<得宗専制と鎌倉幕府の滅亡>
[幕府の動揺]

・元寇では非御家人も動員したし、執権をつとめる北条氏の西日本の支配権が拡大した。 一方で御家人の窮乏が進み、北条氏と対抗できる者が減った。

A 得 宗専制体制の確立

北条 氏本家は、義時の法名から得宗と呼ばれていた。執権を出す家柄として一目置かれる。しかし、得宗家からだけで執権を出せるわけではない。

 1 得 宗(北条本家)が庶子の執権を支配

・実質上の幕府のトップは執権であるはず。時頼以降12人が執権になったが、必ずしも北条本家の得宗ではない。得 宗(本家)は時頼、時宗、貞時、高時の4人だけ。得宗以外の執権は庶子家か ら出るため、得宗に動かされる。
・評定衆は時頼の頃から有名無実化。得宗の家で腹心が秘密会議を開いて事を進めるようになる。評定衆は若い者で、北条一門が半数を占める。

 2 御 内人(家臣団)の専横=有力御家人と対立

得宗 が幼少の時は、内管領が取り仕切る。
得宗の家臣は将軍に対しては陪臣であるが、御内人と呼ばれた。得 宗と御内人に対し、それ以外の御家人を外様と称するようになる。
・将軍直属の御家人よりも北条氏直属の御内方が幅を利かせるところが奇妙。御 家人は御内人に対して反発を強める。

    平頼綱(内管領=御内人の代表)VS安達泰盛

御内 人の元締めが内管領(うちのかんりょう、うちかんれい、ないかんれい)の平頼綱。御家人の代表は恩沢奉行の安達泰盛。
・安達は元寇で活躍した御家人に恩賞を与える役柄。北条氏が所領を放出して御家人に与えるべきだと主張した。頼綱は安達を滅ぼせばその所領を分配できると 考える。
・1284年、北条時宗が死んで貞時が執権となる。母は安達泰盛の娘で、乳母の夫は平頼綱。貞時は両者に関係があるため、安達と頼綱で綱引きが始まる。

    →霜月騒動(1285)で安達滅亡

・1285年11月17日、頼綱が挙兵。鎌倉の各所で激戦となって安達氏滅亡。上野、武蔵一帯で有力御家人500人が安達の味方として討たれる。
・これで北条氏に対抗できる勢力はいなくなる。

    ∴北条氏による守護・地頭職の独占

・北条氏の守護は元寇前は13/45だったが、元寇後は28/56に倍増している。
・平頼綱は得宗権力の拡大を進めたが、得宗の貞時としては頼綱に政治の実権を取られそうになって不安となる。1293年4月、頼綱を滅ぼして貞時が専制を 開始している。

 3 執 権・北条高時の悪政

・1311年、得宗貞時が死に、9歳の高時が得宗となる。執権は師時、宗宣、煕時(ひ ろとき)、基時と代わり、1316年には高時が14歳で執権となる。
高時は田楽や闘犬にうつつを抜かす馬鹿者という評価。内管領は長崎高資で 賄賂を取って政治をする。

    内管領・長崎高資の賄賂政治
 ※御家人の不満の高まり

B 反 幕府勢力の台頭

・得宗の力は強くなったが、反発も招く。新たな対抗勢力が形成される。

 1 守 護の強大化
    周辺の没落庶子家の被官化(惣領=血縁の統制→守護=地縁の統制)

・守護は、いざという時に任国の御家人を指揮する役割。
・惣領制の時代、恩賞として新しくもらったりするので一門の所領は全国に分散していた。惣領は関東にいて、九州の所領を庶子がもらうこともある。遠く離れ ていても、惣領がその後も分割相続をおこない、面倒を見ていたので庶子は言うことを聞いていた。これができなくなる。
惣領から所領をもらえず、安堵もしてくれなくなり、困った庶子家は守護を 頼るようになっていた。元々は守護と任国の御家人は主従関係がなかったが、これで形成される。血縁から地縁への変化である。

