7 武家政権の形成 <鎌倉幕府の成立>

 鎌倉幕府は初の本格的武家政権であり、政権として貴族たちに認められるかどうかが安定のための最大のカギであった。幕府の組織は段階的に整備されてい る。源頼朝が東国武士を統率することになった時点で、彼らを統制するための機関が必要となり、(1)年に(2)が置かれた。その長は(3)と呼ばれ、東国 武士の首長として(4)がその任にあたった。先に平氏を退けて入京した源義仲は貴族たちの支持を得られず、後白河法皇は頼朝に上京を促した。貴族たちは東 国年貢の抑留に悩んでおり、頼朝はその貢進を従者たちに命じることになったが、これは東国武士が頼朝配下であることを貴族側が認めたものであり、頼朝の罪 科は消失し、東国の軍事支配権が公認されたことを意味した。この(5)年をもって鎌倉幕府が成立したとする説は有力である。翌年になると、頼朝の政治・財 政を助ける機関として(6)が置かれ(後に(7)と改称)、長である(8)には京から下ってきた貴族の(9)が任じられた。初の武家政権には貴族の知恵が 必要だったのであり、御家人の訴訟・裁判のために置かれた(10)の長(11)に任じられた(12)も、学者の家柄の貴族であった。
 平氏は(13)年、源義経の手で滅ぼされた。後白河法皇は義経に頼朝追討を命じたため、頼朝は北条時政を上京させて反対に義経追討を法皇に命じさせ、義 経逮捕に必要として各国に(14)、荘園国衙領に(15)を置く権限を認めさせた。これらは義経滅亡後も存置され、(14)は国内の御家人を指揮して軍 事・警察を司り、その任務は(16)と総称された(17〜19)であった。(15)は荘園国衙領の治安維持と土地管理、年貢徴収と納入を任とし、御家人と なった荘官などが任じられている。荘官や郷司などの任免権は従来、荘園領主や国司が持っていたが、頼朝がこれを(15)に任じることで貴族側はこれを免職 することができなくなり、在地領主である武士が土地に対しての権限を強めることになった。頼朝にとってみれば、御家人を(15)に任じることで土地を仲立 ちとする主従関係を強化したのであり、このような社会体制を(20)と呼ぶ。土地給与は(21)と呼ばれ、もとの土地を保証する(22)と新たに土地を与 える(23)があったが、これによって御家人には(24)の義務が生じた。その中身は(25〜27)であった。なお、鎌倉時代になっても各国には国司が置 かれ、荘園には荘園領主、国衙領には知行国主が中央に存在している。したがって、(14,15)が設置されたことは、これらを公武で二元支配することを意 味している。また、幕府財源は頼朝直轄荘園の(28)、頼朝知行国の(29)であり、従来からの荘園国衙領体制に依存していた。
 この後も頼朝は政権の体制固めを続けた。頼朝派の貴族である(30)らを(31)に任じ、その合議による政治体制を作って後白河法皇を牽制し、(32) を置いて京都の治安維持にあたらせた。また、九州には(33)、奥州藤原氏滅亡後の東北には(34)を置いて全国支配体制を整えた。頼朝は朝廷から離れて 武士に号令を発することのできる(35)の称号を求めたが、法皇はこれを認めず、武家最高の官職である(36)に任じた。頼朝が(35)となったのは、法 皇死後の(37)年であった。

<解答>
(1)1180 (2)侍所 (3)別当 (4)和田義盛 (5)1183 (6)公文所 (7)政所 (8)別当(9)大江広元 (10)問注所  (11)執事 (12)三善康信 (13)1185 (14)守護 (15)地頭 (16)大犯三箇条 (17~19)大番催促、謀反人の検断、殺害人の 検断 (20)封建制度 (21)御恩 (22)本領安堵 (23)新恩給与 (24)奉公 (25~27)京都大番役、鎌倉番役、軍役 (28)関東御 領 (29)関東御分国 (30)九条兼実 (31)議奏 (32)京都守護 (33)鎮西奉行 (34)奥州総奉行 (35)征夷大将軍 (36)右大 将 (37)1192


