10 下剋上と大名領国制の形成
<応仁の乱と戦国大名の出現>
[応仁の乱の発生]
A 8代将軍義政の失政

・義教の死で、その子の義勝が8歳で将軍になる。しかし、2年後、赤痢で死ぬ。
・弟の義政が将軍となるがまだ7歳だった。この子が死んだら 跡継がなくなり、またもめることになる。守護大名たちは殺さないように大事に育ててゆく。
・義政は蹴鞠や和歌がうまく、貴族からはもてはやされた。政治に関心を持って義教のようになると困るので、政治に無関心になるように育てた。実際の政治は側室や寵臣に振り回される。今参の局、烏丸資任、有馬持家は「三魔」と 称された。

    政務を忘れ浪費と遊興

・義政は邸宅作り、庭作りが趣味。一木一石にも銘木、銘石を選ぶ。義政は芸に対しての 鑑識眼は鋭い。庭石の位置も、義政が定めるとぴたりと決まる。河原者を呼び寄せて庭造り。唐物の収集家であり、コレクションは東山御物として以後の大名の 垂涎の品になる。風流と儀礼の世界で生きている人
妻は日野富子。政権に接触したいと思っていたが、政治の嫌 いな夫に相手にされず、金儲けにいそしむようになる。日本の 金の2分の1は富子のものと称された。
・1459年、田植え時に雨が降らない。太陽が二つに見えたり妖星が月を犯す。9月に大暴風雨。賀茂川が氾濫して京都で溺死者。米を持ち込めなくなって餓 死者続出。11月には徳政一揆が乱入する。
・1460年、春から日照り、水争いが各地に起こって流血の事態。5月末からは長雨、低温となり、夏なのに冬着を着る。琵琶湖が氾濫して疫病もはやる。秋 に大風が吹いてイナゴが発生。長禄から寛正にあらためて縁起担ぎをする。
・夏頃から食糧が不足し始め、1461年には全国的に飢饉。餓死者が続出。時衆が粟粥を施すがすぐに底をつく。義政は銭100貫を寄付しただけ。賀茂川は 死体で埋まって水が流れなくなる。
・ある僧が死者の額に木片の卒塔婆を置いていった。8万4千のうち2000余っただけ。
・義政は飢饉をよそに寺参り、花の御所の復旧、庭園造りをし、44人の妾を持っていた。
・後花園天皇は、義政に対して政治をあらためるように漢詩を贈るが無視される。

       cf)13回の徳政令、関銭拡大

分一 徳政を出したり、伊勢神宮造営費用に充てることを名目として京都七口関を設置し、関銭を徴収した。
・当時の関所の実態をみると、淀川は40キロ間に616カ所の関所が設置され、65メートルに一つ。桑名・四日市間は16キロに60カ所の関所があって 266メートルに一つの割だった。交通の妨げになる。

    幕府の実権は管領・細川勝元、四職・山名宗全が握る→両氏の権力争い

B 将軍継嗣問題
   義政に子なく、弟・義視を将軍候補とする(後見:細川氏
    but夫人・日野富子が義尚出産、義視廃嫡企てる(後見:山名氏

・義政は16歳の富子と結婚。女の子2人が生まれる。25歳の義政は男の子が生まれないとして弟の義視を養子に迎える。若かったが、 早く風流の道に入りたかった。
・その翌年、1465年、義政夫人の日野富子が義尚を生む。 何とか我が子を次期将軍にしたいので、富子は後ろ盾に山名持豊を選んだ。 将軍職をとられそうになった義視は細川勝元を頼る
・細川勝元は37歳。16歳で管領となったエリート。その後辞任し、1452年から1464年まで、再度の管領を務める。
・山名持豊は足利流ではなく新田流。64歳。出家して宗全を名乗る。8カ国守護であるが、明徳の乱で打撃を受けた後に回復してきたため、国人を完全に手な づけていなかった。

