10 下剋上と大名領国制の形成 <応仁の乱と戦国大名の出現>

 8代将軍なった[1]は政治には関心がなく、浪費と遊興の日々を送ったため、幕府の実権は管領の[2]と、嘉吉の乱を制した四職の一人[3]によって握 られた。このため、両者の権力争いが生じてゆく。(1)には嫡子がいなかったことから、弟の[4]を還俗させて次期将軍と定め、その後見に(2)がつい た。しかし、(1)の夫人の[5]が[6]を出産し、(1)に実子ができると将軍継嗣問題が発生する。(5)は(3)を後見に頼み、互いに争うようになっ たのである。この時期、長子を惣領とするルールが確立しておらず、後継者はその器量によって選ばれることになっていた。そのため、(7,8)などの守護大 名家でも継嗣問題が起きていた。対立する両勢力はそれぞれ(2)(3)に後見を求めたため、幕府を二分する対立に発展する。こうして起きたのが[9]年の [10]である。戦いは京都を舞台に繰り広げられたため、都の荒廃は著しかった。特に[11]と呼ばれる土民の傭兵が多く用いられたことから、忠誠心に劣 る彼らは裏切りや略奪を繰り返し、混乱に拍車をかけた。
 都での戦いは(2,3)が相次いで亡くなって終結するが、この間、守護大名たちの家臣である[12]や国人、地侍が主人を裏切り、地方で反乱を起こして いた。こうして、下の者が上の者を倒してのし上がる[13]の風潮が出てくる。(14)年の[15]は、山城国守護(7)が(16,17)に分かれて同族 争いを長期化させたのに対し、疲弊した国人や農民たちが両氏の追い出しを図ったものである。この結果、山城では8年間の国人・農民による自治がおこなわれ ることになった。(18)年には、北陸で[19]が起きている。浄土真宗本願寺派の[20]は、越前の[21]を拠点に布教をしていたが、地侍たちに (22)を送り、(23)を結成させる手法が功を奏し、国人、坊主、百姓など多くの門徒を抱えるようになっていた。折しも守護の同族争いに巻き込まれた彼 らは、(24)を打倒して国を奪い、100年間にわたる自治を獲得する。家臣に倒される守護大名は多く、斯波氏は尾張を(25)、越前を(26)にとられ た。細川氏は家臣の(27)、さらに(28)に実権を奪われている。守護大名は勃興する惣の農民を完全に把握することができず、守護代や国人を使って領国 を間接統治していたため、惣に出現した地侍と結んだ在地領主の裏切りに対処できなかったのである。
 こうして守護大名を倒し、実力で領国経営をおこなったのが[29]である。[30]はその典型で、鎌倉公方が[31,32]、関東管領が[33,34] に分裂して争っていた関東に侵入し、(35)を本拠に定めた。(29)の出自にはパターンがあり、惣の形成がある程度進んだ中部や中国には守護代や国人出 身者が多い。惣の実力者の(36)を軍事力とすることができたためで、山口を領した(37)を滅ぼした(38)を倒し、安芸を拠点とした(39)はその例 である。一方、早くから惣が形成された畿内では地侍層は農民と結び、国人に対して対抗する。このため、小国人が乱立して有力な戦国大名は登場しない。その 中で、一向一揆の本山となった[40]は異色の存在であった。
惣の形成の顕著でない東北や九州では古い守護大名勢力が(29)に転化している。

<解答>
(1)足利義政 (2)細川勝元 (3)山名持豊(宗全) (4)足利義視 (5)日野富子 (6)足利義尚 (7,8)畠山氏、斯波氏 (9)1467  (10)応仁の乱 (11)足軽 (12)守護代 (13)下克上 (14)1485 (15)山城の国一揆 (16,17)畠山義就、畠山政長  (18)1488 (19)加賀の一向一揆 (20)蓮如 (21)吉崎御坊 (22)御文 (23)講 (24)富樫政親 (25)織田氏 (26)朝 倉氏 (27)三好長慶 (28)松永久秀 (29)戦国大名 (30)北条早雲 (31,32)古河公方、堀越公方 (33,34)扇谷上杉家、山内上 杉家 (35)小田原 (36)地侍 (37)大内義隆 (38)陶晴賢 (39)毛利元就 (40)石山本願寺