 2 悪 党の出現
    没落した武士→御家人、非御家人の別なく結合
    =荘園侵略、反幕府的武力行動をおこなう

・1250年頃から悪党の鎮圧令をしばしば出す。もともとは山賊、海賊、夜盗、強盗の類や、浮浪して悪行を重ねる異形(派手な衣装に高 下駄、烏帽子も袴も付けない)の者が悪党とされた。
・今風に言えば暴力団のような者。所領を失って没落した御家人は食ってゆく ために悪党となり、農民を襲撃したりする。しかし、一方では農民と手を結び、荘園領主への年貢を横取りしたりもする。
・伊賀国黒田荘の悪党は、もともとは東大寺荘園の下司だった大江氏の一族。本所に年貢を払わなくなり、城館を築いて荘民から金品を巻き上げる。東大寺は悪 党鎮圧は守護の仕事と言って取り締まりを迫るが、幕府が設置した地頭が暴れているのではないから取り締まり対象外と突っぱねる。
・幕府が守護代や地頭に鎮圧を命じても、「悪党は逃げました」と報告。彼らも悪党と手を結んで一緒に悪さをするようになっている。きちんとした警察組織がなくなってきたため、社会的頽廃が生じている。

[鎌倉末期の朝廷の動向]
 1 皇 統の分裂(1272〜)
    後嵯峨天皇の譲位 後深草天皇即位(持明院統)

・承久の乱後、後堀河天皇が擁立される。その子・四条天皇は後継がなく死ぬ。
・土御門は討幕挙兵に反対したが進んで配流されているので、その代償として土 御門上皇の子を天皇とした。これが後嵯峨天皇で、第3子の後深草天皇を立てて院政を布いた。

     butこれを廃し、亀山天皇擁立(大覚寺統)

後嵯 峨は第7子を愛し、兄に位を譲らせて亀山天皇とし、その子を皇太子に立てた。この間、ずっと院政を続け、1272年2月に死ぬ。
後深草院政となるのか、亀山親政となるのか、天皇家の最高権力者がどちら になるのるかでもめる。

    →院領荘園(長講堂領、八条女院領)めぐり皇統分裂

最高 権力者は600〜700カ所の皇室領荘園を継承できる。これらの名義人は皇女になっている場合が多く、収益は山分け。最大のものは長講堂領 180カ所と八条女院領100数十カ所。
長講堂領は後深草の系統で持ち、八条女院領は亀山の系統で持っていた。最 高権力を相手に握られれば、取られてしまう可能性がある。
・1274年、亀山は子に譲位して後宇多天皇が実現。これ以後は亀山上皇の系統で天皇を出す可能性が強くなる。後深草は気落ちして出家するという噂。時宗 が気の毒に思い、後深草の子供を亀山の養子に立て、次の天皇にするように説得した。

Q1 かつてであれば、皇位継承をめぐってはどのように解決されていたか?。

A1 壬申の乱の時は手持ちの兵隊、保元の乱の時は武士を雇っている。今回は力がないので武士に介入されている。こうなると、幕府を味方に引き込もうと政 治工作するしかない。

・1287年、幕府の命で後宇多は譲位し、伏見天皇が実現する。伏見は1298年に譲 位し、子が即位。後伏見天皇が実現する。
伏見 上皇は持明院御所(仙洞御所)に住んだため、持明院統といわれる。一方、後宇多は大覚寺を再興したため、この系統を大覚寺統といった。
・このままでは持明院統で天皇を出してゆくことになるため、今度は幕府は大覚寺統を気の毒に思い、皇太子に後宇多上皇の子を立てた。1301年、後二条天 皇実現する。
・後二条の次は持明院統から立てることになるが、後伏見は14歳で譲位したのでこの時には子供がなく、後伏見の弟を皇太子に立てた。1308年、後二条が 死んで持明院統の花園天皇実現。皇太子には後二条の弟・尊治親王を立てることになった。
このままでゆくと4統に分かれて複雑化してゆく。1317年、幕府はこの 問題に介入することになる。

 2 文 保の和談(1317)
    幕府の介入、両統迭立(交互に天皇を出す)決定

花園 天皇が譲位して尊治親王を天皇とすること、今後は在位10年で両統交替すること。次の皇太子は後二条の子供、その次は後伏見の子供にすることを定める。両 統迭立の完成。

 3 後 醍醐天皇即位(1318)

・1318年即位。1321年には後宇多上皇の院政が終わって親政となる。34歳。鎌 倉期の天皇は23代あるが平均即位年齢は8歳10カ月。平均在位は10年。2歳・3歳の即位は2人、4歳・5歳の即位は3人で全く実権を持たなかった。後醍醐天皇は親政が可能となる。

Q2 後醍醐天皇はどうして幕府を倒そうとしたのか?。

A2 大義名分論によって幕府が政治をすることはおかしいと考えた。そして、文保の和談の取り決めによれば、自分の子は天皇として即位できなくなってしま う。

    宋学の大義名分論を学び、親政復活

・後醍醐天皇は宋学を学ぶ。この中の大義名分論は、君臣の別は天地の別と同じと説く。上皇や摂関が政治をし、天皇が形式的 になっているのはおかしいと考えて親政をした。

    記 録所(重要政務の裁決)の再興

重要 政務の決済のために記録所を再興する。記録所は院政期にも置かれていたが、今回は荘園整理のためのものではなく、天皇が諸事決済するための 機関とした。荘園の境界争いなどで、ここで直接決済を与えている。

