8 社会的新陳代謝と守護領国制の形成
<元寇と御家人の窮乏>

[元寇]
A モンゴルの中国征服
   チンギス・ハンの版図拡大(アジア〜ヨーロッパの大帝国)

・モンゴル族は中国北方に住む遊牧民族。普段は羊の群を馬で追って生活しているが、必 要な物資に困ると、文化的先進地の中国に侵入してくる。ただし、組織的ではないため、大きな勢力にはならなかった。
1206年、モンゴル族のテムチンがチンギスハンと称してモンゴルの各部 族を統合する。騎馬軍団で大々的に侵入を開始する。馬に乗り付けており、一人一人が非常に強い。汗血馬の産地の人々であり、馬も大きいし足 が速い。
1220年ホラズム帝国滅亡。1227年西夏滅亡。1234年金滅亡。 1240年頃には東ヨーロッパ侵攻。1250年頃から東南アジア攻略。1258年アッバースカリフ王国滅亡。「国を滅ぼすこと40、人を殺 すこと数100万」。
・イスラムを倒したモンゴルを、ヨーロッパ人は伝説上のキリスト教国の王、プレスタージョンと考えた。1246年、ローマ法王は親善のためにモンゴルに使 いを送る。だんだん実態がわかり、「地獄の民」=タルタル人、タタール人と呼ぶ。

    →金の滅亡、高麗の服属、宋の攻撃

・12世紀半ば、宋は金に北を取られて江南に逃げていた。モンゴルが華北に入って金を滅ぼす。御成敗式目制定の頃。
・1231年、モンゴルは高麗に侵入。「20万6千の民を殺戮」。フビライに交替した頃の1259年、高麗はモンゴルの属国になる。
・この頃から侵略のスピードが鈍る。宋を攻撃するが、森林沼沢地帯の攻撃が苦手なので西アジア、ロシア方面に出かける。

    フ ビライの元建国(1271)

・チンキス・ハンの死後は版図が細切れになり、中国の部分はフビライが皇帝となる。国号を中国風に元とした。

     日本へ服属を要求、

・その前の1266年、フビライは日本を服属させるため、高麗に対して交渉の窓口にな るように要求した。11月28日、モンゴルの使者の黒的を高麗が案内する。朝鮮海峡まで来て海を渡るのが嫌になり、引き返す。フビライは怒り、高麗単独で 日本に使者を出させることにした。
・2度目の死者は1268年1月に大宰府到着。「大蒙古国の皇帝が日本国王に奉る」の書き出し。「徳を慕って多くの国がやって来るのに日本は来ない。知ら ないのではないか。一家のように好を通じたい。兵は使いたくない。後は察しろ」という文句。これは属国になれという要求とされる。1カ月後、幕府は返事を出さないことに 決めた。高麗使は返事ももらえず、拒否か受諾かわからないままで帰国せざるを得なかった。

Q1 元寇をヨーロッパに知らせたマルコ・ポーロは、フビライが日本を服属させようと 出兵した理由をどう説明しているか?。

A1 日本の黄金を奪うためと説明している。

・ヨーロッパでは、紀元前後から「大洋の東に黄金の国がある」という話が出ていた。9 世紀のアラビアでは、中国の東に無尽蔵の金の国があり、ワクワクという。犬の鎖も金で作り、金の煉瓦で城や宮殿を造る。鉄がなくて金よりも尊重。これが ヨーロッパに伝わり、15,6世紀まで期待されていた。ワクワクは倭国という説がある。
・東に進んで上陸しても、噂ほどではない。もっと東にあるに違いないと東に行くことになる。
・マルコポーロは1271年にベネチアを出発、中央アジアを経て1275年、内蒙古の上都でフビライに謁見。17年滞在し、1295年、海路でベネチアに 帰着している。
・「東方見聞録」の中には、「ジパングは中国の東。宮殿の屋根は全て黄金。死ぬと真珠を口の中に入れる。フビライはジパングの黄金を手に入れようと出兵し たが失敗した」とある。日本をヨーロッパに紹介した最初であるが、ジパングは日本の中国語発音「ジーペン」が訛ったもの。

Q2 Japanは国名だが、japanと書くと意味は何か?

A2 漆器である。日本は漆器が有名になり、日本産漆器を国名Japanで呼んだため、国名が単語になっている。

Q3 同様の例はないか?

