9 守護領国制の安定と動揺<室町幕府の構造>

 室町幕府初代将軍の尊氏と、その子の2代将軍(1)の時代は南北朝の内乱期である。次いで将軍となった幼少の(2)は細川頼之の補佐を受けて執政し、彼 の時代に幕府の機構が整った。彼は京都の(3)に「(4)」を造営して政権の拠点とし、これが幕府の名称の由来となっている。南北朝の内乱が長期化した最 大の理由は、国人たちの反荘園闘争であったが、これを抑えるために派遣された足利一門による守護領国制もこの時代に完成する。しかし、強大化した守護は、 一方では将軍権威を脅かす存在であり、(2)は有力守護大名の抑圧を図った。1390年に起きた(5)の乱はその先駆である。1391年には11国の守護 を務めて「六分一殿」と称された山名一族を挑発し、(6)を滅亡に追い込む(7)を起こしている。また、1399年には(8)を起こし、6ヵ国の守護を務 める(9)を滅ぼしている。こうして、守護大名の上に立つ将軍の地位が確立されてゆくのである。
 国人たちの服属により、吉野の南朝の存在意義は失われた。このため、(10)年、(2)は両統迭立を条件に南朝の(11)天皇に北朝の(12)天皇への 譲位を勧め、南北朝の合一が実現した。(2)は両統迭立の約束を守らず、憤慨した(11)天皇は吉野に逃れたが、この勢力を後押しする者はほとんどなかっ た。この後、(2)は(13)に就任し、公武の最高権力者としての地位を獲得する。一説には、彼は天皇位を望んだとされている。
 室町幕府の機構の中で、行政の最高責任者は将軍である。鎌倉幕府の将軍が飾り物であったのに対し、室町幕府の将軍は実権を持ち、(14)と呼ばれる直属 軍を擁して軍事力で他の守護大名を凌駕した。将軍を補佐したのが(15)で、もとは執事と称されていた。(16〜18)氏が交代で務め、彼らを(19)と 称している。また、鎌倉幕府と同様、御家人を統率する(20)が置かれたが、山城国守護を兼ねたことから京都の警備と刑事裁判も担当するようになった。長 官である(21)は(22〜25)氏が交代で務め、彼らを(26)と称している。この他、財政を管轄した(27)、記録の保管や訴訟を扱う(28)も置か れていた。
 地方では、関東8ヵ国を管轄した(29)が重要で、その長官を(30)と称し、足利尊氏の次男である(31)の一族が世襲した。室町幕府と同様の機構を 持つ関東幕府とも言うべき存在であり、(30)を補佐する(32)には(33)氏が任じられた。一方、東北地方には(34,35)、九州には(36)が置 かれて政治、裁判、軍事にあたった。
 室町幕府の将軍は守護大名の力によって国人たちを抑え、守護大名たちもまた、将軍の権威によって国人たちを従えていた。この意味で、将軍と守護大名は持 ちつ持たれつの関係であり、どちらかの力が強大化すれば、力のバランスが崩れて政権の崩壊につながる危うさを持っていた。また、鎌倉幕府の関東御領や関東 御分国に匹敵する経済的基盤がなく、直轄地の(37)は地頭職を主とするものであった。幕府にとって大きなメリットは経済先進地の京都を押さえていたこと で、土地税としての(38)、家屋税としての(39)の他、(40,41)などの営業税を課すことができた。

<解答>
(1)義詮 (2)義満 (3)室町 (4)花の御所 (5)土岐康行 (6)山名氏清 (7)明徳の乱 (8)応永の乱 (9)大内義弘 (10) 1392 (11)後亀山 (12)後小松 (13)太政大臣 (14)奉公衆 (15)管領 (16〜18)細川、斯波、畠山 (19)三管領  (20)侍所 (21)所司 (22〜25)山名、赤松、一色、京極 (26)四職 (27)政所 (28)問注所 (29)鎌倉府 (30)鎌倉公方  (31)基氏 (32)関東管領 (33)上杉 (34,35)奥州探題、羽州探題 (36)九州探題 (37)御料所 (38)段銭 (39)棟別銭  (40,41)土倉役、酒屋役