  ※斯波、畠山氏の継嗣問題と合わ せ、幕府を二分する対立に発展

・守護大名の跡継=惣領は将軍が任命する。惣領は国を支配する存在となるため、将軍が 「お家の問題」に介入した。一方では、被官の連中も惣領選びに発言権を持っていた。被官がついてこなければ守護大名は領国統治ができない。
数ある人材の中から将軍、被官が惣領を決めるということは、跡継争いが生 じる元。斯波氏=義敏、義廉。畠山氏=政長、義就。いずれも 義理の兄弟の争い。
・畠山氏の場合、管領を務めた持国は子供がなく、甥の政長を養子に迎える。この後、子供ができたため、実の子の義就に家督を譲る。1460年頃から合戦を おこない、地元の国人も二つに分かれて争う。細川勝元の支持を得て政長が有利。義就は山名を頼る。
対立関係は細川方=足利義政、足利義視、斯波義敏、畠山政長。山名方=日 野富子、足利義尚、斯波義廉、畠山義就

   →有力守護大名がそれぞれに加担

C 応仁の乱(1467)

・1467年正月、管領・畠山政長が解任され、山名持豊の支持を得た斯波義廉が新管領 となる。政長派の武士は京都市街に放火し、酒屋や土倉を襲撃し始めた。山名持豊は幕府に陣を張り、政長は上御霊社に布陣。手勢が集まらず2000人ほどで 合戦となる。
・義政は持豊、勝元に対し、義就と政長の戦いに介入するなと厳命する。
・1月18日、義就が政長の陣を攻撃して御霊社の戦いが起こる。勝元は義政の命を守って動かなかったため、政長は敗北した。

   細川氏(東軍)24国16万×山名氏(西軍)20国11万

・勝元はひそかに兵を集め、山名方の年貢米を奪ったり、播磨では細川派の赤松則村が山 名方を攻撃したりした。これで山名も兵を集め始める。細川派は幕府・相国寺を陣地とし、山名は持豊邸を陣にする。東軍、西軍と呼び、西軍の陣の場所を西陣 と称した。
東軍16万、西軍11万6千で対峙する。

    →京都を舞台に戦闘、

・5月26日から京都で市街戦が始まり、公家の邸宅や寺社に手当たり次第乱入して放火 する。
・義政は中立を守るフリをして、勝元に対して持豊を討たせようとしていた。これで東軍が将軍派となって有利となり、西軍には寝返るものも出る。
・しかし、7月下旬、大内政弘が1万の大軍を率いて上京し、西軍に味方した ため形勢が逆転した。

Q1 大内氏はどうして西軍(山名)の味方になったのか?

A1 日明貿易で細川氏とライバル関係にあったからである。

・大内氏はもともとは地頭級の小豪族。南北朝期に勢力を拡大したが応永の乱で打撃を受 けた。その後復活したのは瀬戸内、北九州の国を領国として対明・対朝鮮貿易をおこなったためである。
・しかし、西軍は長い補給線に頼らざるを得ず、長期化すると不利となる。
・この間、義政、富子、細川勝元は一つ屋根の下に住んでいる。富子は細川に 圧力をかけて義視を追い出したため、義視は西軍についた。富子と義尚は東軍につく。
・義政は酒浸りの生活を送り、10度飲み、ウグイス飲み。富子は、戦費に事欠いて困っている敵味方に金を貸して儲ける。味方にしようとしたものともいう。
・夫婦仲は冷め、義政は富子から逃げるため、1482年から銀閣を造営。

     京都の荒廃 cf)足軽(土民の傭兵)の略奪

直接 戦場となって京都は荒廃しきった。「汝ヤ知ル都ハ野辺ノ夕雲雀アカルヲ見テモ落ツルナミタハ」。略奪が至るところでおこなわれ、内裏、幕 府、貴族の邸宅、大寺社の主なものは全て焼失。
・京都の中心に平安時代以来の古い寺院は多くは残されていない。この時に消失している。古いものは東山や北山、嵯峨に行かないとダメ。
足軽の略奪が輪をかける。土民の傭兵を用いなければ戦いができないので大 量に雇っていた。戦いに勝つことよりも、参加して自分が儲けることを考えている。

    決着つかず、両氏の死で終結

・1473年3月、山名持豊が70歳で死ぬ。5月11日、細川勝元が44歳で死ぬ。こ れで停戦の兆しがあったが、守護大名たちも何も得るところなくして帰れないので戦いは続いた。そのうち、領国の動揺が著しくなり、1477年、大内政弘が東軍に帰順して終結。