※倒幕目指す

[鎌倉幕 府の滅亡]
 1 正中の変(1324)
    後醍醐天皇、日野資朝による倒幕計画→鎮圧

・後醍醐は無礼講と称して宴会を開き、日野資朝、日野俊基などとともに討幕の計画を立て始める。目をくらませ るため、「17,8の美女にシースルーの着物を着せて侍らせ、肌脱ぎで酒盛り」をしたと言われる。
・1324年9月23日の北野の祭礼で喧嘩がいつもあり、これを取り締まりに六波羅の侍が出払っているところを襲う計画を立て、南都北嶺の僧兵に応援を求 める。
・19日、六波羅探題がこれを察知し、無礼講の一味を逮捕。
首謀者として資朝、俊基は鎌倉送りとなった。俊基は赦免されたが資朝は佐 渡に配流。後醍醐が関わっていることは公然の秘密であったが、幕府は大した計画ではなかったため、不問にした。

 2 元 弘の変(1331)
    護良親王を通じて延暦寺、畿内の武士・悪党に倒幕呼びかけ

・持明院統は、後醍醐に代わる次の天皇を早く自分の側から立てたいとして幕府に接近す る。後醍醐はさらに幕府に反感を持ち、子供の護良親王を天台座主として延暦 寺に送り込み、僧兵を動かそうとする。ここから畿内の武士や悪党に倒幕を呼びかける計画。
・1331年4月29日、天皇側近の吉田定房は討幕挙兵に勝算なしとして事前におさえようとし、「天皇のまわりの者が世を乱す意図あり」と鎌倉に飛脚を飛 ばした。日野俊基、日野資朝は死罪となったが、幕府は吉田定房に遠慮して天皇逮捕の動きは見せなかった。
・8月24日、天皇は挙兵を考えて皇居を脱出し、笠置寺に入る。笠 置寺は木津川沿いの急崖上の寺で、幕府に反感を持つ武士が集まり始める。
・天皇は夢を見る。南の枝の茂る常磐木の下の玉座に童子に案内されるというもの。夢の話を側近にすると、「木に南なので楠という者が有力な味方」になるだ ろうと言う。結局、楠木正成が現れ、「正成一人いれば運は必ず開かれる」と言って帰ったという。

    →鎮圧(光厳天皇即位→後醍醐隠岐配流)

・六波羅軍は笠置を包囲し、9月3日から総攻撃をするが落ちない。鎌倉からは20万8 千の大軍を送る。
・9月中旬、楠木正成が赤坂城で挙兵し、備後でも挙兵という 知らせが入る。幕府は後醍醐天皇に代わって光厳天皇を立てることにしたが、 三種の神器の剣と玉は後醍醐が持ち出していたので、これらがないままで即位となった。
・9月28日、鎌倉方は笠置を総攻撃する。寺に火を放ったために大混乱となり、30日、後醍醐が捕まって剣と玉を取られる。
後醍醐天皇は隠岐に配流される。

 3 倒 幕の内乱
    楠木正成(河内)、

楠木 正成は河内の小土豪で、御家人だったか単なる悪党だったかはわからない。
・幕府方は、1331年10月15日、赤坂城を総攻撃した。ここは3〜4町四方の小城。この頃の城は天守閣のそびえるものではない。山の上に立て篭るため に作られた砦。
・崖を登って接近すると矢が飛んでくる。討ち死に覚悟で崖を登り、塀に手をかけると塀を切り落とされる。落ちたところに大木や大石が投げつけられ数百人が やられる。引き下がって休んでいると騎兵隊で突っ込まれるなど苦戦。
・赤坂城は楠木の支城であり、そのうちに食糧が尽きる。楠木は城に火を放って脱出して行方知れず、関東軍は鎌倉に帰陣する。
・1332年冬、楠木正成は河内、摂津、和泉に出没し、12月には赤坂城を奪い返す。悪党や土豪を集めて合戦となる。すぐに赤坂城は陥落したので、金剛山 の千早城に退く。
・千早城は三方が崖になっている。「太平記」では寄手は100万人、正成は1000人という。木戸口から正面突破しようとしたら櫓から大石を投げ落とさ れ、日に5〜6000人が死んだという。
・水がないはずだとして、沢筋に水を汲みに来るところを待ち伏せすることにした。しかし、千早城には深井戸があって水は大丈夫。水辺の兵は汲みに来ないの で油断をしているとここを急襲する。反撃して城を攻めればまた大石を落としてくる。
・包囲軍は兵粮攻めに切り替えた。退屈なので碁、双六をしたり歌合わせをしたりと余裕。楠木軍はこれを見て、藁人形20〜30に甲冑を着せ、夜中に城の周 りに並べる。その後ろに兵を伏せて明け方に鬨の声をあげる。食糧がつきて城から討って出たとして寄手が突撃する。藁人形の兵に矢を射かけても倒れない。近 くまで行ったら人形である。ここに大石を降らせる。
・深い堀に橋を渡して城に切り込む計画を立てた。大工を集めて梯子を作らせる。5〜6000人が橋の上を渡ってくると松明を投げられ、ここに油を流され る。先の兵は火で動けず、後ろの兵に押される。押し合いしているうちに橋が焼け落ちる。

