<建武の新政と室町幕府>
[後醍醐天皇の政治](1333〜1336)
天皇の帰京(光厳天皇退位)、
・後醍
醐天皇が京都に戻ると、幕府によって立てられていた光厳天皇は退位せざるを得ない。
・1334年正月に改元。乱を治める年号を中国年号を参考に制定しろと命令する。今までは中国古典の文字を組み合わせていたが、この時は光武帝が後漢を建
てたときの年号の建武を制定した。「武」が物騒だとし、平惟継は「建武を制定すれば必ず兵乱が起きる」というが、後醍醐は気に入る。
・京都では高氏が権力を持っていたので、鎮守府将軍にして手なずけた。これに対し、自分の子の護良親王を征夷大将軍にする。
Q1 高氏に征夷大将軍を与えなかったのはなぜか?
A1 鎮守府将軍は天皇の配下。征夷大将軍になると全権を委任されるのである程度の自由がある。高氏を警戒していたのである。
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親政の実現
・何でも自分でやりたいのが後醍醐天皇だった。綸旨は蔵人が天皇の意向を汲んで出す文
書だが、これも後醍醐天皇は自らが書いて出した。46歳なので働き盛り。
cf)「延喜の治」目標、”朕が新儀は未来の先例たるべし”
・後醍醐は延喜天暦の治を理想とした。死後に送られるはずのおくり名を生前に後醍醐と
決める。
※公家、武家の新政への期待(but利害対立)
A 政
治機構の整備
(中央)記録所=行政、司法の天皇親裁機関
恩賞方(論功行賞)
・記録所と恩賞方には天皇の言いなりの人たちを集める。
雑訴決断所=訴訟事務
・実際には後醍醐一人で捌けないために設置。旧幕府の実務者を集めて所領問題を裁かせ
た。
cf)武者所(京都の警備、頭人=新田義貞)
・武者所は京都警備を任としたらしいが定かではない。新田一族が頭人となり、6番64人で構成した。
・以上が中央の機構であり、あっさりしている。何でも天皇が一人でやろうと
したので組織はあまりいらない。
(地方)国司・守護の並置(鎌倉期の体制継続)
・地方には手が回らなかったのが実情。とりあえず鎌倉期の体制を継続させた。
cf)陸奥将軍府、鎌倉将軍府
・陸奥
には陸奥将軍府を設置。後醍醐の子の義良親王(6歳)を将軍とし、北畠顕家を陸奥守として補佐させて陸奥・出羽2国を管轄させた。顕家を執
権にしようという擬幕府計画だった。北畠氏は村上源氏の貴族として天皇に仕えていた。
・尊氏はこれに対抗し、弟の直義を相模守にして成良親王を連れて鎌倉に下らせ、鎌倉将軍府を立てた。関東10カ国を管轄。
※公武の別なく人材登用
B 新政の失敗
恩賞の不公平(公家>武家)
Q2 武士は政権にどのようなことを一番期待していたと思うか。
A2 本領安堵である。鎌倉幕府は武士のこの要求を満たすことで存在し得た。
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武
士の本領安堵せず(天皇の綸旨により保証)
・武士
の本領は無条件で安堵するのではなく、天皇が調べて綸旨を出したものに限られるとした。元弘の争乱中にどさくさに紛れて奪われた土地があっ
たためである。
cf)旧領回復令の混乱
・後醍醐天皇は旧領回復令を出した。これは、元弘の争乱の初期に天皇方につき、敗れて幕府に取られた
土地を取り戻せるというものだった。
・もう一つ出したのが朝敵所領没収令で、幕府方の所領を没収し、恩賞の財源
にしようとした。この二つが出されると、武士たちは動揺することになる。
Q3 旧領回復令は拡大解釈がされる。大昔のものにも適用され、鎌倉幕府創業期の
120年前に失ったものを取り戻そうとする。これは武士の常識を逸脱しているがどういうことか?。
A3 年紀の法を無視している。
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Q4 朝敵所領没収令は何が問題か?
