<室町幕府の対外政策>
[対中国関係]

  元寇以後私貿易継続(九州、瀬戸内の土豪)

・元寇の後も民間の貿易は活発だった。1976年、韓国の木浦沖で私貿易に従事してい た船が引き上げられた。新安沖沈没船と呼ばれる。1323年、寧波から博多に向かう途中で沈没したもので、積荷は陶磁器2万点、銅銭800万枚、紫檀材 1000本だった。
・壱岐、対馬、肥前松浦の人たちが2〜3隻から数百隻規模で朝鮮に出てゆく。この地は耕地が少なく、交易でしか食べてゆけなかった。しかし、商売がうまく いかなくなると海賊と化す。

   but時に海賊化=倭寇(前期)

・壱岐、対馬、松浦の連中を「三島倭寇」と呼ぶ。倭寇は「高麗史」に「倭、金州を寇 む」とあるのが熟語になったもの。
・倭寇は前期のものと後期のものとに分かれている。前期倭寇は朝鮮、中国沿岸を荒し、後期倭寇は東南アジア方面に進出している。
・倭寇の好物は生糸(日本では中国の10倍で取引)、真綿、麻布、水銀、鉄鍋、針、古銭、名画など。加えて米、人を略奪してくる。

Q1 南北朝時代、九州で戦乱が激しくなった時に倭寇の活動は活発化している。人を連 れてくる理由は何か?。

A1 国内の戦いに利用するためである。米は兵粮になる。南朝方についた海賊衆が倭寇の中心だった。

・今川了俊は高麗の依頼により、倭寇が連れ去った人を送り返している。

    cf)天龍寺船の派遣

尊氏 は後醍醐天皇の冥福を祈るために天竜寺を建立した。造営資金が足りないため、1341年、元に貿易船の派遣を許可し、船に乗ってゆく博多商人たちから損益に関わらず銭5000 文を納めさせた。幕府は納税と引替に海賊からの安全を保証した。幕府が後ろについていれば、海賊行為がおこなえない。この貿易船を天竜寺船と呼ぶ。
・同様のことは鎌倉幕府が建長寺造営の時にもおこなっており、1325年、元に建長寺船を出す。

A 明 の建国(1368)
   朱元璋により元が追われる

・1368年、朱元璋が元を北に追って明を建国。

   アジア大帝国の構想→入貢促し海禁政策を実施

・久しぶりの漢民族国家であり、伝統的な中華思想から高麗、安南、チャンパ、ジャワ、 シャムに建国を知らせて朝貢を促す。アジアの盟主として大帝国建設の構想を 立てた。
・中国は圧倒的な文化的地位を持つため、周辺の国は中国の文物が欲しい。宋元は外国船を歓迎して関税を国家収入にした。しかし、明は大帝国を目指すので、 徳を慕って服属してきた国に対し、朝貢という形でのみ貿易を許可す ることになる。文物が欲しければ朝貢しろということになる。徳を慕って中国に来る外国使節を見せることで、国内的には皇帝権威を高めるのである。
・明は自国の貿易商人にも海禁政策をとって海外への渡航を制限し た。中国製品が朝貢貿易以外で海外に流れれば、貿易を求めて服属してくる国がなくなってしまうのである。

Q2 海禁政策のもとで中国製品を入手するにはどうするか?。方法を3つ挙げよ。

A2 朝貢貿易をするか、朝貢貿易をしている国に出かけて中継貿易で入手するか、あるいは密貿易をするかである。

・この結果、アジア諸国は密貿易、中継貿易によって中国物資を入手する動きを見せ、南 蛮、琉球、日本、朝鮮の間の通交が増加した。密貿易者は時には海賊化する し、彼らが幅を利かせればよその国が朝貢しに来なくなるので、中国としては取締りをする必要がある。

   倭寇取締要請 cf)北虜南倭

・1369年、明使が九州に来て明の建国を伝え、明への服属と倭寇の取り締まりを要請 する。九州は南朝の勢力が強く、懐良親王は無礼であるとして握りつぶす。翌年にも来るが今度は抑留されてしまった。
・明は京都に北朝のあることを知り、室町幕府に接近してきた。

Q3 義満は明の要求を受け入れることとした。これは一石二鳥をねらったものである。 どういうことか?。

A3 服属して朝貢貿易をおこなえば、乏しい幕府財源を補うことができる。また、南朝についている海賊衆は日中間に正式貿易が開設されれば、危険な海賊行 為を犯すことなく商売ができるので、北朝方に寝返ることになる。これで倭寇取締りが実現し、九州統一も可能になる。

B 日 明貿易
   義満は明に入貢、倭寇の禁圧実施(1401)

