<南北朝の動乱と守護大名の成長>
[南北朝の動乱]
Q1 南北朝は何を意味するのか?。明治になるとそのことでの不都合が生じた。どんな ことだろうか?。

A1 天皇が二人いるということである。明治憲法では「万世一系」の天皇が日本を統治していることになっていたため、南北朝の時期に2人の天皇がいると 「万世一系」ではなくなってしまう。

・1910年に大逆事件が起きた。幸徳秋水が巻き添えを食ったものであるが、実際に爆 弾を作って天皇を殺そうとしたものが容疑者で捕まる。どうして天皇を暗殺しようとしたのかを聞かれ、「日本紀年が信じられないことを知り、天皇制否定に思 い至った」といった。日本紀年は神武天皇即位が元だが、神武天皇は存在しないと言われ、天皇の権威が落ちていたのである。
・天皇権威を高めることが必要になった。1911年、南北朝時代に二人の天皇がいたことをどう説明するかが国会で問題になった。明治の国定教科書は「南北 朝」として並立させていた。

Q2 どっちを正統とするのがよいのか?。その根拠はなにか?。

A2 南朝側に三種の神器があったため、南朝を正統とするという考えが登場。「南北朝」は「吉野の朝廷」となって南朝が正統とされた。「南北朝」の言葉は 消える。

・北朝はインチキということになり、尊氏は天皇に弓を引く逆賊ということになった。
・1934年、斎藤内閣の商工務大臣、中島久万吉は「尊氏は人間的に優れている」という論文を出したため、国会で吊し上げられて辞職に追い込まれる。尊氏 はタブーだった。
実際には天皇は二人いたのであり、南朝だけを正統とするのは間違ってい る。

 社会の大変革期(古代権威の没落、新勢力の台頭)

・社会の変わり目には大きな争乱が起きる。しかし、60年も続いたのはなぜか?。戦乱 を構成した要素は3つある。

A 公 武の対立
   公家(南朝)勢力の敗退

・南朝方は、畿南の兵を頼り、これに東北の北畠顕家と北陸の新田軍を併せて京都攻略を 考えた。

    ex)北畠顕家、新田義貞の敗死、

・北畠は1337年8月に東北を出発。北畠軍は太平記では50万という。12月24日 に鎌倉に入る。1月年明けから西上し、28日、関ヶ原で高師冬の軍と青野ヶ原の戦いをして勝つ。本当は北陸に入り、敦賀の金ヶ崎城にいた新田と合流すべき ところだった。しかし、若い北畠は新田と合流すれば功績を取られると判断し、伊勢に向かった。
・北畠は奈良から北上。高師直と合戦となり、和泉堺に転進して決戦となる。しかし、北畠顕家は石津の戦いで大敗して戦死する。21歳。
・残る新田義貞は、1338年夏、藤島の戦いで戦死した。水 田沿いに馬で攻めているときに矢を射られて田に落ち、自害。
・1339年8月、後醍醐は吉野で死ぬ。「身は吉野の苔になっても、魂は京都の天をのぞまん」といい、12歳の後村上天皇が立った。

      北畠親房(関東)、

・南朝側は戦いの初期に有力武将が相次いで討ち死にしている。残った北畠親房は、常陸 の小田氏に身を寄せ、関東と奥州の南朝に味方する勢力を組織しようと努力した。膨大な手紙を書いて南朝につくように説得している。「武士は天皇の王民であ り、天皇に背けば必ず滅びる」と主張した。
北畠親房は天皇への忠義を説き、武士たちを説得するために「神皇正統記」 も書いている。しかし、
在地の武士は忠義で天皇に仕えたいのではなく、自分の勢力を拡大できるならば、天皇でも何でも利用したいだけ。ドライだった。
・常陸の小田氏は北朝方の攻撃を受けて陥落。親房は吉野に戻った。

      懐良親王(九州)苦戦

・南朝の征西大将軍となる。菊池氏、阿蘇氏の支持を得て抵抗続ける。これが一番勢力が あった。

   but内乱の継続

・南朝側は早い時期につぶれているのに内乱がどうして続いたのかが問題である。

B 武 士の内部対立
   尊氏、高師直(執事)=急進派(荘園領主権限全面否 定)