A4 どこまでが朝敵になるのかが難しい。最初から天皇方についていた武士は多くはない。初めに手向かって天皇方の兵をさんざん殺害し、後から天皇方に寝
返っ
た者は朝敵だろうか?。途中で寝返った高氏も朝敵になってしまう。一概に線引きができず、一つ一つは後醍醐天皇が判断することになる。
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・返還要求を出してきた者が3人出てきて、そのうち2人はインチキだったり、ダメ元で
申請しようという者などが続出し、旧領回復ブームとなる。
・無事
に所領を治めていた者も気が気でなくなり、安堵の綸旨を求めて殺到した。綸旨は天皇が直接出すため、日夜仕事をこなしたとしても捌ききれなくなる。
・結局、旧領回復令と朝敵所領没収令を撤回し、諸国平均安堵法として、没収範囲を北条高時一族に限定した。
大内裏造営
・大内裏は1219年の大火で焼失後、再建されていなかった。新しい政治をおこなうに
は大内裏は欠かせない。1334年、大内裏新築で威厳を取り戻そうとした。
・全国の地頭、御家人に二十分の一税を課したが、これは大きな不満を招く。
→武
士の不満拡大、社会の混乱 cf)二条河原落書(1334)
・二条
河原落書は1334年8月に二条河原に掲示された。「このごろ都に流行るもの。夜討ち強盗偽綸旨・・・本領離るる訴訟人・・・下克上する成り出者」。秩序
が失われ、自由狼藉社会になっていると嘆いている。政治批判は公然とおこなうと罰せられるため、落書として落としておいた。これを「建武年
間記」の作者が書き留めたという。
・これらの混乱により、旧幕府方の武士は不安となり、自分たちの意見の代弁者として高氏のもとに集まるようになった。
・紫宸殿の屋根に怪鳥が毎晩飛来し、「イツマデ、イツマデ」と鳴く。
[室町幕府の成立]
足利尊氏の挙兵(cf)「尊氏なし」、
・後醍醐天皇に取り入った新田義貞と同じ源氏の出身であるが、新田に比べて北条氏と姻
戚関係を持ち、三河と上総の守護となっていた。新田よりも格が高い。後醍醐
は、新田義貞を尊氏に対抗させるために武者所頭人に用いたが、鎌倉武士は成り上がり者の新田に対して反発していた。
・高氏は天皇の名の尊治から「尊」の字をもらい、尊氏と改名した。他には位と鎮守府将軍の称号を与えられただけで、中央の役職には就いていない。尊氏は新たなリーダーとして期待されていたが、「尊氏なし」と噂された。
護良親王、新田義貞と対立)
・護良親王は尊氏をよく思わず、社寺行幸に際して尊氏打倒のテロを計画するが、尊氏は
大軍を連れていったために失敗した。強硬な態度が父の後醍醐との対立に発展し、征夷大将軍を解任される。
・尊氏は逆に護良親王が帝位を奪おうとしていると天皇に密告し、謀反人として逮捕させる。護良親王は鎌倉に流罪となり、尊氏の弟、直義の手で土牢に監禁され、翌年、殺害され
る。
・後の邪魔者は武者所の新田義貞。
1 中
先代の乱(1335)
北条時行(高時の子)の鎌倉攻撃→尊氏により鎮圧
・幕府
滅亡の際、高時の子の時行は鎌倉を脱出していた。北条氏の所領のある信濃に潜伏し、北条譜代の家臣・諏訪氏にかくまわれる。
・1335年7月、京都の混乱をみて信濃に挙兵し、近隣の兵を集めて武蔵に入る。7月22日、直義が町田に迎え討ったが敗退。直義と成良親王は東海道を西
に逃げ、護良は斬られる。25日、時行は鎌倉に入って鎌倉幕府の再興を図
る。
・直義敗退を聞いて、尊氏は天皇に東下を求め、総追捕使と征夷大将軍の任命を要求した。武士の棟梁として全国の武士に服属を迫るのに効果的な役職名であ
る。しかし、天皇は拒否し、成良に征夷大将軍を与える。
・尊氏は無視し、自分はこれから征夷大将軍と思って行動すると宣言。直義と
合流して8月19日に鎌倉を奪還する。時行は20日天下だった。中先代は先代(北条)と後代(足利)の間の意である。
・天皇は帰洛の勅命を出し、尊氏は従おうとするが、直義が反対したため、鎌倉にとどまる。
but新田義貞討伐名目に反旗
・1335年11月2日、尊氏は義貞を討つとして兵を集め始め、8日に義貞討伐を上奏した。19日、後醍醐は反
