<鎌倉文化>
【宗教史】
仏教の革新
末法思想・旧仏教の腐敗・戦乱・天災→新たな救いの必要 ex)僧兵
・武士の宗教的欲求は強かった。人殺しが商売であり、明日は死ぬかも知れない毎日。
・平重衡は南都焼き討ちをおこなう。一ノ谷の戦いで生け捕りにされて死罪が決まる。その前に法然に会う。「どんな者でも極楽にゆけるのか」「阿弥陀仏を信
じて念仏を唱えれば行ける」→鎌倉に送られ、南都に引き渡される。阿弥陀仏の前で念仏を唱えて打ち首にされる。
・熊谷直実=一ノ谷の戦いで平敦盛を殺す。平氏の若武者と見て呼び止め、組み伏して首を打とうとしたところ、まだ16歳。自分にも同じ年の子供がいる。
「早く討て」と言われて首を取るが、人殺しが仕事の武士が嫌になる。世を恨んで法然の弟子になる。
・常に死の危機と接し、殺人をする武士は宗教的欲求が強い。しかし、従来の
仏教は難解。文字も知らない者にも理解できる教えが必要になってきた。
A 浄
土教系
阿弥陀仏の信仰=念仏(南無阿弥陀仏)により極楽往生
(1)法然(浄土宗)
・1133年生まれ。岡山の武士の子。9歳の時に目の前で父が殺される。敵討ちをしよ
うとする法然に対し、父は出家を遺言する。
・13歳で延暦寺に入って修行。「知恵第一」。従来の仏教では全ての人は救
われない。今までの浄土教は貴族のものであり、死ぬ前に阿弥陀堂を作れる人間でなければ救われない。
・43歳で「観無量寿経」を読んで悟る。
・救われるためには自力と他力がある。弱い人間は自力は無理。他力は阿弥陀
仏にすがることだが、方法としては造寺、造仏、布施、念仏がある。最も簡単なのは念仏である。
「選択本願念仏集」=専修念仏が造寺造仏より大切
but旧仏教より批判、流罪
・念仏は何回唱えれば救われるのかという問題が出てくる。一念義と他念義の論争が起きる。阿弥陀は全ての人を救うという誓い(阿
弥陀の本願)を立てたのだから、本当に救ってほしいと思って唱えれば一回でよいというのが一念義である。しかし、念仏を唱えれば救われるので、あとは悪事をはたらいてもよいと曲解された。
・法然どちらがよいかは示さなかったが、彼自身は日に6万回の念仏を唱えた。多
念義の立場だったといってよい。
Q1 6万回唱えるとすればどれだけの時間がかかるか?
A1 1秒で1回、1分で60回唱えても1時間では3600回。6万回だと16〜17時間かかる。易行といってもたいへん。
|
・1204年、比叡山の宗徒が朝廷に専修念仏禁止を要請。興福寺からも出される。他力、易行が流行すれば、旧仏教は大打撃を受ける。
・1207年、法然は讃岐に流罪となる。1211年に帰京するが、翌年、80歳で死
亡。
(2)親
鸞(浄土真宗)
・1173年生まれ。没落してゆく中級貴族、日野氏の出身。9歳で出家して延暦寺に登
る。以仁王挙兵の年。
・20年間を比叡山で過ごし、29歳で法然の弟子となる。自力では救われない弱い身だから念仏を唱える。どうせ地獄に堕ちる身なのだから、法然に騙されて
元もと。
・強く救いを求めたときの念仏が大切として一念義の立場だっ
た。「本願誇り」はまずい。「解毒剤があるから自分は死なないとわかっていても、わざわざ毒薬は飲まない」といってたしなめる。
・法然の事件に連座して7年間、越後に流される。愚禿として
非僧非俗の立場をとった。生活を助けてくれた恵信尼を妻とする。その後、関東で20年間、民衆布教をおこなう。ここで「教行信証」をまとめる。京都に戻っ
て90歳で没。
「教
行信証」「歎異抄」(唯円)
=ひたすら阿弥陀の本願を信じて念仏(絶対他力)
作善できぬ人間こそ救われる(悪人正機)
・親鸞は一念義である。「歎異抄」は、親鸞の教えを曲解して悪事をはたらく者が出てき
たため、それをたしなめるために弟子の唯円が著した。
・「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」。善人でさ
え極楽に行けるのだから悪人が行けないはずはない。
Q2 矛盾していないか?
