8 社会的新陳代謝と守護領国制の形成 <元寇と御家人の窮乏>

 中国北方に住んでいたモンゴル族は、13世紀に入るとアジアからヨーロッパに至る地域を支配下に置き、大帝国を築き上げていた。東アジアでは中国東北部 にあった(1)を滅ぼし、朝鮮半島に侵入して(2)を服属させ、さらに江南に居を遷した(3)の攻撃に及んだ。こうした中、1271年に元を建国する [4]が日本に対して服属を要求してきたのである。そこには(3)の周辺国を服属させて包囲網を布くねらいがあった。このときの幕府の執権は[5]であっ たが、彼はその要求を無視し、一方では九州御家人を動員して[6]を設置して来襲に備えた。
 1回目の元寇は、[7]年に起きた[8]と呼ばれる戦いである。対馬・壱岐を落とした元・高麗連合軍は博多湾に上陸した。日本側の(9)戦法は元の (10)戦法に通用せず、(11)という火器の使用に苦戦した。しかし、折からの強風によって元船は沈没し、この襲来をからくも撃退することになる。戦 後、幕府は徹底抗戦を決め、次の来襲に備えて(12)を構築している。
 2回目の元寇は[13]年の[14]である。1279年に滅びた(3)の軍を合わせ、元は朝鮮半島と江南から出兵した。しかし、今度も大暴風に遭遇し元軍は撤退する。日本を救った暴風は「(15)」と称され、神国思想が高まることになった。
 元寇の影響は大きかった。異国撃退では土地は増えず、恩賞が十分でなかったことに加え、再度の来襲に備えて(6)が継続され、御家人の窮乏が進んだ。一方では、九州御家人を統括するために[16]が置かれ、幕府の支配力は西に伸びた。
 この頃、元寇以外にも御家人窮乏の理由はあった。それまで続いていた[17]により、所領が細分化していたため、御家人の中には(18)からの金融に依 存する者もあった。返済ができなければ、所領は質流れし、売却もおこなわれた。こうして出現した「無足の御家人」は、将軍との主従関係の柱であった土地を 喪失した存在であり、幕府に忠誠を誓う必要がなくなってゆく。所領細分化を防ぐためには[19]への転換が欠かせない。しかし、これは(20)が所領を独 占することを意味し、その統制に服していた(21)が離反する結果を招く。すなわち、土地を仲立ちとした二重の御恩と奉公の体制が崩れるのであり、鎌倉幕 府の支配体制は危機を迎えることになるのである。
 [22]年に出された[23]は、売却、質流れした御家人領の無償取り戻しを認め、土地を仲立ちとする主従関係を再構築しようとするものであった。特に 非御家人や(24)と呼ばれた一般庶民が取得した土地は無条件で取り戻しが許可された。これにより、御家人たちは一時的に所領を回復することになる。しか し、以後、御家人に対しての金融の道は閉ざされることになり、かえって御家人の窮乏に拍車をかけた。このため、(23)は翌年には撤廃され、御家人の幕府 への忠誠心は急速に薄らいでゆくのである。

<解答>
(1)金 (2)高麗 (3)宋 (4)フビライ (5)北条時宗 (6)異国警固番役 (7)1274 (8)文永の役 (9)一騎討ち (10)集団  (11)てつはう (12)石塁 (13)1281 (14)弘安の役 (15)神風 (16)鎮西探題 (17)分割相続 (18)借上 (19)単 独相続 (20)惣領 (21)庶子 (22)1297 (23)永仁の徳政令 (24)凡下 