対に義貞に対して尊氏攻撃を命令する。ここで尊氏は朝敵となったため、新政に反旗を翻すか悩んだという。
・「梅松論」では、尊氏は浄光明寺にこもってしまい、矢作川の守りを破られても動かなかった。直義が出陣して敗れ、身の危険が迫ったところで出陣を決めた
という。「直義を助けるために挙兵する。天皇に弓を引くものではない」と言い訳している。
・「太平記」では尊氏は建長寺にこもり、髪の元結いを切って隠遁の意を示す。隠遁しても罪を許さないという綸旨が出たと言われて挙兵に踏み切ったとする。
2 建
武政権の崩壊
尊氏の上京 but朝廷軍に敗れ、九州へ逃れる
・12月11日、尊氏は箱根竹ノ下の戦いに勝って義貞を追う。義貞は東国武将として卑
怯なことはしないという人間。部下が川の橋を落として逃げようというのにそのままにした。そのため、1336年1月8日、尊氏は簡単に京都に攻め込む。後醍醐は京都を脱出して比叡山に逃
げる。
・1月13日、奥州から北畠顕家が駆けつけて尊氏を蹴散らしたた
め、尊氏は丹波に脱出し、兵庫に陣取る。尊氏は建武新政によって所領を取られた旧北条方の武士を味方につけるため、元弘没収地返付令を出した。これで尊氏
の兵力が増すことになる。貴族たちも後醍醐を見放し始めていたため、楠木正成は「義貞を退けて尊氏を招き、和睦をする方が得策」と建議する。
Q5 尊氏は天皇と戦うため朝敵の汚名は免れない。これだと兵が集まりにくい。どうし
たらよいか?。
A5 後醍醐天皇によって退けられた持明院統の上皇から命令をもらえばよい。
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光厳上皇の院宣を得て政権打
倒の大義名分確保
・赤松則村は持明院統の天皇を戴くことを提案し、尊氏は光厳上皇のところに密使を送る。院宣を獲得し、上皇の命で九州攻めをするといっ
て宣伝。2月12日、海路九州に入る。
西国守護との結合に成功
・3月2日、多々良浜の戦いで九州最大の後醍醐党の菊池氏を叩き、西国の守護と結ぶことに成功する。後醍醐は新田義貞を西下させるが、途
中の白旗城攻略にこだわって1カ月を費やし、その間、尊氏が東上してしまう。
→湊川の戦いに勝ち入京、光明天皇(光
厳弟)の擁立
・楠木正成は比叡山に天皇を逃がし、京都を明け渡してゲリラ戦を提案する。しかし、貴
族の中から何度も天皇が逃げるのはまずいという意見が出てボツとなり、天皇は正成に尊氏の入京を阻止するための出陣を命じる。
・正成は子の正行と桜井の別れ。「死地に赴くが、お前は天皇に仕えよ」。平地の湊川の戦いでいいところなく正成は敗死する。
・尊氏が入京すると、天皇は比叡山に逃げる。尊氏は光厳上皇を迎え、その弟
を光明天皇として立てた。しかし、三種の神器は後醍醐が持っていったため、神器なしで即位することになる。したがって、周りからは正式な天
皇ではないと言われることになる。
・尊氏は比叡山の天皇に講和を申し入れ。両統迭立を条件とし、神器を光明天皇に渡し、その次の天皇は後醍醐の子の成良とした。
後醍醐は吉野脱出、正統主張
・後醍
醐は京都を脱出して吉野にこもり、渡した神器は偽物であって自分が本当の天皇と主張する。
3 武
家政治の復活
建武式目(幕府政治の再興宣言)17カ条を出す=室町幕府(1336)
・「建
武式目」は法律ではなく、政治のあり方を質問し、それに対する答申。鎌倉幕府の政治をおこなった二階堂是円などが答えている。2項17カ
条。施政方針といってよい。
・鎌倉に幕府を置くかどうかが問題となった。鎌倉は吉土なので鎌倉がよいが、鎌倉を離れたい人が多ければ別のところでもよいとしている。
Q6 実際の幕府は京都に置かれている。その理由は何か?。
A6 南朝の勢力があり、北朝の天皇を守るためには京都を空けるわけにはいかなかったのである。
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征
夷大将軍就任(1338)
but吉野(南朝)に後醍醐の勢力残り、京都(北朝)と対立=南
北朝動乱に発展
・後醍醐天皇は足利討伐を全国に命令した。この間、楠木正行が大阪方面で兵を集め、義
貞は北陸に立てこもり、北畠親房は伊勢に拠っていた。この連中を叩かないと政権は安定しない。