A2 善人は自分はこんなによいことをしているのだから極楽に行けると信じ込み、阿弥陀にすがる気持ちが少ない。悪人とは殺生を仕事とする武士や漁師など
だ
が、生きるために仕方なくしていること。こんな自分を極楽に導いてくれるのは阿弥陀しかいないと考えているので、阿弥陀にすがる気持ちが強く、結果として
極楽に導かれる。
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・一宗独立の考えはなかった。真の浄土教の意味で真宗を唱えたが、浄土宗の流れと考え
ていた。実際には大きく異なる。
・末娘の子孫が大谷廟を管理し、教団を作ってゆく。
(3)一
遍(時宗)
・一遍は1239年生まれ。源平の合戦から時期が経っており、幕府政治の安定期に活躍
する。法然、親鸞のラインとは別に浄土教から時宗をたてる。時
宗は臨命終時宗の意で、日常の一念が臨終の時であると考えて常に念仏を唱える。
・伊予の豪族、河野氏の子。浄土教を学ぶ。善光寺、高野山、熊野などをまわって他力念仏の確信を得る。
・人間は生まれながらにして救いが約束されている。死ねば誰でも極楽にゆけ
るため、念仏を唱えなければ救われないわけではない。救われる喜びを表すのが念仏であり、身体が動き始めて踊り出すことになる。これが踊念仏。
諸国を遊行して踊念仏で布教
・勧進帳と念仏札を持って死ぬまで全国を行脚し、250万人に結縁。熊野や伊勢を信じ
ている者を信者に引き込んでゆく。
・踊念仏は一種の興業であり、宗教的興奮をもたらして布教する。踊
り狂うことで阿弥陀仏と一体になれるとする。
・一遍は死に際して著書を焼き捨てたため、絵伝によって行いが伝わる。
・時宗は一向宗ともいった。遊行して布教する托鉢僧たちで、戦死者の弔いなどもおこなう。一方では一向宗に隠れて悪事をはたらくものも出るため、幕府は禁
止の方向を出す。
B 法
華宗(日蓮宗)
・日蓮
・1222年生まれ。漁師の子。12歳で清澄寺に入って天台宗を学んだあと、鎌倉、比
叡山、奈良、高野山などで修行。32歳で安房に戻って日蓮宗を開く。
法
華経の信仰=題目(南無妙法蓮華経)により救
われる
「立正安国論」=法華経を正法として他宗を批判
・他宗を批判して法華経の信仰を迫ったため迫害を受ける。
・「立正安国論」で法華経を信じないと国難が来ると予言。国
民全員が題目を唱えることで、日本は仏の国土となるとした。
・「真言亡国、念仏無間、禅天魔、律国賊」。幕府を批判したために伊豆や佐
渡に流される。
・元寇があったために信仰的確信を深め、身延山に隠退。
※救われる方法として容易に実行できるもの(易行)を一つだけ選び(選択)、それに専念(専修)する。
→仏教を庶民に開放、農民、下級武士層の信仰
C 禅
宗
座禅の修行により悟りを開く(自力本願)
(1)栄西(臨済宗)
・1141年生まれ。1168年に入宋。天台宗を学ぶために禅を知って帰朝した。天台
復興のためには禅が必要と考えてもう一度宋に行く。インドに行こうとしたが失敗。臨済禅を学んで帰る。
「興禅護国論」、建仁寺建立、
公案の重視、幕府・貴族の帰依
・1199年、幕府の帰依を受け、頼家の協力で1202年に建仁寺を建てる。京都では旧仏教の批判を受け、鎌倉の方が布教がしやす
かった。
・天台のための禅であるため旧仏教とは妥協。賄賂を送って大師になろうとしたとして藤原定家や慈円の批判を受ける。
・座禅と並んで公案を重視する。
(2)道元(曹洞宗)
・1200年生まれ。13歳で延暦寺に入る。禅にひかれて建仁寺に入り、栄西に学ぶ。
1223年入宋。
・禅を習うにふさわしい僧を探すが見つからない。町に修行を積んだような老僧が来たので話しかける。「何をしに来られたのか」「仏に供えるため、シイタケ
を買いに来た」「いつ来られたのか」「昼食後すぐに出てきた」「ずいぶん遠くから来られたのか」「20キロ」「いつ帰られるのか」「すぐ」「いろいろと話
をお聞きしたい。今日はおもてなしをするのでとどまって欲しい」「帰る」「あなたのような方がどうしてシイタケなどを買いに来たのか。他の若い僧に任せれ
ばよいのではないですか」「これは私の修道である」「シイタケを買いに来るのがどうして修行なのか。あなたは公案や語録を見ないのか」「あなたは弁道や文
字が何かをわかっていない」。