<得宗専制と鎌倉幕府の滅亡>

 御家人の窮乏が進む中、北条本家の力は相対的に強まった。北条本家のことを義時の法名にちなんで(1)と称するが、これは本来は執権を出す家柄である。 その家臣団は(2)と呼ばれ、その代表は(3)と称された。(1)から執権が出せない場合は庶子から出されたが、その執権は(1)の支配を受け、(1)が 幼少の場合は(3)がそれに代わって権力を振るうことになった。しかし、(2)は将軍との関係では陪臣であるため、直臣の御家人と比べれば身分は下であ り、陪臣の(2)が力を持つことに対し、御家人の反発が生じた。1285年に起きた(4)は、元寇の恩賞処理に端を発し、(3)の地位にあった(5)と恩 沢奉行で有力御家人の(6)が衝突したものである。この乱で(6)は滅亡し、単独で北条本家に対抗できる御家人はいなくなった。こうして(1)専制体制が 固まり、北条氏は守護・地頭職を独占するようになるのである。
 鎌倉末期に執権となった(7)は田楽や闘犬に熱中して政治をかえりみず、(3)の(8)が賄賂政治を展開した。こうして政治不信が高まり、反幕府勢力が 台頭する。単独相続への移行で惣領の統制を離れた庶子は、地縁を頼って守護の被官となっていったため、守護の力が強まっていた。また、没落した武士の中に は荘園侵略など反幕府的武力行動をおこなうものも現れ、(9)と称された。このような中から幕府を倒す勢力が出てくる。
 一方、朝廷では皇統の分裂という事態が生じていた。(10)天皇が第3子に譲位して(11)天皇が実現した後、これを廃して第7子を(12)天皇として 立てたためで、前者を(13)統、後者を(14)統と呼んでいずれが天皇を擁立するか、天皇家の氏長者の地位をめぐって争った。氏長者となれば、 (15,16)という院領荘園を支配できるからである。対立の結果、皇統はさらに分裂する状況となり、幕府はこの問題に介入する。これが1317年の (17)と呼ばれる出来事で、以後、二つの統から交互に天皇を出す(18)が確認され、とりあえず(14)統の(19)天皇が即位することになった。 (20)の大義名分論を学んだ壮年の(19)天皇は、親政を復活して重要政務の裁決のために(21)を再興し、倒幕を計画するようになる。
 1324年に起きた(22)は天皇と(23)による倒幕計画で、未遂のうちに鎮圧された。天皇は挙兵をあきらめず、1331年には天台座主となった (24)を通じて延暦寺、畿内の武士や(9)に倒幕を呼びかけたがふたたび鎮圧される。天皇は(25)に配流となり、新たに(13)統の(26)天皇が即 位した。しかし、畿内では(27)や(24)、播磨では(28)などが倒幕の戦いを継続し、(25)に流された(19)天皇も脱出して伯耆の(29)のも とにかくまわれた。こうして、幕府は(30)を征討軍として派遣するが、彼は幕府を裏切り、(31)を攻略して滅亡に追い込んだ。一方、上野の(32)は 鎌倉攻略の兵を挙げ、関東武士20万7千がこれに加わった。(33)年、北条一門は滅ぼされ、鎌倉幕府は潰えるのである。

<解答>
(1)得宗 (2)御内人 (3)内管領 (4)霜月騒動 (5)平頼綱 (6)安達泰盛 (7)北条高時 (8)長崎高資 (9)悪党 (10)後嵯峨  (11)後深草 (12)亀山 (13)持明院 (14)大覚寺 (15)長講堂領 (16)八条女院領 (17)文保の和談 (18)両統迭立  (19)後醍醐 (20)宋学(朱子学) (21)記録所 (22)正中の変 (23)日野資朝 (24)護良親王(25)隠岐 (26)光厳 (27) 楠木正成 (28)赤松則村 (29)名和長年 (30)足利高氏 (31)六波羅探題 (32)新田義貞 (33)1333