<室町幕府の対外政策>

 元寇後、日本と中国や朝鮮との間では、九州や瀬戸内の土豪たちによる私貿易が展開していた。彼らは商売が不調のときには海賊化し、(1)と呼ばれて恐れ られていた。南北朝の内乱期には南朝に味方する者もあり、略奪した人や物資が国内の戦いに利用された。一方、足利尊氏は鎌倉幕府の仕立てた(2)を手本と し、後醍醐天皇の冥福を祈る寺を建てる費用捻出のため、(3)という貿易船を元に派遣している。
 1368年、中国では(4)によって明が建国された。明はアジア帝国の再現をもくろみ、周辺諸国の入貢を促すため朝貢以外の貿易を認めず、中国商人の海 外渡航を禁じる海禁政策をとった。日本にも(1)の禁圧と入貢を求めてきたが、(5)年、足利義満はこれに応え、肥富と祖阿を明に遣わして臣下の礼をと り、(6)年から朝貢形式の貿易が開始された。これは(1)を抑えて日明貿易の利益を幕府が独占することを意味し、また、明帝から「日本国王」と呼ばれる ことで将軍権威の高揚にもつながった。幕府の貿易船は(1)と区別するために明が発行する(7)を持参し、中国の(8)に入港して底簿と照合した。輸出品 は(9)など、輸入品は(10)などであったが、朝貢国に対して明は大量の下賜品を振る舞ったため、利益は甚大であった。実際の貿易は(1)から転化した 商人たちがおこない、利益の1割を(11)として徴収し、幕府財政を補強した。4代将軍となった(12)はこの貿易を屈辱的として中断したが、6代将軍と なった(13)が再開し、以後は10年一貢、船3隻と定められた。応仁の乱後、衰退した幕府に代わって貿易の実権を握ったのは(14)氏と(15)氏で、 前者は(16)、後者は(17)の商人と結んでいた。(18)年、両氏が主導権をめぐって争う(19)が起き、以後は(14)氏が貿易を担った。(14) 氏が戦国時代の争乱で滅びると、正式な日明貿易は途絶し、再び開始された私貿易の中で(1)が活動することになった。ただ、この時代の(1)の主体は中国 人であった。
 朝鮮半島では1392年に高麗が滅び、(20)が朝鮮を建国した。朝鮮は日本に(1)の禁圧を求めたがその活動は続き、1419年には(1)の本拠地と 見られた対馬が攻撃される(21)が起きている。この事件後、対馬の(22)氏は朝鮮国王に臣下の礼をとり、見返りとして貿易が許され、(1)たちの活動 がこの日朝貿易に吸収されることになった。対馬の貿易船は朝鮮国王が発行する文引を持参し、(23)と総称された(24〜26)に入港した。ここには (27)が設置されて日本人が居留して取引にあたり、(28)などが輸出され、(29)などが輸入された。しかし、貿易の拡大は朝鮮にとっては負担であ り、貿易の制限を図ったことから(23)の日本人居留民が騒乱を起こした。(30)年に起きたこの事件は(31)と呼ばれ、以後、日朝貿易は衰退する。
 沖縄は本土とは異なった歴史をたどり、10世紀の頃から小国が分立してグスクを築き、抗争を繰り広げるようになっていた。これが三山と称される三王朝に 統合され、最後は中山王朝の(32)によって統一されて(33)が建国された。(33)は明に朝貢するとともに南海各地との貿易をおこなったが、日明間の 貿易が制限される中、日本は(33)経由で中国の物資を入手し、(34)など南海産の品を輸入している。

<解答>
(1)倭寇 (2)建長寺船 (3)天竜寺船 (4)朱元璋 (5)1401 (6)1404 (7)勘合 (8)寧波 (9)銅、硫黄、刀剣、扇、漆器  (10)銅銭、生糸、絹織物 (11)抽分銭 (12)足利義持 (13)足利義教 (14)大内 (15)細川 (16)博多 (17)堺 (18) 1523 (19)寧波の乱 (20)李成桂 (21)応永の外寇 (22)宗 (23)三浦 (24〜26)富山浦、乃而浦、塩浦 (27)倭館  (28)銀、銅、硫黄、南海の産物 (29)木綿、大蔵経 (30)1510
(31)三浦の乱 (32)尚巴志 (33)琉球王国 (34)薬種、香料