・1401年、博多商人肥富の勧めで、肥富と祖阿を明に派遣した。「日本准三后道義、書を大明皇帝陛下にたて まつる」。金千両、馬、刀などを土産に持って行く。「准三后」は太皇太后、皇太后、皇后に次ぐ位のこと。
・翌年、明から使節が来て「日本国王源道義」と記す文書を渡した。これで明 は義満を「日本国王」と認めたことになる。これを冊封という。また、中国の大統暦を示して正朔にしろと言ってくる。中国の暦を使うことは、 時間を支配する中国皇帝の配下に入ったことを示す。これで日本は明の属国と なった。

   ∵貿易の利益独占=幕府の財源(臣下の礼 cf)「日本国王臣源」)

・義満は喜んで臣下の礼をとり、中国風に漢字一字の姓を名乗った。足利氏は源氏の出な ので、「源」としたもの。

    勘合貿易の開始(1404)

・明は服属した国が朝貢しにくることを歓迎する。この貿易に付随して商人の貿易も許可 することになる。官許の印として勘合を臣属国に渡し、勘合を持つ義満が貿易 を管理できた。1404年、明から勘合が届く。

    貿易船への勘合交付(倭寇と区別)→寧波から北京へ

・横長の紙に縦長の紙を置き、両方にまたがるように字を書く。横長を勘合、縦長を勘合 底簿という。日本の貿易では日字勘合と本字勘合が用意される。日字勘合100道(日字壱号〜百号)と本字勘合底簿を明が持ち、本字勘合100道と日字勘合 底簿を日本が持つ。日本からの貿易船は本字勘合に幕府の印を捺して持参し、寧波で底簿と照合する。明が来るときは日字勘合を持ってくる。
・勘合は皇帝ごとに作り替える。皇帝の名をとって永楽勘合、宣徳勘合などと呼ぶ。勘合は、近世以後、勘合符と呼ばれるが、正式には勘合である。
・朝貢の品を持った使節の乗る船に加え、商売に行く船がたくさんついてゆく。これらは寺社や九州の守護大名が仕立て、乗り組んで商売をしたのは三島倭寇の 連中である。
・1451年、宝徳3年の遣明船の場合、船は天竜寺3隻、伊勢法楽社2隻、九州探題、大友氏、大内氏、多武峰の9隻。1000石船程度。風待ちして五島列 島から渡海するのは遣唐使と同じ。
・明は国ごとに中国の入港場所を指定し、日本は寧波だった。 査証を受ければ北京へ上り、ここで皇帝に謁見をする。皇帝への献上品が渡され、皇帝からは下賜品が下され、それが済むと役人監視の下で一般の貨物の交易がおこなわれる。

  輸出:銅、硫黄、刀剣、扇、漆器
  輸入:銅銭(永楽通宝)、生糸、絹織物

輸出 品は銅、硫黄、金、刀剣など。輸入品は圧倒的に銅銭であり、 あとは生糸。日本は国内産銅を明に運んで貨幣に鋳造させていたようなもの。生糸は中国の仕入れ値の4〜5倍で日本で売れた。
・日本は銅銭を鋳造する技術は当然持っていたが、それを全国で流通させるだけの権威を幕府が持っていなかった。信用がないのである。今の1万円でも原価は 30円程度。それを1万円の価値のあるものと引き換えられるのは、その価値を国が保証しているからである。幕府が貨幣に対する信用保証ができないならば、 銅地金の価値しか持たない。これに対し、中国貨幣は東アジアの基軸通貨であり、明に朝貢している国はどこでも明の銅銭を持っていて、どこの国でも使えるの である。

  =朝 貢形式であり利益甚大、抽分銭で財政補強

・服属国が来た場合、明は太っ腹なところを示す必要がある。貿易品は無関税であり、滞 在費も明が負担する。朝貢貿易で献上する方物に対し、明は大量の明銭を下賜した。貨幣は君権のシンボルであるため、これを賜うことは臣属関係の証になる。 実際には方物を明銭で買うことを意味する。義満は日本国王として明銭を輸入し、国内に流通させる権限を独占した。日明貿易は莫大な利益を日本にもたらした。
・朝貢以外の一般の商取引でも幕府は儲かる。1404年〜1410年にかけて6回交易船を派遣したが、幕府が直接経営した。事務は五山の僧が担当し、船を 仕立てる大寺院、守護や商人を募って勘合を渡す。幕府は、抽分銭として利益 の10分の1を取った。これが関税にあたるものである。

    but4代将軍義持の中断(屈辱的)

・義満の対明外交は卑屈であり、貴族から批判される。
4代将軍義持は朝貢形式が屈辱的であるとして国交を断絶し、 1411〜32年までは貿易船を送らなかった。来日した明使も兵庫から帰してしまう。嫡子でありながら父親に邪険にされた恨みが出たものである。

      →6代義教の再開(10年に1回、船3隻と定める)