<建武の新政と室町幕府>

 隠岐から京都に戻った後醍醐天皇は、持明院統の(1)天皇を退位させて天皇の座に返り咲き、かつての(2)を目標に(3)と呼ばれる天皇親政を実現し た。天皇は公武の区別なく人材を用い、中央の政治組織として行政、司法の天皇親裁機関である(4)、倒幕の戦いの論功行賞をおこなうため(5)を置いた。 また、激増する所領関係の訴訟事務は(6)を置いて対処させた。さらに京都の警備のために(7)を設置し、頭人には(8)を用いた。中央の政治機構はこの ように簡素なものであり、すべてにおいて天皇が裁決するシステムが目指されていたと言える。一方、地方政治機構は鎌倉時代の体制を継続させ、国司と守護が 併置された。京都から遠い東北地方には、義良親王を将軍とし北畠顕家が補佐する(9)が置かれ、鎌倉には成良親王を足利直義が補佐した(10)が設置され た。
 しかし、新政は間もなく失敗に陥る。恩賞が公家に厚く、武家が軽んじられたこともあるが、最大の問題は武士が求めた(11)が無条件でおこなわれなかっ た点である。天皇は朝敵の所領を没収し、元弘の変で所領を失ったものには旧領回復令を出した。また、所領は天皇が出す(12)によって保証されるものとし た。しかし、朝敵や旧領の範囲が曖昧であり、(12)を求める訴訟が相次いだことで政務は停滞して大混乱が生じた。それまで平穏に土地を支配してきた武士 にとっても所領を失う危機が訪れたのであり、政権に対する信用は失墜した。加えて大内裏造営のために二十分の一税をかけたことも武士の反発を招いた。武士 たちにとって主君に忠誠を誓うのは、土地を保証されることの見返りである。見返りがなければ離反してゆくドライな考えの武士たちに対し、大義名分論に染 まった後醍醐天皇は天皇の権威を絶対的なものと捉え、忠誠を誓うのを当然視していたところに誤りがあったと言える。新政の混乱ぶりは、1334年に鴨川の 河原に掲げられたという(13)が今に伝えている。
 足利尊氏は新政の中にポストがなく、征夷大将軍を求めたが護良親王にとられてしまう。このため、(8)や護良親王との間で対立が深まった。護良親王は謀 反の密告を受けて鎌倉に流され、やがて殺害される。1335年、新政の混乱を見た北条高時の子の(14)は鎌倉の奪還を図って挙兵した。これが(15)と 呼ばれるもので、鎌倉を守る足利直義が敗れて退いたため、天皇は足利尊氏に鎮圧を命じた。尊氏は東下して乱を抑えたが、そのまま鎌倉にとどまってしまう。 そして(8)の討伐を名目に政権に反旗を翻すのである。尊氏は(8)の軍を箱根竹ノ下の戦いに破って上京したが、朝敵とされ、北畠顕家軍の到着によって九 州に退いた。この間、尊氏は朝敵の汚名を免れるため、(1)上皇から政権打倒の院宣を得て大義名分を確保する。これにより西国守護との結合に成功した尊氏 は大軍を率いて東上し、(16)の戦いで楠木正成を討って入京を果たす。後醍醐天皇は退位し、(1)上皇の弟が(17)天皇として即位し、1336年には (18)17か条が出された。これは幕府政治の再興宣言であり、ここに室町幕府が発足する。尊氏が征夷大将軍に任じられるのは1338年のことであった。 しかし、後醍醐天皇は天皇の証である三種の神器を持って(19)に脱出し、その地で自らが正統な天皇であることを主張する。こうして、京都の北朝と (19)の南朝の二人の天皇が並立して争い合う南北朝時代を迎えることになるのである。

<解答>
(1)光厳 (2)延喜の治 (3)建武の新政 (4)記録所 (5)恩賞方 (6)雑訴決断所 (7)武者所 (8)新田義貞 (9)陸奥将軍府  (10)鎌倉将軍府 (11)本領安堵 (12)綸旨 (13)二条河原落書 (14)北条時行 (15)中先代の乱 (16)湊川 (17)光明  (18)建武式目 (19)吉野