A3 Chinaはchinaだと陶器になる。

・いずれにしても東洋のエキゾチックな品物は、その国がどういうところかわからずに物 だけを見るので、品物名と国名が一体化してゆく。日本語ではカステラがそれに当たる。カスティリア王国から来たお菓子である。

     宋の孤立化図る

・実際には金が目的ではない。雲南、チベット、アンナンを押さえて南宋包囲網を作ろう としたものとされる。

      but北条時宗の拒否

幕府 は18歳の時宗を執権にして蒙古来襲に備える。
・1268年11月、3回目の使者が来る。対馬で日本人をつかまえてモンゴルに連行。この2人を高麗に連れてゆき、これを伴った4回目の使者を立てる。こ れに対しても返書はなし。寺社に対しては「敵国降伏」を祈願し始めた。
・この頃、高麗ではモンゴルに抵抗するために三別抄という軍隊が設置される。1270年、都を江華島から開城に戻す命令を出したところ、三別抄が反乱を起こした。済州島に立てこもって抗戦するが、1273年 に滅ぼされる。三別抄の乱により、モンゴルの日本侵略時期が遅くなった。
・この間。女真人の超良弼が2度に渡って国書を持って来日するが、返書はもらえず。全部で6回送って無視されるのだからいよいよ怒ることになる。

       cf)異国警固番役の設置(九州御家人の軍役)

1272 年までに異国警固番役を設置。九州の御家人に大番役の代わりに命じた。実際には出動に一所懸命ではなく督促される状況。

B 元 の来寇
 1 文永の役(1274)
    3万の元・高麗連合軍の攻撃

・1274年1月、高麗に対して日本遠征のための造船を命じる。3万5千人の役夫を出 し、負担は高麗持ちとした。合計900艘を6月までに作れという無理な要求を押し付ける。
第一回遠征軍は元軍2万に高麗軍6000人で編制。出発前 に国王元宗が死んだため延期され、10月3日、合浦を発った。

    →対馬

・10月5日夜明け、対馬国府八幡宮に怪火の幻。午後、対馬の西に蒙古軍現れる。4時 頃、着岸。翌朝、1000人ばかりが下りてきて矢戦。迎え撃つ地頭・宗助国は80騎で全員討ち死に。対馬は蹂躙される。

     ・壱岐占領、

・10月14日夕方4時頃、蒙古軍は壱岐に着岸。400人が上陸。御家人100騎で防 戦するが、元軍の短弓の射程は200mあり日本の倍。壱岐も制圧される。

     博多湾上陸

・10月19日朝8時、蒙古軍900艘は博多湾に到着。日本側は1万程度で防戦。20 日早朝から蒙古軍2万が博多、箱崎方面に上陸。夕方まで合戦 となる。

      cf)集団戦法に一騎打ち戦が通用せず、

元の 集団戦法に対して日本の一騎打ち戦が通用しない。
・それまでの合戦の様子はのんびりしている。軍使を交換して日時と場所の打ち合わせ。現地では挨拶を交わし、代表者が陣頭で自己紹介「やあやあ遠からん者 は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ。我こそは・・・」。先祖の活躍から始まって今日の合戦の正義にかなう所以を説く。双方ともこれをおこなったあと、 鏑矢を射て合戦開始。
・最初は矢戦。45度の角度で遠矢を射る。有効射程は40〜100mなので、あまり損害は出ない。そのうち、馬に乗っていって接近して射るようになる。
・右で弓を絞るので自分の左に敵を置くのがよい。馬を左に左に回して戦う。
・矢は30本くらいしか背負っていない。これが終わると太刀打ち。すれ違いざまに切り下ろす。この間も「やあやあ我こそは・・・」と叫んで同じくらいの実 力者を探す。馬をぶつけて相手を落とし、組み合いをして小刀でしとめる。
・鏑矢を射たら蒙古軍に笑われる。一騎が出て自己紹介を始めると、すぐにその大将を取り囲んで生け捕り。至るところで勇者が自己紹介の途中でやられる。
・太鼓を叩き、銅鑼を鳴らして集団で迫る。鬨の声に驚いて日本の馬がはね回る。

      「てっはう」(火器)に苦戦

・短弓には毒矢をつがえている。他には「てつはう」。火縄に点火して飛ばすと空中で破裂するもの。後の鉄砲と は異なり、相手を驚かすものだったらしい。手投げか打ち出し かはわからない。この記憶が残っていて、ポルトガル伝来の銃も鉄砲と呼ばれるようになった。
・日暮れ時には疲れ果てて水城まで退き、夜になって蒙古軍は軍船に引き上げた。夜襲を警戒したものと言われるが、これが作戦ミス。

   but暴風で兵船沈没、退却

夜半 に大風雨が襲い、難破して溺死する者が続出する。その数1万3500人。夜が明けると残党狩りとなる。この風を「神風」と呼んだ。陸上では大した風ではなかったが、海は大波 になった。高麗に無理に作らせた突貫工事の粗悪船のため、沈んだとされる。