<戦国大名の領国支配>

 幕府の権威や統制とは無縁で、実力で領国支配をした戦国大名は、家臣団と農民を強力に統制し、経済力を高める必要があった。家臣団は大名との関係から、 親戚筋の(1)、早くからの家臣の(2)、地元勢力の(3)、戦いの過程で新たに家臣となった(4)に分けられたが、(4)の比重が高いのが弱点であっ た。このため、戦時には直臣の家臣であっても別の有力家臣に指揮させる[5]制を用いて対処している。一方、戦国大名は一国の一円支配を実現したため、家 臣には土地の全面支配権を与えることができ、所領を銭納年貢高で示す[6]制をとって、その額に応じた軍役負担を課した。合戦のときに動員できる兵員数が 確定され、強力な軍事体制を布くことができた。また、[7]という成文法が出され、その内容は相続における(8)、私的同盟の禁止、婚姻制限、家臣同士の 争乱を阻止するための[9]規定などであった。また、家臣を惣と切り離し、有効な軍事力として手元に置くため、[10]への集住政策がとられた。代表的な (7)として、大内氏の「(11)」、今川氏の「(12)」、伊達氏の「(13)」、武田氏の「(14)」、長宗我部氏の「(15)」などが知られてい る。
 戦国大名は惣の農民をしっかり把握し、これを領国支配の下部組織にした。惣の指導者である半武装上層農民の[16]は、所領を保証される代わりに家臣団 に編入された。一揆防止のため厳罰主義をとり、連帯責任を負わせる(17)の制度を用いた。また、[18]を実施して農民の持つ土地面積を把握し、年貢を 確実に徴収することに努めた。ただ、この時代の(18)は直接測量ではなく、申告制の(19)であった。
 農業生産の安定・増大のため治水や灌漑工事は欠かせず、武田氏が釜無川に築いた(20)が知られている。鉱山の開発も相次ぎ、江戸時代にかけて栄える (21)などの金山や(22)などの銀山が開かれている。兵員移動や軍需物資の移動のため、街道を整備してその途上に(23)を設置し、物資の輸送のため の(24)制度を設けた。また、通行税を課した(25)は撤廃されている。城下町の商業発展のために出されたのが自由営業を認める[26]である。貨幣制 度では、粗悪な貨幣を選別する行為に対し、[27]令を出して排除すべきものと流通を強制するものを示し、大量の貨幣の流通を図った。この時代に発展した 城下町としては、北条氏の(28)、今川氏の(29)、大友氏の(30)、大内氏の(31)などがある。その他、門前町としては、伊勢神宮の (32,33)、延暦寺の(34)などがある。一向宗寺院の門前町に防備都市の要素が加わったものを[35]と呼び、石山本願寺を核とした(36)が知ら れる。また、港町としては越前若狭の(37,38,39)、琵琶湖沿岸の(34,40)、日明貿易でも栄えた(41,42)がある。都市に成長した富裕な 商人を(43)と呼ぶ。環濠をめぐらし、牢人を雇って自衛をした[41]では、36人の(44)が自治をおこない、宣教師(45)はここを自由都市と評し ている。(42)でも(46)による自治がおこなわれていた。京都(43)の力を示す祭りとして、(47)では山鉾が巡幸するようになった。

<解答>
(1)一族衆 (2)譜代衆 (3)国衆 (4)新参衆 (5)寄親・寄子 (6)貫高 (7)分国法 (8)長子単独相続 (9)喧嘩両成敗 (10) 城下町 (11)大内氏壁書 (12)今川仮名目録 (13)塵芥集 (14)信玄家法 (15)長宗我部元親百箇条 (16)地侍 (17)縁座  (18)検地 (19)指出 (20)信玄堤 (21)佐渡、甲斐、陸奥 (22)石見、生野 (23)宿駅 (24)伝馬 (25)関所 (26)楽市 楽座 (27)撰銭 (28)小田原 (29)府中 (30)府内 (31)山口 (32,33)宇治、山田 (34)坂本 (35)寺内町 (36)大 坂 (37~39)三国、敦賀、小浜 (40)大津 (41,42)堺、博多 (43)町衆 (44)会合衆 (45)ガスパル-ビレラ (46)年行司  (47)祇園祭


