<荘園経済の発展>
[鎌倉期の荘園の構造]
A 地頭の荘園経営
Q1 荘園は基本的に田である。開かれるのはどういう場所か。

A1 川のそばである。しかし、大河川流域にはあまり開かれていない。水害を抑えつつ、大きな川を利用するだけの土木技術がなかった。それができるのは戦 国時代からである。それまでの耕地は小さな川の流域や小高いところが多かった。

・名古屋市域で有名なのは北区の庄内川沿いの安食荘と中川区の庄内川沿いの富田荘。
・富田荘は名古屋市中川区富田町の荘園で、11世紀後半、藤原忠実(関白)が荘園領主になっていた。下司には平秀政が任命されていたが、秀政が開発領主で 寄進したものか、もともと忠実のものだったかはわからない。
・源平の合戦により、平家の現地管理権を没収し、北条義時が地頭となった(新恩給与)。義時は地頭代を派遣して地頭の仕事を代行させる。その後、北条氏が 地頭を代々務めていた。時宗の時に円覚寺に地頭職を寄進し、円覚寺が地頭代を派遣した。このため、円覚寺に絵図が伝わっている。
・3本描かれた川の東で蛇行しているのが庄内川、真ん中は戸田川、西は蟹江川。国道1号線から南は海。

Q2 今につながる地名が多い。いくつ確認できるか。

A2 富永、今、福島、かの里、伊福、服部、千音寺、江松、春田、蟹江、長須賀、榎津、助光、新家、富田の15箇所を確認。ここから地名は歴史資料だとい うことがわかる。

   (直 営地)=収穫は全て地頭分→下人・所従が耕作

佃は 地頭の直轄地である。一番よい場所をとり、地頭の屋敷がある。堀内、門田、正作などと呼ばれるところで地名としても残る。下人に耕作させて 1〜2町。
・富田荘では、秀時という場所ではないか?

   荘 園 免田=荘園領主への租税免除→〃
      名田=名主が請作、加徴米(小作料)徴収(地頭 分)

免田 は無税地で地頭が自由に使える。佃と同じだが、地頭の私有地ではなく荘園。
名田は名主に分担して耕作をさせる。

    →年貢徴収=荘園領主へ納付

B 名主の名田経営
   名主(有力農民)=水利権、山野、進歩的農業技術を持 つ

名主 は灌漑施設や山野に対して権利を持ち、優秀な農具や農耕用の牛馬を持つ。

            作人(半自立農民)に請作させ、加地子徴収

名主 は土地を一般農民の作人に貸し出して耕させる。作人は名主の指導がないと農業ができないが、これが当時の農民の一般的姿だった。

    cf)一部は直接経営(下人・所従(隷属民)に耕作させる)

・富田荘を例にとって見ると、数百町歩にわたる土地を16人の名主に分担して農業を請 け負わせたようである。絵図には199の家が描かれ、小さな167軒は作人のものか。

   =領主への負担
     年貢(収穫の30〜50%、米絹→代銭納)、夫役(労働、無制限)、公事(生産物)

・富田荘の場合は年貢は絹で納めていた。13世紀半ばには銭で納める。
・富田荘をモデルに地頭の荘園経営を見てみると・・・16人の名主がいるため、それぞれ10町を持ち、10人ずつの作人を抱えていたと仮定する。面積は 160町。作人は合計で160人になる。
・収穫される米は1600石。このうち半分は作人が取って食べてしまう。合計800石(1戸あたり5石として5×160=800)。
・作人取り分以外は加地子として名主のところに運ばれる。合計800石。
・年貢率を30%とすると、480石が年貢で荘園領主に送られる。
・160町に反別5升の加徴米を出せば80石になる。加徴米として地頭の手に渡る。残りは240石で、名主16人で割れば1戸あたり15石の取り分とな る。
・年貢と地頭得分の関係は、互いの力関係で決まる。地頭は百姓を威したり手なずけたりしながら、得分拡大を目指す。

[荘園経済の発展]
A 荘園内の産業
 1 農業
    畿内先進地=二毛作(麦裏作)、

・先進地では二毛作が始まる。

Q3 二毛作とは何か。何を作るのか。どうしたらできるのか。

A3 稲の収穫後、空いている田で麦を作る。水田の乾田化、施肥によって可能になる。田を冬の間使わないのであれば、上流から養分を含んだ水が流れてきて ある程度は地力が回復する。しかし、畑作で使ってしまえば肥料を追加してやらないとだめである。裏作には税がかからないのが普通だったので、食糧増産のた めに普及してゆく。

Q4 肥料としてはどういうものをやるのか。

A4 速効性なら下肥。人糞を草や木の葉、藁などと混ぜ、十分に腐らせて追肥でやる。畑に撒くにはよい。田のものは遅効性がよい。植物性のものをゆっくり 腐らせる。

     肥料(刈敷、草木灰)、牛馬耕

・平安時代には下肥を入れることは田の神に対する冒涜だった。鎌倉時代に初めて登場し ている。

    東国=開墾

 2 手工業
    荘園領主への貢納のため発達
     ex)楮、藍、荏胡麻、鍛冶、鋳物、陶器

・田は名主の管理下なので、貧しい農民は畑作に力を入れる。楮、藍、荏胡麻などの畑作 物は商品作物であり、加工原料となった。

Q5 楮は何の原料か?

A5 和紙である。楮の木を切って煮る。これでドロドロになったものを梳フネに入れて梳とって乾燥させると和紙になる。

・日本の和紙は優秀で、1000年以上前の正倉院文書が残されている。明治以降にパル プで作った洋紙は酸化しやすく、明治時代の本は触るとぼろぼろと崩れてゆく。

Q6 荏胡麻は食用ではない。何にしたのか?