・何もわかってないと言われて道元はショックを受け、たくさん本を読み始める。別の僧から聞かれる。「本をたくさん読んでいるようですね」「昔の人の修行
を知るために読んでいます」「そんなことを知ってどうするのですか」「人に教えを説こうかと思って・・・」「そんなことをしてどうするのですか」「人の役
に立つかと思って・・・」「そんなことをしてどうするのですか」。
・道元は何のために修行するのかがわからなくなる。そして、何かのために修行をすることは意味がないことを知る。修行は手段ではなく、修行が目的であるべき。禅の修行は座禅と作務。
・道元が見抜いたことは我々の日常生活にも当てはまることである。「何のために勉強するのか」「大学にはいるため」「入ってどうするのか」「いいところに
就職する」「就職してどうするのか」「人の役に立つ仕事がしたくて」「そんなことをしてどうするのか」・・・。勉強は手段でなく目的であるべき。
・帰国後、幕府要人に招かれるが拒否。1243年に越前の波多野氏に迎えられて永平寺を建て、座禅三昧に明け暮れた。永平寺では朝3時〜夜11時まで
座禅をひたすらにおこなう。寝たら靴で殴られる。そのうちに三昧の境地になる。
・現在の永平寺では、朝3時半に起床し、桶一杯だけの水で洗面。その後に座禅、お勤め、朝食となる。中身は粥と漬け物、ごま塩のみ。終わると掃除。昼飯は
麦飯と汁、漬け物。その後に作務、お勤め、夕食、座禅をして寝る。四と九の日は休みで、座禅と作務はない。風呂に入れるのはこの時だけ。
・浄土教では、死に際して幻覚を誘導して安らかに死ぬことを目的とした。臨死の状況のもとでは、脳への血流低下により、αサイコエンドシンという物質が作
られ、幻覚を見る。LSDなどの麻薬でも同じ物質が作られ、臨死の際は、一種の心の平安がもたらされる。
・禅では、座禅を突きつめておこなうことにより、生きながらに臨死の際の脳の状態を作り出している。
「正法眼蔵」、永平寺建立、只管打坐、座禅の修行に専心
※武士に受容され発展、幕府の保護
cf)蘭渓道隆(建長寺)、無学祖元(円覚寺)の来日
・蘭渓
道隆=1246年、来日。時頼に招かれて建長寺を開山し
た。
・無学祖元=1279年、時宗の招きで来日。建長寺に入り、
後に円覚寺を開山した。
D 旧仏教
新仏教に対抗して革新、戒律の重視
ex)貞慶(法相宗)、
・貞慶=
興福寺に入るが衆徒の堕落を嘆いて笠置山に入る。海山住寺に移って戒律の重
視を唱え、法然の浄土宗を批判。
高弁(華厳宗、高山寺)、
・明恵
(高弁)=16歳で東大寺で受戒。1206年、後鳥羽上皇から栂尾山をもらい、高山寺を開き、華厳宗の中興の祖とされる。戒律を重んじ、念仏僧の進出
に対抗して顕密諸宗の復興に努力。栄西が持参した茶を栽培した。
叡尊、忍性(律宗・社会事業)
・叡尊=西大寺中興の祖。律宗の僧。1262年には時頼によって鎌倉にも招かれ
る。戒律によって下層民を救済しようとし、6万人に受戒させる。非人の救済、架橋などの社会事業も実施。非人は文殊菩薩の化身であるとして救済に努めた。
・忍性=叡尊の弟子。鎌倉で戒律を広め、時頼らの帰依を受け
る。貧民救済、架橋などの他、悲田院、施薬院を各地に建てた。北山十八軒戸
を建ててハンセン病患者を収容。日蓮は忍性を「律国賊」として対決を迫った。
神道・修験道
伊勢神道(度会家行)
・伊勢
神道=律令時代、伊勢神宮は皇祖神として一般の参詣は禁止。しかし、保護がなくなったために一般も引き受けることにした。外宮の度会氏が内
宮の下だった外宮の地位を高めようとした。外宮は内宮に食物を供える神なので、ここから農業の神として信仰されるようになった。南北朝の時期に度会家行が大成し
た。
・御師を派遣して参宮を促す。関東では「死に伊勢参り」の言
葉が伝わり、最近まで一生に一度は伊勢に参るものとされていた。御師は宣伝マンであり、お札を買ってもらうと薬や針、暦な景品につけて布教した。参詣に来
てくれる人には自分の家を宿舎として開放する。江戸時代に至るまで、庶民の
伊勢信仰は盛り上がってゆく。
反本
地垂迹説(神=主、仏=従の神仏習合説)←→本地垂迹説
Q3 どうして神を仏の上に立てる考えが出てきたのか。
A3 反本地垂迹説=元寇の時に神風が吹いたため、仏教よりも神道の地位が高まる。神は日本だけのもの。
