<北条氏の台頭と承久の乱>
[北条氏の台頭]

・頼朝は武士の棟梁として一面で限界があった。頼朝は貴種であり、宮廷へのあこがれが なかったとは言えない。貴族性からくる限界。代表的なものは大姫入内問題。大姫は頼朝・政子の長女。
・1183年、頼朝と対立した義仲は、子の義高を人質として鎌倉に送った。これと大姫が結婚。しかし、1184年に義仲が敗死すると頼朝は義高を殺した。 年齢はまだ12歳。遊び相手が殺されたことで大姫はショックを受け、水も受けつけなくなる。鬱病であった。
・頼朝は、大姫を後鳥羽天皇に嫁がせれば気が紛れると考えた。院近臣の源通親に接近して結婚を進めようとした。しかし、通親は兼実のライバルであり、頼朝 が近づいてきたことでクーデターを起こして兼実を追い落としてしまう。これで頼朝寄りの公卿がいなくなる。
・1197年、大姫は20歳で死んでしまう。通親は後鳥羽を退位させて土御門を即位させ、後鳥羽院政が発足する。これが承久の乱の伏線になってゆく。頼朝 は反対するが、朝廷の中に代弁者を失っている。
・1199年、頼朝は53歳で死ぬ。相模川の橋供養に出た帰りに落馬。「吾妻鏡」には記事がない。暗殺説もある。

 伊豆の中級在庁官人、時政の娘・政子が頼朝に嫁ぎ台頭

・北条氏は平貞盛の子孫の時家が伊豆介になり、伊豆北条に住んでいた。その後は在庁官 人を務める。

A 合 議体制の発足
   頼朝の死、2代将軍頼家

頼朝 の死で、18歳の頼家が将軍となる。生まれながらの鎌倉殿であり、東国武士に対しての微妙な機微が使えない。
・境界争いの裁判では、「土地が広いか狭いかは運次第」として問題の土地の図面の真ん中に墨を引く。恩賞地が500町を超えるものは没収、近臣に分けるこ ととした。

Q1 東国武士が頼朝についたのはなぜだったのか? 頼家のこの行動は何をもたらすの か?

A1 東国武士が鎌倉殿に期待したのは所領の保障である。この願いを踏みにじることになる。鎌倉殿はいらないことになる。

    =有力御家人の合議制発足、頼家派抑圧(梶原景時、

・手腕に疑問を持つ側近は政子と図り、頼家が直接に訴訟を裁断することを禁止した。大江広元、三善康信、和田 義盛、比企能員、梶原景時、北条時政・義時ら13人の合議体制を布く。
・頼家は対抗し、比企氏を初めとする近習5人しか頼家に会えないこととし、彼らが乱暴しても手向かうなと命令。比企氏は頼朝の乳母を務めた家柄で、頼家の 妻は比企氏から嫁ぐ。
・梶原景時は頼朝第一のお気に入りで侍所長官・次官。関東武士の中では文筆もできるし合戦でも武名。「鎌倉の本体の武士」と貴族も讃える。和田義盛から侍 所別当の地位を奪っていた。頼家にとってもお気に入り。このため、御家人たちから吊し上げられた。66人が署名し、「ニワトリを養うものはタヌキを飼わな い」という糾弾書を和田義盛が大江広元に渡した。頼家は梶原景時を見放し、 御家人たちによって滅ぼされる。バックには時政がいて、頼家一の子分の景時を追い落 とし、実朝擁立の布石を打つ。

      比企氏滅ぼす)

・1203年、頼家は急病となる。あとは6歳の長男・一幡(比企の娘の腹)が関東の地 頭を継ぎ、関西の地頭は弟・実朝が継ぐとした。比企は納得できず、これを決めた北条氏を攻めようと考えた。時政は先手を打って殺すことにし、仏事といって 能員を自宅に招いて殺害。その後、比企の屋敷を襲って皆殺しに し、一幡も死ぬ。

  →頼家殺害

頼家 は鎌倉殿の地位を追われて実朝が立てられる。頼家は伊豆修禅寺に護送・幽閉され、その後、23歳で死ぬ。「吾妻鏡」には死因は書かれない が、北条氏の手兵に攻められ、入浴中に暗殺されたとされる。