<室町期の経済の発展>

 室町時代には食糧生産が倍増したが、その背景には麦を裏作とした(1)が普及したことが挙げられる。そのためには品種の選択を進め、(2)などを用いた 灌漑設備を充実させて田と畑を使い分け、(3)などの肥料を大量に投入することが必要であった。この中で、肥料を採取する(4)を共同管理することが大切 となった。また、楮、漆、荏胡麻などの栽培も盛んとなった。手工業品は特産地が形成されるようになり、鍬は砂鉄の取れた備中、刀剣は備前長船や美濃関など で作られた。京都は物資の一大集積地であり、中国産生糸を用いた絹織物や年貢米を用いた酒の生産が盛んであった。漁業では紀州方面で(5)を用いた漁が始 まり、塩業では潮汲みが必要な(6)式に加え、満潮時の海水を引き入れる(7)式が登場した。鉱産物は輸出品としても重要で、山陰の砂鉄の他、石見の銀山 や佐渡の金山も開け始め、硫黄島で硫黄が採掘された。
 この時代には大量の商品生産が実現したことから商業がいっそう盛んとなった。市は月に6回開催する(8)が始まり、常設店舗である(9)も増加した。多 くの消費人口を抱えた京都などには周辺村落から(10)と呼ばれた行商が訪れた。商業に従事したのは女性が多く、薪や鮎を売った(11,12)などが知ら れている。同業者組合の(13)も充実した。もともとは貴族や社寺に仕えていた者たちで、公事の品を特権的に入手して製造販売を独占し、その代わりに主人 =本所に座役を納入した。この時代には、本所の設置した関所が課す(14)が免除となる特権も有するようになる。石清水八幡宮の末社である大山崎離宮八幡 宮を本所とする(15)、北野天神を本所とする(16)、祇園社を本所とする(17)などが知られている。また、市での販売に対して税を取ることも普通 で、販売権を持つ者で(18)を形成した。
 京都への物資の運搬ルートも整備された。大量の物資は舟運で運ぶのがよく、(19)と呼ばれる水上輸送業者が登場する。西国の物資は瀬戸内海を使って (20)に荷揚げし、ここから(21)を使って京都に運ばれた。北国の物資は(22)の敦賀や小浜に揚陸し、琵琶湖北岸の今津や塩津までは陸路を用い、こ こから琵琶湖を使って(23,24)に運んだ。以後は(25,26)という陸運業者の手で京都に運ばれた。東国の物資は(27)の桑名や白子に運び、鈴鹿 越えをした後に琵琶湖の舟運で(23,24)に運んだ。鈴鹿越えには牛馬を用いることができなかったため、東国からの物資は絹や布など軽量なものが多かっ た。物資流通の拠点には商品保管のための問丸が設置されていたが、この時代には(28)と称されるようになる。
 貨幣は(29,30)が用いられ、(30)の主力は(31,32)であった。また、さらに質の悪い(33)も作られたため、粗悪品を忌避する(34)が おこなわれ、商取引に支障が生じることもあった。年貢の銭納が一般化すると、どれだけの年貢を納められるかで土地を表示する(35,36)と呼ばれる方法 が登場している。遠隔地間の決済には為替屋や割符屋が発行する為替(割符)が用いられ、高利貸としては(37,38)が軒を並べた。また、庶民の金融のた めには(39)が組織された。

<解答>
(1)二毛作 (2)水車、竜骨車 (3)刈敷、草木灰 (4)入会地 (5)網 (6)揚浜 (7)入浜 (8)六斎市 (9)見世棚 (10)振り売 り (11,12)大原女、桂女 (13)座 (14)関銭 (15)大山崎油座 (16)北野麹座 (17)祇園綿座 (18)市座 (19)廻船  (20)摂津 (21)淀川 (22)若狭 (23,24)坂本、大津 (25,26)馬借、車借 (27)伊勢 (28)問屋 (29,30)宋銭、明 銭 (31,32)洪武通宝、永楽通宝 (33)私鋳銭 (34)撰銭 (35,36)貫高、永高 (37,38)土倉、酒屋 (39)頼母子、無尽