6代 将軍義教は、貿易の利潤に惹かれて再開した。下賜品や滞在費などの負担がかさむため、明としてはあまり来て欲しくない。10年1貢、3隻、300人に限定した。実際には1432〜1547年 にかけて11回、50隻の貿易船を出している。1451年には9隻も行ってひんしゅくを買った。

C 日 明貿易の途絶
   応仁の乱後、貿易は幕府の実権を離れる
    →大内氏+博多商人×細川氏+堺商人

・応仁の乱後、幕府は権威を失い、勘合は守護大名の手に渡った。大内氏+博多商人、細川氏+堺商人が実権を握り、貿易船を出す。

    =主導権をめぐり対立(寧波の乱(1523))
     →大内氏が実権握る、その滅亡で断絶

・1513年、皇帝が代わったので新しい正徳勘合が下される。これを持ち帰る途中の船 を大内氏が襲い、勘合の保管を幕府に認めさせ、貿易を独占しようとした。細川氏はこれを知って、幕府に無効になった古い弘治勘合をもらう。
・10年後の1523年、大内氏は正徳勘合を持って入明。細川氏も弘治勘合を持って大内船入港の一週間後に寧波に入港。勘合の真偽が問題となったが、細川 の使節は市舶司に賄賂を送って認めさせ、荷物を陸揚げさせる。大内船は怒 り、細川船の使者を殺害して船を焼き討ちした。以後は大内氏が貿易を独占したが、その滅亡によって途絶える。

   ∴倭寇の活動再開(後期=中国人中心)

・正式な貿易がなくなり、朝貢貿易に携わっていた者があぶれてしまう。ふたたび倭寇と なって活動する。「八幡大菩薩」の旗を掲げる800石くらいの和船に乗り、時には数千人単位で海賊行為をはたらく。実際には、後期倭寇は日本人3、中国人 7の割合だった。

[対朝鮮関係]
A 朝鮮の建国(1392)
   倭寇による高麗の衰退→李成桂により滅亡

・高麗は元の支配によって衰退。元は明に追われたが、高麗では北に逃げた元につくのか 新興の明につくのかでもめる。李成桂は倭寇撃退で功のあった高麗の家臣だっ たが、明につくことを主張して高麗王朝を滅ぼし、自らが大祖となる。

   日本と国交開き倭寇禁圧
    cf)応永の外寇(1419)=倭寇本拠地対馬攻撃

・朝鮮は日本と国交を開き、私貿易も盛んだった。しかし、倭寇の侵入が止まらなかった ため、1419年、兵船200隻、1万7000人の大軍で倭寇の本拠とされ た対馬を攻撃する。応永の外寇と呼ぶ。対馬は朝鮮貿易ができないと成り立たない島であるため、1423年に朝鮮との修交を実現してる。

Q4 倭寇を取り締まる一番の方法は何か?

A4 きちんと貿易をやらせることである。朝鮮は倭寇を服属させ、貿易を認めて懐柔していった。

B 日 朝貿易
   対馬・宗氏に符を交付、倭寇と区別

・朝鮮に渡る7割は対馬、壱岐、九州北部の者で、ここが倭寇の出身地だった。
・1443年、癸亥約条で歳遣船50隻を朝鮮が受け入れ、毎年200石の米を宗氏に下賜することになった。宗氏は朝鮮国王に臣下の礼を取ることで貿易ができる。
朝鮮は対馬の宗氏に符を与え、宗氏も文引をが発行した。これらを持つ者が 正式な貿易相手であり、宗氏は発行手数料を稼いだ。
・朝鮮国王は対馬を属国とする外交秩序を組み立てた。室町将軍の使節であっても、朝鮮国王の前では庭に座って拝謁した。

   →三浦(富山浦、乃而浦、塩浦)に入港、倭館設置

貿易 は三浦でおこなわれる。三浦には日本人が60戸に限って居住を認められる。実際には富山浦127戸453人、乃而浦347戸2500人、塩 浦51戸152人。恒居倭という。

   輸出:銅、銀、硫黄、南海の産物
   輸入:木綿

日本 からは朝鮮でとれない銅、硫黄、琉球から仕入れた香料を運び、木綿を仕入れる。
・日本の木綿は平安初めに一時栽培されたが普及しなかった。朝鮮の木綿は元から渡来したもので、李氏朝鮮のもとで栽培が急速に普及した。木綿は中国でも栽 培していたが、重量、距離の関係で、中国からはより高級品の生糸を運んだ方が効率が良かった。
朝鮮からの回賜品のほとんどは木綿となり、日本では衣料革命が巻き起こ る。