B 執 権政治の開始
   3代将軍実朝
    but実権なく、時政が政所別当として執政


・実朝はおとなしい性格の外孫であり、まだ12歳。北条氏が思うように動かす。時政は政所別当となって将軍に代わって政治をおこなう。これを執権政治の最初とする。

   → 失脚北条義時が継承、

・時政は後妻を迎えていて、実朝を殺して頼朝の義理の子を鎌倉殿に立てるようそそのか される。先妻の子である政子と義時はこれを阻止するため、三浦義村と結んで時 政を伊豆に幽閉する。ここで義時が政所別当を乗っ取り、 政子と実朝を表面に立 て、大江広元たちと連絡を取り、御家人の信頼を獲得した。

    和田義盛滅ぼし侍所別当を兼務(執権)

・義時は有力御家人が手を結ぶ怖さを自覚しており、和田義盛打倒を目指す。義盛の甥が頼家の遺児をかついで陰謀をめぐらせ たといって捕まえ、義盛の弁明を無視して処罰した。
・怒った義盛は三浦義村と結んで義時打倒を目指す。しかし、義村は直前に寝返り、義盛は150騎で蜂起した。一連の事件は義時にはめられたものである。一 時は実朝も逃げるほどだったが翌日には全滅する。これを和田合戦と称している。
義時は義盛に代わって侍所別当となる。政所別当と兼任した。

 ※将軍独裁より東国 武士の団結による政治

・東国武士の願いでは土地の保証である。将軍にその能力がなければ、将軍は名目だけと し、東国武士たちの団結力で幕府体制を築き、土地を保証してやればよい。

[承久の 乱]
 後鳥羽上皇の院政=朝廷勢力の回復目指す、西面の武士設置し軍事力増強

後鳥 羽上皇は3歳の土御門に譲位して院政を布いていた。23歳の時に関白の源通親が 急死し、独裁体制を作る。「新古今集」を作らせ、蹴鞠、管弦、囲碁などの名手。武芸が好きで流鏑馬や狩猟などもおこない、刀の収集家。熊野詣でには31回 も行く。長講堂領、八条女院領が経済的バック。
・地頭設置によって年貢の滞納が発生していたが、地頭の任免権は幕府に握られているのでクビにできず、面白くない。
・盗賊逮捕のためとして西面の武士を設置。従来の北面の武士と合わせて院政 の軍事力となる。関東武士10名を任じた。もちろん、この下に家来の兵を抱えており、鎌倉幕府に対抗する軍事力とされる。

A 幕 府の動揺

・実朝は剛毅な武士ではない。下野の豪族・足利の娘との縁談を断り、13歳で公家・坊 門家の娘(後鳥羽上皇と姻戚)をもらう。京風の雅な雰囲気の中で過ごしたかった。和歌、蹴鞠の毎日を送る。「金槐集」は新古今の模倣で、後鳥羽上皇に忠 誠 を誓っていた。中国に渡ろうとして巨大な唐船を造らせるが浮かばずに悲嘆にくれたりし、「歌や鞠ばかりで武芸を馬鹿にしている。没収の地は若い女房にやっ ている」と御家人たちから批判される。
・一方、官位昇進は早かった。1216年、権中納言。1218年、27歳で左大将、内大臣。この暮れには右大臣になった。摂関家の子供でも及ばないスピー ド。これは「官打ち」といって縁起が悪い。大江広元は頼朝も低い官位でいたのだから、よくないと諫めるが、「源氏の正統は自分で絶えるのだから、高官に 昇って家名を上げたい」と言う。

   実 朝の暗殺(1219 頼家の子・公暁による)

