<執権政治の
展開>
[執権政治の確立]
頼朝以来の有力者の死(義時、政子、大江広元)
→執権・泰時
・義時は頼朝と並ぶ大政治家だった。1224年、62歳で急死した。「吾妻鏡」の死因
は心臓麻痺。自分の子を後継者につけたかった後妻によって、毒殺されたという説もある。泰時が京都から戻ると後妻が三浦義村と結んで執権になることを阻止
したが、政子が義村を説得して泰時を執権につけた。
・1225年、大江広元死。政子も69歳で死ぬ。
A 北条泰時の政治
・泰時は万事が控え目の人。低姿勢で臨むことで事態を切り抜けるタイプ。
・遺領を弟妹に多く与えようとした。政子が反対すると「自分は執権の身だから」といって辞退した。「謙譲の美徳」。執権が音頭をとるのではなく、集団指導体制を目指した。
集団の力による指導への転換
1 連
署の設置
執権の補佐(時房を任命)、公文書に連判
・泰時は叔
父の時房を京都から呼び戻し、両執権の体制にする=連署。
2 評
定衆の設置
有力御家人10余名、政策決定、裁判の裁決
・三浦
義村ら11人の評定衆を選んで政所に出仕させ、政策の決定と裁判の裁決に当たらせる。政所執事、問注所執事はいずれも評定衆と兼務。2人の
執権と合わせて評定会議を開いた。
・裁判は幕府支配下のものだけを受け付ける。朝廷の支配領域については受理しない。諸国の御家人の民事訴訟は問注所、鎌倉市内のものは政所で受理し、刑事
は侍所が引き受けて評定衆のところに持ってゆく。畿内西国については六波羅探題が扱い、事実を調べたら鎌倉に送る。
・評定会議メンバーは箱根権現、三島神社などに厳正的態度で望むことを誓う。一族の裁判には関わらない。
Q1 集団指導体制の問題点は何か? それを克服するにはどうするのか?
A1 優れたリーダー、指導理念がないと烏合の衆になる。話し合いの基準が必要になる。所領争いの判決にも明確な基準が必要。
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3 御成敗式目の制定
・式目の式は法式、目は条目。法令の箇条書きのことを式目といった。
・判決には頼朝の「先例」を用いる。なければ武士社会の「道理」。これも何が道理かをはっきりさせる必要がある。
B 北
条時頼の政治
・泰時のあと、子の時氏が早世していたため、孫の経時が執権となる。1246年、20
歳の弟・時頼に執権を譲って死ぬ。
・将軍頼経を立てて勢力拡大をもくろむ者がある。頼経を追放し、子の頼嗣を6歳で将軍にする。時頼は叔父の名越北条氏など反対勢力を一掃して権力掌握。
・大番役日数を6カ月から3カ月に短縮して御家人の支持を得る。
・義時と並ぶすぐれた政治家。時頼は出家して全国を回り、人々の生活の実情を知って公正な政治に務めたという。
・謡曲「鉢の木」。大雪の夜、上野国佐野のある家に貧乏な僧が宿を求める。主人夫婦は断るが、あとで呼び戻す。粟飯を出し、松・梅・桜の鉢植えの木を切っ
て薪にして暖をとらせる。鎌倉の御家人・佐野源左衛門。一族の者に所領を取られたが、「いざ鎌倉」の時には馳せ参じるつもりと、破れた鎧と痩せた馬を見せ
る。翌日、僧は立ち去る。間もなく幕府から緊急の動員令。源左衛門が鎌倉に行くと執権に呼ばれる。いつかの僧がその人で時頼。忠勤を誉めて松井田庄、梅田
庄、桜井庄をくれる。室町時代にできた話。
・「徒然草」=夜、時頼が一族の者に出てこいという。直垂がないので探していると、どんな格好でもよいので来いという。一人で酒を飲んでいたがつまらない
ので呼んだ。肴がないといって台所に行き、味噌を持って来て二人で飲んだ。質素で気取らない執権。
・3つの政治課題があった。激増する訴訟をどのように裁くか。対立したままの朝廷との関係をどう改善するか。台頭してくる御家人をどう押さえるか。
Q2 御家人の紛争を解決するのは幕府の重要な役目。幕府に提
起されるのは土地に関わる訴訟が多かった。何に気を使うのか。そのためのマイナスは何か。
A2 土地の保証によって主従関係を結んでいるので、土地の裁判がいい加減だと家来を失うことになる。慎重に進めなければならない。しかし、時間がかか
る。
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・原告から訴状が来ると被告に反駁の陳状を出させる。「三問三答」で3回繰り返す。こ
の後で口頭弁論。激論となるので式目では悪口は所領没収としている。これを担当者がまとめて評定会議に出して判決となる。評定会議メンバーの前で口頭弁論
がされることもあった。
・慎重な裁判でないと不満が出る。そのための三問三答。しかし、これは時間がかかるし訴訟費用がかさみ、これも御家人の不満となる。
1 引
付衆の設置(1249)
