ぎの道具になる。
・貧乏な天皇や貴族の話はたくさんある。後土御門天皇は死んでも葬儀代がなく、40日間もそのままだった。後柏原天皇は即位式をするお金がなく、22年も 式ができなかった。公家は蚊帳にくるまって寝ている始末。
・新興の武士は伝統に対するあこがれがある。公家たちは有職に代表される公家文化を切り売りして食べてゆくようになる。百人一首を書写して絵を描いたりし て売る。三条西実隆は「源氏物語」のコピーをする。今の値段で一仕事120万円。原稿用紙2600枚あるので1枚462円のアルバイト。

   cf)古今伝授(東常縁)

・伝統や芸能の免許を与える方法も金稼ぎにはもってこいである。代表的なのは「古今伝授」。 「古今和歌集」の解釈を師が弟子に口伝えで伝えたもので、それ以外の者には一切教えない秘密。藤原定家の頃に作られ、東常縁が飯尾宗祇に伝え、ここから三 条西実隆などに伝えられた。戦国時代には細川幽斎が受け継いだ。石田三成が細川を攻撃した際、殺すと絶えてしまうため、囲みを解いたという。
・中身は下らないこと。「古今和歌集」の「三鳥」とは何か?というものでは、百千鳥、呼子鳥、稲負鳥だった。

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