<南北朝の動乱と守護大名の成長>

 南北朝の動乱期は社会の大変革期であり、60年間の内乱の中で古代権威が没落し新勢力が台頭する。内乱の要素は、初期においては公武の対立であった。し かし、陸奥将軍府にあった(1)や北陸に拠点を持った(2)が相次いで討ち死にし、関東の(3)や九州の(4)も苦戦を強いられるなど、公武の戦いは早い 時期に決着がついていた。それでも内乱が継続するのは、武士政権内で路線争いが生じたからである。室町幕府は内乱を戦いながら政治を進める必要があり、軍 事担当の尊氏と政治担当の足利直義の二頭政治が展開していた。尊氏の片腕となったのが(5)を務めた(6)である。軍事を専門とする武士たちは既存の権威 を否定し、実力で支配権を拡大する急進的な路線を主張し、荘園領主の権限を全面的に否定して所領支配を一元化しようと考えた。しかし、現実の政治の局面で それは難しく、直義は従来通り荘園領主との二元支配を継続しようとする。両者が演じた主導権争いが(7)と呼ばれるもので、この間、両勢力はそれぞれ南朝 にくだって戦いを有利に進めようとし、内乱は複雑化した。この内乱で(6)は直義に殺害され、直義も尊氏によって殺される。こうして政権内部の争いは終結 するが、それでも内乱はまだ30年も続くことになる。
 内乱が長期化したもっとも大きな理由は、秩序を維持する存在が欠落した局面で、もとの地頭や悪党、名主など、地方の武士たちが北朝と南朝の都合の良い方 に組することで、敵対する勢力を攻撃する大義名分を確保し、相手の所領を奪取しようと動いたことである。このため、衰退したとはいえ、南朝にも存在意義が 生じて命脈を保つことができたのである。このような地方の武士たちは(8)と呼ばれ、時には地域的に結束する(9)を組織して支配者にとっての一大脅威と なった。したがって、この(8)を抑えることが内乱終結のカギとなったのである。
 (8)対策として幕府によって各国に派遣されたのが(10)である。鎌倉時代の(10)は大犯三箇条を任務とし、御家人の統率にあたったが、室町時代の (10)は新たに(11,12)という権限を与えられ、抵抗する(8)を武力で抑えることが認められていた。また、(13)年には兵糧米として荘園公領年 貢の半分をとることを認める(14)が出されている。この法令は初めは1年限りで(15〜17)に限定されていたが、やがて全国化、永続化してゆき、年貢 米ではなく土地そのものを支配する権限へと拡大していった。ところで、(8)の反荘園闘争により、荘園領主たちは年貢の抑留に悩んでいたが、(10)は領 主に年貢の貢進を請負う代わりに現地管理権を認めさせる(18)の契約を結ぶようになる。これにより、一国の荘園公領は(10)によって支配されるものと なった。(10)は(8)に対し、その所領を安堵することを条件に家臣となって年貢を貢進するよう迫ることになる。(8)にとってみれば、所領安堵という 秩序が維持されれば戦いを続ける必要がなくなるのであり、この動きは歓迎されることになる。すべての(8)が(10)の家臣になれば内乱は終結に向かい、 (14)や(18)で封建領主化した(10)は(19)と称されるようになる。彼らは複数の国の領主として執政したため、自らは京都に住み、家臣を (20)に任命して各国を管理した。なお、公領については知行国主が有名無実化していたこともあり、(19)はこれを完全な私領として扱い、(21)と呼 ばれる土地税をかけた。

<解答>
(1)北畠顕家 (2)新田義貞 (3)北畠親房 (4)懐良親王 (5)執事 (6)高師直 (7)観応の擾乱 (8)国人 (9)国人一揆 (10) 守護 (11,12)刈田狼藉検断、使節遵行 (13)1352 (14)半済 (15〜17)尾張、美濃、近江 (18)守護請 (19)守護大名  (20)守護代 (21)守護段銭


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