<北条氏の台頭と承久の乱>

 源頼朝は傑出した政治力で東国に武士政権を誕生させた。御家人たちにとっての最大の関心事は安定して土地支配をおこなうことであり、そのためには将軍の 権威と政治力が必要であった。しかし、頼朝の死後、将軍となった[1]は御家人の期待に応えることができず、頼朝の妻[2]の父[3]は、(1)を抑えて 有力御家人による合議制を発足させた。この過程で頼朝側近だった(4)は粛正され、(1)の妻の実家である(5)が滅ぼされている。この後、(1)も殺害 され、3代将軍に[6]が就くと(3)は(7)に就任し、将軍に代わって政治の実権を握った。やがて(3)は失脚し、その子の[8]が(7)となる。 (8)は(9)を滅ぼして侍所別当も兼務したが、このポストが[10]である。この一連の動きは、将軍独裁から御家人の団結による政治への変革を意味して おり、(10)は御家人代表の色彩を帯びていた。
 一方、朝廷では[11]による院政が始まっていた。上皇は朝廷権力の回復のために新たな軍事力として[12]を設置するとともに、(6)に次々と官位を 与えて懐柔し、これを通じて朝廷の力を幕府内部に及ぼすことを考えていた。しかし、1219年、(6)は(1)の子[13]に暗殺され、(13)も討たれ るという政変が巻き起こる。頼朝の男系は途絶えることとなり、権威を保つ上での危機を迎えた幕府は、上皇の子を将軍として迎えることを申し入れている。東 国武士の団結による政治を目指すとしても、朝廷と渡り合うためには貴種である鎌倉殿の存在が必要だったのである。政変に幕府の衰えを見て取った上皇はこれ を拒否し、幕府はやむなく頼朝の遠縁にあたる(14)を将軍に迎えた。彼は続く(15)とともに[16]と称されている。
 [17]年、幕府の衰退を信じた(11)は(8)追討の院宣を発した。東国武士はこれに動揺したが、(2)が頼朝の恩を説いたこともあって結束を維持 し、(18,19)が大軍を率いて逆に京都を攻撃した。これが[20]と呼ばれる公武の間での戦乱である。上皇方は敗北を喫し、[11,21,22]の3 上皇がそれぞれ(23,24,25)に流されることになった。また、(26)天皇が廃されて[27]天皇が擁立され、幕府が皇位継承を左右することになっ た。上皇方に属した院近臣や北面の武士、(12)の所領3000カ所は没収され、御家人たちに新恩給与された。また、朝廷の監視のために[28]が設置さ れ、やがては西国の政務も担当して関西の幕府としての地位が与えられた。
 (20)の持つ意義は大きい。公武の勢力が逆転したことはもとより、それまで幕府の力の及ばなかった西国に新たに地頭が設置され、東国武士が任じられた ことで、幕府は全国政権としての性格を鮮明にするようになったのである。この地頭を[29]と呼び、それまでの地頭を[30]と呼んで区別する。ただ、も とからの所領ではないため、役務に見合う得分(収益)が定められてなかったり少なすぎたりしたため、幕府は[31]を定めてこれを保証した。その内容は (32)について1町の(33)を保有することと、反別(34)の[35]を取るというものであった。幕府の力が全国に及ぶようになったことは、(36) が作成され、全国の土地調査が幕府によっておこなわれたことからも裏付けられる。

<解答>
(1)源頼家 (2)北条政子 (3)北条時政 (4)梶原景時 (5)比企氏 (6)源実朝 (7)政所別当 (8)北条義時 (9)和田義盛  (10)執権 (11)後鳥羽上皇 (12)西面の武士 (13)源公暁 (14)九条頼経 (15)九条頼嗣 (16)摂家将軍 (17)1221  (18,19)北条泰時、北条時房 (20)承久の乱 (21,22)土御門上皇 順徳上皇 (23,24,25)隠岐、土佐、佐渡 (26)仲恭  (27)後堀河 (28)六波羅探題 (29)新補地頭 (30)本補地頭 (31)新補率法 (32)11町 (33)免田 (34)5升 (35)加 徴米 (36)大田文