   役後、石塁構築→徹底抗戦

博多 湾に石築地の築造。高さ2m、幅3m。
・待てないモンゴルは杜世忠ら5人を使節として来日させ、服属を求める。時宗は鎌倉竜ノ口で斬る。

    cf)宋の滅亡(1279)

元は 南宋攻略を進め、1276年、臨安陥落。1279年滅亡。この翌日、フビライは江南4省に対して日本遠征の船600艘を作るように命じる。 高麗には900艘を割り当てる。
・6月に元使が来日。前の使節の音信は不通であり、これも博多で切り捨てられる。続いて使節が殺害されたニュースが届き、フビライは日本遠征を決断したと いう。
・この頃、高麗の忠烈王はフビライの娘をめとり、属国の地位に甘んじることで高麗の言い分を通そうという考え。宮廷の儀礼や用語もモンゴル風にしていてモ ンゴルの言いなり。また出兵を命じる。

 2 弘 安の役(1281)
    東路軍(蒙古・高麗)4万→対馬・壱岐占領 but博多湾に上陸不可

モン ゴル人、漢人、高麗人4万の東路軍は高麗の合浦から発進。南宋の降伏兵10万の江南軍が江南を発進して壱岐で合流し、日本に上陸する計画と した。日本側は商船の来航によってこの状況を知る。
・1281年1月、フビライは日本遠征を下命。5月3日、まず東路軍900艘が出発。21日に対馬上陸。東路軍は江南軍との合流を待たず、志賀島に上陸し ようとする。日本は夜襲をかけて敵の船に乗り込み、首を取る。

    江 南軍(宋)10万→東路軍と合流(平戸・五島)

・主力の江南軍は3500艘、10万で、6月18日頃に出発。6月末に五島列島に到 着。東路軍と合流して壱岐を攻撃。日本の御家人たち数万人が参加。この後、元軍は平戸、五島方面に展開。鷹島に移って博多湾侵入をもくろむ。7月を通じて 1カ月半も海に浮かんでいた。

    but大暴風で兵船沈没、退却

・閏7月1日、前日夜半から北西風が強まり、台風で元船が沈没する。高麗軍の生還者は半分。元軍は8割が溺れ死ぬ。敗残兵狩りをし て捕虜は首を刎ねる。蒙古塚。
・1281年6月、元軍再征が伝えられ、京都周辺の各寺社では最勝王経などを読ませた。閏7月1日、石清水八幡宮で叡尊が祈願。数珠も切れんばかりに祈っ たところ、社殿の幡が鳴ったという。これで神風が吹いたとされる。
日本は神国であり、神によって守られているという考えが登場す る。太平洋戦争の時も、神国日本と言われ、国民の結集が叫ばれた。
日本遠征をまた計画するが、1294年にフビライが死んで沙汰止みとな る。元とは国交がなかったが、民間の交易は続く。
・元は高麗や宋を使って日本遠征を試みたことで失敗。言うことを聞くはずがない。一説には、降伏した宋の兵隊を消耗するために日本遠征をしたともいう。

多大な戦費により御家人の窮乏進む

・1281年から功績のあった者の調査を始め、5年かかる。九州の御家人は無足の御家人への転落の危険が強かった。警固番役は続き、石塁構築の負 担もある。

 ∵恩賞は不充分(異国撃退=所領は増えない)

元寇 撃退では土地を獲得したわけではないので恩賞地が不足。九州に恩賞地を確保したい。
・1285年の霜月騒動の結果、滅んだ御家人の土地が恩賞地として出現。九州御家人に対して九州の地を、1286年から1307年にかけ、7回に分けて分 配。田の面積で10町、5町、3町の3ランクに分けて与える。土地を与えるというよりも、その土地の地頭職を与えるので、10町について1町の免田と反別 5升の加徴米であり、取り分は少ない。
・九州御家人は不満だが、幕府としては関東御領も削って捻出しており、出きる限りのことをしたと言える。

  異国警固番役の継続 cf)鎮西探題設置(1293)

・元軍の再来の恐れがあり、九州の御家人の統括が大切となった。鎮西奉行の権限は大きくなかったため、幕府の出張所を作って訴訟を解決しようとした。 これが鎮西探題で、北条一門によって運営される。
・長門にも異国来襲を防ぐために警固役が置かれていたため、長門と周防の守護に北条一門を派遣し、後には長門探題と呼んだ。

[御家人 の窮乏]
A 貨幣経済の進行で没落
   分割相続による所領の細分化

・御家人は惣領制を維持するため、土地は子供たちで分割相続をしていた。

Q4 この相続形態が続くと最後はどうなる?