※幕府 権威の完全失墜

応仁 の乱後の将軍権威は地に落ちる。9代義尚は近江の六角氏を攻撃した後、酒に溺れて命を失う。25歳で男子がいなかったため、義視に嫁いでい た富子の妹の子・義材(よしき)を10代将軍に立てる。後に義植(よしたね)。
・言うことを聞かない守護大名を叩くために出陣した留守の間に、細川勝元の子・政元に将軍職を追われて11代の義澄(よしずみ)に取って代わられる。「流 れ公方」と称された。
・大内義興が細川高国と組んで義植を復職させたが実権なく、辞めてしまい、その子が12代将軍の義晴となる。以後の将軍は有力守護大名に擁立される操り人形となる。

[内乱の地方拡大](戦国時代)
  地方で守護代の反乱、国人、地侍、農民の一揆、反乱が活発化=領国の動 揺

・将軍・守護大名の権威がなくなったため、それまで言うことを聞いていた国人たちが反 乱を起こす。その形態は、惣の形成がどこまで進んでいたかによって異なる。
惣 の形成が顕著な畿内先進地帯では、地侍が自検断の村を利用して荘園領主、守護大名、国人などを排除して独立の村落領主になろうとする。有力な戦国大名は形 成されない。
中間地帯である中国や中部・北陸地方では、守護代クラスの国人が地侍を組織して守護大 名や荘園領主を倒して地方政権を建てようとする。有力戦国大名が登場する。
国人や地侍が弱い九州などでは、守護大名は国人、地侍、百姓を被官として領国支配を進 めることができた。守護大名が戦国大名に変身する。

A 下 剋上の社会
 1 山城の国一揆(1485)
    山城守護畠山氏の同族争い 義就(西軍)×政長(東軍)

畠山 義就と政長の争いが山城、河内、大和で継続する。大和の国人は両派に分かれて戦う
・戦闘が長期化するにつれて農民の生活は破綻した。

     but南山城の国人・農民が結集→畠山氏追放、8年間の自治

・国人が戦わなければ戦はできない。国人が戦うことを放棄し、畠山氏は部下に裏切られ た。
1485年12月11日、15〜60歳の山城の国人、土民が集まって両畠 山に対して要求。(1)両畠山は山城国から出てゆくこと。(2)荘園の支配関係の復元。(3)新関禁止。
・(2)の要求は、よそ者が代官として荘園に居座ることを禁じ、地侍たちが荘園の現地支配権を握ろうとしたもの。興福寺の支持を取り付ける。
1486年2月13日、山城国人は平等院で集会を開いて「国中掟法」を定 める。国一揆が地方政権として存続することを意味する。惣の自検断が国レベルに拡大したものであり、8年間の自治をおこなう。
・三十六人衆が自治。月行事を決めて運営。半済を実行して荘園年貢の半分を納入させ、財源とする。殺人事件に対しては自検断によって犯人を捕まえて斬罪と した。
・最後は国人と地侍、農民の統一戦線が崩れ、1493年、山城国人は伊勢貞宗を守護にすることを容認した。

 2 加賀の一向一揆(1488)
    蓮如が吉崎御坊を中心に布教(御文、講)

1457 年、蓮如が本願寺8代目法主になる。43歳。本願寺は真宗諸派の中でもっとも微力であり、門徒は少なく勢力も小さかった。
・蓮如は28歳で結婚し、85歳までに5人の妻を迎えて13人の息子と14人の娘をもうける。13男は84歳の子供である。子だくさんを利用して次々に対 立寺に養子に出し、これを傘下に収めてゆく。
・初めは近江堅田で布教していたが、延暦寺や専修寺派などと衝突する。北陸は他の派閥の真宗門徒が多いため、これを本願寺派に取り込もうと考えた。1471年に吉崎に進出した。

Q2 どういう布教をおこなえば信者が増えるのだろうか。惣が形成されている時期であ ることをふまえて考えよ。

A2 惣のリーダーの地侍を信者にすれば、あとは引きづられるはずである。

蓮如 は惣のリーダーに「御文」を送りつけた。現存するものは180通であるが、文字も読めないような者のためにカタカナ書きだった。底辺の人た ちに対して自分の教えを説いたものである。偉い坊さんから直接手紙をもらうと、感激して信者になる。
地侍には、民衆の宗教サークルである「寄合」「講」を開き、互いの信心を 語り合うことが大切とした。信徒の中の有力者の家を道場として、ここで講を開いた。地侍は惣の他の人間を講に巻き込んでゆく。
・吉崎には蓮如を一度拝みたいという者が殺到。蓮如のところにはたくさんの志納金が集まる。