A6 搾って油をとった。灯油にしたのである。

・日本の明かりの歴史を見ると、最初は松明である。屋内では松のアカシに灯を灯して明 かりとしていた。煙がすごい。清少納言たちはこの煙のため、鼻の穴は真っ黒だったはずである。
・荏胡麻の油ができたことで煙が出なくなった。灯明皿に入れて灯心を垂らす。しかし、荏胡麻は高価であったため、一般庶民が使えるようなものではなかっ た。

Q7 鋳物とは何か?

A7 鉄を溶かして鋳型に入れ、鐘、鍋や釜を作ったもの。調理用具に鋳物を用いるようになったことで耐久性がぐんと増す。

Q8 鍋と釜の用途の違いは何か。この時代には釜はあまり作られず、もっぱら鍋が作ら れている。それはなぜか?

A7 一般には煮もの用とご飯の炊飯用である。釜は大きく重い蓋があり、鍋の蓋は軽い。しかし、釜があまりないことから、鍋で米を炊いていたことになる。

Q9 米の炊き方はどういうものか?

A9 現在は炊干し法といって、水加減をして蓋をし、炊きあがりの段階で水がなくなるようにしている。この場合、炊いている最中にご飯の粘りが湯に溶け出 す が、これがすべて炊き干されるため、粘りはご飯の中に戻ってゆく。粘り気のあるご飯はこうして出来上がる。釜を用いればこの炊き方ができる。

・これに対し、湯取り法という炊き方があり、たっぷりの水でご飯を炊き、そのままだと 粥になってしまうため、途中で重湯を捨ててゆく。こうして炊くと粘りのないご飯に炊きあがる。

Q10 湯取り法の炊き方は釜にふさわしいのか鍋にふさわしいのか?

A10 すぐに蓋の取れる鍋である。湯取りの場合は米を炊きながら、途中で雑穀や大根などを入れて調理する。米の絶対量が少ないのでかさ増やしをするので ある。 炊き込みご飯のように最初からこれらを入れると崩れてしまったりするので、途中で追加してゆかなければならない。湯取りをしながら他の具を入れるには鍋が よい。

・釜が普及するのは室町時代くらいになり、米の生産量が増してからである。もっとも、 山村などでは昭和の初めまで鍋で飯を炊いていた。

Q11 土器と陶器、磁器の違いは何か。

A11 土器は釉薬がかかっていない素焼きのもの。植木鉢みたいなもので、水が漏れてゆく。陶器は土器に釉薬がかかり、水漏れしない。磁器はカオリンとい うガラス質のものを混ぜて高温で焼くので薄く軽く焼ける。

・陶器は常滑の大甕などが取り引きされる。一遍上人絵伝に登場する甕は備前焼。
・磁器は日本ではできなかった。瀬戸物は宋の陶磁器をモデルとして釉薬をかけた陶器であり、一見すると磁器のように見えるがまがい物だった。
・日本で磁器が焼けるようになるのは、秀吉が朝鮮侵略をして陶工を連行してきてからである。

  →定期市で取引 ex)三斎市

Q12 三斎市の「斎」は何を意味するのか? そこから、市にはどういう意味があった と思われるか?

A12 斎院、斎王、斎宮などの意味と通じる。「いつき」であって神を祀ることである。

・市での交易は神聖な行為である。三斎市は本来は縁日に開かれたものであるので、市神を祀ったところで開 かれる。神に仕えるのは女性が多かったので、市に立つのも女性だった。
・市が開かれている以外の日は閑散。
・富田荘絵図の右上の萱津宿は鎌倉街道の宿場。ここで月に3度の市が開かれていた。萱津市の賑わいは1242年が初出。

Q13 萱津のそばの大きな寺院も市に関わっている。何か?

A13 甚目寺である。ここには一遍も来て踊り念仏をおこなっている。

・市は地頭の館近くで開設すると便利がよい。。余剰生産物と地頭が取り立てた年貢を他 のものと交換する場所となる。商取引をして儲けようとする者が仮設の小屋を建て、後に市場在家として定住し、これが商人に成長してゆく。

B 都市の産業
   地方貢納物の集中で発展
 1 商業

Q13 店ができてゆく。「店」の語源は何か?

A13 見せ棚が語源。棚の上に商品を並べ、見せる場所なのである。常設の店舗の登場。

    見せ棚の開設
    座の結成(商工業者組合)

座は 同業組合である。本来は市座で市で座る場所を意味した。
・寺社の縁日であれば、寺社にお金を納めて座らせてもらって商いをする。現在も露天商はお金を出して場割りをしてもらっている。これが商工業者の組合の意 味に転化した。
・荘園領主のところには公事が集まる。それを素材にして製品を作る業者が必要。特定業者に素材を渡して独占的に作らせ、見返りとして納税させる。

     =貴族・社寺を本所として製造・販売の特権獲得
    問丸(商品の輸送・保管・販売)

・平安末期に淀、木津、桂に設置。年貢が集まる場所なので、倉庫を建てて管理。船舶を 準備して運搬もおこなう。
・鎌倉時代には鳥羽、大津、坂本、敦賀に拡大。

 2 金融業
    宋銭の流入日宋貿易による(輸入:宋銭、輸出:金、硫黄)

平安 末からの日宋貿易で宋銭が流入。1242年、西園寺公経の貿易船は10万貫の銭をもたらしている。北宋160年間に日本に入ってきた銭は2 億貫という。人口が1000万人として、一人当たり2万枚=20貫。室町時代には米1石が1000文=1貫だったので、約100万円ということになる。

    為替(貨幣を使用しない代金決済)

・為替、替銭、替米。手形を割符。

    借 上(高利貸)

・「かりあげ」ともいう。身分の高いものが低いものから借りたことによる。高利・無担 保。初めは米を貸していたが後に金銭。

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