<執権政治の展開>

 承久の乱の後、幕府草創以来の有力な政治家たちが相次いで世を去った。この中で執権を務めたのが[1]である。もともと東国武士たちは個々の自立性が強 く、政治においても合議による決定を是としていた。それを受け、(1)は集団指導体制への転換を図ることになる。彼が叔父の[2]に依頼した[3]は、執 権の発行する公文書に連判する役職で、両執権の体制が発足した。一方、政策や裁判の合議をさせるため、有力御家人10余名からなる[4]を設置している。 また、合議にはよりどころとなる法令が必要であり、[5]が制定されたのはこのためであった。執権政治は執権の独裁政治ではなく、執権を中心とする話し合 いの政治なのである。
 (1)の方針を受け継いだのが、名執権とされる[6]である。鎌倉幕府は、御家人所領に関わる裁判にはたいへん気を遣っていた。「(7)」という言葉が 示すように、武士にとって土地は命をかけて守るべきものであり、公正な裁判が期待されていたからである。それに応えられない幕府であれば、御家人たちの信 頼を失うことになる。「三問三答」という裁判のシステムは、このために作られたものである。欠点は慎重を期すため、裁判に時間がかかることにあった。この ため、(6)は[8]を設置し、(4)を補佐して予審をおこなわせることで慎重迅速な裁判を可能にした。こうして新しい合議機関が整備されると、政所や問 注所は有名無実化する。一方、承久の乱で関係の悪化した朝廷に対しては、(9)天皇の子の[10]を将軍として迎えて融和に努めている。このような将軍 を、それまでの摂家将軍に対して[11]と呼んでいる。将軍は御家人たちにとって権威の源泉であり、ロボットに過ぎなかったが、天皇家にとって幕府は出張 所のような位置づけとなって権威を保つことができ、御家人たちも(11)から所領を安堵されることで土地に対する権限を強めることになった。しかし、 (6)は一方で、後の北条氏独裁体制の伏線も敷いている。1247年、頼朝以来の有力御家人である(12)氏を滅ぼした(13)はその例である。
 さて、(14)年に制定された(5)は武家政権独自の初の成文法であり、頼朝以来の[15]と武士社会の常識である「[16]」をもとにしたものであ る。公家社会には荘園ごとに律令の流れを汲む本所法があり、その規制を受けない(17)に適用された。しかし、公家に裁判執行能力がなくなると、幕府法に よる裁判を求める動きが強くなり、全国的に用いられるようになる。ここには20年間土地を占拠すれば所有権を持つという(18)や、財産相続をやり直せる (19)などが盛り込まれ、また、公家法には見られない武士独自の規定として、女子が養子をとって財産を相続させることも認めている。以後、(5)で足り ないところは補充をして対処し、これを[20]と称している。次の室町幕府も法典の整備はおこなわず(20)で対応したことから、(5)は中世を通じて武 家の根本法典としての地位を持つことになった。

<解答>
(1)北条泰時 (2)北条時房 (3)連署 (4)評定衆 (5)御成敗式目 (6)北条時頼 (7)一所懸命 (8)引付 (9)後嵯峨 (10)宗 尊親王 (11)親王将軍 (12)三浦 (13)宝治合戦 (14)1232 (15)先例 (16)道理 (17)御家人 (18)年紀の法  (19)悔い返しの権 (20)式目追加