    一向宗門徒の国人・坊主・農民が結集
     →守護・富樫政親打倒、100年間の自治

・応仁の乱の時、加賀の守護の富樫氏は兄の政親(東軍)と弟の幸千代(西軍)に分かれ て争った。地侍は門徒の農民を従えているので、簡単に軍事力に転化する。このとき、政親は一向門徒を味方に付け、幸千代は高田専修寺派を味方にした。
・1474年、門徒は幸千代を打倒する。しかし、その後、政親は惣からの収奪を続けたため、門徒が反発した。蓮如は一揆の動きを抑えようとしたが失敗し、 1475年、吉崎から脱出して山科本願寺を建てる。
1488年、一向一揆は政親を攻めて殺害した。以後、信長に鎮圧されるま で、100年間の自治をおこなっている。

B 守 護大名勢力の没落(家臣に倒される)
   斯波氏→織田氏(尾張)、朝倉氏(越前)に領国奪われる

応仁 の乱の時、主家が東西に分裂したのに合わせ、領国では国人が東軍、西軍に分かれて争う。主家の分裂を利用して自分の力を伸ばす戦い。
・越前の守護は斯波氏。応仁の乱で斯波義敏、義廉が相続争いをした。国人の朝倉孝景は守護代の甲斐氏と結び、義廉に味方して西軍に加わる。しかし、細川勝 元は寝返って東軍につけば越前守護にすると約束して寝返らせる。この結果、越 前は朝倉氏にとられてしまう
・織田氏も越前の国人で、斯波氏に仕えて尾張の守護代となる。応仁の乱で分裂して清洲織田氏と岩倉織田氏になる。尾張は織田氏にとられてしまう。清洲織田氏の家老の信秀が尾張を統一 し、その子が信長である。

   細川氏→三好長慶→松永久秀に実権奪われる

・細川氏は畠山、斯波、一色と違い、跡継争いをしなかったため力を保ってきた。
・細川政元は修験にかぶれて妻帯しなかったため、貴族からもらった養子の澄之と一族からとった養子の澄元が跡継をねらって対立。
・それぞれに家臣がつき、代が替わっても勢力争いをしている。最終的には三好長慶を執事とした細川晴元が征したが、傀儡を立てた長慶に追い出され。三好氏は管領・細川家に代わって権力を持ち近畿に君臨した
・松永久秀は長慶の家臣で氏素性は全く不明。1563年、長慶を裏切ってその子を毒殺し、長慶が死ぬと13代将軍義輝(義晴の子)を殺す。三好三人衆は久 秀から離反して東大寺にこもるが、久秀は大仏殿の焼き討ちをおこなう。三好 氏に代わり、松永久秀が実権を担った。
・長慶や久秀は将軍権威を利用して政治をおこなっており、実力で領国経営をしていない。近畿は伝統的権威が強いため、その利用に目がいってしまった。足元 が固まっていないので簡単につぶれる。

※守護 代、国人を使った領国の間接統治に限界
 (郷村の農民を完全に把握できず←→守護大名=荘園が支配の基盤)

守護 大名は国人を使って領国を支配し、自分は京都にいた。領国が飛び地になっていたので、現地に住むことができなかったのである。力を失うと、部下に裏切られて乗っ取られることになる。
・乗っ取った国人は地侍と結んでいる守護大名は荘園を単位とした守護請で国人を家臣化したのであり、地侍は把握していない。 荘園制が機能せず、惣に替わられていった時、地侍と結ぶ国人にやられてしまったのである。

[戦国大 名の登場]
 守護代、国人が守護大名を倒して領国奪う

・戦国大名は領内の地侍を家臣化して領国を奪った。

 1 関東
    鎌倉公方、関東管領の分裂(古河公方×堀越公方、扇谷上杉×山内上杉)