・1219年1月27日、大雪の日。鶴岡八幡宮で実朝の右大臣就任拝賀式典があった。 終わって参道を下りる途中、実朝が石段で斬られる。「親の 仇」と言われ、頭に一太刀入れられて倒れ、とどめを刺されて首を取られる。そばにいた源仲章も斬 殺。犯人は八幡宮別当公暁で頼家の子だった。政子の命で仏門 に入っていたもの。
・公暁は、食事の間も実朝の首を小脇に抱えたまま離さず、三浦義村の所に使者を出し、自分こそが「東国の大将軍」であると主張した。三浦は「迎えを出す」 といって従者を出すが、逆に公暁を討ってしまう。
・この二重の暗殺によって源氏の直系は絶えた。得したのは義 時なので、義時が公暁をそそのかしたものとされてきた。そもそも拝賀式で義時は実朝に付き添う はずだったのが、事前に気分が悪いとして仲章に代わっている。暗殺を計画していたからだと怪しまれている。しかし、公暁は仲章を義時と思って殺しているら しい。そのため、義時が黒幕とは言い切れない。
・三浦義村がそそのかしたという説もある。義村の妻は公暁の乳母であり、実朝と義時を 殺して実権を握ろうとしたという説である。しかし、義時が無事と聞き、口封じのため、逆に公暁を殺したというのである。

   →公暁も殺され頼朝の男系断絶=皇族将軍擁立図る(上皇拒否)

政子 が鎌倉殿の仕事を代行し、尼将軍と呼ばれた。しかし、幕府の象徴としての鎌倉殿は必要である。

Q2 鎌倉殿はどうして必要なのか? 東国武士の団結による政治を目指すのならいらな いのではないか? 

A2 権威者である天皇から幕府を否定された場合、東国武士の団結力だけでは京都の朝廷に対抗できない。東国武士を代表して朝廷と交渉できる人間として鎌倉殿が必要になる。

Q3 鎌倉殿はどのような身分である必要があるのか?

A3 幕府の権威の源泉なのだから、貴種である必要がある。 天皇と渡り合うのだから皇族の血が欲しい。このため、皇族を迎える方針を立 てる。

Q4 上皇は受け入れるか拒否するか? どうしてか?

A4 上皇はこれを拒否した。貴族的な実朝の時代は公武融和の考えもあったが、その死によって反幕に傾いていた。幕府を叩こうと考えているのだから、子ど もを出せば人質にとられるようなものである。

・反対に寵姫が持っていた摂津の2荘園の地頭が言うことを聞かないため、免職するよう 幕府に要求。出方をうかがう。
・安堵した所領はよほどの大罪でないと没収しないのが幕府の原則。これを崩せば政権が維持できない。1000騎の兵を率いて義時が上京し、地頭廃止を拒絶 して皇族将軍を求める。

 ∴摂 家将軍迎える(頼経、頼嗣)

・上皇が再度拒否したため、頼朝の遠縁に当たる2歳の九条頼経を鎌倉殿に迎えることにした。

B 上 皇の挙兵(1221)

Q5 打倒幕府といって挙兵をしても、鎌倉殿に土地を保証されている東国武士は抵抗す るだろう。幕府を倒すにはどうしたらよいか? 

A5 幕府の実権は執権の義時が持っている。義時は和田合戦などで強引に権力を獲得したのだから、上皇は義時が東国武士の中で浮いていると判断した。これ を討てという命を出せば、東国武士によって滅ぼされると考えた。

   義時追討の院宣

・1221年5月14日、上皇は流鏑馬揃いとして兵を召集。北面・西面、畿内の武士な ど1700騎が集まった。大番役で来ていた東国武士も集められる。彼らは検非違使などに任じられ、上皇にからめ取られていた。
全国の武士に義時追討、上皇方に参じるようにという宣旨を出す。 「宣旨に従えば恩賞は思いのまま」とする。「ひとたび宣旨が出れば、開いた花も落ち、枯れ木に花が咲く」とされていた。義時からの離反を期待した東国有力 御家人に何枚も宣旨を出す。
・5月19日、宣旨を持った使者が鎌倉着。捕らえられて幕府に突き出される。義時を討てというが、従うかどうか、逆らえば朝敵となることに対して東国武士は動揺する。
・この動揺を鎮めたのは65歳になる尼将軍の政子。将軍御所に集まった武士に対して名演説をする。「最期の言葉である。頼朝が関東を草創してから官位や俸 禄をもらってきた。その恩は山よりも高く海よりも深い。今、逆臣の汚名をかけられたが、名を惜しむものは京都を攻めよ。院に参じるものはすぐに出てこ い」。ここでは、追討対象が義時であることを伏せ、頼朝の名を出して幕府が 武士たちの土地保証をする存在であることを強調している。
・作戦会議が開かれる。箱根、足柄で上皇方の軍を迎え撃とうという意見が強かったが、70歳を超えて失明に近かった大江広元は「防御をすれば武士たちに動 揺が走る。運を天に任せて京都攻撃をすべき」と主張した。すぐに泰時が18騎で先陣に立つ。