<荘園経済の発展>

 絵図が残されていたことで有名な富田荘は、名古屋市中川区の西半分を占める広大な土地である。これにより、当時の荘園の規模を推察することができる。現 地で荘園を管理していたのは地頭で、彼が屋敷を構えた周辺の直轄地を(1)と呼んだ。そこでの収穫はすべて地頭の分となったが、面積としては広くはない。 荘園の大部分は[2]と呼ばれ、有力農民である[3]に請作させる土地であった。(3)は収穫の3〜5割を[4]として荘園領主に納めた他、[5]と呼ば れる小作料を地頭に納めていた。また、地頭は荘園内の土地の一部を[6]として自由に使い、ここは無税地の扱いを受けていた。
 (3)は水利権や山野の使用権、牛馬や進んだ農具を所有する農業経営者である。荘園領主と一年契約で耕作をしていた田堵がその前身で、長年にわたる耕地 や水路、山野の整備を通じて永続的耕作権を確保していた。当時の一般の人々は、(3)のもとで(2)を請作した[7]と呼ばれる人々で、(8)と呼ばれる 小作料を(3)に納めた。自分の家族は持つものの(3)から完全に自由になることはできなかった。(3)は[9]と呼ばれる隷属民も配下に置き、一部の (2)は彼らを使って直接経営していた。荘園領主への負担は地頭が(3)から取り立てて納めるもので、(4)の他、無制限の労役である[10]、山野の生 産物である[11]があった。
 鎌倉時代になると、畿内先進地では田の裏作として(12)を栽培する[13]が始まった。肥料としては[14,15]が用いられ、耕作には人力に加えて [16]も開始されている。また、東国では荒野の開墾が進んだ。荘園領主は様々な(11)を納めさせたため、和紙原料の(17)、染料の(18)、油を とった(19)などが栽培され、農具を作る(20)、鍋釜を作る(21)などの手工業も発達した。税を納めて余剰が出れば、荘園内で月に三度開かれた [22]などの定期市でも取引された。貢納物の集中した都市では常設の小売り施設である[23]が開設された。貢納物は貴族や社寺など荘園領主のもとに送 られるため、彼らは特定業者を通じてこれらの加工、販売をおこなわせた。この業者の結成した組合が[24]であり、製造販売の特権と引き換えに貴族や社寺 を(25)と仰いで(26)を納めた。また、遠隔地間の商品輸送や保管には(27)という業者が従事した。
 商品流通量の増大は貨幣の必要性を増すことになった。平安時代末期以降、[28]との貿易によって(29)などが輸出され、引き換えに大量の[30]が 流入していた。鎌倉時代に用いられた貨幣はこれである。また、遠隔地間の代金決済には現金を用いない(31)が使われることもあり、高利貸業者として [32]も登場した。こうして、鎌倉時代には前代に比べて飛躍的に経済が発達したのである。

<解答>
(1)佃 (2)名田 (3)名主 (4)年貢 (5)加徴米 (6)免田 (7)作人 (8)加地子 (9)下人・所従 (10)夫役 (11)公事  (12)麦 (13)二毛作 (14,15)刈敷、草木灰 (16)牛馬耕 (17)楮 (18)藍 (19)荏胡麻 (20)鍛冶 (21)鋳物  (22)三斎市 (23)見世棚(24)座 (25)本所 (26)座役 (27)問丸 (28)宋 (29)金・硫黄 (30)宋銭 (31)為替  (32)借上


<鎌倉武士と荘園侵略>

 鎌倉時代の武士は開発領主や荘官の子孫であり、土地を管理して農業経営を営む者たちである。武士は、もともとは開墾地を他者から守るために武装し、より 強い者の従者となることで土地を確保しようとした者たちである。このうち鎌倉の将軍と主従関係を結び、幕府によって本領安堵された者が(1)と呼ばれた。 一方、彼らの先祖は土地を中央の貴族や寺社に名目上寄進し、その権威によって土地を守ろうという行動も起こしていた。見返りとして一定の年貢を納めなけれ ばならないが、これによって国司の侵略を妨げるとともに不輸・不入の権を獲得することができ、自らは荘官という現地管理人として従来通りの土地経営を続け ていたのである。
 鎌倉時代の武士の一族はその代表である[2]によって統率されていた。(2)は所領をすべて所有するのが本来であるが、実際にはその他のメンバーの [3]たちに[4]相続させていた。それにより、(3)たちは(2)に恩義を感じ、合戦や土地経営などの場面で(2)に従ったのである。(2)は将軍に よって土地を与えられ、(3)たちに土地を分与したところから、土地を仲立ちとした二重の主従関係が形成されていたことになる。この関係は非常に強固であ り、それぞれが土地によって結びつけられている間は主従関係にひびが入ることはなかった。
 武士たちは土地経営の一方で武芸の訓練をおこない、特に騎射三物と呼ばれる(5〜7)が重要であった。また、質素・倹約・武勇・名誉を重んじる(8)と呼ばれる独特の精神が涵養された。
 荘園の現地支配をしていた武士たちは、荘園領主に納める年貢を抑留し、土地の百姓を勝手に使役することがあり、地頭の非法と称された。このことを今に伝 える史料としては(9)があり、地頭が百姓を私的な夫役に駆り立てたり、年貢を横領したりしていたことが記されている。このような非法に対し、荘園領主は 取締りを求めて幕府に訴訟を起こしたが、裁判はしばしば長期化したため、(10)と呼ばれる示談で解決することが多かった。その一つの方法が[11]であ り、定額年貢の納入を条件に領主が荘園経営を放棄し、いっさいの経営権を地頭に譲るものである。荘園を会社組織に例えれば、オーナー社長である荘園領主が 支社長の地頭に会社を乗っ取られ、経営権のない取締役に退くようなものであろう。しかし、地頭は約束の年貢の納入を怠り、領主は何も得るところがなくなっ てしまう事態も発生した。このため、領主が地頭と土地を折半する[12]がおこなわれることもあった。領主は新たな荘官を現地に派遣して管理を委ね、幕府 家臣の武士とは縁を切るのである。武士にとってみれば、これは完全な自分の所領を手に入れることを意味した。