・1439年、足利持氏は関東管領上杉の手によって滅びていた。
足利成氏は持氏の子で、安王・春王の弟。1449年に罪を 許され、新しい鎌倉公方として京都から下向した。しかし、持氏の家臣と手を結んで上杉氏に反目し、上杉憲実の子を謀殺したため長尾氏に攻められて古河に退いた。これを古河公方という。
・1457年、幕府は義政の弟、政知を新しい鎌倉公方として派遣した。しかし、関東は成氏の力が強くて鎌倉に入れず、伊豆の堀越(韮山町)にとどまる。これを堀越公 方という。
関東管領も山内上杉と扇谷上杉の2系統に分裂した。山内の 本拠は上野、扇谷は武蔵であり、実権はそれぞれ家臣が持つ。山内=長尾氏。扇谷=太田氏。
・扇谷上杉の家臣の太田道潅は江戸城を築造。歌道にも明るい人物。「七重八重、花は咲けども山吹の、実の一つだにナキゾ悲しき」。実力者の太田道潅に乗っ 取られる危険を感じた扇谷上杉は道潅を入浴中に殺害。「当方滅亡」と叫ぶ。

    →北条早雲の侵入

・堀越公方の足利政知が死に、その子の茶々丸には家臣が服属しないため伊豆は混乱状態 となった。ここに駿河興国寺城主の北条早雲が侵入し、伊豆を占拠す る。
・早雲の生まれは謎である。伊勢新九郎を名乗り、名門伊勢氏の出という説もあるがわからない。妹を今川氏の側室にしているので百姓出身ではなく国人クラス だったことは確かで、今川氏の跡継争いを解決して名声を得て城主となっていた。
・伊豆では高札を掲げて所領安堵を保証し、伊豆の国人は早雲に帰服する。百姓の病気を治すために薬を配ったりして人心を掌握していった。
・三島神社にこもったときに夢を見る。2本の大杉があり、ネズミが根をかじると虎になった。2本の杉は両上杉であり、早雲はネズミ年なので上杉を倒す意味 だとした。
・扇谷上杉配下の小田原城主と仲良くなり、鹿狩りの鹿が城の裏山に逃げ込んだので勢子を入れさせて欲しいと依頼。攻撃して小田原城を乗っ取る。

     (小田原本拠、関東支配)

・10年かけて小田原周辺を手なずける。その後も上杉攻撃を続けるが無理はしない。領 地を取ると百姓を手なずけて徐々に侵攻する。官位にこだわらずに実力で領土支配をした点で最初の戦国大名。
・1551年、孫の氏康の代になって両上杉を駆逐。扇谷は滅び、山内は越後 の守護代・長尾景虎を頼って脱出。古河公方も支配下に入る。
・長命であることが戦国大名としてがんばれるコツ。毛利元就と家康は75歳。伊達政宗は70歳。豊臣秀吉は62歳。早雲の駿河下向は56歳の頃、小田原攻 めは74歳、88歳で死ぬ。

 2 甲信越
    武田信玄(甲斐)=守護大名から成長

・武田氏は清和源氏の流れを汲む名門。鎌倉時代に甲斐国守護となり、室町期には若狭や 安芸の守護を務めたこともある。信虎の時に戦国大名化する。
国人が割拠してまとまらない信濃進出を企てる。南の今川に 攻められるとまずいので娘を嫁がせて手を結んでおく。信虎は信濃に攻め込んで連戦連勝。1541年、凱旋した信虎が今川義元の娘のところに出かけると子の 信玄は国境を封鎖。父を追い出す。
・信虎は信濃攻略を急ぎすぎ、甲斐の百姓、国人の不満を招いていた。父を追放した後は生活費を送ったりする。
・信玄も政略結婚を進める。今川義元の娘を子にもらい、信玄は北条に娘を出す。北条は今川に娘を出す。これによって背後と南を安定させて信濃攻略が可能と なる。
・「風林火山」の旗印は孫子の兵法を掲げたもの。
・三国同盟は今川義元が織田信長によって滅ぼされたことで破綻する。