   →北条泰時、時房の大軍が京都攻撃、上皇方敗北

・東国15カ国の武士に動員命令。「吾妻鏡」は19万の大軍という。
・上皇方は義時の首が届けられるのを待っていたが、逆に幕府軍上京の知らせ。木曽川を境に分散配置をして迎撃体制。しかし、少ない手勢を分けては勝てな い。6月5日から合戦となり、翌日には渡河される。
・上皇は武装して延暦寺に登り、応援を求めるが拒否される。13日、宇治川で迎撃。翌日に鎌倉方は宇治から敵前渡河をして入京。上皇方の武士の屋敷に放火 しつつ迫る。
・北面の武士だった藤原秀康は最後の一戦を上皇に迫るが、屋敷の門を閉ざし「どこにでも落ちてゆけ」。上皇は一転して追討宣旨は悪者にそそのかされて出し たもので、本心ではないと撤回して保身を企てる。

C 乱後の政治
 1 上皇方の処分
    3上皇配流(後鳥羽→隠岐、土御門→土佐、順徳→佐渡)

後鳥 羽上皇は隠岐、その子の土御門上皇は土佐、土御門の弟の順徳上皇は佐渡に流される。後鳥羽の子・土御門は父親とは馬が合わなかった。幕府と 対抗しようという父親に反対して譲位したため、弟の順徳が即位し、ついでその子の仲恭が即位していた。
・土御門は承久の乱後は責任を追及されなかったが、自分で配流を希望した。同情の声が起き、後には土御門の子が天皇となる。

     仲恭天皇廃し後堀河天皇即位(皇位継承左右)

・4歳で何も知らない仲恭天皇は退位させられ、後鳥羽上皇の系統ではない後堀河天皇が即位する。

    院近臣、北・西面の武士の荘園3000カ所没収

上皇 方3000箇所の荘園を没収。領家職もあったであろうが、多くは荘官職か?。ここに新たに地頭を設置。かつての平家没官領は500箇所に過 ぎなかった。

 2 六 波羅探題設置
    京都の監視、西国の政務 cf)「関西の幕府」

泰時 と時房は京都にとどまって朝廷の監視、尾張ないしは三河以西の西国の武士の統括をする。六波羅探題という。
・京都守護は最初に血祭りに上げられたため、その権限を強化して六波羅探題とする。南方と北方の2名で執政。執権的な重職であり、六波羅探題から執権にな るのが出世ルート。

 3 新 補地頭設置
    没収荘園を新恩給与→東国御家人を任命

新補 地頭は従来の京都本所派遣の荘官を追い出して新たに設置したもの。
・没収荘園はもともとが貴族たちが開発したものが多く、在地領主の取り分が少なかった。そのため、土地を支配して年貢を滞納し、農民を使役する者が出てく る。

     cf)新補率法=地頭得分の定めがないときに適用

幕府 は新補率法を定めて取り分を保証し、一方では行き過ぎた暴力を抑えることにした。

    11町につき1町の免田(地頭収益地)
    反別5升の加徴米(請作させ小作料とる)
  ※乱後、畿内・西国への幕府勢力拡大、公武勢力逆転

鎌倉 幕府は、今までは東国政権だった。これが西日本にも勢力を伸ばしてゆく。
・北畠親房は「神皇正統記」の中で、「頼朝が高官に昇って守護の職をもらったのは後白 河上皇の決定だった。政子も義時もその跡を守って人望に背かなかった。それを言いがかりをつけて討とうとしたのは上皇の罪である」と言い切っている。「天 皇ご謀反」とも評される。天皇であるから何をしてもよいのではなく、政治が 正しくなければやられてしまうという思想が定着してゆく。

   cf)大田文作成=全国の土地面積、領主の調査→全国支配の基礎

大田 文は幕府の命令により、国ごとに国内田畑面積、領有者を記録したもの。淡路、若狭、但馬の他、九州各国のものが現存している。幕府政治が安定し、西日本に勢力を広げた証拠である。

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