<解答>
(1)御家人 (2)惣領 (3)庶子 (4)分割 (5〜7)流鏑馬、笠懸、犬追物 (8)もののふの道 (9)阿弖河荘の訴状 (10)和与 (11)地頭請 (12)下地中分


<鎌倉文化>

 末法思想の流行や旧仏教の退廃、戦乱や天災の連続は新たな救いの必要性を生じさせていた。武士の台頭した鎌倉時代には、彼らを救いの対象とするための仏教の革新が図られる。
 平安時代には浄土教が成立し、阿弥陀仏に対しての信仰が高揚していた。そこでは念仏の効用が説かれていたが、延暦寺で修行し「知恵第一」と称された (1)は、念仏のみで救いが得られるという考え、(2)を主張した。彼は「(3)」を著わしてこの考えを明確にしたが、打撃を受ける旧仏教からの批判を受 けて流罪とされている。念仏の回数について、(1)は基本的には多念義の立場をとり、数多く唱えることをよしとした。これに対し、やはり延暦寺で修行した 彼の弟子の(4)は、多念であれば弥陀にすがる気持ちが薄れるとし、ひたすら弥陀の本願を信じて唱える一念を重視した。これが(5)と呼ばれる考えであ る。彼は作善できない者こそ弥陀にすがる気持ちが募り、かえって救われやすいという(6)の考えも示し、「(7)」を著わしてその教えを示した。しかし、 (4)の考えは本願誇りによる悪事を招くとして攻撃され、弟子の(8)はその誤解を解くために「(9)」を著わしている。一方、彼らよりも遅く生まれた (10)は、すべての衆生を救う誓いを立てた宝蔵菩薩が本願を成就して阿弥陀仏になったことを受け、すべての人間は生まれながらにして救われていると説い た。(10)は諸国を遊行し、救われる喜びを身体で表現する(11)による布教をおこなった。
 一方、延暦寺で修行し、あらゆる経典の中で万人平等を説く(12)こそが重要であると考えた(13)は、(12)の信仰を宣言する「(14)」の7字を 唱えれば救われると主張した。これは念仏に対して(15)と呼ばれる。彼は著書「(16)」の中で(12)を正法として他宗を排撃したため、厳しい迫害に さらされた。
 念仏にしても(15)にしても、多くの救済の方法から容易にできるもの(これを(17)と称した)を選択し、それに専念すべき(これを専修と称した)と いう考えは、難解で困難な修行を伴った従来の仏教を庶民に解放したものであったと言える。彼らの教えはそれぞれ一宗派を形成し、(1)は(18)、(4) は(19)、(10)は(20)、(13)は(21)の開祖となっている。
 鎌倉時代に日本に普及したもう一つの仏教の体系が禅宗である。入宋した(22)が「(23)」を著わし、座禅の効用を記したのが最初で、彼は幕府の帰依 を受けて(24)を建て、(25)という一宗派を開いている。(25)では座禅と並んで(26)という禅の問題を考えることが重視された。一方、遅れて入 宋した(27)は、「(28)」を著わして座禅に専心する(29)を説き、越前に(30)を建てて修行に励んだ。禅宗は阿弥陀仏にすがる他力本願の教えで はなく、自らの力で悟りを得ようとする(31)の教えであり、武士たちによって支持された。特に(25)は幕府の保護を受け、宋からも高僧が来日した。北 条時頼に招かれた(32)は(33)、北条時宗に招かれた(34)は(35)を建立している。
 このような新仏教の登場に対し、旧仏教側の反省がおこなわれ、革新運動が展開した。法相宗の(36)は(1)を批判し、笠置寺で戒律の重視を説いたし、 華厳宗の(37)も高山寺を開いて戒律を重んじた。律宗の(38)は戒律によって下層民を救済しようと社会事業をおこない、その弟子(39)はハンセン病 患者を収容する(40)を建てた。
 神道では、皇祖神とされた(41)の外宮の神官(42)が、(43)を全国に派遣して民衆に対しての布教を開始し、多くの人々の信仰を集めるようになっ た。また、元寇の際に(44)が吹いて日本が救われたとされたことから、従来の仏を主、神を従とする神仏習合説に対し、神を主とする(45)が主張される ようになった。
 建築の分野では、源平の争乱で荒廃した南都寺院の復興が図られた際、新様式が採用されたことで新境地が開かれることになった。東大寺の再建は(46)が 勧進職となっておこない、壮大な建築物に適した建築様式として(47)を採用している。このうち現存しているものは(48)である。また、禅宗寺院には (49)が用いられ、(50)などの遺構がある。一方、従来の建築様式を(51)と呼び、(52)などに受け継がれている。南都寺院では多くの仏像も新造 された。大量の像造に活躍したのが(53〜55)などを代表とする(56)と呼ばれる仏師集団である。写実を特徴とし、(57)などの遺作がある。また、 肖像彫刻として知られる(58)なども写実的作品の代表といえる。
 絵画では前代の絵巻物が引き継がれ、黄金時代を迎えたのが鎌倉期である。菅原道真の伝記に基づく(59)、(10)の伝記である(60)、元寇に取材し た(61)などが知られる。また、有名人物の肖像画である(62)が登場し、(63,64)などが活躍した。禅宗高僧の肖像である(65)も礼拝対象とし て描かれた。
 書道では尊円が世尊寺流に上代様、宋様を加味して(66)を確立し、和流の本流となった。刀剣では(67〜69)、甲冑では(70)が著名である。陶器では瀬戸焼の祖とされる(71)が登場している。
 文学史のうち和歌の分野では、後鳥羽上皇が「(72)」の編さんを命じ、その影響化で源実朝が「(73)」をまとめている。源平の争乱は軍記物の 「(74)」として琵琶法師が平曲として語った。歴史学では道理による史論書として(75)の手で「(76)」が著わされ、幕府編集の歴史書としては 「(76)」がある。武士の中にも教養ある者が育つようになり、(77)は私設図書館として(78)を建てている。