    上 杉謙信(越後)=守護代から上杉家継ぐ

上杉 謙信は山内上杉の守護代として越後を支配した長尾氏の出身。兄が家督を譲られるが家臣が服さず、寺に修行に出ていた謙信に廻ってくる。山内 上杉を助けて関東に出兵し、関東管領家を助ける立場を貫くことで幕府から一目置かれる。
・山内上杉は上杉の名跡を譲ろうとするが初めは拒否していた。後に幕府からも乞われて関東管領を継ぐ
・仁義にあつく、毘沙門天を信仰して妻帯しない。敵に塩を送った話や信玄が死んで絶好の攻撃チャンスにも兵を動かさなかったりした。武田氏が信濃に出てく ると国人が謙信を頼ってくるので助けに出た。
・身長150センチ。梅干しで酒を飲むのが好きでアル中と高血圧。49歳で脳卒中。
川中島の戦いは5回戦っている。4回目が有名。謙信1万3 千が妻女山にこもり、信玄2万は海津城に入る。信玄はキツツキの兵法を用いる。夜、おとりの8 千を妻女山の裏に仕込み、夜明けと同時に背後から攻撃する。八幡原に逃げてくる謙信を残り1万2千とで挟み撃ちの作戦。謙信は勘づいて山を下りる。千曲川 沿いの八幡原は濃霧で、霧が晴れると目の前に信玄と謙信の軍が現れる。馬で謙信が信玄の本陣を突き、斬りつける刀を軍配で受けた話がある。午前中は謙信、 午後は信玄に分があり、決着つかず。
・川中島でにらみ合っている間に信長に入京されてしまう。

 3 東海・北陸
    今川氏(駿遠)、織田氏(尾張)、松平氏(三河)、斎藤氏(美濃)
    浅井氏(近江)、朝倉氏(越前)

・今川氏は守護大名から成長。織田氏は守護代の家臣。松平氏は国人。斎藤氏は道三が油 売りから身を起こして美濃を乗っ取ったもの。浅井氏は国人。朝倉氏は守護代で、いずれも戦国大名を地でいっている。

 4 畿内
    国人の分立、石山本願寺が一向門徒の本山として力を 持つ

・有力なものが現れず、国人が分立していた。
・1496年、石山に道場が建てられていた。1532年、山科本願寺が戦災に遭い、証如が移住。寺内町を作って新興商工業者を集め、防衛設備も構築した。大坂の原型を 作る。

 5 中四国
    大内義隆→陶晴賢→毛利元就(尼子氏を滅ぼし中国制 覇)

・中国地方は東に尼子氏、西に大内氏が頑張る。
毛利は安芸の国人の一人で、15キロ四方ほどの領地しかな かった。大内と尼子に挟まれて苦労する。元就は長男を大内に人質に出すことで尼子の攻撃を大内 の援助で退ける。大内が尼子を深追いして敗れると、安芸に空白地帯が生じたため、この間に国人間に政略結婚で勢力を伸ばす。
・瀬戸内の小早川氏に三男の隆景を遣わして小早川家を継がせ、妻の実家の山陰の吉川氏には次男の元春を跡継に押し込む。「毛利両川」といい、この3家で力 を伸ばす。
大内義隆は、家臣の陶晴賢の謀反で滅ぼされる。陶は安芸を 奪う勢いで広島湾に迫る。陶軍の大軍500艘で厳島に入ったところ、夜の波浪の中を毛利は100艘で厳島の南に上陸。背後から陶を討つ。狭いところで陶は 身動きがとれず大敗。4700の首を取り、晴賢は自刃。
毛利は陶氏に続いて尼子義久を倒して中国に君臨。石見の銀 と出雲の砂鉄を得て成長する。三矢の教え。

    長宗我部元親(土佐・四国)

・土佐の国 人出身の長宗我部元親が四国を統一。

 6 九州
    島津・大友・龍造寺氏が三分

・島津氏は平安時代末からの豪族。頼朝の御家人になって薩摩、日向、大隅3国の守護と なる。
・大友氏も頼朝の御家人で豊後守護になったもの。
・龍造寺氏も鎌倉時代に地頭職になったもの。少弐氏の家来だった。
・いずれも古い時代からの勢力がそのまま戦国大名になっている。

 7 東北
    伊達氏の台頭

・頼朝の奥州攻撃に功績があり、伊達郡を与えられたもの。南朝の北畠顕家に従ったが足 利氏に降伏。そこで勢力を拡大して米沢を根拠にする。伊達政宗の時に蘆名氏 を滅ぼして会津に進出。これも古代以来の勢力である。

※社会 の大変革期に入る cf)荘園制壊滅

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