幕府 内では、軍事を尊氏、政治を直義が分担しておこなっていた。
・尊氏の右腕として軍事を取り仕切ったのは高師直。足利家譜代の筆頭で執事という役職だった。バサラ大名と呼ばれ、「都にいる王はたくさんの土地を持ち、 内裏や院の前では下馬しなくてはならない。面倒だ。王がなければならないなら、木か金で作っておき、生きている院や天皇は流してしまえ」という。
・当時、こういう大名は多く、土岐頼遠は光厳上皇の行列にあたり、「院の車だ。下馬しろ」と言われ、「犬というか。犬なら射よ」と言って車を囲んで矢を射 かけている。幕府は持明院統の権威で正当性を保っているにもかかわらず、こういうことをしている。
高師直のようなバサラは既成の権威を気にしない。師直が 戦った敵が石清水八幡に立てこもった。ここは王城鎮護の社で源氏の氏神なので、神罰を恐れて焼かれないと思った。しかし、師直は焼き討ちしている。
バサラ大名の勢力は軍事担当であり、南北朝の内乱期に古代勢力を完全否定 し、荘園領主の力を排除しようとしていた。

   直 義=中間派( 〃  との二元支配継続)

実際 に政治を担当する側は古代勢力との協調を考える。荘園領主と武士の二元支配でよいのである。
・尊氏が陽気で一般受けしたのに対し、直義は陰気で大衆的な人気はなかった。しかし、誠実で潔白な人柄で筋を通す人間。同じような性格の者が部下につくこ とになり、派閥を作ってゆく。

Q3 古参と新参、足利一門と譜代、惣領と庶子、地方の武士と中央の武士、保守と革新 という分け方をすれば、どちらがどちらにつくのか?。

A3 新参者は既成の秩序を壊して自分たちの権力を獲得したい。古参者は既得権を守りたい。足利一門は旧幕府官僚であり、考え方は保守的である。譜代は今 までは家来だったが、これから伸してゆきたい。惣領は単独相続への変化の中で既得権を持っていた。庶子はその秩序を壊したい。地方武士は世の中の変化に直 面していないので今までどおりでよい。中央の武士は元弘の乱以後の戦乱の影響をまともに受け、時代の変化の波にさらされている。

・いずれも前者は保守、後者は急進ということになる。武士は保守と急進に別れたのであり、保守は直義、急進は師直を支持した。

    →主導権争い

・対立の要因としては、例えば半済がある。兵乱を納めるために必要な兵粮米を守護が荘 園・国衙領から徴収できるというもの。これを認めたのは軍事担当の尊氏。しかし、実際には規定量以上に徴収するものが出てきて荘園領主が直義に訴えてく る。裁判をするのは直義なので、ここで両者の対立が生じる。
・直義は執権政治復活を目指し、裁判にも合議制を復活させる。二頭政治となり、派閥争いの元となる。
1347年頃までは直義のペースであり、荘園領主の保護を 図る法令を出してゆく。師直は戦いがない時期にはおとなしくしているほかはない。
・この後、楠木正行(まさつら)が河内、和泉で軍を集め、天王寺、住吉で幕府軍を破る。京都が奪還される危機となる。楠木攻略に直義派の武将が送られるが 敗退したため、師直が出ていった。1348年、四条畷の戦いで楠木軍は大敗 して正行も戦死。これで師直の株は上がって発言力が増した。直義との対立が激化する。

     (観応の擾乱 1350〜55)