<室町幕府の動揺>

 荘園は支配の単位であり、名主に耕作を委ねて年貢等を負担させていた。荘園は広大な土地であり、名主は管轄する土地をさらに作人に請作させていたが、作 人は「諸方兼作」と称して複数の名主の土地を耕す場合もあり、また、翌年には違う名主のもとで働くなど、流動性が高かった。このような状況では村人同士の つながりは弱い。しかし、二毛作が始まると農民たちは価値の上昇した耕地のそばに定住し、肥料をとる入会地を共同で管理するようになる。経済力を増した作 人は名主に頼ることなく自らの力で農業ができるようになり、村民全体、すなわち(1)による自治的な生活組織である(2)が形成されるのである。(2)で は(3)を開き、(4)を定めて入会地を管理し、共同労働の慣行を作るようになる。中心メンバーは(2)の結束の要として神社祭祀に関わる(5)を結成 し、仏事では(6)を組織して連帯しあった。彼らは年貢納入を村で請負う代わりに自治権を領主に認めさせる(7)の契約を交わしたりもした。(2)の指導 層は武装した農民である(8)や有力名主階級であり、彼らは(9)などと称された。(2)は南北朝期に(10)地方に出現し、(8)の指導のもと、年貢減 免を求めて守護や国人と対立するようになり、在地領主たちにとって新たな敵対勢力となった。しかし、一方で(8)は国人の被官となり、その配下で(2)を 支配する二面性を有していた。
 (2)が形成されると農民の反抗はそれまでの(11)のような消極的なものから集団的武力行動へと転換され、(12)が起こされるようになる。(13) 年の(14)は初の(12)で、近江の(15)が借金の帳消し、すなわち(16)を求めて蜂起したものである。京都近郊の農民が呼応して高利貸を営んだ (17)などが破却され、翌年には赤松氏の領国で(18)が起きている。(19)年には6代将軍が殺害される事件が起き、「代始め」と称して(16)を求 める(20)が起き、幕府が初めて(16)令を出すことになった。この後、幕府は(21)を徴収して(16)令を乱発するようになる。
 5代将軍の足利義量が早世し、4代将軍(22)が跡継ぎなくして危篤となったため、6代将軍は(22)の弟の中から籤で決定された。これが(23)であ る。籤で擁立されたことに負い目のあった(23)は、強引とも言える守護大名抑圧策をとり、「万人恐怖」と称された。当時、鎌倉公方の(24)が将軍位を 望み、(23)と対立していたが、(23)は関東管領の(25)を引き込み、(24)を滅亡に追い込んだ。これが(26)と呼ばれる戦いで、以後、関東は (25)の一族が支配するようになる。(23)はその後も守護大名の抑圧策を進め、(27)などが討滅の憂き目にあっている。この中で、守護大名の反感は 拡大し、(19)年、(23)は播磨の守護大名であった(28)によって謀殺されてしまう。(28)は山名持豊によって討たれるが、この一連の出来事を (29)と呼んでいる。将軍が家臣の守護大名によって殺されたことで、将軍権威は地に落ちた。しかし、守護大名たちは将軍権威を利用して国人たちを統制し ていたため、将軍を殺害することは自らの権威の源泉を否定することになる。このため、守護大名たちも家臣である国人の裏切りにあい、次第に領国統治が難し くなってゆくのである。

<解答>
(1)惣百姓 (2)惣 (3)寄合 (4)村掟 (5)宮座 (6)講 (7)地下請 (8)地侍 (9)おとな・沙汰人・年寄 (10)畿内  (11)逃散 (12)土一揆 (13)1428 (14)正長の土一揆 (15)馬借 (16)徳政 (17)土倉・酒屋・寺院 (18)播磨の土一揆  (19)1441 (20)嘉吉の徳政一揆 (21)分一銭 (22)足利義持 (23)足利義教 (24)足利持氏 (25)上杉憲実 (26)永享 の乱 (27)一色氏、土岐氏 (28)赤松満祐 (29)嘉吉の乱

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