A4 土地が細分化されて共倒れになる。

Q5 生活に困った武士はどうするのか?。

A5 借金で生活する。

・地頭は遠隔地の所領の代官として、僧や借上を雇う。僧は祠堂銭で金貸しをおこない、 借上は高利貸し業者。金勘定に長けているので年貢徴収は得意だった。

   →借上からの借金 

・生活に困ったとき、地頭は代官の借上から金を借り、次の加徴米などで返済しようとす る。

Q6 借金が返せないとどうなるのか?。

A6 返済できなければ土地を売ってしまう。

   but返済できず所領の質流れ、売却おこなう

・新恩給与された土地は売却できないものだったが、本領はよかった。したがって、本領 の名目で御恩の地も売られていった。1240年、御家人以外の者に私領を売ってはいけないことになった。このため、今度は質入れ、質流れの形で土地が流れ た。
・1267年、質入れも禁止される。しかし、20年経っているものはどうするかなど、例外規定をいろいろと決めているうちに徹底できなくなって撤廃され た。

Q7 所領を持たない無足の御家人が発生すると、幕府は困ることになる。どうしてか?

A7 御家人に奉公させるためには、生活が安定していないとダメ。その基盤が所領だった。所領を失えば御家人は没落するし、主従関係の仲立ちとなる所領がないので奉公する義務 もなくなる。

    cf)「無足の御家人」の発生

B 惣領制の解体
   分割相続

・惣領の言うことを庶子に徹底するためには土地を仲立ちとした主従関係を作ることにな る。このため分割相続をおこなっていった。しかし、長年土地を分割して相続していったことで、所領が細分化されていった。このままでは共倒れになる。

Q8 これを防ぐにはどうしたらよいか?。そうするとどういう変化が起きるか?

A8 惣領に単独で相続させるしかない。そのため、庶子は惣領に恩義を感じなくなり、言うことを聞かなくなる。幕府−惣領−庶子という命令指揮系統が崩れることになる。惣領を通じた庶子の統制が不 可能になるのである。

    →単独相続 ∴庶子家が惣領家を離れる

御恩と奉公による幕府の体制が崩壊
  ∵所領なければ奉公もできず

C 永 仁の徳政令(1297)

・1297年、貞時独裁体制のもとで出される。3カ条。

   売却、質流れした御家人領の無償取り戻し許可

御家 人が手放した土地を取り戻せるという内容。実際には所領関係の越訴の禁止という形で出ている。
・土地を手放した御家人が腕づくでそれを取り戻した場合、取られた者は幕府に訴え出ることになる。それまではきちんとした契約に基づいて土地が移動してい るならば、幕府は御家人に対して土地を戻させることになった。
・質流れ地と売却地について、上告をすることを一切禁止した。これで、以前に売却した御家人所領を腕づくで奪い返しても訴えられることはないため、無償で 取り戻せることになる。

    cf)非御家人、凡下(庶民)の取得分は無条件

永仁 の徳政令には条件がある。相手が御家人の場合、年紀の法が適用され、売却して20年以上たったものは取り戻せない。相手が非御家人と凡下の場合はそれ以前 でも可能だった。

    →一時的に御家人領回復

・永仁の徳政令は、初めは「関東御徳政」と言われた。

Q9 こんな法令が出ると、どんなことが起きると予想されるか?。

A9 弱い者の土地を難癖を付けて横領しても、幕府に訴えることができない。これで悪党と呼ばれる連中が出現することになる。土地を担保に取って金を貸し ても踏み倒されることになるため、高利貸業者は金を貸さなくなってゆく。

  but御家人への金融停止で窮乏=撤廃(1298)

所領 の入質ができなくなって御家人はかえって生活に困ることになった。所領入質は生活困窮によるものなので、根本が解決しないとダメなのであ る。
翌年、それまでの実施はそのままとして、以後は入質や越訴を認める。高 利貸業者は、次に徳政令が出ることを恐れ、金を貸すときは徳政が出ても適用させないという一文を取ることにした。

Q10 「皮肉な結果の徳政令」と言われる。結果は見えていたのに幕府がこれを出した 理由について、東国政権であったことに着目して考えるとどんなことが言えるのか?。

A10 徳政令は金融という貨幣経済の流れを押しとどめようとするものである。荘園の産物は領主のいる京都に集まり、ここでさばかれてゆく。したがって、 西国では貨幣は必須のものとなっていた。東国政権の幕府は、西国における貨幣経済の進展ぶりに気がつかなかったため、安直に徳政令を出したと言える。

※幕府への忠誠心薄らぐ

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