1350 年、直義と師直は対立し、劣勢となった直義は出家を余儀なくされる。しかし、九州で養子の直冬を挙兵させて抵抗。尊氏は自ら九州に出陣する。

Q4 直義が北朝の天皇を立てている尊氏を討つにはどうすれば大義名分が立つのか?。

A4 南朝の天皇を担ぎだすのである。

  各々南朝に降り内乱複雑化

直義 は吉野の南朝と和睦し、1351年、大軍を率いて入京する。留守番の義詮は光厳・光明の護衛の任を忘れて尊氏のところに逃げたため、直義は 北朝の天皇を担いで南朝の天皇とは縁を切った。
・尊氏は京都に戻ってくるが敗退して播磨に退き、摂津打出浜の戦いでも敗れてしまう。そのため、尊氏は直義に和睦を申し入れ、師直兄弟を出家させることになる。しか し、待ち受けていた直義党は約束を破って師直を殺害してしま う。
・約束を破った直義と尊氏の仲は冷えてゆき、押され気味となった直義は北陸 から鎌倉に脱出する。
・このとき、尊氏は東海から西国、直義は北陸から東国をそれぞれ押さえ、吉野に南朝があって天下三分の形勢となった。
尊氏が直義を討つためには京都を空けなくてはならず、そうすると南朝に京 都をとられる可能性がある。1351年10月、尊氏は南朝に 対し、政権を全面的に返すといって和睦を求め、直義打倒の綸旨を南朝から引き出した。全国の南朝党を味方にすることができるという判断で、 すぐに直義を討ちに鎌倉に行った。1352年2月、尊氏は鎌倉に攻め入り、 直義を毒殺する。
・この間、北畠親房は留守番の義詮と戦って京都から追い出した。南朝方は北朝の天皇を廃し、年号も北朝の観応を廃して正平を用いさせる。全てを建武新政の 段階まで戻すように要求し、幕府を認めない政策をとった。
・義詮は南朝が和議を破ったとして全国の武士に動員令を出した。幕府を認めない南朝に対しては直義党の武士も反発し、義詮に味方したため、3月に京都を奪 還する。
・南朝方は北朝方の三上皇と廃太子を連れ、神器を持って吉野に逃げた。義詮は北朝を再興しようとしたが人がいない。出家していた皇族を後光厳天皇に立てる が神器もないため、北朝の権威は高まらなかった。
・一方、九州には直義の子の直冬が頑張っていて、南朝に降って京都を2度奪う。しかし、2度とも奪い返され、尊氏(北朝)、南朝、直冬の天下三分傾向が続 いた。
・1358年、尊氏は直冬打倒の計画を立てている中、病死する。この頃に北 朝内部の武士の対立は収束した。しかし、南北朝内乱はまだ30年以上続く。

C 地 方武士の反荘園制闘争

南北 朝内乱が長期化した理由の第一はこれだった。

Q5 戦乱の続く時代は、新しく勃興してきた地方の武士にとっては好都合である。どう してか?。

A5 どちらかの味方になり、敵対勢力を滅ぼせばその分の所領を手に入れられる。内乱が長引いた方がよい。

   地頭、名主、悪党の武力行動の活発化=国人
    →南、北朝それぞれと結び支配地拡大


地 頭、武装化した名主、悪党などそれまでの在地武士は国人と呼ばれる。誰を新しい棟梁と仰ぐかはそれぞれの自由。都合に応じて南朝、北朝の家臣と称して敵対勢力の土地を侵略する。
・国人は、時には地域的に連合して支配者に歯向かってくるこ ともある。分割相続によって武士の家が細分化されているので、抵抗するには協力が必要。
・寝返りも多かったが、「返り忠」と称してその時は歓迎せざるを得ない。

     地域的に連合して強大化 cf)国人一揆

この 同盟を国人一揆と呼んだ。一揆とは、本来は統一行動をとること。一味神水によって一味同心を作る。神を招いて起請文を書き、焼いてその 灰を神水に混ぜて飲む。一揆契約書は籤で順番を決めて書名するか、上下関係がないことを示すために傘連判の形をとった。
・あの富田荘も南北朝期に守護、国人、名主の侵略を受けてゆく。在地の領主は実力で所領を拡大し、1355年、富田荘の北、西を流れる川の外側部分が守 護・土岐氏の侵略を受ける。円覚寺は幕府に訴え、侵略禁止令が出るが奪われてしまう。
・1363年になると名主の弥三郎が作人たちと手を結び、年貢を納めなくなる。弥三郎は武装して守護の被官となった者のようである。
・1388年、守護の連れてきた被官・国人と名主たちが手を結び、彼らによって支配される。円覚寺は富田荘の経営を放棄し、幕府政所執事の伊勢氏の所領と 交換してしまう。


※国人 層の抑圧が内乱終結の鍵

自分 の利害得失で北朝や南朝につき、平気で裏切る国人を抑えないと内乱は終結しない。

[守護大 名の成長]
  足利一門の守護派遣 ex)細川、斯波、畠山
  =権限を強化して国人層を家臣にさせる

国人 を抑えるために派遣されたのが守護である。中央地帯の鎌倉時代の守護はほとんどが没落し、辺境地帯の武田、小山、千葉、少弐、大友、島津氏 などしか残らなかった。そのため、中央地帯に派遣される守護はすべてよそ者として一から政治をすることになった。