<室町時代の文化>

 室町文化は足利義満の時代の(1)と足利義政の時代の(2)に分かれる。この時代は、従来の公家文化の上に徐々に武家文化が融合していったが、この武家 文化を特徴づけたのが禅宗文化であった。室町文化の特徴の一つ目は、この禅宗文化の拡大にある。(1)を代表する建築物は義満の別荘(3)である。これは 公家文化の建築様式である(4)の上に(5)を単に積み重ねたものに過ぎない。これに対し、(2)を代表する義政の別荘(6)では、新たに創製された建築 様式である(7)と(5)が折衷されている。(7)は畳を敷き詰め、障子、付書院、違い棚という以後の日本建築の要素を凝縮した建築様式であり、(6)に 隣接する(8)が初期の例として知られる。庭では、(3)が公家風の浄土の庭を持つのに対し、(6)には自然の情景を石と砂のみで象徴的に表す(9)も作 られている。(9)は禅宗の精神性を示すもので、京都洛北の(10)や五山の上の南禅寺などの庭が著名である。
 禅宗のうち、幕府に保護されたのは臨済宗である。宋の官寺の制にならい、幕府はは京都と鎌倉の大寺に対して(11)を整え、これを保護した。これらの寺 の僧侶は幕府の政治外交顧問となり、足利尊氏が帰依した(12)、義満が帰依した(13〜15)が知られている。中国との交渉や法令の発布には禅僧の知識 が必要だったのである。
 禅宗の影響は絵画にも表れている。(16)は禅僧によって中国からもたらされたもので、墨の濃淡で遠近感を表す独特な技法を用いた。(1)の時代では (17〜19)などが画僧として名高く、瓢箪で鯰を捕らえる公案を描いた(18)の「(20)」が代表作である。(2)の時代になると山水の大作を描いた (21)により、(16)は大成される。代表作「(22)」は山口で描かれたもので、応仁の乱後の文化の地方伝播の表れでもある。一方、(23)は足利将 軍家の御用絵師となり、東山殿の襖絵などを描いたが、その子の(24)は水墨画の要素を捨てて伝統的な大和絵の技法を取り入れ、(25)と呼ばれる流派の 祖となった。また、大和絵の主流派である土佐派は(26)によって再興されている。なお、刀の鍔などの金工のジャンルでは(27)が現れ、江戸時代に続く 金工後藤氏の祖となった。
 幕府に保護された大寺の僧侶たちは漢籍や漢詩文に親しみ、これを(28)と呼んでいる。ここで発行された木版書籍が(29)である。また、南宋の儒学 者・朱子が創始した朱子学が禅僧の教養として学ばれた。応仁の乱が起きると、戦火を逃れて地方武士のもとで朱子学を講じる者が現れている。薩摩で活躍した (30)は朱子学の一派として(31)を開き、土佐では(32)が(33)の祖となった。なお、関東では関東管領上杉憲実が旧金沢文庫の書籍を伝える (34)を再興し、「坂東の大学」と称された。
 室町文化の二つ目の特徴は庶民文化の高揚である。この時代は、庶民が文化の担い手となるよりも、彼らが育んだ文化が上層階級に着目され、洗練されて一つ の美学に到達している点が重要である。その代表は猿楽に端を発する(35)であろう。猿楽は滑稽な物まね芸であり、これに田楽などの要素が加わって (35)が形成されたとされる。本来は寺社の行事で演じられ、奈良の(36)を本所とし、(37)と総称される(38〜41)が興行をおこなっていた。そ の大成者は(42,43)父子であり、(43)の著わした「(44)」は芸能論の傑作とされる。(35)の美学は幽玄にあるとされた。一方、滑稽な芸の伝 統は(45)に残され、(35)の合間に演じられた。
 (46)は和歌の上の句と下の句を何人かの者が交互に詠む文芸で、惣の寄合の場などで即興の遊びとして始まったものである。南北朝時代に(47)が「応 安新式」を著わして形式を整え、「(48)」が勅撰に準じられたことで和歌と並ぶ地位を獲得した。(46)は(46)師によって地方にも教授され、文化の 地方伝播に寄与した。
 連歌は次第に芸術性を高め、幽玄や閑寂を重んじるようになる。正統派の連歌を(49)と呼び、その代表者は(50)であった。「(51)」は準勅撰とな り、「(52)」は(50)が弟子と吟じ、傑作とされた。規則が煩雑となると本来の連歌の持つ意外性が失われ、面白みがなくなってしまう。この中で、規則 に縛られず奇抜、滑稽を旨とする(53)が(54)によって創始された。「(55)」はその作品集である。
 庶民の文学的素養も高まり、浦島太郎などの口承文芸を集めた短編読物「(56)」が発刊され、自由律の民間歌謡(57)を集成した「(58)」も出され ている。文学に親しむには教育が欠かせない。「(59)」は手紙文を使って文字の習得を目指した教科書であり、日常生活に必要な語句を集めた「(60)」 という辞書も刊行された。
 室町時代は寄合を重んじた時代である。連歌は寄合の場での文芸であったが、お茶も寄合の際に盛んに飲まれるようになった。こうした寄合の茶から闘茶とい う一種の賭け事が始まり、やがては禅の精神を取り入れて(61)が成立する。これは(62)が創始し、(63)に受け継がれ、安土桃山時代に(64)に よって大成される。華道は茶を飲む部屋に花を活けたことで始まり、(65)がその形式を整えた。
 宗教では鎌倉新仏教が庶民層にも普及した点が注目される。浄土真宗本願寺派の(66)は、布教の手段に(67)を用い、惣の指導者の自宅を道場として村 人を組織する(68)を結成させていった。北陸で布教した彼は(69)を拠点とし、この地に一向一揆が結成されていった。後には大坂に建てられた(70) が一向一揆の指導をするようになる。日蓮宗では(71)が京都の町衆に信者を拡大した。為政者は一向一揆に対抗させるため、日蓮宗徒に(72)を結成させ たりした。京都の(72)は延暦寺と対立し、日蓮宗寺院が攻撃される(73)が起きて衰退した。神道では本地垂迹説の両部神道に対し、(74)が反本地垂 迹説の立場に立つ(75)を提唱した。
 歴史書では南朝方に立った(76)の「(77)」が日本三大史論書の一つに数えられ、北朝方の歴史書としては「(78)」が著わされている。伝統の鏡物とては「(79)」があり、南北朝の戦いを記した軍記物には「(80)」があり、物語僧によって語られた。
 没落する公家たちは自分たちの伝統文化の切り売りをして生活するようになり、伝統や芸能の免許が与えられるようになった。公家儀式の研究を(81)と呼ぶ。古今和歌集の解釈を口伝えで伝える(82)は、(83)が(50)に伝えたものである。