Q3 楠木の戦い方にはどういう特徴があるのか?。鎌倉武士の戦い方と比べてどうなの か?。

A3 一騎打ち戦ではなく裏を掻くようなゲリラ作戦。悪党の戦い方で今までは卑怯とされていたもの。勝てば名誉も何もいらないのである。悪党は「返り忠」 といって、主君をすぐに裏切った。

   護良親王、

・天台座主の護良親王は吉野方面に立てこもり、土豪たちを集める。挙兵の令旨を全国に発する。

   赤松則村(播磨)、悪党らの蜂起

・1333年になると、播磨では赤松則村が挙兵。幕府は5万とも30万とも言われる軍 を派遣。護良親王と正成には懸賞がかけられる。

   →後醍醐隠岐脱出、名和長年(伯耆)挙兵

・1333年閏2月、後醍醐天皇は小舟で隠岐脱出。伯耆の名和長年にかくまわれる。船上山に籠もって綸旨を 出す。
・赤松は京都に迫る。九州四国でも挙兵。

    =征討軍・足利高氏の派兵

・3月末、幕府は足利高氏、名越高家を上洛させる。足利氏は清和源氏の名門で大豪族。 北条氏の元ではうだつが上がらなかった。
・先祖の源義家の置文「七代の孫に生まれ変わって天下を取るべし」。7代後の家時は天下を取れなかった。「我が命を縮めて三代のうちに天下を取らせよ」と 言って切腹。高氏はこの3代目という。
・六波羅に来た高氏は北条仲時とうち合わせをし、山陰に進むこととする。

    but幕府を裏切り六波羅探題攻略

・丹波の篠村(しのむら)に来たときに反旗を翻し、逆に六波羅攻め。「伯耆の天皇からの勅命を受けた。味方に なれ」と全国の武士に連絡。
・5月7日、入京。市街戦となって六波羅勢は敗退。仲時は光厳天皇を伴って鎌倉への脱出を試みる。至るところで野武士が出没し、その都度味方を失う。番場 に来たときに行く手を遮られる。蓮華寺で自刃。430人。天皇は後醍醐側に捕らえられて京都に護送。後醍醐天皇は光厳天皇を廃し、自分の皇位が継続していたと主張。

 4 幕 府の滅亡
    新田義貞(上野)の挙兵→鎌倉攻略(関東武士20万7千による)

・5月8日、新田義貞が挙兵。源氏の出であるが足利氏よりも冷遇されていた。小手指 原の戦いで幕府軍を破り、多摩川を渡る。高氏の子・千寿丸4歳も輿に乗って参加。

     ∴北条一門の滅亡(1333)

・鎌倉は周りを山に囲まれた要害の地。切り通しという山を切り開いた狭い道を通らない と中に入れない。5月18日から新田軍は鎌倉で市街戦が始まるが大軍は入れない。義貞は21日、鎌倉の西、稲村ヶ崎に迫る。海が断崖に迫り、道が狭くて通 れない。義貞は海神に祈り、刀を投じると潮が引いた。このすきに侵入。北条 一門は東勝寺に入って自刃。 数百名。
・1953年、材木座で古い人骨が出土。910体。32の堀に埋められていたもの。ほとんどは壮年男子で、頭蓋骨だけを積み上げたり、四肢だけを集めて あったりした。馬や犬の骨も混じり、犬にかじられた骨もある。頭蓋骨に墨書のあるものもある。合戦の死者を時宗の僧が弔ったものとされる。

※幕府 滅亡=反幕府勢力の結集による

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