Q6 鎌倉時代の守護の役割は何だったか?。その役割を振りかざして国人を抑えられる のか?。

A6 大犯三箇条である。これは幕府の家臣の御家人に対しての指揮権である。今回の国人は幕府の家来になっていないのだから、これでは抑えられない。

A 軍 事・警察権の強化
   大犯三カ条+「刈田狼藉」検断+「使節遵行」(強制執行権)
   →武力で国人層を抑圧

刈田 狼藉は収穫前の稲を刈り取ること。人の土地を奪う時は、土地に線引きをして奪うことはできない。数年に渡って収穫前の稲を奪うことで耕作放 棄をさせることでやる気をなくさせ、最終的に土地も取れる。
使節遵行は裁判で決まったことの強制執行権。言うことを聞 かなければ討つ。
刈田狼藉検断と使節遵行権で取り締まりと裁判判決の強制執行権で国人を抑 えることになった。

B 経 済力の強化
Q7 国人を抑えるためにはどうしたらよいか。彼らの希望を叶えてやるとよいが、何を 望んでいるのか?。

A7 本領安堵である。ある程度所領を増やせばあとは安堵されたい。

鎌倉 の将軍が御家人の所領を安堵できたのは、将軍が後白河法皇によって日本国総地頭に任じられたからである。全国の荘園・国衙領は頼朝に管理権 があるというのである。実際には御家人に管理を分担させる形をとり、それが所領の安堵だった。
日本国総地頭にあたる権限を守護が持たなければ、国人の所領を安堵できな い。

 1 半 済(1352)
    荘園公領年貢の半分を兵粮米として守護に与える

・鎌倉時代は兵粮米は自弁が原則だった。しかし、南北朝内乱期は遠隔地を転戦するた め、兵粮米は現地調達にせざるを得ない。初めは守護が勝手に荘園・国衙領に兵粮米を出させていたが、額が多くて混乱していた。

    (近江・美濃・尾張、1年間→全国、永続化)

1352 年、南朝側との戦場に近い近江・美濃・尾張3国について、年貢の半分を兵粮米として徴収することを法令として発布した。これは北朝の許可を 得ている。観応の半済令。
1年限定だったが永続化、全国化した。1368年、応安の半済令を出し、 寺社本所領については下地を荘園領主と武士で分けることとしている。
・半済が認められた国では、そこに住んでいる在地領主の国人を代官に取り立て、兵粮を集めさせる。この兵粮は守護のものということだが、実際にはその国人 が守護の家臣になれば、国人の収入になる。したがって、国人の土地を保障してやることと同じである。
守護は、国人を家臣とするため、彼らの願いの所領拡大である荘園侵略に手 を貸した。守護の家臣になれば合法的に荘園年貢の半分が手にできるのである。こうなると、中央の荘園領主が遠方の荘園を守ることはほとんど 不可能になってきた。

 2 守 護請
    荘園公領年貢の貢進を守護が請負い現地管理権獲得

・守護請は、もっとうまく国人を家臣にする手段となった。年貢が来なくて困っている荘園領主と守護が契約し、確実に年貢を取ってやる代わりに現 地支配権を獲得する。現地では、そこにいる国人を代官にし て、税を出せば土地支配を自由に認める。

※荘園・国衙領を支配し、国人に管理 させ(所領保証)家臣とする
 →封建領主化=守護大名

鎌倉 の守護が一国の軍事・警察権を握っただけであったのに対し、室町の守護は土地に対しての権限を持っている。頼朝と同じ立場となったのであ る。このため、彼らは守護大名と呼ばれることになる。大名は 大名主の意味であり、広い土地を持つ者のことである。

 (家臣を守護代に任命し、複数の国の領主として執政)

一人の守護はいくつもの国を掛け持ちする。このため、自らは京都に住み、 各国には守護代を派遣して政治をさせる。

 cf)国衙領の吸収=守護段銭徴収(土地税)

・国衙領には知行国主がいるのだが、実際には名前だけの者も多く、現地に国司を派遣し ても武力がないので年貢がとれなくなっている。国司は名国司といって名前だけ。
・国衙領も守護が年貢を請負って知行国主に送ることになる。名前だけの知行 国主が持つ国衙領は守護の私領のようになり、段銭を課した。田畑面積に応じて金納するもので、初めは臨時税だったが恒常化してゆく。

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