<解答>
(1)北山文化 (2)東山文化 (3)鹿苑寺金閣 (4)寝殿造 (5)禅宗様 (6)慈照寺銀閣 (7)書院造 (8)東求堂同仁斎 (9)枯山水  (10)竜安寺 (11)五山・十刹の制 (12)夢窓疎石 (13〜15)春屋妙葩、絶海中津、義堂周信 (16)水墨画 (17〜19)明兆、如拙、 周文 (20)瓢鮎図 (21)雪舟 (22)山水長巻 (23)狩野正信 (24)狩野元信 (25)狩野派 (26)土佐光信 (27)後藤祐乗  (28)五山文学 (29)五山版 (30)桂庵玄樹 (31)薩南学派 (32)南村梅軒 (33)南学 (34)足利学校 (35)能楽 (36)興 福寺 (37)大和四座 (38〜41)金剛座、金春座、宝生座、観世座 (42)観阿弥 (43)世阿弥 (44)花伝書 (45)狂言 (46)連歌  (47)二条良基 (48)菟玖波集 (49)正風連歌 (50)飯尾宗祇 (51)新撰菟玖波集 (52)水無瀬三吟百韻 (53)俳諧連歌  (54)山崎宗鑑 (55)犬筑波集 (56)御伽草子 (57)小歌 (58)閑吟集 (59)庭訓往来 (60)節用集 (61)侘茶 (62)村田 珠光 (63)武野紹鴎 (64)千利休 (65)池坊専慶 (66)蓮如(67)御文 (68)講 (69)吉崎御坊 (70)石山本願寺 (71)日 親 (72)法華一揆 (73)天文法華の乱 (74)吉田兼倶 (75)唯一神道 (76)北畠親房 (77)神皇正統記 (78)梅松論 (79)増 鏡 (80)太平記 (81)有職故実 (82)古今伝授 (83)東常縁

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