評定衆を補佐、御家人の荘園領地の訴訟の裁決
評定衆候補者4〜14名
・慎重
かつ迅速な裁判制度の確立を図り、1249年、引付を設置。
・評定会議の下に直属させた合議機関。1〜3番の3局。後に7番までに拡大。各局の長官である頭人は評定衆が兼任。その下に引付衆を置いてここで予備審議
をおこなうようにした。引付衆は将来の評定衆メンバー。
・引付衆の会議で審議したことが評定会議に出される。予審をしているので判
決が早くなる。
※合議体制の確
立→政所、問注所の有名無実化
Q3 京都の朝廷とは承久の乱以後、ギクシャクしている。融和を図るにはどうしたらよ
いか。
A3 親王将軍を迎えることである。そうすれば幕府は朝廷の出張所であるので朝廷としても顔が立つ。また、御家人たちも、自分の所領を保証してくれる人は
権威
がある者でなければならない。貴種である必要がある。摂関家よりも天皇家がよい。
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2 親
王将軍の実現
宗尊親王(後嵯峨天皇の子)の将軍就任
=幕府と朝廷の融和、将軍のロボット化
・1252年、頼嗣をかついで勢力拡大をもくろむ者がいるとして頼嗣を辞任させる。
14歳。
・13歳の宗尊親王(後嵯峨天皇の子)を迎える。ロボット将軍。
but後の北条氏独裁体制の伏線を敷く cf)宝治合戦による三浦氏打倒
・三浦
氏は頼朝挙兵以来の関東の有力御家人。今までも常に政権をねらう動きがあった。実朝暗殺は三浦氏がバックにいたとされる。
・宝治合戦=北条氏と肩を並べる最大の御家人・三浦氏の打
倒。この前に、海が赤くなり、黄色い蝶が大発生する異変があったという。時頼の外戚の安達氏の手
を借りて三浦泰村を攻撃。500人を滅ぼす。この後、千葉秀胤も攻め滅ぼす。
・引付頭人は全員が北条氏となり、これによって一門は勢力を拡大した。
・1256年、30歳の若さで病気を理由に出家。引退するが幕政の最高指導者として院政を布く。評定会議を骨抜きにしていった。
・時頼は人気があったので独裁も許されたかも知れない。しかし、この後に人
気のない北条氏の人物が独裁をすることで幕府は動揺することになる。
[御成敗式目の制定](1232、貞永式目)
武家政権独自の成文法必要
・律令法と武家の慣習は異なる。例えば、女子への相続を武士は認めていたが律令はだめ
だった。裁判が起こされたときはそれまでの先例に基づいて判決を下し
ていたが、拠り所となるものが必要。
A 御成敗式目の性格
頼朝以来の先例、「道理」を元にする
・1232年8月、完成。「公正な裁判の基準として作る。律令があるが、中身を誰も知
らない。これを適用して処罰するのはケモノを罠にはめるようなもの。
漢字も知らない者を対象にして道理に基づいて作った」。
→幕府御家人に適用 but朝廷に裁判能力なくなり全国化
・幕府が裁判をおこなうためのものなので、御家人にしか適用されない。幕府管轄以外の荘園は治外法権であり、本所
法がそれぞれ作られていた。国司や荘園本
所の裁判には幕府は干渉しない。
・後には、朝廷や荘園領主は裁判をしても、判決の内容を強制することができなくなってゆく。こうして裁判能力がなくなると、それに代わって幕府に裁定を求
めるようになり、全国的に適用されてゆく。
B 御成敗式目の内容
Q4 どうして51カ条なのか。
A4 憲法十七条に因んで17の倍数にする。
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守護・地頭の任務と権限確定
・守護の職務は大犯三ヶ条。地頭の年貢滞納はいけない。
・頼朝以来、政子までにもらった土地に対し、それ以前の所有者は争論を起こさない。
cf)年紀の法=20年間土地を占拠すれば所有可
・所領を支配する権利を持っていても、20年間現実に支配していない場合は権利は無効
となった。反対に20年間支配していれば、書類上の権利がなくても支
配権を得ることになる。
悔い返しの権=財産相続のやり直し可
・悔い返しは親がいったん子に譲った所領を取り戻し、他人に譲ること。幕府が子供の所
領と確認しても、親が取り戻すことが出きる。
女性の権利尊重=財産相続可
※初の武家の根本法典→以後、式目追加をして中世を通じて適用
・漢字
で書かれてはいるが平易。鎌倉・室町幕府の基本法典で300年間使われる。以後の法令は式目の追加。最終的には600条からなるマンモス法
典にな
る。
・江戸時代以降は寺子屋の読み書きに使われる。写本、版本は1000を超える。
・「名月の出づるや五十一カ条」芭蕉。
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