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【建築・美術史】
建築=新様式の伝来(南都再建)
大仏様(天竺様)ex)東大寺南大門(重源)
・重源
は後白河法皇から東大寺再建を命じられ、勧進に諸国を歩く。頼朝が大スポンサーとなった。大仏様は重源が中国南方の様式に創意を加えて作っ
たもの。太い円柱をそのまま高く立て、天井を張らない構造。大建築向き。高さ26m、幅29m。
禅
宗様(唐様)ex)円覚寺舎利殿
・宋から取り入れた禅宗寺院の建築。軒反りの強い屋根に特徴。15世紀前半の再建であ
るが、禅宗様の代表とされてきた。
・多治見には同様の禅宗様建築として永保寺観音堂がある。夢窓疎石が建てたもの。
cf)和様=三十三間堂
・平安時代以来の日本建築。柱の間が33あることからこう言う。湛慶らの手になる
1000体の千手観音が納められている。幅は100m以上。ここで通し矢がおこなわれる。
・この他に折衷様がある。大仏様の木鼻、禅宗様の肘木に曲線
を用いる手法を和様に持ち込んだ。
彫刻=写実的
仏像(慶派=運慶、快慶、湛慶)ex)東大寺南大門仁王像
・鎌倉彫刻は日本彫刻の総決算。慶派は奈良仏師で、東大寺や興福寺の再建に力を割いた。
・東大寺南大門金剛力士像=1203年7月24日〜10月3日の短期間で完成。3000個の部品を組み立てて作る。精密な設計図とそれに忠実な職人集団が
必要。高さは8m40cm、重さ7トン。
肖像 ex)無著・世親像、空也上人像
絵画
絵巻物 ex)北野天神縁起、一遍上人絵伝、蒙古襲来絵詞
似絵(藤原隆信、信実)ex)源頼朝像
・大和絵の技法で写実的に描いたもの。肖像画であっても実物そのものではなく、尊崇の
対象として描いている。
cf)頂相
・頂相
は弟子が一人前になったとき、師が自分の肖像画に自賛を書き、弟子に与えたもの。
cf)書道=青蓮院流
・青蓮院は天台宗の寺で皇族が入る。尊円法親王が世尊寺流の書風に上代様、宋風を加味
して独自の書風を作り、青蓮院流と呼んだ。和流の書道の本流とされた。江戸時代に広まる御家流はこの末流。
刀剣=粟田口吉光、岡崎正宗、長船長光
・粟田口吉光は京都の刀工。その作は「藤四郎」と呼ばれる。
・岡崎正宗は鎌倉の御用刀工。室町から江戸時代にかけて名刀として尊重された。
・長船長光は備前の刀工。
甲冑=明珍
・甲冑と鍔作りの職人。初代が京都九条に住み、近衛天皇から明珍の名をもらったもの。17代目が中興の祖。
陶器=加藤景正(瀬戸焼)
・加藤景正は瀬戸に住み、宋風の陶器を焼いた。磁器は焼けないので釉薬でごまかした。
【文学史】
和歌=「新古今和歌集」(後鳥羽上皇勅撰)、「山家集」(西行)、「金槐和歌集」(源実朝)
説話=「宇治拾遺物語」「沙石集」
紀行=「十六夜日記」(阿仏尼)
随筆=「方丈記」「徒然草」
軍記物=「平家物語」cf)琵琶法師
歴史学=「愚管抄」(慈円、道理による)
・慈円は九条兼実の弟。1192年に天台座主になり、後には大僧正になった。「愚管抄」は三大史論の一つ。道理の理念で歴史を説明する。承久の乱を
起こそうとする後鳥羽上皇を諫める目的で記す。現状は公家にとってみれば末法だが、歴史は道理に基づいて動いているのであり、仕方ない。
・平氏滅亡の際、草薙の剱は水没してしまった。残り2つは天皇家に返ってきたが、剱が失われたということは、天皇家に武力がなくなったことを意味する。武
士が台頭するのは歴史の流れであると説明。
「吾妻鏡」(幕府編集)
・52巻。1180年から1266年にかけて編年体で記したもの。編者不明であるが幕
府の家臣らしい。
有職故実(朝廷儀式、先例の研究)
・官位昇進の順序、行事の先例などを研究するもの。先例をよく知る者を有識者と呼ぶ
が、有職と有識は同じ。没落する公家勢力は、先例を重んじてもったいぶることが権威を維持することになってゆく。
朱子学の伝来
cf)金沢文庫(北条実時の図書館)
・金沢
文庫は北条実時の私設図書館で、公職を去った後は金沢の別荘で書写をおこなって蔵書を増やしていった。一族や僧俗に貸し出される。幕府滅亡
で衰微し、蔵書も流出したが、現在でも2万冊が残されている。
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