Q6 日本の一般庶民が従来着ていた衣料の素材は何か?。着用上、木綿はどういう点で 優れているのか。特にどういう人が着るとよいのか?。

A6 今までは麻である。木綿は麻に比べて柔らかく、保温力がある。兵隊の衣服として重要視された。

・他には高 麗版大蔵経が欲しい。「一切経」ともいい、仏教の経典の総集。朝鮮が版木を持っていた。6000数百巻。版木は8万6千枚あり、今は世界遺 産の海印寺に保管されている。儒教が国教となったため仏教が廃れ、寺では商品として輸出した。各将軍、大名も求めている。

   but朝鮮は貿易を制限、日本人が騒乱を起こして衰退(三浦の乱 1510)

・朝鮮は日本貿易船に対しては主人として接するため接待費がかさむ。貿易の米豆布にも事欠き、恒居倭の通商を厳禁した。
・恒居倭は待遇を元に戻すように訴え、監視する朝鮮武将を武力で排除しようとした。1510年、対馬宗氏に 200隻の応援を求め、乃而浦、富山浦の城を急襲。朝鮮は大軍を派遣して阻止した。これを三浦の乱という。大内氏が斡旋に乗り出し、1512年、壬申約条を結ん で決着したが、以後、朝鮮は日本貿易を大幅に制限した。

[対琉球関係]

・琉球は日本本土とはかなり違った歴史発展を示している。縄文時代までは同じだが、弥 生文化の米作りが流入しなかった。代わりに礁湖での漁労などを柱とする生業が発達し、貝塚の形成の著しい貝塚文化ができる。貝器が土器と同じように用いら れている。
・やがて米作も入り込み、ムラがクニになって互いに抗争がおこなわれる。10 世紀には按司という氏族長が村落共同体を支配する。日本では弥 生時代にあたり、そのためのグスク(城)ができる。現在は500箇所確認され、世界遺産となっている。全部が城ではなく、聖地も含まれる。
・ある程度統合が進み三山の王朝にまとめられ、北山は今帰仁、中山は首里、 南山は勝連城に拠って抗争した。それぞれが明に朝貢し、册封を受けることで政権を維持していた。これは邪馬台国などと同じである。2年に1 度、2隻ずつ。

A 琉 球王国の建国(15C前半)
   尚巴志による北山、中山、南山統一

・文字の歴史記録がないため、詳しいことはわからない。「おもろそうし」という歌謡に よる伝承があるだけである。しかし、首里城に依った尚巴志の手により、中山 王朝に統一された。

B 中継貿易の展開
   日本−中国−南海間の貿易、坊津、博多へ入港

・明が建国され、海禁政策によって中継貿易のニーズが高まっていた。日本は正式には明へ は10年1貢だったため、途中で中国製品が欲しい時はその他の朝貢国に行って仕入れてくる必要がある。
・明への入貢回数は、日本19回、朝鮮30回に対し、琉球は171回もある。中国に渡航した琉球人は10万人という。また、安南は89回、ジャワ37回で 日本よりも遥かに多い。このため、琉球は南方と中国、日本との間の中継貿易 基地として賑わうことになる。南方からは胡椒を仕入れ、東南アジアに渡った琉球人は3万人という。
・琉球経由の中継貿易は多く、わざわざ日本から明に船を出すよりも楽だった。琉 球商人も坊津や堺、博多に来港して中国の品を売った。
・琉球は東南アジアと東アジアを結んだだけではなく、ヨーロッパの産物も日本にもたらしている。シャムへは年1回行き、マラッカにも手を伸ばし、アラビア 商人がもたらしたヨーロッパ産物を仕入れていた。
・琉球人は長さ47メートル、200〜300人乗りの船で海を渡った。ポルトガル人は、レケオが貿易のライバルと考えていた。万国津梁の鐘は交易で生きる 琉球の性格を伝えるもの。
・「朝鮮王朝実録」には、1477年、難破して琉球に漂着し、1479年に戻った朝鮮人漂流者の記録があり、当時の琉球の様子が分かる。1477年2月、 済州島を出発して朝鮮半島を目指した柑橘類を積んだ船が遭難し、3人が与那国島で漁船に救出される。3人は翌年の5月に首里に送られるたが、外港の那覇に はシャム、パレンバン、ジャワ、スマトラ、マラッカ、明の交易船が入り、江南人、南蛮人が町を歩いていたという。
・琉球国王は「日本人は信用できない」ので中国経由で帰国させるとしたが、一行は最短ルートの日本経由を希望した。博多から来た日本商人に預け、薩摩、豊 後経由で博多に行き、ここから朝鮮に行く貿易船で帰国している。朝鮮・日 本・琉球の太いパイプがあったことがわかる。

    cf)南海の香料、薬種←→日本の刀剣、扇、硫黄、銅

Q7 琉球が日本経由で朝鮮にもたらした重要な食べ物は何か?。

A7 唐辛子である。それまでのキムチはただの塩漬けだったが、唐辛子によって辛みがついた。


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