<解答>
(1)法然 (2)専修念仏 (3)選択本願念仏集 (4)親鸞 (5)絶対他力 (6)悪人正機 (7)教行信証 (8)唯円 (9)歎異抄 (10) 一遍 (11)踊念仏 (12)法華経 (13)日蓮 (14)南無妙法蓮華経 (15)題目 (16)立正安国論 (17)易行 (18)浄土宗  (19)浄土真宗 (20)時宗 (21)日蓮宗(法華宗) (22)栄西 (23)興禅護国論 (24)建仁寺 (25)臨済宗 (26)公案  (27)道元 (28)正法眼蔵 (29)只管打坐 (30)永平寺 (31)自力本願 (32)蘭渓道隆 (33)建長寺 (34)無学祖元 (35) 円覚寺 (36)貞慶 (37)高弁 (38)叡尊 (39)忍性 (40)北山十八間戸 (41)伊勢神宮 (42)度会家行 (43)御師 (44) 神風 (45)反本地垂迹説 (46)重源 (47)大仏様(天竺様) (48)東大寺南大門 (49)禅宗様(唐様) (50)円覚寺舎利殿 (51) 和様 (52)三十三間堂 (53〜55)運慶、快慶、湛慶 (56)慶派 (57)東大寺南大門金剛力士像 (58)無著・世親像、空也上人像  (59)北野天神縁起絵巻 (60)一遍上人絵伝 (61)蒙古襲来絵詞 (62)似絵 (63,64)藤原隆信・信実 (65)頂相 (66)青蓮院流  (67~69)粟田口吉光、岡崎正宗、長船長光 (70)明珍 (71)加藤景正 (72)新古今和歌集 (73)金槐和歌集(74)平家物語  (75)慈円 (76)愚管抄 (77)北条実時 (78)金沢文庫


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